5-3

「止めるな、類」

「いいえ。退きません」

 強い意志を宿したアイスブルーが、こちらを見据える。

 こうして神崎を諫めるのは、天谷にとって珍しいことではなかった。証拠に、腹立たしげに舌打ちされたところで天谷は一歩も退かない。階級こそ神崎のほうがひとつ上だが、そもそも同期だ。長らく神崎の右腕を勤めあげられるのもほとんどそのためといっていい。要は耐性のあるなしだ。そうでなければ、ことあるごとに上官に噛みつきがちなトラブルメーカーの副官なんて厄介すぎるポジションは誰だって願い下げだろう。

 もっともそういう前提があるからこそ、神崎も容赦なく自由に振る舞っているといえなくもない。

 粉々に破壊されたガラス片を踏みながら、ゆっくり神崎との距離を詰める。ところどころに切り傷こそ見られるものの、天谷はほぼ無傷だった。まわりを取り囲んでいた憲兵たちをうまいこと盾になってくれたおかげだ。打ち合わせなしにしては上出来だ。が、もうすこしまわりに与える影響というものを考えてほしい。そんな本音を器用に隠して、神崎のもとへ歩み出る。

 まっすぐ射貫くような瞳は、それでもまったく揺るがない。

「あなたが手を汚す必要は、ありません」

 正論すぎるそれに、さすがの神崎もどこかばつが悪そうに押し黙る。 

 いくら巻きこまれた当事者であるとはいえ、神崎にしかるべき判断を下す権利はない。それこそ越権行為として後々処罰される可能性すらある。天谷が危惧しているのはそれだろう。無論被害者はこちらだと堂々主張を押し通すつもりではあるにしろ、神崎をよく思っていない連中は両手では足りないほどいる。あちらからすれば目障りな神崎を叩き潰す絶好のチャンスだ。そうなってしまってからではあまりに遅い。それこそ本末転倒もいいところだ。

 ――だからこそ、正当な第三者による裁きを。

 天谷が言いたいこともわかる。しかし、一度振り上げた拳をそのまま解放できるほどできた人間でもないこともまた、事実だ。

 ぎちりと奥歯を噛みしめる。苦悶の表情を浮かべる神崎を焚きつけるように、ドクターは軽口をたたく。

「君の相棒はそう言っているようだが、どうするつもりかな」

 自分の処遇を今まさに決められようとしているのにのんきなものだ。

 まるで他人事のような口ぶりに胡乱げな瞳を向けるものの、そんなもので動揺するような生半可な人間でもないことはこちらも重々承知している。

「感服するよ。こんな崇高な精神を持つ軍人なんて、まったく素晴らしいじゃないか」

 そして瞬きひとつのうちに軽薄な空気をかき消したドクターは、ゆっくりとを切る。

 なんのことだと呻く。その言葉が示す意味がわからず、困惑の色を浮かべたのはしかし一瞬だった。

 ばちり、と『左腕』から鋭い音がする。

 これ以上なにを隠しているというのか。あきれる前に憎悪さえおぼえてしまうほどだ。

 なにをした、と問いただすより先、いままでとは比べものにならないほど巨大な雷の柱が神崎の体を貫く。のみならず部屋中に散らばった赤い雷光に、その場にいただれもが息をのんだ。

 あまりの衝撃の大きさに天谷も思わず身構える。本当に油断も隙もない。ここまできてまだどんな愚行を重ねようというのだろう。そう睨みつけようとしたのを、神崎の猛々しい咆哮が瞬く間に塗り潰す。

「透ッ!?」

 慌てて呼ぶも、天谷の声は届かない。地を震わせるような絶叫と雷鳴を前にあっさりとかき消されてしまう。近寄るだけで命の危険すら感じるほどのそれに、天谷はなすすべもなく立ち尽くす。

 そんな天谷とは対照的に、神崎という魔の手から解放されたドクターはやおらにたち上がった。そしてのその悪夢のような光景を、まるで極上のエンターテイメントを楽しむかのように眺める。 

「何をしたんですかっ!?」

 焦燥の色を隠しきれない天谷に、しかしドクターはのらりくらりとした態度を崩さない。ずり落ちかけた眼鏡をゆっくりと押し上げながら、さも滑稽と言葉を紡ぐ。

「リミッターを解除しただけさ。本来なら段階を踏んでいきたかったけれど、こうなれば仕方がない」

 まるで悪びれていない口調ではあったが、額に浮かぶ脂汗までは誤魔化せていなかった。あちらとしても苦肉の策ではあったのだろう。しかし一ミリたりとも同情の余地はない。

 ドクター、と焦った声で呼ばわる職員たちを片手で制しながら、それでもまだ気取った仮面をかぶろうとする執念だけは見事だ。

 そんな天谷の胸中を見透かしたのか、ドクターはいつになく冷ややかな言葉を浴びせかける。

「心中するつもりなら、僕は止めないよ」

 無論、止められるものならば、だけれど。

 言いながらよろよろと歩き出したドクターに、職員たちが慌てて駆け寄っていく。その手を借りながらも、なんとか平然を装う姿は滑稽だ。が、現状はまったく笑えるようなものではない。

 ひとでなしと吐き捨てる。しかしドクターはなんとでも言いたまえとばかり、ひらひらと手で払う。

 それからいまなお鋭い赤の雷鳴を轟かせる神崎のほうへ視線を投げる。

「このまま世界を喰らいつくすのも君次第だ。どうする? 神崎中尉」

 挑発紛いの言葉は、しかしすでに神崎の耳には届いていない。

 獣のような雄叫びが響く。ひとの喉から発せられるものとは到底思えないそれに、その場にいただれもが怖じ気づく。

 それを見て取ったように、赤の閃光が勢いを増していく。

「見たまえ。これが、僕の求めた神の姿だ」

 再び目の前に落雷したかのような轟音が鼓膜をたたく。眩しさと激しさで目を開けているのもやっとだ。いったい何が起きているというのか見当もつかない。不穏のかたまりを胸に抱きながら、そうして目の前に広がる光景に、天谷はひとり愕然とする。

 そこには、姿がいた。

 ばりばりと赤い火花を全身に散らして、呆けたように立ち尽くす。

 逆光のおかげで表情までは見えなかった。俯いて、じっとなにかを待っているようなその姿に、しかし芽生えた違和感だけはどうして拭えずに。

 透、とおそるおそる呼びかける。そうでもしなければ、いままで背中を預けていた相棒の姿を忘れてしまいそうな気がしてならなかった。

 しかしそれは、やはり自己満足でしかない。

 応答はない。それどころかまるで耳に届いていないかもように、彼は沈黙を保っている。

 あまりにぴくりともしないものだから、リアリティの高い彫刻かと疑うほどだ。おいうちをかけることに、むき出しの銀色の美しい腕だけがやけに神々しい。

 一瞬でもそれに目を奪われてしまったのが、命取りだった。

 血走った眼がゆっくりとこちらを捉える。

 それはもはやひとのものとは呼べなかった。眼孔まで血のように赤く染めたおぞましさに身の毛立つ。同時、そう反応してしまう自身がなにより情けなかった。

 一歩。踏み出して、しかしそこで足は止まってしまう。

 立ちすくんでしまう自分を苦々しく思うものの、本能にはどうして逆らえるはずもない。

 ――その姿は、荒ぶる神と呼んでもなんら差し支えなかった。

 ちがう、と首を横に振る。そんな弱々しい否定しかできない自分を、ひどく恨めしく思いながら。

 血のような真紅の瞳と、視線が交わる。けして触れてはならないそれと、強制的に向き合わされてしまう。

 それだけで襲い来る得体の知れない恐怖に、やはりこの男は自分の知る神崎透ではないと確信する。

 友人と親しみ、戦場においては命さえ預けた仲だ。ほかの同期たちとは比べものにならないほど、その絆は深い。

 そんな間柄であるからこそ、一目でわかる。

 これは、この男は、神崎透ではない。

 たしかにその姿をしているが、同一人物であるはずがない。

 言い聞かせるように、何度も何度も繰り返す。そうでもしないと頭がおかしくなりそうだった。

 こみ上げる吐き気をなんとかやり過ごす。子どもだましのような誤魔化し方しかできない自分を恥じながら、じわじわと後ずさりする。

 目をそらせば一息に食い殺されてしまいそうだった。できれば視線を合わせることもしたくなかったが、ぶつかってしまったものは仕方がない。刺激しないように、とは思うが、この対応がはたして吉と出るか凶と出るかは未知数だ。

 激しい雷をまとう『左腕』に呼応するかのように、禍々しい赤の瞳が爛々と光る。

 理性が吹き飛んでいるのはどう見ても明らかだ。もうこちらの声など届かない。ではどうすればいいと、自分自身に問いかける。

 残念ながらこの手に武器はない。歩行補助の杖さえ奪われたいま、天谷にできることなどなにひとつなかった。

 まして無二の友を手にかけるだけの勇気なんて、持ち合わせてはいない。

 その躊躇いが、第一誤りだったのだ。

 遠吠えのような唸り声を上げた神崎が、跳ぶ。本来の神崎ならばしないような、歪な笑みを浮かべて。

 残像すらまったく目で追えないまま、なす術もなく踏み倒される。

 一瞬呼吸が詰まった。まともな受け身すらできなかったことを恥じるより前に、狂気に踊らされた神崎の姿をしたなにかに、ただ戦慄する。

 透、と訴えかけるも、やはり彼の耳には届いていない。わかっていても、しかしそう呼びかけるほかできなかった。

 だが理性神崎というたがの外れた獣が、そんなことで止まるはずもない。

 胸元にのしかかる体重に呻く。肋骨がみしみしと悲鳴を上げる。赤い雷光を轟かせながら、神崎の形をした獣が、うっそうと嗤う。

 抵抗らしい抵抗をされないのをいいことに、無造作に伸ばされた左腕が、やおらに天谷の右脚を掴みあげる。

 途端、冷たい恐怖が瞬く間に這い寄ってきた。

 やめてほしいと懇願する暇もなかった。そのための言葉すら、失っていた。

 握られた右脚に、ひとの身ではあり得ないほどの力が籠められる。

 走る激痛に喘ぐ。重機にプレスされてしまったかのような避けようのない痛みに、頭のなかが真っ白になる。なんとか蹴り払おうとしたところで、無駄とあざ笑われるような光景にまた絶望の色を濃くする。

 まだ完治していない箇所だ。完全にそうとわかってやっているとしか思えない。

 これほど残忍なものによくも神の名をつけられたものだ。呆れるよりも怒りが勝る。

 そもそも神崎の意思がわずかでも残っているのなら、こんな悪趣味なことは死んでもやるわけがない。

 そんな考えが脳裏を揺らぎ、そうして絶句する。

 そう、で、あれば。

 痛みに焼かれる頭で、はっきりとそれを思う。

 これは、こんなものは。やはりこの世にあってはならない。 

 しかしその思考すら、怒濤の波として襲い来る苦痛に取って代わる。

 どうにか逃げ出そうと抗うものの、右脚を掴まれていてはどうしようもない。その様を面白がってか、より重い負荷とともに地に縫いとめられる。手足をばたつかせたところでびくともしない。もとより近接戦闘にかけて神崎の背中ははるかに遠かった。こんなことになってまで、それが文字通り重圧としてのしかかってくるとは思いもしない。

 そうしているうち、ついにばきり、と、なにかが砕ける醜い音を、聞いた。

「~~~~~~~~ッ!!??」

 言葉にならない絶叫を上げる。

 灼熱の痛みが右脚から全身を駆け巡る。呼吸すらままならない。そのまま気絶してしまいそうだったが、しかし意地だけでなんとか耐える。

 それでも、自分の脚がどうなっているのか直視することはできなかった。

 見た瞬間卒倒しない自信がない。体をくの字に折り、息も絶え絶えになんとか苦痛を堪える。正直呼吸を整えるだけで精一杯だ。なにひとつ満足に確認することもできず、ただ呻く。

「とお、る…………っ!!」

 伸ばした手は、かける言葉は、しかし届かない。

 血が滲むほどに唇を噛む。右脚の感覚はとっくに麻痺していた。もうなにが正常であるのかすら判別がつかない。

 やめてくれとうわごとのように口にする。その姿で、神崎の顔をして、こんな非道なことをしでかすなんて。

 それがこれほどまでに、怖いとは。

「化け物……っ!!」

 だれかが漏らしたそれに、まったくだと同意する。

 そして同時、そんな自分をひどく嫌悪した。

 空の右手を握る。縋るものなどどこにもないくせに、どうしてまだ、足掻く。

 のたうち回るほど無様なまねを晒してなお、そうするのは。

 こんなことをさせてはならない、と、そう思うにほかならないからだ。

 しかしその意に反していうことをきかない体に、ふざけるなと悪態つく。

 無力な自分がこれほど恨めしく思われたのは初めてだった。行き場のないぐしゃぐしゃな感情を抱えたまま、事の顛末をまざまざと見せつけられる。それがどれほど苦しく辛いか、ここにいるだれもわからないだろう。

「これはまた、予想外のことをやってくれるじゃないか!」

 この地獄のような様を見てなおそう叫ぶドクターを思いきり睨みつける。

 この男さえいなければ、こんなことにはならなかった。

 そう叩きつけてやりたかったが、骨を粉砕された右脚の激痛でそれどころではない。ただ呻くことしかできない自身を、呪う。

 くそ、と力なく呟く。ぶれ始めた視界をなんとか保とうとするものの、気力はとうに底を尽きかけている。こんな時に気を失うだなんてまったく役立たずもいいところだ。が、それに抗えるわけもない。

 ぷっつりと意識が途切れる。神崎の姿をしたそれは、そんな天谷から声高に笑うドクターへと関心を移したらしい。やけにゆったりとした足取りで、そちらへ向かう。一歩踏み出すたび、びしりと空気がひび割れようがお構いなしに、ひとの形をとった恐怖が、歩き出す。

 それに導かれるように、おもむろにドクターも歩を進めていった。当然職員たちから悲鳴のような声が上がったが、そんなものでドクターを制止できるはずもない。それ以上の嘆願は無駄だと悟ってか、やがてその声もちいさくなり、息を潜めて悪夢の観覧席に座りこむ。

 反面、ドクターの心は歓喜に打ち震えていた。

 まさかこうして、自らも舞台に立たされるとは思いもしなかった。

 ぞくぞくと背筋が震える。喜びのあまり涙にくれてもいいくらいだ。このすばらしい光景を前におとなしくしていろというほうが無理な話だ。やっとここまでこられたというのに、むざむざ手放すようなまねをできるはずもない。

 あと数メートルというところでやおらに歩みを止めた神崎にならい、同じく立ち止まる。そしてその歪な赤を、真正面から受け止めた。

 ずっと求めていたものだ。それがいま、目の前にある。

 じっくりとそれを眺めているうち、ふと気がついたように、なるほど、とやけに軽い相槌をこぼす。

 やや思案して、それkらドクターは、大きく両手を広げた。

 まるで、神にその身を捧げようとばかりに。

「その『腕』にかかるなら、本望だ」

 それは唯一垣間見えた、彼の本心であったのかもしれない。

 静かに対峙する。その時間は永久に続くと思われたほどだ。

 だれもが介入できる余地もなく、ただ傍観者であることを余儀なくされる。

 張り詰めた糸のような静寂は、しかし唐突に切り捨てられる。

 ゆらりと動いた神崎が、十数歩の距離を一息に詰める。憲兵でも避けるのは困難だっただろう。目にもとまらぬ速さに、しかしドクターの瞳に滲むのは歓びのそれだった。

 こちらに向かって伸ばされた銀の腕が、ドクターの右目にかかる。奪われた半分の視界の黒に、たしかに死を、意識した。

 それでよかったのだ。間違いなどなにひとつない。

 ただひとり、自分を認めてくれた妹を想って作ったあの腕で死ぬのなら、なにも後悔はない。

 ――否、もしかするとそのために、あの腕を生み出したのかもしれない。

 ぐちゅりとなにかが潰れ、抉り出される生々しい感覚が、脳髄を刺激する。なまあたたかいものが溢れ出る。視界を赤が埋める。染め上げる。

 その光景は、どうして、美しかったのだ。

「ドクター!」

 だれかの悲鳴のほうがきんきんと耳に痛い。これだから生身の人間は苦手だと、ついどうでもいい考えが頭をよぎる。

 勢いよく出血する右目を手で押さえる。どろりとした赤い血に、まだ自分が生きていることを実感する。倒れこんだ自身を引きずりながら慌てふためいて後退する職員たちをまるで他人事のように眺めながら、その事実をかすかに残念にさえ思う。

 ――本来は、この頭ごと吹き飛ばそうと思ったにちがいない。

 末恐ろしいものだとぼやく。かろうじて無事だった職員たちが顔色を変えて応急処置を、と繰り返す声を聞きながら、ひとりぼやける視界を楽しむ。

 しかしこれほど愉快なことはいまだかつて味わったこともなかった。

 素直に口元が緩む。痛みよりなにより、ただあの腕の性能を身をもって示せたことが、どんな賞賛の言葉より心地よい。ともすればこの苦痛に勝るほどだ。

 同時、惜しいな、とも思う。

 あれはたしかにドクターの命を奪おうとしたのだ。だがその寸前、神崎がなんとか自我を取り戻したことでが生じてしまった。その証拠に、神崎はその場から動けずにいる。鮮血を滴らせたまま、電池が切れたようにぴくりともしない。おそらく無理にリミッターを外したことでなんらかの異常エラーが発生したのだろう。そのおかげで神崎が主導権を取り返し、停止した。

 詳細はわからないが、おそらくそんなところだろう。しかし想像を上回る速さで馴染んでいるのは間違いない。やはりあの腕を神崎に与えて正解だったのだ。そればかりがいまはこうも誇らしい。

 急いでデータをとりたいところだが、残念なことにうまく体を動かせない。眼球を抉り出されたショックもあるのだろう。まったく生身の肉体も考えものだ。評議会が求めるの必要性も、こうなるとわからないわけではない。

 だがすくなからず成果は得られた。

 そんな満足感をひとりかみしめながら、負傷した職員たちに抱えられて撤退を余儀なくされる。まだ試したいことは山のようにあったのだが、こうなっては仕方ない。

「またいずれ逢おう、神崎君」

 薄れる意識のなか、そうして呟く。ひとり別れを惜しむ。

 愛すべき、僕の、神よ。




  *




 瓦礫、を、持ち上げる。

 ずしりと地面を揺らしたそれを、しかしなんでもないかのように眺めて。

 そっと息をつく。なにもかも夢であればよかったのに、この冷たい『左腕』がそれを認めてくれない。いまでこそ平然と沈黙し、端正な横顔をのぞかせているものの、その裏に潜む残忍性を忘れられるわけがない。

 脳裏には、この『左腕』がしでかした出来事がありありと刻まれている。

 当然だ。この体を動かしているのは神崎の意思にほかならない。この『左腕』が主であるわけがない。

 そんな否定と肯定を何度も繰り返す。しかしそんなものも、いまとなってはまったく無意味なものだった。どちらが正しいにしろ、起きてしまった過去を変えることはどうしてできるはずもない。

 はっきりしないそれにむしゃくしゃしたものを抱えながら、ぐしゃりと前髪をかきあげる。

 心底煙草が欲しかった。こんなところでも、一服できさえすればすこしは気が晴れる。

 しかし現実、そんなものがあるわけがない。

 苦笑を浮かべながら、半壊した壁にもたれかかる。

 眼前に広がる光景は、一戦交えたばかりの戦場とよく似ていた。

 堅牢な壁はあらゆる箇所が破壊され骨組みをさらし、天井は抜け落ちて粉々に割れたおかげでいよいよ足場が悪い。あれだけしつこく連れ回された実験室などは見る影もなく、本当にそんなものがあったのかどうかすらさだかではない。

 すっかり瓦礫の荒野と化したそこでひとり、空虚な時間を持て余したように視線をめぐらせる。

 足下に転がる天谷は、いまだ意識を手放したままだった。

 あんなことがあったわりに規則正しい呼吸音を繰り返している。さすがは数多の戦場をともに駆け抜けてきた戦友だ。ここまで神崎の無茶に堂々応えられるような人間もそう多くない。

 それがわかる、だけに、その右脚を奪ってしまったことは、どうして赦せなかった。

 視線を落とす。苦々しいものが口内にはびこるのをなんとか堪えつつ、その傍らに、先程瓦礫の山から拾ってきた兄弟たちを添える。

 こんな騒動に巻きこまれたというのに、奇跡的に大きな被害はなかったらしい。実験室から離れていたのが功を奏したのだろう。おかげで探し出すのには苦労したが、その程度で済むなら安いものだ。こんなことで罪滅ぼしにもならないだろうが、かすかな希望を託すくらいは許されてもいいはずだ。

 とはいえ兄のほうは、すぐにでも適切な処置を受けないといけないだろう。

 こちらもすっかり瞳は閉じられているが、時折苦しそうに咳きこむことがある。喀血するようなことはなさそうだが、それでも安心というわけにはいかない。

 なんせあの男の実験になかば強制的に付き合わされたのだ。軍もそれくらいの尻拭いは受け持つべきだ。どうせこの騒ぎを聞きつけている頃だろう。救助がいつ来るかは知ったことではないが、そう時間がかかることもあるまい。

 それに十中八九、評議会はこの一件をもみ消すにちがいない。

 それくらい造作もないことだ。情報操作なんてお手の物だから、いまさら市民に不振に思われることもない。郊外の軍関連施設がまるまるひとつ消し飛んだとて、三日も経てば綺麗さっぱり忘れ去られてしまうくらいにはおめでたい脳を持ち合わせている。そんなものが彼らの大切な「平和な世界」だというのだから、心底頭がいかれている。

 まったくやりきれない。ため息を、しかしそのまま噛み砕く。

 それから、なまくらのぶら下がる左腕に視線を落とした。

 あれだけ暴れ放題だったくせに、まるでなにも起きていないといわんばかりのすまし顔だ。気取ったところでこの悲惨な現状を否定することなどできるはずもないのに、平然としていられるその神経はさすがあのドクターが作っただけのことはある。まったく褒められたものではないそれを胸の奥に仕舞いこんで、のろのろと気怠い腰を上げる。

 これだから神なんてものをありがたがる連中はよくわからない。

 自嘲気味に笑い、それから、横たわる天谷に再び視線を移す。

 昏々と眠り続ける天谷を無理に起こすつもりはなかった。それどころか、面と向かって会うことはこの先一生ありはしないとさえ決めていた。

 それでもなにか言うべきだと思ったのだ。どうせこれが最後となるのなら、これまで散々面倒や迷惑をかけてきたことを誠心誠意謝罪すべきなのだろう。もしくは感謝の気持ちでも述べればいいのかもしれないが、ほどよいものが思い浮かばず、ひとりちいさく苦笑する。

 そんな人間なのだ。そしてそんなことは、天谷がいちばんよく知っている。

「――……   、 」

 囁くようなそれが、天谷の耳朶を震わせることはない。

 それでも構わなかった。……心苦しくはあるものの、いまの神崎にはそれが精一杯でもあった。

 亡霊のようにゆっくりとした足取りで、神崎はどこかへ歩き去る。

 その間彼が振り返ることは、一度としてなかった。

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