天泣
ナガヲ
天泣
娘は、この季節がいっとう嫌いであった。早起きしてまで丁寧に整えた髪はお昼を過ぎれば湿気のせいでクルクルと跳ねてしまうし、まとわりつくような暑さによる汗でメイクは崩れる。己や他人の見てくれに特に敏感な女子学生たちにとってはただでさえ致命的な季節。そしてなにより、彼女は雨という天気が大嫌いなのだった。
しかしどういう風の吹き回しか彼女は今、叩きつけるような雨の中を独り、歩いていた。傘や携帯電話、財布すらも持たずにだ。いかにも勢いに任せて飛び出してきましたという体で、ルームウェアを身につけているくせ、足に引っかけているのはよそゆきの革靴。水を吸収しない硬い靴は歩くたびにガポガポ音を立て、不快感に娘は唇を歪める。それでも彼女は立ち止まることも、引き返すこともせず、ただ歩き続けていた。
悩みがあるのかと尋ねられたところで、あるにはあるのだが、じゃあ何がと問われれば答えづらい。この年頃の青少年が一度は通る道であろう。大人への登竜門とでもいうべきか。ひょっとすると一度くぐってしまえば、なんだこんなものかと笑えるかもしれない。しかしいかんせん、若者たちはみな、この門を前に立ちつくしてしまう。娘も、いわばこの青臭い時期にとらわれた獲物であった。
不真面目な者は早々に脇道へ逸れ、悲しいかな、かといって真面目な者ばかり報われるものでないというのが、厄介なところである。真面目な者はその性分ゆえに損をして、心挫かれてしまう事例だって少なくない。
人間、幸せな思い出よりも苦しかった思い出のほうがなぜだか記憶に残りやすいとはいうものの、実際その嫌な思い出を時が経つにつれ脚色したり、美化してしまうのは、人間の記憶力の副作用なのだろうか。件の悩める青少年たちが大人に相談したところで、よくあることだ、と軽く一笑に付されてしまうのがお約束だ。その大人にだって、同じように悩んで苦しんで、胸が張り裂けそうになった時代があるはずだ。それも何十年と経ってしまえば、当時の痛みなんてサッパリ忘れ去っている。だから今、このときを生き悩んでいる彼らに寄り添うことが難しいのである。それどころか、自分の若いころなんて、と当時を英雄譚かのように語る者もいる。これだから大人は。と、頭を振り振り、肩をすくめる若者が増えていくのも納得だ。──……
つらつらそのようなことを文字どおり冷えた頭で考えながら、娘はまだ歩いている。ビューラーでカールさせマスカラでぴんと天を仰いだ、行儀よく並ぶまつ毛から、未だ少女然としたまろい頬に水滴が落ちる。そのさまは、メランコリックな表情と相まってハッとするほど美しかった。「ながむ」ということばが使われた時代から、女にこの表情はつきものである。物思いに耽る面差し。そして漆黒。この二つを味方につけることは、古来より日本の女がいっそう婀娜やかに着飾る術であった。
とはいえ、この孤独な美少女の姿を見る者は誰もいない。とっくのとうに夜は更け、交差点の信号機は赤と黄の点滅を繰り返すのみ。これほど遅い時間になれば大通りすらも人っ子ひとり見当たらない。雨の降る夜特有の、鈍く赤銅色に光る空だけが娘を見下ろしている。無機物すら息を止めたような闇、娘が小さく鼻をすする音は夜雨の中へ虚しく吸い込まれていった。
錆びたシャッターを神経質なまでに下ろした商店街を抜け、カラフルならくがきで埋まった高架下を通り過ぎる。瓦の崩れかけた稲荷神社前の坂道のあたりは、湿った木のにおいが充満していた。すすけたサンプルが陳列されている中華料理屋。色褪せた昭和アイドルのポスターがはがれかかっている美容院。個人経営の病院の裏には、ひと昔前な外観の立派な屋敷が佇んでいた。その道のりには、デザインも電球の色もバラバラな街灯がぽつぽつと現れる。その街灯と、時折思い出したように設置されている自動販売機の病的な白い光とが、娘の道しるべを担っていた。
ことばにもならぬ、とりとめのないことを憂い、ジッとしていられなくなって歩き出したはいいものの、娘はどうやら思考の渦にドップリ嵌って途方に暮れてしまったようだった。何を悩んでいるのかもわからず、では具体的にどうしたらよいのかもはっきりしない。大人に相談しても笑われるだけ、離れて暮らす親に心配はかけたくない、同じ年頃の知人と話したところで、たいてい相手も同じような悩みを持っている。向こうも自分のことで精一杯で、他人の痛みに寄り添う余裕などないのだ。
こうして独りで冷静に思いを巡らせれば答えが出るのではないかと思いもしたが、よくよく考えれば彼女は一人暮らしで、親友と呼べるような仲の友人がいるわけでもない。つまり、毎日独りで考える時間はいくらでもあるのだ。そうして答えが出るならとっくに出ているであろう。
少し落ち着いたら簡単にわかるようなことすら判断できないほどに焦っているらしい。そんな自分に気がつくと同時に呆れ、娘は少々荒っぽく息を吐いて、ようやく足を止めた。時間も距離もずいぶん長いこと歩いていたようだ。娘が住んでいるのは比較的都会にあたる地域なのだが、しかしこのあたりは古い住宅地が広がるばかりであった。三階建て以上の建物や、目立って店舗のようなものも見当たらない。周辺の地図を思い浮かべ、だいたいの位置はわかるので、帰り道には特に困ることもないだろう、と娘はぼんやり思考した。そうして、自分が「帰ろうとしている」ことに今更ながら驚く。
夏目前の気候とはいえ、これほど長時間雨に打たれれば当たり前に肌寒くなってくる。誰でも、柔らかくて乾燥した真っ白い布団が恋しくなるに決まっている。しかし毎晩のように、このまま永遠に目を覚まさなければいいのに、なんて呪詛めいたことを心の内で唱えながら眠りに落ちて、まるでそれを嘲笑うかのような朝日の中で目を覚ますときの絶望といったら! あの感覚とひきかえにしてでも今すぐベッドに戻りたいかと尋ねられれば、答えはもちろんノーだ。本来睡眠は、人間にとってのいちばんの休息で、言わずもがな、ベッドは誰にも邪魔されずにくつろげる場所に違いない。それが娘にとっては絶望の象徴になりうるのなら、あのワンルームマンションに帰る意味がいよいよ見いだせなくなってしまうのである。踵を返したところで、今以上に惨めな気持ちを味わう羽目になるだけだ。
このまま視界を煙らせる雨に溶けるように消えてしまえたら。娘はそう願わずにはいられなかった。自分で思っておきながらすぐにばからしくなって、恥じるように瞼を伏せるに至ったが。その目と鼻の先にそれが現れたのは、魔法みたいな偶然であった。
立派な橋が大きな川に架かっている。いや、正確には川が大きいのではなく、降り続く雨によって増水し、大きく見えるだけかもしれないが。ともかく圧倒的な存在感を誇る橋と川は、家々が避けているように開けた、そこにあった。
娘は少し驚いた。しっかりとした太い木でできた欄干を持つこれほど長い橋なんて、小さい頃好きだったアニメ映画の中でしか見たことがない。それになにより、橋の下を流れる濁流の轟音は今でこそハッキリと聞こえるものの、先ほどまではまったく気づけなかった。考えごとをしていたし、雨の音に紛れていたのかもしれないが、それにしても気にならないことなんてあるだろうか。しかも、橋は立ち止まってうつむいた娘の数歩先の足元からまっすぐ正面に向かって伸びている──まるで、娘を迎えるために開かれた道のようだといっても過言ではないだろう。
夜明けまでには時間があり、十メートルも距離があれば見通せないほどにあたりは暗い。不自然なことに、幅も長さもかなりのものであるはずのその橋には一基の街灯も見当たらなかった。より深い闇へ、渡る者を招き入れんと伸びる橋。いかにも怪しいそれに向かって、しかし彼女は、魅入られたようにそっと足を踏み出した。
橋に歩みを乗せれば、一段と川の音が大きくなったようだった。住宅地の街灯が届く範囲ギリギリのあたりまで進むと娘は、自分の胸ほどの高さの欄干に手をついて、橋の下を覗き込む。
これだけしっかりとした作りの橋なら、川までかなりの高さがあり、ベンチなどが置かれた河川敷が川を挟んでいてもおかしくない。しかし今は、恐らく普段の川の様子の面影もない有様であった。ゴウゴウとてつもない音を立て、濁ったカフェオーレ色の水が橋すれすれの高さで渦を巻いている。支柱にぶつかった流れが砕け、白いしぶきが橋の上まで届いた。すでに十分に水を被っている娘の靴にも、足首ごとさらってしまうような波が時折容赦なく襲いかかる。
しばらくぼうっと濁流を眺めていた娘の頭を、先ほどのばかな思考がもう一度かすめる。このまま消えてしまおうか──有り体にいえば、死んでしまおうか、と。
死んだほうがマシなのじゃないかと思うことなんて、生きているうち、何回かあって当然だろう。何のために生まれたのだろうとか、自分が生きている意味とは何かとか、そういった問題に直面することは珍しくない。辛い現状のまま生きていくか、状況からリタイアするために死を選ぶか、どちらかなんて、古今東西使い古された問いである。それでどちらかを選べば、もう片方の道は永遠に閉ざされてしまうというのは明白だが。
もし死んでしまったとして、まだ生きていれば、そう遠くない未来、深刻に悩んでいた問題が解決して順風満帆な人生を送ることになったのに、ということがあるかもしれない。はたまた生きることを選んだにせよ、努力は報われず状況は悪化する一方、やはりあのとき……と後悔する可能性だってありうる。つまるところ、人生はギャンブルだ。生まれ落ちた時点でワンゲーム始まってしまっている。生きていくことを選択するのは、ベットに似ている。自分の「これから」に投資できるか、という話だ。これに即していえば、どんな困難にも屈しない人間は、ある意味で相当なギャンブラーだと表現しても過言ではないだろう。逆に、粘ったところで大損をして負けるくらいならゲームを降りようかいう思考もうなずける。ちょうど、今の彼女のように。
死のうかな、と考えても、それを人に話したり改めて相談するのは邪道だ、と娘は思っていた。それは心のどこかでまだ割り切れていない証拠だし、十中八九止められるに決まっている。いや普通に考えれば、相談されて「じゃあ死ねば?」と返す人間はいないだろう。が、止めることに関して深い理由もない。単に、死なれちゃ後味が悪いから、引き留める。その人が大事だからとか悲しいからとか、物は言いようだ。それほどまでに追い詰められている人間なら、決まってこう叫び返すだろう。自分ではどうすることもできないからこうするしかないのに、じゃああなたが何とかしてくれるのか、と。それで相手が黙りこくるくらいなら、さっさと決行してしまうほうが早い。
そうして彼女は、欄干によじ登るために、グッと腕に体重をかけた。うまくやれば、もうすぐ仕事を終えようかという彼女の心臓は、のんきなほどにいつもと変わらない鼓動を奏でている。膝を少し曲げて、そのつま先がアスファルトを蹴ろうかというそのとき。ふと、あるものが視界に入って、彼女は大きく目を見開いた。
娘の身体よりほんの少し橋の奥側、左手が触れそうな距離に、一本の傘がある。傘が、欄干に立てかけてあったのだ。
娘が持つにはいささか大きすぎる、真っ黒な傘。閉じた状態ではあるが、留め具は外れている。特筆すべきはその傘の異質さであった。デパートの売り場で見るような黒いプラスチックの柄や部品は見当たらず、代わりに重厚そうな金属や細工の施された木が使われている。それらは一様にくすんで傷がついており、ひと目でかなりの骨董品らしいことは察せられた。閉じられているのでよくわからないが、黒い布の部分もところどころほつれている。観察すればするほど、なんだか不気味なオーラをまとった傘であった。
思わず動きを止めてまじまじと見、あることに気づいた娘はただでさえ冷え切った身体から血の気が引いていくのを感じた。壊れていようがいまいが、道の端に傘が放置されている光景なんて珍しくもなんともない。ましてや雨続きのこの時期ならなおさらだ。だというのにこの傘、柄の部分に、明らかに水滴が少ないのである。仮に十分ほど放置されているのと、一週間前からここにあるのでは、違いがわからなかったかもしれない。それにしても濡れていないのだ。まるでたった今、誰かがこの傘をさしてここまで歩いてきて、それを閉じて置いたばかりのような──そんなことがあればさすがに気づくはずである。とはいえ、手からわずか数センチの位置に置かれたこんな大きなものが最初から彼女の目に入らなかったのはどう考えても奇妙だった。もしもほんとうに、彼女が気づく直前に誰かが置いて行ったのだとしたら。その誰かは、どこへ?
悪寒が背筋を駆け上がる感覚に、思わず娘はその場に座り込んだ。急にあたりの闇が濃さを増したような気がして、怖くなって目も閉じてしまう。息が浅い。相変わらず地面を打つ雨音と、娘の息遣い。そこに、もう一つの音が次第に混じり始めた。
ギィィ。ギイ。ギ、イ。……
重さに耐えかねた木の悲鳴だ、と娘はなぜだか直感する。目を閉じてしまったせいで、やたらと視覚以外の感覚が研ぎ澄まされているのかもしれなかった。音の発生源は、座り込んだ娘の目線よりも下だ。そこには橋桁と、橋下ギリギリまで水位を上げた川しかないにも関わらずである。
ギイ。ギギ。ギ。ギ。……
音の間隔がどんどん狭まっていく。娘は顔を真っ青にして、哀れなことにもう一歩も動けないようであった。
ギ。ギ……ギ、ギ、ギ、ギ、ギ、
「……う。う」
思わず、といった体で、ついに娘の口から悲鳴になりきれない声がもれた。それを皮切りに、う、という声が引き攣れた喉から紡がれる。──こわい。橋の下に一体何があるっていうの。いやだ。こんなわけのわからないところで死にたくなんかない。
ついさっきまでいざ死のうとしていた人間が何を、と笑われるかもしれないが、娘は必死だった。自分の理解が及ばないところで、こんな恐怖を味わうくらいなら生きているほうがいくらもマシだ、と強く思う。
娘はもう声を上げて泣けるほど幼くはない。さすがにしゃくりあげることもなかったが、その唇からは絶えず咽ぶような弱々しい声をくゆらせている。それは炎が燻るような、あまりに静かな泣き方であった。
「おうい。アンタ」
どれほどそうしていたか、誰にもわからない。ほんの数秒かもしれないし、数時間経っていたかもしれなかった。どちらにせよ娘にとっては永遠に近く感じられた時間の後、声が闇を裂いて彼女に届く。娘が夢から醒めたような心地で弾かれたように顔を上げれば、一人の男と、バチリと視線が交わった。三十代半ばほどに見える男は、スポーツブランドのロゴの入った黒いTシャツとジャージをペラッと身につけたラフな格好で、娘が来た方向と同じ、つまり住宅街側の橋の入り口に立っていた。切れ長の瞳を瞬いて、驚いた顔で娘を見ている。と、その視線が彼女の奥に大きな傘を見とめて、さらに怪訝そうに表情を変えた。
娘も娘で、突然の男の登場に動揺してどうしたらよいかわからなくなってしまった。見回りに来た警察官というわけでもなさそうだが、何か弁解をしなければと思いつつ上手く声が出せない。
そうこうするうち、男は複雑そうな表情を引っ込めて、ちょっと逡巡してから、目じりをキュッとつり上げて微笑んだ。目が細いこともあって、狐のようにも見える顔をしている。そうして口を開くと娘に向かって、
「你好」
ひと声でネイティヴだとわかる発音だった。
今度は娘が仰天する番だった。え! と、思いのほか特大の声が出て、しかしちゃんと声を出したのが前日の昼間ぶりだったのと、混乱とでなかなか二の句が継げない。えと、だの、あの、だのとおろおろする彼女をニコニコ見つめていた男だが、やがて喉を鳴らしたかと思えば呵々と笑い出した。男は声を上げて笑いながら娘のそばまで歩いてくると、腰をかがめて目線を合わせる。
「はははは。ゴメンゴメン。俺のばあちゃんが日本人でね」
彼は流暢な日本語を操って言った。そういえば、娘へ呼びかけたときは普通にそうだったので、今のはちょっとしたからかいだったのだろう。娘の動揺を悟って、それを和らげるためもあったかもしれない。実際娘も少し微笑み返せるくらいの余裕はできた。改めてその顔をよく見ると、たしかに黒髪黒目のアジア風の顔立ちだが、純粋な日本人とも少し違うようでもあった。男は人好きのする笑顔を浮かべると、娘へ控えめに手を差し出した。
「立てるかい? そこの川沿いにあずまやがあるからさ。よければ少し話を聞いてほしいんだけど」
聞けば、彼の祖母は日本人で、このあたりに住んでいたらしい。といっても、その祖母は先日病気で亡くなったのだそうだ。男はいちおう中国籍で普段の住まいも中国なのだが、祖母にはよく可愛がってもらっていて、小さい頃から日本にもよく遊びに来ていたらしい。今回は祖母の遺品整理のため、一ヶ月ほどこのあたりに滞在しているのだと話した。
いつのまにか雨はあがっていて、東の空の裾が明るくなり始めている時分だった。あずまやへ着いてから、男はずぶ濡れの娘のために彼の祖母の家からバスタオルを持ってきてくれていた。常識的に考えれば見ず知らずの男と歳若い娘が、こうしてまだ夜も明けないうちに二人きりでいるというのはあまりよろしくないのかもしれないが、彼は最初に「話を聞いてほしい」と言ったのだ。「話したい」ではなく。娘はそれに気づいていたから、こうして素直についてきたのである。男も、必要以上に娘のことを尋ねたりしてこなかった。
当たり障りのない会話がひと段落すると、男は少し言いにくそうに、もし言いたくなかったら全然いいんだけど、と前置きをして、娘に尋ねた。
「もしかしてアンタ、橋の真ん中でさ。よからぬことを考えてたりしなかったかい?」
あえて遠回しにしているが、娘はすぐに、死のうとしていなかったか、と聞かれているのだと理解して割とあっさりうなずいた。やはり今考えるとちょっとばからしくて恥ずかしかった。しかし、もうそんな気は失せてしまったので別に隠し立てする必要がなかったのである。
「だよね。それで……ちょっと、怖い目にあった?」
「ど。どうしてわかったんですか」
再び確信めいた問いかけに、娘は不意を突かれて男を見た。男はやっぱりという表情をして、備え付けのベンチに深く座り直す。
「この傘なんだけど。これ、ばあちゃんの遺品のうちのひとつなんだよ」
「──え」
よく笑う男は、今はそこに苦さを含ませて言った。
*
生前からばあちゃんに、遺品整理はおまえがやってくれって言われててさ。可愛がってもらったし、単におもしろそうでもあるし俺も快く受けたんだ。ばあちゃんちに着いたら、あらかじめ俺宛てに遺品に関するメモ書きみたいなのが用意されてた。俺はそれを読みながら、捨てるとか、中国の俺んちに持って帰るとか、質に出すとかって仕分けしてたんだよ。
その中にこの傘もあった。でもちょっと変なんだよな。これについての説明だけやたら長いし、おまけに絶対持って帰れって書いてあるんだ。まあ、説明が長いからそれだけ扱いが面倒なのかと思って、俺はこいつの整理を後回しにしてたんだよ。それでようやく昨日、いざ向き合おうと思ったら傘がない。他の品物はメモに書いてあるとおりの場所にちゃんとあったし、こっちに来てから何回か見かけてはいたしずっとそこにあったんだよ。でもなんでかなくなってた。慌てて説明を読んだらさ、日本語でこういうの……そうそう、「いわくつき」って言うんだよな、そんな感じのやつだったんだ。
この傘はもともと中国の骨董品らしい。まあ俺が持って帰れっていうのはたぶんそのせいなんだろうね。何回も質に出されて、数百年間、何百人もの手を渡り歩いてるらしいんだけど、不思議なことに、こいつはたまに勝手にふらりとどっか行っちまうことがあるんだってさ。
それがなかなかにおかしなもんでさ。傘が手元にないことに気づいたその当時の持ち主が傘を探しに行くと、決まって持ち主の家からいちばん近い橋の上で見つかるそうなんだよ。それもひどい雨の降った日の明け方で、横には必ず放心状態の人間がいるんだそうだ。話を聞くと必ず、そいつは自殺しようとしてなんでだかここまで来て、気づいたらこの傘が隣にあって……悪夢を見ているようだった、もう死のうとは思わないって言うらしい。実際ばあちゃんも、この傘を手に入れてから数年に一回くらいの割合でそんなことがあったってメモに書いてたよ。
それを読んで俺もまさかとは思ったけど、一か八かだってあの橋まで来たら、お嬢ちゃん、アンタがいたもんだからさ。──ああ、もちろん信じるか信じないかは好きにしてくれていいんだけどね。
*
男とはあずまやで別れて、娘は帰路についていた。送っていこうかと心配されたが、これ以上迷惑をかけるのもいたたまれない娘は丁寧にそれを断って、バスタオルを返し、来た道を反対方向に歩いている。
あずまやを出る頃にはすでに朝日が顔を出して、あたりにはセミの挨拶が飛び交っている。とはいえ世間が動き始めるにはまだもう少し早い時間だ。娘の髪や洋服は乾ききってはいなかったが、この調子で歩けばたくさんの好奇の目に晒されるなんてことなく家に到着できると思われた。
流れのどこかにダムでもあるのか、橋が架かった大きな川は、ほんの一時間ほどで元の静けさを取り戻しつつあった。あの荒れ狂いようが幻だったのではないかというほど穏やかに、水面には朝日のかけらがきらめいていた。すぐに住宅地に入ったので川は見えなくなってしまったが、その光景は彼女の網膜に焼けつくほどに美しく映った。
それまでグルグル悩んでいたことが些事に思えるほどの一夜であった。レトロで可愛らしいポストが生えた四つ辻を曲がりながら、娘は回想する。結局、あの骨董品だという傘はそんなに怖いものだったのかしら。植込みの紫陽花が色とりどりに咲いている。たしかに悪夢のような体験だった。つい先ほどまでの自死願望が消えるほどである。でも、と彼女は考える。いきなり現れたのは、そりゃあ不気味だったに決まっているが、それでも。道沿いの公園では、お年寄りが集まって体操をしていた。男の話が本当だとすれば、あの傘は悪いものではなく、むしろ──
「あ」
ぱた。すっかりファンデーションの流れた娘の頬を、雫が打った。つられるように見上げれば、またひとつ、ふたつと連続して顔の上で水が踊る。しかし空に雨雲はない。スカンッと青い天井、そこから直接雨が降っているのであった。
娘は、男との会話の中で聞いた話のうちのひとつを思い出す。あの男の流暢な日本語は、彼の祖母の教育の賜物らしい。たいへんな物知りであったその祖母に教えてもらった中で、男のいっとう気に入りだというそれが、天泣、ということばだそうだ。
「ふふ」
娘は晴れやかに笑う。その笑顔は、ちょうど彼女が見上げた空とよく似ていた。
娘はこの一晩でずいぶんと変わった。まるで汚れが落ちた、洗いたてのような心でこの空の下を歩いているような気さえしていた。そしてなにより、雨のことを少し好きになったのである。今の彼女は、この雨が早くやんでほしいとはもう思わない。ただ、この雫たちがきっと嬉し涙であればいいな、と願ったのだった。
天泣 ナガヲ @osaki_bakuchi
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