5-1

 その凄惨な光景に、比較的見慣れているはずの神崎ですら低く呻いた。

 薬剤を投与するためだけに自由を奪われた少年は、左右の腕に投薬用の太いチューブをいくつも射しこまれていた。それに飽き足らず、彼のまわりに散らばるおびただしい量の注射器にまたぞっとする。どうしてこんなことを、と責め立てたくなるのも道理だ。しかしだれひとりこの惨状に疑問を持たないという事実に、怒りを通りこして呆れ果ててしまう。

 少年の状態は、それほど酷かった。

 野戦病院よりはるかに整った設備を有しておきながら、しかしひとを救うための機能を果たそうともしない。それどころか未成年を拘束し、いたずらに過剰摂取オーバードーズさせたうえ血反吐を吐かせる始末だ。軍医の腕章を即刻返還願いたい。あれがふさわしい人間は、もっとほかに大勢いるはずだ。

 ぐしゃぐしゃな胸中をならせないまま、再び横たわる少年をかえりみる。

 少年は、自分ひとりでは身動きひとつとれないほど衰弱しきっていた。無理もない。成長途中の体にはあまりにも過酷な傷だ。軍人としての訓練を積んできた神崎ならまだしも、一般市民である彼には十字架よりなお重い。

 かろうじて自発呼吸はできていることがほとんど唯一の救いだった。このまま適切な処置を受けられればいいのだが、その先は祈るしかない。ドクターとちがってまだ職員たちはそこまで人間の心を捨て去ってはいないとは思うが、賭けに等しいのはそのとおりだ。

 彼ら兄弟には恨まれても仕方がない。そう、悔しげに歯噛みする。ただ偶然そこに居合わせただけだというのに、ここまで悲惨な目に遭わせてしまったのは、間違いなく自分のせいだ。

 聞きたくもない母の呪いが何度となく繰り返される。もうそれだけで十分おかしくなりそうだ。煙草で紛らわせるだけではまったく足りない。

 それでもやけに手際よく酸素マスクなんかをつけられているあたり、これもまたドクターのであるのだろう。嘆息混じりにそれを眺めながら、どうにか精神を落ち着かせる。

 いったいいつからこんな狂ったレールの上を歩かされていたのか。気づかなかった自分がいっそ間抜けで笑えてしまう。むだに舞台上を駆けずり回る様は、ドクターにはさぞかし滑稽に見えていたことだろう。口元を歪めたその表情を思い出しながら、たまったものではないと深く息を吐く。

 そして悲しいことに、まだここは彼の掌の上だ。

 おそらく幕引きまで付き合わされることになるのだろう。勝手に役者に仕立て上げられるなんて正直不愉快極まりない。

 ――そんなものは、

 ふと浮かんだそれに、は、と口元が緩む。取り囲む職員たちの目にそれがどう写っていたのかはさだかではない。そんなものはもはやどうでもよかった。理由もわからないまませいぜい怯えていればいいのだ。良心というものがまだかけらでも残っているのであれば、命乞いの準備でもしておけばいい。

 なんせここにいるのは、「死神」の異名を内外に轟かせる男なのだから。

「さて。準備はいいかな? 神崎君」

 そんな意気込みも、しかしこの男にだけは通用しない。

 まるでクリスマスプレゼントを前にしたこどものようだ。スピーカーからでもわかる浮き足だった声に、うんざりと肩を落とす。

 現実はそんなにかわいらしいものではないのが余計に腹立たしいが、いちいち言葉に出してやる気力もない。都合がいいのか悪いのか、ガラス向こうにいるであろう彼らの姿はこちらからは見えなくなっている。それもそうだ。もしあのにやけヅラが視界に入っていたら、昏倒した頭でも悪夢を見る予感しかしない。

 否、もうすでに、悪夢は始まっている。

「端から心配する気もねぇくせによく言うよな」

「気は遣うさ。こちらとしても、万全の状態で挑みたいからね」

 あくまでも気にかけているのは『腕』のことだけのらしい。その歪みない心意気だけは買うが、どうせあれだけひねくれているのだ。もはやどれがまともなのか自分でもわからないのだろう。同情なんてするだけ無駄だが、憐れむくらいならしてやらなくもない。

「弟のほうは無事なんだろうなぁ?」

 ようやく到着したストレッチャーで別室に運ばれていく少年の姿を目で追いながら問いかけると、ドクターは歌うような口ぶりで答えた。

「彼とも約束したからね。正直もったいないとは思うが、まあ仕方ない」

 本当にひとを不快にさせる言い方しかできないらしい。何度か思ってはいたが、これほどとなると頭が痛いとかいうレベルを超えている。わざとらしくおおきなため息をついてやったが、そんな嫌味が通じるような理解力は持ち合わせてはいないのだろう。頭がいいのか悪いのかまったくわからない。

 収容所に放り込まれたのも納得だ。たしかに、この男は救いようがないほど。天は二物を与えないなど言うが、本当にそのとおりだ。これですこしでも倫理観が残っていれば、まだましな結末を迎えていたかもしれない。なんて、所詮仮定でしかないものをかんたんに捨て置いて、きまり悪く閉口する。

 どちらにせよ、こうなったのは評議会の怠慢に一因がある。

 ここまできてもいくらでも文句が湧き出てくるのはたいしたものだ。あの老人クソじじいたちは本当にまともな判断もできないらしい。さっさとクーデターでも起こしてやるべきだった、と心底後悔したがもう遅い。

 そうしているうちにいそいそと準備が進められ、先ほどの少年と同じようにベルトで全身を固定される。たかが義手をつけるだけだというのに、ずいぶん仰々しい。どこか恍惚とした表情で前処置を行う職員には正直拒否反応が出てもおかしくなかったが、ここまできて怖じ気づいたと思われるのも癪だ。そんな苦い本音を、舌先で転がしてなんとか耐える。

 どうせその不満を表に出したところで、まともな反応は返ってこない。

 やがてくだんの腕がまるで宝物かなにかのように、しずしずと運ばれてくる。視界ばかりが自由なのも困りものだ。とはいえ、目隠しを懇願するほど落ちぶれてもいない。

 ぴたりと真横に置かれた義手に、胡乱な視線を投げる。

 トランクケースに入れられていたときより生々しさを感じるのは、ドクターの話を聞いてしまったせいだろうか。ずっしりと重みがある銀の腕がごろりと転がっている様は、見ていてあまり気持ちいいものではない。

 しかし盛大な舌打ちをこぼす神崎とは打って変わって上機嫌なドクターが、てきぱきと最終チェックを進めていく。なにがそんなに楽しみなのか毛ほども理解できないが、それがなのだと自分でもうんざりするほど繰り返す。

 まるで断頭台に立たされているような心地だった。腕ならばとっくに切り落とされているくせに、なんてまったく笑えない冗談を頭の隅に押しやる。

 そうしてすることもなく、英雄の名を冠したその精巧な腕をただ凝視する。

 冷たい横顔は、つんとすました淑女のそれよりとっつきづらい。そんな小綺麗なものでもないくせに、と、浮かんだ感想に渇いた笑みを浮かべる。準備をしていた職員たちは怪訝そうな目をのぞかせたが、かまわなかった。

 これで罪悪感のひとつでも芽生えさせたのであれば、この左腕を奪われた意味もあるというものだ。

「以前見てもらったときより改良させてもらったよ。君のデータに合わせて、多少の微調整を加えてある」

 ちっとも有難くもないご高説だ。やけに重い勲章を後生大事にぶら下げている連中クソじじいとどちらがまともかわかったものではない。

 その妙に高い鼻っ柱をへし折ってやりたかったが、現状ではどう頑張ったところで負け犬の遠吠えだ。どうせまともに取り合うこともないのであれば、口にせずともたいして変わらない。

「無論これは特別性だから、その分負荷も大きい。ただずば抜けて能力値も高いからね。君のような軍人にはうってつけというわけさ」

 相変わらずよく舌が回る奴だ。聞かされている側はまったく楽しくもないのだが、そんなことに気がつくような男でもないことはいやでも知っている。

 まぶしいばかりに輝く銀の義手を忌々しげに睨む。

 これを「美しい」なんて一度でも思ってしまった自分を殴ってやりたいところだ。きっとどうかしていたに違いない。利き腕を失ったことで自暴自棄にでもなっていたのだろう。自嘲のようなそれを、しかし容赦なく噛み砕く。

 いまなおつらつらと語るドクターの声など留め置く必要もない。こうなったのも全部この男のせいなのだ。憤ることこそあれど、受け入れることなどなにひとつない。

 そうであるからこそ。

 こんなものが、英雄ヘルメスを名乗っていいわけがない。

「前に、これは持ち主を選ぶって言ったな」

 やけに自信満々な語り口を、そうかんたんに忘れるはずもない。そもそもそれのせいでこんな茶番に付き合わされる羽目になったのだ。いっそすべてなかったことにしてやりたいが、そんなことでこの未来が変わるとも思えない。

 しかしドクターは神崎がそれを覚えていたことに感激でもしたのだろう。無論だとばかり頷いて、続くであろう言葉を待つ。それすら気に障るのだから、いっそそういう才能にあふれているのだと自身を納得させるしかない。

?」

 それは当然の疑問だった。これだけ自信満々に『腕』について語り尽くしておいて、いざそれが叶わなかったで追われるような人間でもあるまいに、その驕りはどこから来ているのだろう。ひとり憤死するならそれでかまわないが、こんな男が他人を巻きこまないでいられるわけがない。

 しかしかんたんなことだとばかり、ドクターは軽快な口調で返す。

「選ぶのは僕だよ。神崎君」

 さも当然と言ってのけるドクターを睥睨する。

 躊躇いなくそう言ってのける自信だけは賞賛してやらなくもないが、それだけだ。おもしろみもなければ、なんの価値もない。

 そうかよ、と乾いた返事をこぼす。そんな退屈なものが聞きたかったわけではないのだが、それが答えなのであればほかに返す言葉もない。

 ただひとつ、これだけは間違いなく言えるのは。

 ということだ。

 ようやく最後のバイタルチェックなどが済んだのだろう。麻酔の入った注射器が向けられたところで、神崎は静かに首を横に振った。

「麻酔はいらねえ」

「……正気かい?」

手前テメェに言われたかねえよ」

 吐き捨てるような物言いだったが、気に障るようなことはなかったらしい。

 すこしくらい引っかかってくれていいのだが、そんな人間味が残っていたらこんなまねをしようと画策することもなかっただろう。

「では、君の望みどおりに」

 その指示に注射器を片手にした職員は少々躊躇いを見せたが、やがて諦めたようにそれを器械台に戻した。聞き分けがよくて結構なことだ。命令に忠実な部下ならどれほどいても困らない。もっとも、上の言うことを鵜呑みにばかりする阿呆は論外だが。

「多少の痛みはあるかもしれないが、我慢してくれ。神経を繋げる必要があるからね」

 今更どの口が耐えろなどと言うのだろうか。飛び出しかけたそれを、しかし音に乗せることすら億劫だ。

 冷たい鉄の塊が、爛れの残る肌に触れる。

 この体に残る傷はそれこそ星の数ほどあるが、これほど醜いものはこの先も含めてほかにない。まさしく呪いといっても過言ではなかった。いままでどれほど受けた傷よりなお歪で深い。ともすれば、母のかけたそれすら凌ぐほどだ。

 しかし麻酔なしで処置を進めるということに、さすがの職員たちも抵抗を示したらしい。ぎこちなさの残るまま、銀の腕が強くあてがわれる。

 瞬間、稲妻のように全身を貫いた痛みに、目一杯奥歯を噛み締めた。

 ちかちかと視界が点滅する。それでも悲鳴だけは上げてやるものかと言葉にならない声で呻く。反射的に自由を奪われた手足をばたつかせたが、強く固定されているためにほとんど意味はない。許されているのは、せいぜい虚空を掴むことくらいだ。

 先ほどの少年の姿が脳裏にちらついた。しかしそれをはるかに上回る絶叫が、頭のなかで増幅し、延々と繰り返される。

 もうほとんど口にしているのと同じだったのかもしれない。額ににじむ脂汗がにじみ、前髪が張りつく。しかしそれを払う気力すら起きず、ただ耐える。

 苦痛は、永遠と続くように思われた。拷問を受けているほうがよほどましに違いない。痛みにはある程度耐性があるはずの神崎でさえそう思うのだから、恩恵のもとぬくぬくと暮らしている市民が味わいでもしたら一瞬にして発狂してしまうにちがいない。

 荒く短い呼吸をなんとか繰り返す。

 屈してしまえばそこで終わりだ。まだ手札はあるはずだと、懸命に自身を奮い立たせる。

 ガラス向こうのドクターを睨みつける。こんなていたらくでは威嚇にもならないが、しないよりいくらかましだ。

「気分はどうだい? 神崎君」

 死んでも聞きたくない声がきんきんと頭に響く。これで正気だというのだから、まったく愉快な頭脳を持っているようだ。この際ついでにかち割ってその中身を検分したい。

「最低だよ」

「それはなによりだ。では、

 なんのことだ、とかすれ気味の声をこぼす。

 目的は達したはずだ。たしかにこれで放免と解放されるとは思ってもいなかったが、ドクターがなにを考えているのかまったく見当がつかない。

 拘束が外されて自由になったものの、全身がぐったりと重い。患部がじんわりと熱を帯びているような気がして、まだ違和感しかない左側をかばうように手を添える。慣れない重みだ。しかし同時に、が浸食を開始する。

 それに気づいた途端、ぞわりとした悪寒が背筋を駆け抜けた。

 ――

 戦場で見る幻覚よりもよほどたちが悪い。まるで自分自身が上書きされていくかのように、ぴたりとはまった左腕からなにかが這い寄ってくる。

 汚染されていく。

 そんな感覚だ。得体のしれないなにかが、左腕からぞろりと牙を剥く。

 恐怖としか形容できないそれが、どこからともなく忍び寄る。

 自分の体なのに、どうなっているのかまったくわからない。

 困惑を隠せない神崎をそのままに、音もなく奥の扉が開かれた。思わずそちらに視線をやって、そうして再び愕然と目を見張る。

 そこから姿を現したのは、手脚に枷をつけられた、着の身着のままの人間たちだった。

 さらに驚いたことに、

手前テメェッ!?」

「見知った顔でもいたかな。感動の再会に水を差して申し訳ない」

 微塵もそう思っていないくせに、よくもまあそんな台詞が吐けるものだ。否、心にも思っていないからこそ、こんながらんどうなものを口にできるのだろう。

「僕がただスラム解放を指をくわえて眺めていただけだと思ったかい? そんなもったいないことを、見過ごすわけないだろう」

 まったく耳を疑う言葉しか出てこない。唖然とする、というよりは素直にその思考回路がわからなかった。

 つくづく頭のいい連中とはそりが合わないと薄々感じてはいたのだが、その感覚はおおよそ間違ってはいないようだ。そもそもこの男の場合、理解したくもない、というほうが正しいのかもしれないが。

 憲兵たちに追い立てられるようにしてやってきたスラムの元住人たちは、どうしてこんなところに連れてこられたのかいまだに把握しかねているようだった。不安そうな表情のまま、きょろきょろとあたりを見回している者。なにかを必死に訴え、解放してほしいと騒ぐ者。そしてすべて諦めてしまったかのように無表情の者まで様々だ。

 その戸惑いの視線が、義手をつけたばかりの神崎に向く。

 これ以上どんな愚行を重ねるつもりなのか、神崎自身知りたくもなかった。だが一度浮かんでしまったそれはどうして消えることなく、神崎のなかに燻り続ける。

 まるで、呪いのように。

 その思考を読み取ったのか、楽しげなドクターの声が快活と彼らに降りかかる。

は有効に活用すべきだよ」

「そんなクソみたいな言い訳がとおるとでも思ったか?」

「言い訳もなにも、それを言い出したのは君たちじゃないか」

 なにを言っているのかわからず言葉に詰まった神崎を嘲笑うかのように、ドクターはその言葉をゆっくりと、口にする。

「彼らは、市民人間ではない」

 突きつけられたそれに虚を衝かれたような表情をのぞかせる。その反応を見越していたのだろう、続く台詞は、いやに流暢に響き渡る。

「君たちだってそう判断していたじゃないか。許可証パスを持たない彼らは市民ではない。だから保護対象ではないと」

 そのとおり、だ。非常に腹立たしいことに、言い返すすべもない。

 血が滲むばかりに強く唇を噛む。まさかそれを、こんなところで突き返されるとは思いもしなかった。

 神崎自身がそれをどう思っていようと、軍人である限りどうしてもその原則に縛られる。

 まさかドクターまでもがそれを突いてくるとは思いもしなかった。が、この男は単純に他人を物としか判別できずにいるのだろう。だからこうも非道な振る舞いを平然とやってのける。

 やはりこの男こそ、悪魔にちがいない。そういわんばかり、声のするほうを睨みあげる。

「軍もどうせ処分に困っていたんだ。僕が何人か欲しいと言ったら、喜んで提供してくれたよ」

「……つくづくふざけた野郎だな」

「僕自身はいたって真面目なつもりなんだけどね。そう思われるのは、すこし遺憾だな」

 まったく心に響かない口調で言われても、かわいそうだとは微塵も思えない。

 言動の不一致がすぎるのだ。耄碌じじいの指揮のほうがまだまともかもしれない。は、と力なく笑う。できることならもっとせせらかしてやりたかったが、残念なことにそこまで余力がない。

「それでは、試運転だ」

 見えなくともわかる、男の浮かべた笑みに、クソったれとこぼす。

 それと同時。左腕に、ばちり、と青白い電気が走った。

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