5-2

 突如跳ねた光に、驚く暇もなかった。

 歯車が噛み合う。ぎりぎりと瞬く間に『左腕』が駆動する。

 ぎこちなく、意思に関係なく、肘から指の一本に至るまでのすべての関節が跳ね上がる。

 全身の血が沸騰するような熱を帯びる。脳を、脊髄を、焼いていく。

 自分の身に何が起きているのか、瞬時に理解することができなかった。

 なすすべもないまま、ぐん、とつんのめるように踏み出す。見えないなにかに腕を引かれるように。

 不思議と脚はもつれなかった。すこしくらい踏みとどまってくれていいものを、まるで自分の意思で動かしているような奇妙な自然さが、ぞっと背筋を凍らせる。

 ――『左腕』による支配が全身にまで及んでいることに、ひとり愕然とする。

 あり得ない。しかし、そうとしか思えない。

 動揺あらわな神崎を嘲笑うかのごとく、異常なほど体は軽かった。つい先程まで激痛に身悶えていたとはまったく思えない。いまならばなんだってできそうな気さえする。トランス状態にちかいのだろうが、自由に動かせる四肢をこれほど憎むこともなかった。

 それと同時、これは危険だと、本能が警鐘を鳴らしていた。

 どくりと高鳴る心臓が、脳が、まやかしだと告げている。拒絶反応を示している。

 こんなことはあり得ないと繰り返す。当然だ。こんな無茶をすれば、体のほうが追いつかない。

 しかしそれでも、この『左腕』は止まらない。

 空間を切り裂くような跳躍。実験室に突き出された彼らは本当になにも知らされていないらしい。そんな表情が眼前にありありと並ぶ。突きつけられた恐怖の色は、コマ送り程度の映像でもよくわかる。

 この異常性を、そんなところからも叩きつけられる。

 彼らの引き攣る顔が、網膜に刻まれる。

「やめろォッ!!」

 どうにか主導権を奪い返そうと抗うも、体は勝手に動いてしまう。まるでそうプログラムされているかのように。

 意に反して『左腕』を振りかざす。手近にいた初老の男だ。目の前で起きている出来事を受け入れられず、呆然と立ち尽くしていた男。

 はじめての狩りの獲物としては、もっとも手頃だと判断されたのだろう。そのやわらかな皮膚に鋼鉄の爪が無情に突き立てられようとする。

 寸前、神崎の右腕が飛び出してこなければ彼の命はなかっただろう。焼けるように熱い『左腕』を、反対の腕で渾身止める。じゅう、と皮膚が焼けるいやな臭いと灼熱の痛みに、顔をしかめる。

 それでも踏みとどまれたのは奇跡に近かった。受け入れがたい現実にクソったれと歯噛みする。一瞬でも気を緩めればそのまま振り下ろされてしまうだろう。その証拠とばかり、鋼の腕はみしみしと軋み、青白い火花を散らしている。

 逃げろ、と視線でなんとか促すも、腰を抜かしてしまったのだろう男はその場にへなへなと座りこんでしまう。

 無理もない。が、この拮抗もいつまで保つかわからない。

 そんな光景を見せつけられてようやく自分たちの置かれた状況を理解した何人かは、ほうぼうのていで逃げようと足を動かしだした。しかし唯一の出入り口はとっくに閉ざされているうえ、丸腰の彼らに生き延びる手段は万に一つもない。無手で挑むには、明らかに不利だとだれもがわかる。

 絶望というのは、まさしくこのことをいうのだろう。

 自分にとっても。そして、彼らにとっても。

 ――どうすればいい。そう、自身に訴えかける。

 ドクターのさも楽しげな笑い声が実験室中に響いていっそう煩わしい。こんな状況下を喜色満面で見ていられるのは頭のいかれたあの男だけだ。まともな神経が焼き切れていなければ、こんな非人道的なまねができるはずもない。

 暴れ狂おうとする『左腕』を右腕一本で止めるのもそろそろ限界だ。この場にいる全員の力で神崎ごと抑えこめばあるいは、とも思ったが、所詮無理な話だ。初手で見知らぬ男を手がけようとしてしまった時点で、彼らの協力を得る道は完全に絶たれてしまっている。

 それでもなお、どうすれば、とひとり頭をフル回転させるしかなかった。

 このままでは。

 この『左腕』に、すべて

 悟ったそれに戦慄する。そんなことがあってたまるかと反抗するも、しかし完全否定することができない現実を、まざまざと突きつけられてしまう。

 一方的に獲物と定められた彼らもおなじだ。表情から十分それが見て取れる。

 助けてと命乞いを繰り返す。涙を流す。どうか命だけは見逃してくれと、床に擦りつけんばかりに頭を下げて。

 諦めずに壁を叩いて助けを求める男もいた。無心で神への祈りの言葉を唱える母に抱きついて泣きじゃくる子どもも、ぼんやりとへたりこんでしまった老人も。

 それらの命が無残に切り捨てられる光景を、ガラス向こうにいるドクターがしたり顔で望んでいる。

 認めたくもない現実だった。しかしどう足掻いても覆すことができない。これほどまでに無力さを痛感させられるようなこともなかった。そう思うほど、どうしようもできない自身を呪う。

 ――おまえさえ、いなければ。

 ここまで来てなおその言葉が反芻される。この身を胸の内から焼いていく。

 それが、引き金にでもなったのか。


 視界が、真っ赤に染まる。


 それから先のことを、神崎はよくおぼえていない。

 ひゅう、と喉を鳴らす。それから息を吹き返したかのように咳きこんで、耐えきれずがくりと膝をつく。

 何が起こったのかわからないままあたりを見回して――、そのまま絶句した。

 ペンキ缶をぶちまけたような鮮烈な赤があたり一面を染め上げる。職業柄それには馴染みがあった。鉄の匂いが鼻につく。まだなまあたたかく、ぬるりとした赤。それが床から壁にかけて全面に飛び散った凄惨な光景は、それでもなおあまりに目に余る。そこについ先ほどまで生きていた人間の一部が無造作に転がっていればなおさらだ。反射的にこみ上げてきたものをなんとか喉奥に押しこめる。

 本当に一兵卒にでも戻ってしまったのかもしれない。座りこんだらそのまま二度と動けなくなりそうだ。情けない自身をなんとか叱咤しようと思った、その直後。

 自分の左腕からも滴り落ちるその赤に、ひとり息を飲む。

 ドクターの高笑いがようやく耳に入ってくる。しかしそんなものはどうでもいいとばかり、もつれる四肢をなんとか動かす。『左腕』はいやに痺れて重い。先程までの身軽さはどこにいってしまったのか、以前の冷たさとほどちかい温度にまで下がったそれは、沈黙を貫いたままだ。

 全身まともに力が入らなかったが、それでもかまわなかった。

 なりふり構っていられるほどの猶予なんてものは、きっと許されていなかった。

 血の海に横たわる子どもを抱き起こす。四肢が揃っているのはこの子だけだ。母親に守られていたおかげもあるのだろう。頭を吹き飛ばされてなお我が子を守らんと盾になったその痛ましい亡骸に険しいものを浮かべつつ、目の前の少女の様子をうかがう。

 額から出血しているものの、少女にはまだ息があった。それだけでも十分救いがある。ほかに目立った損傷はないあたり、親の偉大さには心底感服せざるをえない。大丈夫だとまるで頼りにならない言葉を振り絞りながら、破った衣服で止血を施す。

 少女が、かすかに目蓋を震わせる。

 安堵したのは一瞬だった。神崎の顔を見た途端、少女はまるで悪魔でも見たかのようにかっと目を見開き、神崎の手から逃げようと一目散に暴れ出す。心身ともに弱り切っているであろうに金切り声をあげ、残る力を振り絞って抵抗の意を示す。

 そのあまりの拒絶の激しさに、さすがの神崎も硬直してしまった。

 スラングのようなものが混じっていたせいもあったが、少女の予想外の行動もあってかろくに耳に届かない。衝動的に暴れたのち、ぷつりと糸が切れたように硬直したかと思うと、そのまま唐突に意識を手放してしまう。

「――――…………ぉ、かぁ、さん」

 救いを求めるかすかな声を最後に、ちいさな体は完全に動かなくなる。

 全身の力が抜け、ずしりと重たくなる。だらりと垂れた腕が、徐々に冷たくなっていく。

 母から受けた呪いは、ここでようやく完遂されたのだ。

 おまえさえ、いなければ。

 きっとだれもが幸せなままだった。親子は引き裂かれることもなく、ようやく手にした安住の地を奪われることもなく。傷つくことも、まして命を落とすようなこともない。当たり前の平和が、だれしもの心に訪れていたはずなのに。

 そんなつたない望みすら、この手は壊しつくしてしまう。

 殴りつけられたように頭が痛む。無論彼らの受けた苦しみはこの比ではない。悲しいほどにそれがわかる。わかってしまう。

 そうであるから、こそ。

 血塗れの獣は、そうしてひとり咆哮する。

「素晴らしい! 期待以上だ!!」

 賞賛の声を上げているのはドクターだけだった。見えなくとも空気でわかる。冷え冷えとした、軽蔑の眼差しが痛いほどこちらに向けられている。そう差し向けたのは彼らのほうであるにも関わらず、だ。スピーカーからはドクターの興奮混じりの声しか聞こえてこないが、あの向こう側もなかなか悲惨な状況であろうことは想像に難くなかった。

 べっとりと掌を染め上げた鮮血を、苦々しい顔で振り払う。

「……満足かよ。これで」

「勿論だよ! 初めてでここまでその『腕』の力を引き出せたのなら十分すぎるくらいだ。本隊復帰も確約されたも同然だよ」

 おめでとうとひとりはしゃぐドクターはまるでこどものようだった。無論かわいらしさのかけらもない。無邪気なばかりで倫理観すら持ち合わせないような輩を、よくもまあここまで放置できたものだ。いっそ感心したくなる。

 本当に、こんな男の妄想に付き合わされていたかと思うとうんざりして仕方ない。

「言いたいことはそれだけか」

 思ったよりも静かな口調に、さすがのドクターもいささかなにかを感じ取ったらしい。おや、とかすかに目を見張り、血溜まりのなかに立ち尽くす神崎を見つめる。

 向けられた赤みがかった瞳が、まっすぐドクターを射貫く。

 それは間違いなく、嫌悪と怒りの色を示していた。

「だったら、俺がここで

 銀色の掌が、ゆっくりとガラス壁に向けられる。

 距離は十二分にあった。しかしそんなものは、いまの神崎の前には無いに等しい。

 途端、分厚いガラスにびしりと無数のヒビが刻まれる。無論だれも触れてはいない。それがまるで飴細工かなにかのように、粉々に粉砕されようとしている。

 あり得ない光景に、その場にいた全員の目がそそがれていた。

 不測の事態に備えて特注した強化ガラスだ。たとえ実験室で爆発等があったとしても問題がないような設計になっている。そのはずなのに、威圧だけでこうも容易く破壊される日が来ようとは想像すらしていなかっただろう。

 味わったことのない恐怖に、職員のだれもが目を見張る。いまにも逃げ出したい衝動に駆られるものの、体はどうしていうことを聞いてくれない。

 立ち尽くす合間にも警戒アラートは鳴り響く。そのけたたましさでなんとか我を取り戻した何人かは、ディスプレイに表示された数値に再び驚嘆の色をあらわにする。

「基準値を大幅に超えています!」

「これ以上は、被験体の生命活動にも危険がありますっ!」

 所長、と懇願する瞳を、しかしドクターは無慈悲なまでに切り捨てる。

「危険? なんのことだい?」

 そんなものはまるで認めないという姿勢に、さすがの職員たちも狼狽えた。尻込みする者も少なからずいた。が、その場の空気に飲まれてしまったのか、だれひとり二の句を告げることなく黙りこむ。

 それをよしとしてか、ドクターはなお歌うような口ぶりで続ける。

「僕たちは、人間が限界を超える奇跡の瞬間に立ち会おうとしているんだよ?」

 一分いちぶの疑念すら持たないとばかり、ドクターはその口元に緩い弧を描く。

 まったく狂気としか形容できないそれには、天谷でさえぞくりと背筋を震わせたほどだ。天谷を取り押さえていた憲兵の腕も、あまりの出来事に頭がついていかないのかいささか緩んでいる。しかしこれを振り払ったところで、自分にできることなどなにもない。

 透、とちいさく呟く。名前を呼ぶ。

 声は、しかし実験場に在る神崎の耳には届かない。

「証明したまえ、神崎君。僕の『腕』が、どれほどの可能性を秘めているものなのか」

「――――殺す」

 低く呻く神崎の瞳が、ぎらりと朱に輝く。

 あれは、あの男だけは、けして赦してはならない。

 だれが忘れようと、この記録そのものが消し去られようと。

 こんな馬鹿げたシナリオを描いた張本人だけは、断じて認めるわけにはいかない。

 その意思に呼応するかのように、再び『左腕』にばちばちと青い火花が散る。

 瞬間、目の前の大型ガラスが瞬く間に木っ端微塵と化した。降り注ぐガラスの雨から身を守るべく、何人もの職員たちが腕で顔を覆い、衝撃のあまり腰をつく。

 その一瞬だけで、いまの神崎には十分すぎた。

 跳躍する。かるく床を蹴ったつもりだったが、これほどまで身が軽いと重力にすら打ち勝ってしまえる。一度でも恐怖を覚えてしまったことが嘘のようだ。先程の拒絶とは一転、いっそ心地よいとばかりに笑みを浮かべる。

 この力は、

 浮かんでしまったそれに愕然としたのは一瞬だった。そんなものよりなお、この光景をせせら笑うこの男だけは赦してはならないという信念だけが、神崎を突き動かしていた。

 瞬きの間に詰めた勢いそのままに、ドクターを床にねじ伏せる。そのまま襟元を締め上げ、近くに落ちていたガラス片を喉元に突きつける。このときばかりは義手とすげかえたことを喜んだ。いくら力任せに握りこもうが傷ひとつつかない銀の肌に、ひっそりと笑みを滲ませる。

 あまりの速さにさすがの憲兵たちも対応すらできなかったのだろう。なんとか体制を立て直そうとするのを、しかし一睨みで黙らせる。

 それでもうすく滲んだ血の色程度で、その男が動揺することなど一切なかった。

「見事だよ、神崎君。まさに神の名にふさわしいじゃないか」

「…………神、だと?」

 ぐっと力を籠めるも、むしろドクターは満足そうな笑みを浮かべるばかりだ。有様を、薄気味悪いと睥睨する。いったいだれが好き好んでこんなことを喜ぶというのか。そういう趣味ならば自分ひとりで楽しんでいればいいものを、こうして大勢の人間を巻きこむなんてまったく理解しがたい。

 吐き捨てる本音に、しかしドクターは持論を盾にふんぞり返る。

「たしかにそう思っても仕方ないかもしれない。でも考えてほしい。これがあればどんなに無謀な戦局だって、一瞬にしてひっくり返してしまうことが可能になるんだよ?」

 どんな理屈だ。まったく反吐が出る。

 現実こんな惨状を見せられて、どんな人間が喜んでこんなものを受け入れようというのだろう。そう思うものの、同時に評議会に列席する方々が書類上の華々しい成果だけをこれでもかとばかり持ち上げる光景がありありと目に浮かんで閉口する。これだから無能だなんだとたたかれるのだが、耳障りのいいことしか聞こえない彼らにはどうして響かない。

 だからこそ、これほどまでに神崎は怒り狂っているのだが。

「これは、虐殺だ」

「違うね。これこそが正義だ」

 まったく噛み合わない。いまにはじまったことではないが、こうも平行線ではまるで話にならない。

 ……否、この男に関して理解できることなど微塵もあるはずがない。

 交わることは一生ない。そもそも片方の主張は、

 睨み合っているが、見ているものはまるで違う。言葉を交わすだけ無意味だ。はじめからそうだった。

 そもそもこの男は、目的のためならば他人がどうなろうとかまわない。

 その証拠に、こんな状況にあるというのにかかわらず、ドクターはなお冷たい微笑を浮かべている。

 この期に及んでまだほざく余裕があるとは、さすが評議会お抱えの人間はちがうらしい。

 まったく意味がわからないと、妄言を鼻先で笑い飛ばす。

「自己満足に勝手に他人を巻きこんでんじゃねえよ」

 これ以上付き合ってやることもないだろう。どうせこの男は犯罪者だ。であれば、突然いなくなったとしてもなにも問題がない。

「さっさとくたばれクソ野郎」

 吐き出したそれはまさしく本心だった。

 こんな男に猶予や権利なんてものを与えてやる必要はない。そんな温情は、この男に限って認めるべきではない。

 だからいっそ、死ぬべきなのだ。そのほうがよほど社会のためになる。

 そう思ってからは早かった。

 こんな男でもせいぜいこの『腕』の錆になれるなら、いっそ本望だろう。

 だからのだ。そう自分に言い聞かせるように、腕に力を込める。

 『左腕』の付け根からみしみしと嫌な音がした。異常な温度の上がり方に、生身の肉体のほうが耐えきれなくなってきたのかもしれない。

 しかしそれでも、手を緩めるつもりは一切なかった。一息に殺すことなんて十二分にできたが、怒りの感情にまかせてそうしてしまうのでは面白くない。できるだけゆっくり、じわじわと苦しみながら。生まれ落ちたことすら呪いながら。

 こんな邪悪な輩は、ひとりで死ねばいい。

「――やめてください、透」

 かけられたそれが、無二の友人であり背中を預ける相棒のものだということは、すぐにわかった。

 どうにか憲兵たちの包囲網を抜け出してきたのだろう。いつになく険しい瞳の天谷に、胡乱な視線を投げる。

 しかし発せられた言葉を承諾することはできず。

 は、と吐息のように短く漏れたそれに、しかし天谷は険を帯びた視線を返す。

 突き刺さった言葉は、その持ち主の瞳と同じ凍てつく色をしていた。

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