差し出された外出届を見、おや、と老兵は顔をあげる。

 きょとんとした顔でこちらを見つめ返す青年は、おおよそ軍人とは似つかない。私服だから、といわれれば当然そうなのだが、それにしてもずいぶん目を引くタイプだった。色素の薄い髪をふわりとセットし、耳にはシルバーのピアスがのぞく。軍人なんて私服でも実用性一辺倒なものばかり着回しているものが大半のなかで、彼のような若者向けのファッション雑誌にそのまま登場していてもおかしくない出で立ちは、悪い意味ではなくとも隊舎では相当注目を集める。

 現にいまだってそうだ。こんなに流行とは縁遠い自分でさえ、関心を持たずにはいられない。

「お出掛けですか? 佐倉少尉」

「そ。ちょっと用事あってね」

 珍しいこともあるものだという感想を、しかし器用なまでに飲み下す。歳を重ねるにつれてそういうことばかりうまくなる。いいのか悪いのかよくわからないが、すすんで面倒事に首を突っ込む必要はない。できるだけ穏便に、なんて、軍人風情が願うのは、おかしな話ではあるのだろうが。

「天谷さんには内緒にしといてくれる? たぶん怒られちゃうから」

 自分で口にした上官の名前に、佐倉はすこしばかり眉尻を下げた。

 はあ、と曖昧な返事をしながら、届出にはんこをつく。これをつくるに当たって直属上官の許可は必要不可欠なのだが、こっそり持ち出しでもしたのだろうか。所詮形式的なものであるとはいえ、万が一のことでもあれば面倒なことになる。

 たしかに褒められたことではないが、まだ若い彼にはいろいろと気苦労もあるのだろう。こんなところで若者を吊し上げるのも正直気が引ける。そんな都合のいい言い訳で、ひとり自身を納得させる。

「あまり羽目を外しすぎないでくださいよ。俺だって中佐に詰められたら命がいくつあっても足りない」

「はーい」

 まるで親戚のこどもをたしなめているような気分だ。長年軍に在籍しているが、未来ある若者を眺めているとついこんな感情にかられてしまう。そろそろ引退の二文字が頭をよぎるせいもあるのだろう。そんな自身に苦笑しつつ、まだ十分に青年と呼べる佐倉を送り出す。

 いつになくなごやかな光景が気になったのか、そのやりとりをぼんやり眺めていた若手が、おもむろに口を挟んできた。

「だれですかあの子」

「天谷中佐のところの秘蔵っ子だよ。気をつけろ、あんまり詮索するとこっちの首が飛ぶ」

「あの中佐がですか? そんなに物騒なひとには見えませんけど」

 逆だ逆、と老兵は手を横に振る。

 跳ねるように駆けていく佐倉の背中を見送りながら、それまで押しこめていた本音をひっそりと吐き出す。

はな、俺たちのような凡人の手に負えるような人間じゃないんだよ」

 怯えの色がにじむ声は、鼻歌まじりに遠ざかる佐倉の耳には届いていない。

 しかし向けられた視線の奥に潜むざらついた感情には、とっくに気がついていた。

 目は口ほどにもをのいう、なんて、手垢まみれの言い回しがまさしく似合うほどにはわかりやすい。きっと自覚もないのだろう。だがそういうものこそ、見るひとが見ればかんたんに察しがつく。

 思い返すほど滑稽だ。が、わざわざそんなものを指摘してやる義理もない。あの名前も知らない老兵も、あえて波風を立たせなかったのだ。であれば、それと同じようにとして返してやればいい。

 単純なことだ。しかしそれすらまともにできない人間はかなりいる。それに本気で驚いていた頃がなつかしいくらいだ。それほど世間知らずだった。親に、学校に守られ、不要なものは勝手に排除されていく。そんなものを当たり前としてのうのうと生きてきたなんて、いまではまったく信じられない。

 とはいえ、そういうな人間を一掃すべきとか、大袈裟に騒ぎ立てるつもりはない。たしかに年齢や階級が上というだけで威張り散らしたり、目立つな出しゃばるなと難癖をつけてきたりとなかなか邪魔ではあるが、うまくおだててやれば使い勝手のいい駒に変わることもある。使い方次第では、盤面をひっくり返すことさえできるのだ。好機を引き寄せるためなら、惜しむような手間ではない。

 そんなことまできっちり教えこむから、こんなふうに許可証をねつ造されても気がつかないのだ。あとから小言のオンパレードを浴びせられることになるかもしれないが、過ぎたことをいつまでこねくり回すのかと言い返す準備はとっくにできている。

 そもそもあんな無意味な紙切れ一枚、どうにでもなるのだ。

 ぺりぺりと外装をはがした棒付きキャンディーを口に運ぶ。広がる甘さに自然頬が緩んだ。これすら天谷に見られたら説教ものだが、今はオフだ。怖がることはなにもない。そもそも、天谷に対して恐怖なんておぼえたこともないが。

 ふふ、と形のいい口元に笑みを浮かべる。我ながらだいぶ機嫌がいい。スキップでもしたいくらいだ。

 ――やっと、に逢える。

 それがどれほど胸躍ることであるのか、赤の他人にはまるでわからないだろう。

 それでいいのだ。理解してもらう必要などない。話すだけ時間と気力が無駄になる。……なんせ天谷さえ、快くは思わない。

 それでも諦めなかったこちらの執念勝ちだ。

 口の中で転がす暴力的な甘さを、しかしひとり満足げに味わう。

 この日のために、どれほど綿密なプランを練ってきたことか。他人にはまったく想像もつかないだろう。

 そう思うだけで、どんどん心が晴れやかになっていく。

 いつかいつかはと、ずっと願ってきたことだ。

 あの美しくも忌まわしい『左腕』の持ち主と、再び逢うこと。

 ただそれだけを目標として、ここまで走ってきたのだ。あの誘拐事件後、母親に「こんな出来損ないの子どもはいらない」と罵られたときから、ただそれはこの胸にあった。

 その言葉自体はたしかにショックではあった。しかし仮にも心身ともに満身創痍の我が子に向かってそんな台詞が吐けるような大人に、それ以上縋りつこうとは思わなかった。だからあえてそれを受け入れたのだ。おそらく母親というポジションにふさわしくなかったのだろう。もとより子どもより仕事や世間体のほうが大事であったひとたちだ。こうなってしまうのも仕方ない、と。

 そう自身を納得させようとしているうちに、天谷が後見になると申し出てきた。

「使えるものは使うべきですよ。それが甘い罠の誘いだとすれば、尚更に」

 諭すような口ぶりは正直あまり気に入らなかった。別にだれかにやさしくされたいわけではなかったし、どうせ両親のようにいつか切り捨ててくるのであれば、手を差し伸べられることすら嫌だった。

 しかしなかなか首を縦に振らない佐倉に負けじと、天谷は根気強く毎日病室に顔を出してきた。自分も砕けた右脚のせいで戦場復帰は絶望的という烙印を押されたくせに、どうしてこれほど気にかけてくるのか不思議でならなかったが、全寮制の士官学校の入学許可証を持ってきたときについに妥協した。

 軍としても、このまま佐倉を市民生活の輪のなかに戻すつもりはなかったのだろう。未成年の子どもがふたりも巻きこまれた非道極まりない誘拐事件として処理されたそれの真相を知る人間は数少ない。当時まだ七歳だった弟さえ、おぼろげな記憶しか持っていないだろう。そのまま忘れ去ってしまったほうがいっそ都合がいい。だが問題は、すでに十四であった佐倉のほうだ。その脳裏には悲しいほど鮮明に負の記憶が刻みつけられ、身体にもはっきり目立つことはないものの古傷が浮かぶ。ずいぶん広まってしまった情報の波から個人を守るため、なんてそれらしい理由がこじつけてはあったが、決定打となったのは天谷の言葉だった。

 自分よりひとまわりは下の子どもに、自分を使えとまで言ってのける大人なんてそういない。だからその手を取ったのだ。療育明けのまだぼんやりと薄墨がかった頭にしてはなかなか英断だった。いまなお、そう思う。

 信号待ちのさなか、ショーウィンドーに写る自分と睨めっこしながら前髪を整える。前もって手土産を準備しておいて正解だった。ただでさえ時間や行動に制限がある身では、外出当日にあれこれ用意するのは非効率的すぎる。

 悪い、とまではいわないが、規則に雁字搦めにされてばかりなのは時に息苦しい。私服だってそうだ。佐倉は着たいものを身につけているだけでも、まわりが勝手になにか言いたげな視線を向けてくることが多々ある。それらを黙殺することはかんたんだ。あ、大変残念なことにそうしていられることばかりでもない。

 知らずにつくってしまった空の拳を、しかしあっさりと解放する。

 ショーウィンドーには、相変わらず佐倉の姿が写し出されている。平均身長にはぎりぎり届かなかった小柄でうすい体つきは、たしかに軍人らしくはないのだろう。成長期の体に無認可の薬が大量投与された影響のせいか、思ったほど身長は伸びず、体格にも恵まれなかった。

 しかしそれが、なんだという。

 青に変わったばかりの道を踏みならす。人混みに埋もれるような身の丈だとて、その歩き方までおとなしくさせるつもりはけしてない。

 それをこうして貫いてきたからこそ、いまこの未来を得ることができたのだと、そう心野底から思う。

 やがて雑踏あふれた道が終わり、物寂しさを滲ませる郊外に入る。向かうのはそれより先だというのに、すでにこの距離がもどかしくてならなかった。もう走り抜けてしまいたいのを、なんとか呼び起こした平常心で押さえこむ。

 そうしてようやく辿り着いた壁の手前で、ほっと息を吐く。

 許可証パスを掲げてみせると、無愛想な門衛の男がじとりと品定めするかのように睨んできた。不愉快なそれを、貼りつけただけの笑みでなんなく打ち返す。

 これもまた軍人のアドバンテージだ。一般市民ではこの証明書ひとつ得るだけで何ヶ月とかかる。もともと市民は壁の外側の世界になんて興味を示すこともないから、より慎重な審査が必要なのだろう。納得はするが、しかし素直に待てるかと問われれば微妙なところだ。なんせどうして壁の外側に出るだけでそんなものが必要なのか、軍人となったいまでさえ納得しかねる部分がないわけではない。

 やがて疑うことを諦めたのか、無言のまま扉を促される。どーも、と形ばかりの会釈をし、重く閉ざされた鉄の扉にゆっくりと手をかける。

 その先に広がる景色は、いままでのものとはまるで異なっていた。

 物乞いや浮浪者が虚ろな瞳をして道の端々に蹲る。ゴミを漁るこどもたちに、どこから仕入れたのか壁の内側の品物を法外な値段で売りさばく商売人の罵声が降りかかる。蟻の子を散らすように逃げていくものの、手にした戦利品はけして手放そうとしない。

 そうすることでしか彼らは生きていけないのだ。市民たちが普通と思っている恩恵に、彼らは縋れない。守ってくれるものもない。他人に弱みを見せれば、途端に骨まで食い尽くされてしまう。

 そんな醜い世の中を、評議会は認めたくないのだろう。だから壁で遮断する。完全に別物として扱い、とことん区別する。

 すべては彼らの掲げるたいそうな立派な理想平和のために。

 笑える話だ。しかしそれを、市民たちは心の底からありがたく思っているのだから馬鹿にすることもできない。

 再びスラムに生きる彼らを一瞥し、ようやく歩き出す。じろじろと突き刺さる視線の数々に辟易しながら、それでも表情には一切出さず。

 泥にまみれてもなお生にしがみつこうとする彼らは、どれもまともな人間には到底見えなかった。それどころか、同じ人間であることすら疑ってしまうほど、醜く汚れていた。

 いやだなあ、と素直にため息をこぼす。

 一度なにもかも撤去されたというのが嘘のようだ。ただスクラップ・アンド・ビルドを促進させただけではないか、という耳の痛い批判が上がるのも仕方ない。そう思うほどにはしぶとい連中だ。たたいてもたたいても湧き上がってくる。その始末には、たしかに頭を悩ませるところだろう。

 落ち窪んだいくつもの眼がこちらに向けられる。正直抵抗はあるのだが、こんなことで出鼻を挫かれるわけにはいかない。

「きったない街」

 その胸を焦がす感情とはまったく正反対のそれを吐き捨てる。そもそも同情の余地なんてまったくない。。壁一枚隔てた向こう側に広がる豊かな暮らしとはまるで正反対に、文字通り泥を啜るような惨めな生活を強いられる。そうなった一因は、現実から目をそらし続けた彼らの怠慢にある。

 転がる小石を、つま先で蹴り飛ばす。血がにじむような努力、なんてよく聞くが、一度死の淵を垣間見た人間からすればそんなものなんでもない。特に街の人間が口にするものはだめだ。体験もないくせに、そんな軽薄な台詞を吐くべきではない。

「ほーんと、こんなところのどこがいいんだか」

 まったくわからない。本心、理解するつもりはないのかもしれない。

 舞い上がる砂とスモッグ。さらにじりじりと容赦なく照りつける太陽をむっと睨み、色つきのサングラスを押し上げる。

 ファッション用のものだが、なにもないよりはましだ。ある程度顔を隠せるのも都合がいい。どうせなにをしても目立つのだ。それなら利用できるものは利用してやるほうがよほど効率がいい。

 ……ともあれ、じろじろとこちらを値定めるような視線を集めるのも、そろそろ限界だ。

 不機嫌さながらに振り返る。すると、すこし前から佐倉の後をつけてきていた男たちの不快なにやけヅラが視界に入ってきた。

 本当にここは、なにもかもが汚い。

 歪みきったその表情に、しかし佐倉は眉ひとつひそめない。

「さっきからなんなの? 正直メーワクなんだけど」

 見たところ佐倉より二、三若いくらいだろう。それでも佐倉自身が小柄な分、上背ははるかにあちらが勝っている。こういうときこの体格は圧倒的に不利だ。が、そう勝手に品定めされることに対処法を用意していないわけがない。

 傍目には典型的なの構図ができあがっているのだろう。なんとなく避けられているのを肌で感じながら、うんざりと息を吐く。

 市内でもなくはないが、しかしこうも表だってくると馬鹿馬鹿しくて付き合ってもいられない。

 せっかく意気揚々とした気分でいたのに、一転地獄に突き落とされたようだ。しかもそんな嫌味が通用するほど頭がまわるような連中とはまるで思えない。

「にーちゃん、街のひとだろ? だからちょっとあってさぁ」

「なにか俺たちに恵んでくれよ。金あんだろ?」

「なんにも知らずに来たんなら俺たちがしさぁ。どう? 悪い話じゃないだろ?」

「ハァ?」

 自分がここ《スラム》に似つかわしくない、というのは重々理解していた。が、こうもあからさまに喧嘩を売られるほど安く見積もられたのかと思うと情けなくて涙が出てくる。

 ばきり、と飴が割れる。甘いだけの塊が口のかでばらばらと砕け散る。

「いーよ。相手してあげる」

 トクベツに、ね?

 これでもには多少おぼえがある。

 血気盛んな連中にもまれる生活を何年も強いられてきたのだ。それを望んだ自分もたしかに悪いのかもしれないが、身の程をわきまえられない人間をのだ。感謝のひとつくらいされてもいい。

 そしてそのうえで、自分のポテンシャルをどれだけ有効活用できるかについては、散々考えさせられてきた。

 真正面からぶつかれば敗北は確実だ。であれば、攪乱させればいい。

 ひとまずケーキ箱を安全地帯に避難させてから、改めて暴漢たちに向き直る。にやついた彼らはすでに勝ったつもりでいるらしい。だとしたら本当にかわいそうなことだ。

 踵から等間隔で始まったリズムを、やがて全身で刻む。半身に構え、つくった拳を向けられてなお、彼らは自分たちに未来すら読めずにいるらしい。ここまで救いようのない馬鹿だと体に教えこむしかない、というのも、学生生活のうちに理解しつくしている。

 目立つことは極力避けるように、と天谷のありがたい忠告をかなぐり捨てて、先手必勝とばかり細身の体が宙を舞う。

 助走はいらなかった。手加減する言い訳だったが、彼らがそこまで骨のある集団だとは思いがたい。

 鋭く速い突きが、鳩尾にクリーンヒットする。目でも追えていなかったのか、彼らの浮かべる唖然とした表情に佐倉はただ薄い笑みを貼りつける。よろけたところにさらに顎へ掌底を叩きこみ、のけぞった体に蹴りまで食らわせる。さすがに頑丈なのか、蹴り払うことにはパワーが足りなかったようだが、そこは予想のうちだ。

 仲間内に動揺の色がはしる。しかしそれをなかったこととばかりに、佐倉は明るい表情をのぞかせる。

「じゃあ、続けよっか」




 目の前の惨状に、うそだろ、と男はひとり呻いた。

「ほんっと最悪! ピアス片方どっかいったじゃん!」

 お気に入りだったのに~、と半泣きの佐倉がきょろきょろとあたりを探し回る。ただでさえこの乱闘騒ぎでもものが散乱した路地では、ピアスのようなちいさなものはなかなか見当たらない。ちょこまかと動く姿は小動物らしく見えるのだが、白い頬に飛んだ返り血がそれをあっけなく消し去ってしまう。

 うわごとを口にする男たちの存在は完全に無視されていた。まるでその場に転がるゴミかなにかのようにぞんざいに踏まれたり蹴られたりされている。顎を割られ口から血を流しているだけならまだいいほうだ。腕や脚があらぬ方向へへし曲げられている仲間を見ては、まさかそんなことがと青ざめる。当然ながらそんな佐倉の扱いに文句を垂れるような気力が残っているものはおらず、みなされるがままに地面に転がっている。

 ことの顛末を見届けていたところで、そうなるまでの様子をうまく他人に説明できるはずもない。

 気を失う前までいたはずの住人たちも、すっかりどこかへ隠れてしまったらしい。それが正解だったのだ。人間台風どころではない。まるで悪魔の所業だと、唾を飲む。

 こんなちいさな体にまさかこれほど圧倒されるとは、三十分前の自分にどう説明しても納得してくれないだろう。冗談だろうと、改めて震え上がる。

 いまはのびている連中だって、それなりに腕が立つはずだった。これまで返り討ちにあったことがないわけではないが、一対多数でこれほどまでの惨敗をきすことなんて数えるほどしかない。それこそ、最近来たあのを相手にしたときくらいだ。

 怖々見ていたことに、佐倉もようやく気がついたらしい。やけににこやかな笑顔を浮かべて、ひょこひょことこちらに歩み寄る。

「あれ? まだ生きてたんだ~」

 かろやかな声に、ひぃ、と情けない悲鳴があがる。

 まさかこんな展開に持ち込まれるとは思ってもみなかったのだろう。同感だ。こんなに手応えがない連中が大きな顔でのさばれるほどぬるい環境だなんて、滑稽どころかあきれてものもいえない。

 男の鼻血がぽたぽたと地面を濡らす。目の前で起きた出来事をいまだ受け入れられず、驚嘆したままの男とは対照的に、佐倉はその端正な顔をすこしも崩すことなく、戯れのような言葉を紡ぐ。

「ねえ。さっき?」

 いままさに忘却の彼方に押しやろうとしていた過去を無理矢理引きずり出して、佐倉はにっこりと笑みをつくる。

「ちょっと行きたいところあってさ~。そこまでの道教えてくれたら、さっきのこと赦してあげる」

 やたらやさしい声色に、ただこくこくと首を縦に振る。いまさら地面に倒れ伏した連中の仲間入りを果たすつもりもない。その提案にのれば無事にここを切り抜けられるものなら安いものだ。

 ありがと、といかにもかるい言葉にすら、ぺこぺこと頭を下げる。

 天使の顔をした悪魔の申し出を断れるような気概は、もう男にはかけらも残っていなかった。




  *




 控えめなノックに、むくりとソファーから起き上がる。

 そんな丁寧なものを聞いたのはひさしぶりだ。なんせここの連中は遠慮や配慮というものを知らない。礼儀なんてもってのほかだ。教えた端から無駄になる。そういうものは母親の胎内にでも忘れてきてしまったのだろう。とはいえそんな悪態すら笑い話となるような劣悪な環境でも、慣れてしまえば心地いい。すくなくとも、あの外見ばかり取り繕っている壁の内側の方々よりはよほど気安い。

 だからこそ、

 無言を貫いたまま、じとりと扉を睨む。所詮鍵なんてたいそうなものは飾り程度にしかついていない。そんなものがあったところで、ここに金目のものがあると教えているようなものだ。

 ここでは自分の身は自分で守るのが鉄則だ。なにが起きても自己責任と言い換えてもいい。息が詰まるような規則や世間体に振り回されるより至極明快でわかりやすい。本心そう思うのだが、こんなところしか知らない連中には毎回正気を疑われてしまう。

 護身用の銃をホルスターに確かめる。そんなものの世話にならないのが一番いいのだが、なにもしないよりははるかにましだ。

  がちゃがちゃと何度かドアノブが回されたのち、おもむろにドアが開けられる。

 そうして顔を出した男は、思っていたよりはるかに若かった。

「や~っと着いたぁ。ここわかりづらくない? ふつうに迷ったんだけど」

 まるで友人の家にでも来たのかと疑いたくなるほどの軽口で、のこのこと事務所に足を踏み入れてくる。さすがに呆気にとられていると、しかしそれを意に介していない青年はさも当然とばかり持ってた白いちいさな箱をこちらに向けてきた。

「これお土産ね。ちゃんとおいしいやつ選んできたんだから」

 押しつけるようにケーキ箱を渡してきたかと思えば、そのまましげしげと室内の観察をされるものだからたまったものではない。なんなんだこいつは、と訝しむ腹の虫をなんとか堪え、低く呻るような声を上げる。

「さっさと帰れクソガキ」

「ガキじゃないし。ていうかここ冷房とかないの?」

 本当になにをしに来たのかさっぱりわからない。そもそもこんなところまでやってくるような要件とはなんだ。どう見てもこのあたりの人間ではないのは明白だが、スラム街の便利屋なんて胡散臭い男にわざわざ会いに来るなんてたかが知れている。いまさら面倒事に巻き込まれるのも御免だ。これが隣のビルであれば見知らぬ人間が一歩踏み入れた時点で蜂の巣にされかねないのだから運がいいが、それにしても冷やかし目的であれば来る場所を間違えている。

 大きく息を吐き、それからまだアルコールの残る頭を覚醒させようとがしがし髪をかきあげる。

「目障りだ。とっとと失せろ」

「せっかくここまで来たのに? もうちょっと労ってほしいんだけどなー」

 なにを言っても聞く耳を持たないらしい。きゃんきゃん吠える子犬のようだ。高い声が頭にきんきんと響いて心底煩わしい。

 スラムのこどもなら不機嫌そうなオーラを敏感に察知してすぐに撤退するのだが、はよほど肝が据わっているらしい。浮ついた見た目の割に相当な場数でも踏んでいるのか、怯えた様子もない。場違いなのは傍目にも明らかにもかかわらず、自身のスタンスを崩すつもりは毛ほどもなさそうだ。

「ていうかひさしぶりの再会なんだけど、ほんとにおぼえてない?」

 どこのナンパ野郎だと思わんばかりの台詞に、ただ眉をひそめる。

 今時そんなものにひっかかるほうが少ないだろう。せめて絶世の美女にでもなってから出直せと息巻いてやりたくなったが、本当に連れてきてしまいかねない異様な雰囲気を感じ取り、文句はそのまま飲み下す。

 その代わり、先程の台詞をものの見事に粉砕してやる。

「ガキの知り合いはいねえ」

「だからガキじゃないってばー! おれもうとっくに二十歳超えてるし!」

 反論に、かすかに目を見張る。下手をすれば未成年なんてことも十分に考えられたのだが、こちらの認識が誤っていたようだ。しかし華奢で幼さの残る顔つきでは、あと何年経とうがそう主張し続けなくてはならないだろう。その点はおなじ男として同情せざるをえない。

「まあおぼえてないならいーや。今日はそういうこと話しに来たんじゃないし」

 そう言うわりにむくれてはいるが、指摘するのも面倒だ。わざわざ蜂の巣を突きにいくこともない。飛びこんできたのはあちらではあるのだが、それでもだ。

 本当になにをしに来たんだとばかり、怪訝な目を向ける。すると居住まいを正した彼は、やおらに口を開く。

 使い古されたその呼び方に、ちいさく息をのむ。

 もうとっくの昔に捨て去ってしまったものだ。それを知る人間とはすべて縁を切った。むしろ死んだものと扱ってくれてよかったのだ。事実、彼らの知る神崎透という軍人は、もうこの世にいない。

 だからこそ、なぜこの青年がそんなものを知っているのか甚だ疑問だった。

 ソファーを陣取るのもそこそこに、土産と言っていたはずの箱を自分の手で開ける。綺麗に整列していたげんこつ大のシュークリームをじーっと眺め、選りすぐりのひとつを手に取ったかと思えば満面の笑みでかぶりつく。

 ……光景に、そのまま追い出してやろうかと思ったのはあながち嘘ではない。

 そうするのはかんたんだ。しかしこの男を放り出したところで、なにも解決しない。

 この先一生耳にすることもなかっただろう呼称を口にしたのだ。無視なんてできるはずもない。

 それにいまなお反応してしまう自分もなかなか救いがたい。未練らしい未練もないくせに、やはり何年経っても古巣は恋しいということだろうか。だとすれば、そんな人間らしい感情が残っていたことに祝杯でもあげたい気分だ。

 は、と苦々しい笑いをこぼす。それからテーブルの上にかろうじて残っていた酒瓶を豪快にあおる。

「……階級なんざとっくに棄てた」

「そうかたいこと言わないでよ。にはまだそれを認めてない頭のかたーいひともいるんだから」

 思い当たる節がいないわけではない。が、まさかピンポイントにその人物を挙げているわけでもないだろうとたかを括る。

 ――なんせから十年近く経っている。

 神崎が一方的に除隊してから、軍のほうも大幅に人員整理が行われているはずだ。知っている顔はさらに少なくなっているだろうが、いまさらそれを悲しむような権利は持ち合わせていない。……運良く生きていたところで、顔向けできるような相手もいない。

「ま、難しいことは抜きにしてさ。内容くらい聞いてくれてもいいんじゃない?」

 便利屋さんなんでしょ? と続けられれば、どこか退路を断たれてしまった気さえする。

 無論そんなものは関係ないと突っぱねることもできたのだろうが、ここまで言われてむざむざ引き下がるのもいささか癪だ。

「つまんねえことだったらそのままたたき出すからな」

「いいよ。どうせほかの連中に任せるつもりもないし」

 ということは、彼らのなかではほとんど確定事項らしい。嫌味ったらしい言葉を返す代わり、胡乱げな瞳を投げつける。しかし当の本人はにこにこと笑いながら自分の持ってきたシュークリームを堪能するのに忙しいようだ。しあわせそうで結構なことだと、そればかりは素直に肩をすくめる。

 こちらはその甘ったるい香りだけで胸やけしてしまいそうだ。くたびれかけたソファーで対面し、おもむろに煙草をふかす。無論として受け取った純正品だ。市内では相変わらず禁制品だろうが、ここで配慮してやるつもりもない。それに彼は一瞬だけ怪訝そうなものを浮かべたものの、すぐに不満そのものをかき消した。それから思い出したようにごそごそと胸元を漁り、一枚のスナップ写真を差し出してくる。

「そのひと、見覚えあるでしょ?」

 ――写っていた男を、覚えていないわけがなかった。

 藍色の癖のある髪に、人を小馬鹿にしたような憎たらしい笑みが浮かぶ。くたびれた白衣はジャケットに代わり、そしてその右目は、黒い眼帯で覆われていてもなお、その憎たらしい印象は変わらない。

 鋼鉄の左腕が、じんわりと熱を帯びる。自然と触れたその付け根に、忌々しく舌打ちする。

 二度と思い出したくもない男だ。しかしそれを口には出さず、無言のまま青年を睨みあげる。

 どうしてこれを、と問いただしたところで、また別の面倒事がやってくるだけだ。が、それをわかってか否か、青年はひとり勝手に喋り出す。

「最近新しくできた団体なんだけど、ちょーっとめんどうなことに首突っ込んでるみたいでさ。いろいろ調査してたら、その男がトップらしくて」

 だろうな、と飛び出しかけたそれをすんでのところで噛み砕く。

 あの男はそういう男だ。そうかんたんに胸クソ悪い願望を諦めるわけがない。

 ということは、神崎が軍を飛び出してきたのと同様に、ドクターはドクターで離反したのだろう。あの状況ではだれだってそうする。そもそも遅かれ早かれそうする予定であったのだろう。それでもやはりあのとき殺しておくべきだった、と思うのは、しかし軍のためでもなんでもない。

「うちとしてもあんまり大事おおごとにしたくないんだよねー。利害の一致っていうかさ、中尉くらい頭よければすぐわかると思うんだけど」

 階級で呼びつけられるのは正直勘弁願いたいところだが、諭したところで素直に耳を傾けるような輩とも言いがたい。むしろ喜んでそう呼んできそうなところがあるだけに、どう諫めてやるか考え物だ。

「できれば生け捕りにしてほしい、んだけど、まあ無理そうだし? そこら辺はうまいことやってほしいかなーって」

 でもね、最優先事項がひとつだけ。

 そう前置きした瞳が、猫のようにすっと細められる。自然と伸ばされた背筋とは裏腹に、声色ばかりが妙にやさしい。

「『タナトスの心臓』を探してほしいんだ」

 聞きなじみのない単語だが、それがどんな代物であるのかは理解できてしまう。

 自身の左腕に沿わせた指先に力がこもる。冷たい銀の肌は、しかしろくな返答すらのぞかせない。それどころかまるで関係ないとばかりに口を噤んでいる。本当にろくでもないものを押しつけられたものだ。つい辟易したくなるのを、すんでのところで耐える。

「それだけ言えばわかるって聞いたんだけど。どうかな、神崎中尉」

 けろりとした表情だが、それ以上のことも勿論知っているのだろう。協力要請をしておきながら、あまり情報を与えるつもりはないということたしい。そもそもこんなまわりくどい手段で神崎と接触をはかってくるあたりでいろいろ察しがつく。どうせ評議会にいい顔をしたいだけなのだ。何年経とうが、根本的なところはまるで変わっていない。

 思い出すだけではらわたが煮えくり返りそうだ。そんなふうだから見切りをつけられるのだ。評議会に列席する愚かな面々は、それに気づきもしない。すくなくとも十年、彼らは沈黙したままだった。

 馬鹿馬鹿しいと首を横に振る。今更どの面下げて協力しろというのだろう。本来の左腕が失われたのも、この義手を押しつけられたのも、すべて彼らのせいだというのに。それらを帳消しにして、さらに手を貸せとは都合がいいにもほどがある。

 しかし、忌々しいあのドクターが絡んでくるとなれば多少話は別だ。

「その呼び方やめろ」

「えー? じゃあ透さんって呼んでいい?」

「ふざけんなクソガキ」

「ガキじゃないです~。ほら、おれのことも司って呼んでいいから!」

「なにがほらなんだよ」

「なにって、交換条件?」

 まるで話が通じない。否、正しく意図は汲み取っているくせにあえてそういう態度をとっているのだろう。まったく食えないガキだと心底ため息をつく。

 そんな神崎の反応を喜んでか、佐倉はにっこりとほころぶ花のように笑う。

「期待してるよ。透さん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヘルメスの左腕 HERO do not look back 二藤真朱 @sh_tkfj06

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ