3
梨沙は、滑り止めで受けた大学に入学した。第一志望の大学より学費が高いのはもちろんだった。バイトをすることは避けられなかったし、ひとり暮らしである以上、家事をすることも前と変わりがなかった。
それでも、いままでより、ずっと、ずっと、ずっと自由だった。なにを食べてもいいし、昼寝だってできる。少しは友人ができた。その中のひとりとは、付き合うことにもなった。
だけど、いつでも実家のことは心配になる。転勤を繰り返していた父が、実家から仕事に行くことができるようになったのは、梨沙にとっては安心材料のひとつだった。しかし、皮肉でもあった。もしあの頃、父がずっと家にいてくれたとしたら。自分は、第一志望の大学に合格していたかもしれない。
「眠れないの?」
「うん、なんだか寂しくて」
彼には何度も抱かれた。でも、行為が終わったあとには決まって、うす気味わるい感じがした。
自分の心身のすべては、いままで、家族のためのものでしかなかったのに、急に他人がそこに触れはじめたのだから。
大学二年生の春に彼と別れたときは、もちろん、寂しくて悲しかった。だけど、どこか安心した気持ちも――強がりからではなく――心の底から泉のようにわきでてしまっていた。行為のあとのあの違和感とも、別れることができたのだから。
○ ○ ○
野球観戦をしたいといって、拓也が梨沙の家に泊まりにきた。あの彼氏のことはもう、梨沙の頭にうっすらと残っているだけで、部屋のなかにはそれを感じさせるものが一切なかった。
「姉ちゃん、小説を書きはじめたの?」
拓也は、パソコンのデスクトップに保存してあったファイルを勝手に開いていた。
梨沙は、机の上にコップをふたつ置いた。サイダーは夏の夕陽に色づいて、底にむかって夜を広げていた。思春期のオトコのにおいは、熱気のせいでどんどん耐えがたいものになっていた。そのにおいは、青春の異名だった。
拓也には青春があり、自分にはそれがなかった。いらだたしくて、うらやましい。でも、拓也の表情にはどこか、うっすらと寂しさがはりついていた。その陰りを感じとってほしいと、彼は訴えていた。
「あのひとと、うまくいってないの?」
「これ、プロットっていうやつ?」
ためらいながらもなんとか口にできた問いを、拓也は拒絶した。そして、無駄にクリックの音を連続させてみせた。
「それは、脚本。いま、演劇のサークルに入ってて、そこで脚本を書いてるの」
「へえ、大役じゃん」
「そうね……」
くるりと椅子を回転させて、拓也はコップを手にとった。梨沙は、窓を閉めてカーテンを引いて、クーラーのスイッチをいれた。
「でも、どこにも入れてもらえなかったひとたちで組んだチームだから。たいへんなのよ。みんなの息があわないし、うまくいかないとすぐに、べつのお話にしようってことになるし」
「ふうん。じゃあ、なんでそんなところにいるのさ」
「なんか、心地よさみたいなのはあるんだよね。みんな、わたしとどこか似ているようなところがあって……」
拓也は空になったコップを梨沙につきだして、「水ほしい」と素っ気ない声で要求した。
「水でいいの?」
「なんだか、飲んでも飲んでも、のどがかわく感じがする」
拓也の顔色は悪そうには見えなかった。ただ、表情が暗いままなのは確かだった。
「スポドリにしようか」
冷蔵庫の方へと向かう梨沙の背中に、拓也は語りかけた。
「ドウゾクケンオなんて、うそっぱちだよ」
梨沙が振り向くと、拓也はまた、ディスプレイに眼を落としていた。
「あのひとが来てから、だれも信じれなくなった」
「お父さんも?」
「うん……。いつから付き合いはじめたんだろうね。でもきっと、長く付き合ってるよ。転勤先とあのひとの出身県。それで、なんとなく想像がつくし」
「でも、拓也は野球に打ちこむことができるでしょ」
「言ってなかったっけ。この前に辞めたんだよ。あのひとが洗ったユニフォームを着るのが、イヤでしかたがないんだ」
拓也の声は、だんだんと沈みこんでいった。
「ほんと、わがまま」
必死で家事をして、青春を犠牲にして、未来の選択肢をいっぱい閉ざして、我慢に我慢を重ねてきたのは、拓也の夢のためでもあった。それなのに、なんでこんなに気軽に「辞めた」なんて言えるのだろう。
この日、ふたりが交わした会話らしい会話はもうほとんどなかった。電気を消す前に錠剤を飲んだあと、「あんまり眠りの質がよくないから」と梨沙は答えた。
明くる日の野球の試合。九回裏のサヨナラホームランでわきたつ球場――しかし、拓也は、梨沙が飲んでいた睡眠薬のことで頭がいっぱいになっていた。椅子に座りながら、あの光景の「重み」を感じていた。
さようなら ルーザー 紫鳥コウ @Smilitary
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