4-3
やはりというか、有無を言わせず連れてこられた実験室で、げんなりと息を吐く。
相変わらず詳細についてはなにも聞かされていない。聞いたところで、まともなものが帰ってくる保証もなかった。期待くらいはさせてほしいものだが、堅苦しい憲兵たちが許容してくれるとも限らない。これだから頭のかたい連中は困るのだと、苦い本音をひとり燻らせる。
白衣の職員たちがせわしなく行き来するのをなんとなく眺める。なにか始まるのは明白なのだが、いかんせんこうも放置されると手持ち無沙汰もいいところだ。しびれを切らして怒鳴り散らせばあるいは、とも思ったが、そんなわかりやすい威嚇でどうにかなっていればこんな窮屈な場所に押しこめられてもいない。
どうしたものこあと持て余し気味にしていれば、やがてほかの憲兵が天谷を伴ってやってきた。またしても杖の奪還には失敗したようだが、気難しそうな顔の憲兵に連れてこられた天谷は、神崎の姿を認めると口元にうすい笑みをたたえた。
「まだ暴れてはなさそうですね、透」
「そうしてほしいならさっさと言えよな」
こんな状況でも戯れ言を叩きあう余裕だけはある。虚勢だと笑われても仕方がないが、そうでもしないとやっていけない。
どうせこの頭の狂った男をどうにかしなければ、ここから出ることはまず不可能だ。
「退屈させて申し訳ないね。こちらもすこしばかり準備が必要だったものだから」
もったいぶるのもいい加減にすべきだ。そう舌打ちをこぼすも、ドクターの耳には届いていなかったらしい。もともと都合のいいことしか聞こえない仕様だ。そうでなければ、あの話の通じなさが理解できない。
「その間、こちらもあなたの著書で楽しませてもらいましたよ」
言い返す天谷の言葉に思わず含み笑いをこぼす。
こんな娯楽のかけらもないようなところで読めるものがあるのかと不思議に思っていたが、あの男の書いたものならば納得だ。無論すすめられたとしても読むつもりはさらさらない。せいぜい昼寝の枕がいいところだ。
「戦火にのまれた妹さんを救うため、でしたか? ずいぶん耳障りのいい言葉がお得意のようで」
天谷にしてはずいぶん棘のある物言いだ。声色だけでなんとなしに首をすくめてしまうのは、長年付き合ってきた
神崎でさえ、天谷と真正面からぶつかるのは正直避けたいところだ。腕っ節の勝負ならまだしも、それ以外の方面からねちねち攻められたらたまったものではない。
かすかにドクターの笑顔がひきつる。それを見逃さず、天谷はさらに畳みかけた。
「妹さんは、どちらにいらっしゃるんでしょうか?」
神崎は眉をひそめたが、天谷の視線はまっすぐドクターに向けられている。
微妙な沈黙の後、はは、と力なく笑ったドクターは、降参だとばかりにゆっくりと眼鏡を押し上げた。
「……さすが、神崎君の右腕といったところかな」
「外道に褒められても嬉しくありませんね」
それでもこうも物怖じしないあたりはさすがとしか言い様がない。ふたりの間に、見えない火花がばちばちと散る。それを茶化すでもなく、神崎もまた無言でドクターを
二対一、といいたいところだが、それにしてはあちらの手数が多すぎる。
確認できるだけで後ろに五、六人、さらにドクターのほうにも三人いるとなれば、戦力差は絶望的だ。仮にドクターをおさえたところで、すぐさま反撃を食らうだろう。そうなれば形勢逆転されるどころの話ではない。
こうなると本当に利き腕がないのが悔やまれる。いっそ卑怯だと責め立てればいいのかもしれないが、それがこたえるほどの善良な心根などはとっくに枯れ果てているにちがいない。
「そんな男に、透の左腕を託すわけにはいかないんですよ」
苦笑をにじませるドクターに、天谷は冷ややかな視線を投げつける。
いい
さてどうしてやろうかと思案しかけた、その瞬間。
空気を裂くように、子どもの絶叫が耳朶を突く。
はたとガラスの奥に視線をやる。先ほどまで曇っていたそれが、いつの間にか明るく見通しがきくようになっていた。
手術室を模した小部屋の中央には、台に全身を太いベルトで拘束された少年がひとり。虚ろな瞳はぼんやりと虚空を彷徨っており、まともなようには見受けられない。さらに手術着姿の職員たちがそれを取り囲み、それぞれ機器を手に作業に没頭している。
その少年の顔には、見覚えがあった。
ざぁっと音を立てるように血の気が引いていく。天谷もまた、冷静さを欠いた瞳でその光景に食い入っていた。
見間違えるはずもない。そこにいたのは、この研究所に連れてこられる直前、人質にとられた幼い兄弟の、片割れだ。
「
我を取り戻したと同時、みるみるうちに頭に血が上っていく。ドクターに掴みかかろうとして、しかし寸前に後ろから羽交い締めに合い、そのまま床に倒れ伏す。なんとか脱け出そうと力の限り暴れてみせるも、数の力にあっけなく降伏させられる。それでもいつもなら跳ね返せしてやるのだが、利き腕がないことがここまで枷となるとは思いもしなかった。そう、苦しげに呻く。
唯一自由のきく視界をめぐらせたものの、天谷も似たような状況にあるらしい。まだ両腕をとられているだけ神崎よりはましだと思えばいいのだろうか。足掻くものの、さすがに成人男性三人分の全体重をかけられてはやはり厳しいものがある。
「おとなしくしてくれないか。いま大事な実験中でね」
言い放つドクターは、さも忙しいとばかり眼前を流れていく数値に目をこらしていた。
必死の抵抗むなしく、注射器に入った薬剤が少年に投与されていく。そのたび少年は全身をよじって苦痛に顔を歪め、叫び声を絶え間なく響かせる。それを間近に浴びているにもかかわらず、職員たちはさも平然と、職務をまっとうすべく淡々と手足を動かしていた。
まさに地獄のような光景だった。まだたった十四、五のこどもに、そんな非人道的な行為を平気でやってのけるなんて、まっとうな大人がやることではない。
殺してやるとばかりに睨みあげる。しかしドクターはどこ吹く風で、這いつくばる神崎のほうを見向きもしない。
それどころか、へらりとしたいつもの口調でこんなことを言ってのける。
「できれば弟のほうがよかったんだけれどね。彼にどうしてもと言われてしまった」
薄ら笑いを浮かべながらそう語るドクターがなにを言っているのか、さっぱり理解できなかった。
拘束された少年が耳をつんざくような悲鳴を上げる。満足に動かせない手足をばたつかせ、言葉にならない叫びを、呪詛を、口にする。見開かれた目で、生理的に流れる涙もそのままに、網膜に焼きつけんとばかりドクターを睨む。
その鬼気迫る表情を満足げに、ドクターは口元に歪んだ笑みをたたえた。
「まだこどもなのに、僕よりよほど兄らしい。僕も見習わなくては」
「ふざけたことぬかしてる暇あるなら今すぐやめさせろ!」
「ふざけてなんかいないさ。僕はいつでも真剣だ」
そもそも、とドクターはこちらを振り返る。
仮面のような冷たい表情を浮かべたドクターは、当然とばかり言葉を紡ぐ。
「これは、君たちのための研究でもあるんだよ?」
教え諭すような口調だが、その意味がまったくわからなかった。それは神崎だけではなかったらしく天谷もすっかり眉をひそめている。
それでもなお、ドクターは言葉を続ける。
「君たち軍人は、民間人よりはるかに四肢を失う可能性が高い。当然さ。あんなろくでもない場所で、盾となり矛となり奮戦しているのだからね」
ガラスの向こうから少年の叫び声が響く。こちらのやりとりは聞こえていないはずだが、その声は確かに助けを求めている。
――こんなことは、今すぐ止めさせなければならない。
そう思うものの、こうも締め上げられていてはどうしようもない。呼吸をするだけでもぎしりと骨が軋む。せめて万全の状態であればと、思わずにはいられない。
その間もドクターをはじめとした職員たちは、眉ひとつ動かすことなく、淡々と実験を進めていく。
「上層部の方々もずいぶんそれを憂いている。なんとかならないものかと僕に打診してきたんだよ。だから僕は技術を提供した。そのための莫大な費用なんかはすべてあちらが持ってくれるというからね」
「……だから、こんなことをしても許されるとでも?」
静かに問い返す天谷に、ドクターはにたりと口角をつり上げた。
「君たちの友人のなかにもいただろう? 手脚を失い、志半ばで散っていく人間が」
思い当たる顔がまったく浮かばない、ということはなかった。
唇を噛む。そもそも兵隊なんてものは使い捨ての道具だ。そんなことはとっくに理解している。
だが、大切なものを護るために軍人になった人間も少なからずいる。
悲しいことに、そういう志の高い奴等ばかりが先に死んでいく。残るのは神崎のような運のいい命知らずや、後方でぬくぬくと権力の椅子に座るばかりの高官や憲兵たちだ。特に後者は戦地に立つことなく、壁の内側から適当な命令を下すだけで軍人人生を終える。だからこそ後方支援とは名ばかりの憲兵たちは「軍人崩れ」と揶揄されるのだが、当の本人たちがそれをどう思っているのかは知るよしもない。
「僕も一応民間人のひとりだからね。命がけで戦ってくれている君たちに敬意を示したい。だから義肢を造った。あれは、その副産物みたいなものさ」
「……そんな言い訳がとおるとでも思ったか?」
「事実だろう? それとも、君の躍進にはそのほうが都合がよかったのかな」
本当にいちいち人の地雷を踏み抜いていくのが好きな人種だ。
どうにも理解しがたい相手だと思ってはいたが、心の底から軽蔑しておかしくない人間であるらしい。体が自由であれば渾身の一発を食らわせてやるところだ。無論、それで足りるとは微塵も思っていないが。
ねじ伏せられたまま、ぎろりと睨みあげる。しかしドクターの関心は、被検体となった少年にそそがれていた。全身をおびただしいほどの管につながれ、わけのわからない薬を次々投与されていく。それでもドクターをはじめとした職員たちは罪悪感のかけらもないようだ。どんなに少年が金切り声を上げようとも、だれひとり微動だにしない。
まるでその行為が、正しいものだといわんばかりに。
「いい調子だね。これならば、実用化も時間の問題だ」
「やめろっ!!!!」
押さえこむ手に力が籠もる。所長、と判断を仰ぐ声をよそに、ドクターは平然と交換条件を持ち出した。
「今すぐ止めてもいい」
君が、あの『腕』を着けるのならば。
突きつけられたそれが、研ぎ上げたナイフのように鈍い光を放つ。
「そのためにあんな事件まで起こしたのだ。そろそろその見返りを貰わなくては」
こんな短期間で耳を疑うような発言を二度も聞くとは思いもしなかった。
――いったいこいつは、なにを言っている?
ドクターの言葉が反芻されもるが、頭の理解が追いつかない。まるで未知の言語を耳にしたときのように、雑音がただ右から左に流れていく。
しかしその狂気の舞台は、間違いなく続いていく。このいかれた
「スラムの方々には申し訳ないことをしたよ。でも提案してきたのは軍のほうだ。僕じゃない」
頭を襲った衝撃は、崖の上から突き落とされたようだった。
がらがらと足場が崩れ落ちていく。真っ暗になる。
――おまえさえ、いなければ。
呪いの言葉が、脳を焼いていく。
「僕としても無駄な争いは好みではないんだよ。そんなことに貴重な労力と時間を割くくらいなら、研究にあてるほうがよほどいい」
それでも、そうすべきだとあちらが譲らなくてね。
言葉が、容赦なく後頭部を殴りつけてくる。信じたくもない現実が瞬く間に押し寄せ、蹂躙を開始する。
「それで? 君は、どうする?」
「俺、は……」
ぐらり、視界がぶれる。がんがんと頭の奥が痛む。
「そんなものに耳を貸す必要はありませんよ、透」
闇の底に沈みかけた神崎を、天谷の一言が引っ張り上げる。
ちらりと見た天谷は、珍しく本気で怒っているようだった。神崎のそれよりわかりにくいものの、一度火がつけば燃焼しきるまで時間がかかるのは天谷のほうだ。
「そもそも、この男がすべて悪いんです」
「言うじゃないか。でもね、僕はただ君たちの上司の要請に従っただけだよ?」
「
噛みつくも、ドクターはそんな神崎たちをせせら笑う。
「ちがうね。僕は僕の理想のために動いているんだから」
ここまできてまだ自身を正当化するつもりかと思うと本当に反吐が出る。どんな理由をこじつけようが所詮虚言が透けてみえるというのに、まだそうするだけの余力はるらしい。
めらめらと燃え上がる怒りの炎にまかせて突き進めばいいのだろうが、しかしこうも床に縫い止められていてはどうしようもない。抗うが、それを上回る力で無理矢理屈服させられる。どうもあちらも無能揃いではないらしい。
――せめて、利き腕があれば。そう歯噛みしたが、こればかりは無理な話だ。
そんな無様な光景を嘲笑うかのように、ドクターはゆったりとこちらを見下ろしてくる。それから同じく拘束されている天谷に向かって、おもむろに言葉を投げつけた。
「先ほどの質問に答えよう。僕の妹はね、間違いなくここにいるよ。このラボに」
突きつけられたそれに、今度は天谷の目が見開かれる。
まさか、と口の端から言葉が漏れたのを見逃さず、ドクターは大きく両腕を広げる。
その姿は、ひとを誑かし、弄ぶ悪魔と
「この研究所全体が、彼女を生かすための維持装置にすぎない」
言葉に、信じられないと絶句する。
そんなことが可能なのか。無論確かめるすべはない。でまかせだと吠えればいくらかよかったのかもしれないが、それこそ虚勢だ。
「人間ひとり生かすためにこれほど大がかりな設備が必要になるなんて、まったく美しくないだろう? だから考えたんだ。どうすれば、僕の妹を取り戻すことができるのか」
とうとうと語られるが、なにひとつ頭に入ってこない。
ただ軍がそれを認可したという信じたくもない事実だけが、神崎の胸をありありと貫いていく。
「……それで、私たちが納得するとでも?」
「愚問だね。そもそも医学的に、彼女はまだ生きている」
ついに頭がおかしくなったのかと思わずにはいられなかった。否、この男はもともとおかしいのだと、瞬時に認識を改める。
夢見心地の口ぶりだが、その瞳に映る光景はまったく悪夢にちがいない。
クソったれと吐き捨てる。それが自分の無力さそのものだと知りながら。
ドクターはただ、嗤う。
「僕はかけがえのない妹のために尽力しているんだ。文字通り、僕のすべてを賭してね」
「……おまえなんかに救われたところで、本人が喜ぶかは別問題だろ」
「なんとでも言うがいい。そんなもので、いまさら僕の心は揺らがない」
それほど深く昏い色の瞳を、見たことがなかった。
冷たいものが全身を駆け巡る。それを気取られないように奥歯を噛むも、気休めにもならない。
「そもそも断罪は君たちの権限を越えている。どんなに抵抗したところで、まったくの無意味なんだよ?」
「ここまで来て見なかったふりなんかできるわけねえだろうが!!」
「乱暴だねぇ。まあ、それも仕方ないか」
踵を鳴らして歩み寄る。顔をつきあわせたくもないが、憲兵たちが手を緩めてくれるわけもない。喉元に噛みつかんとばかり、なかば無理矢理視線をあげる。
わざわざしゃがみこんできたドクターは、しかしそれに怯えもしない。
「はじめから、君に選択肢はない」
突き立てられる言葉のナイフが、胸の内側を深く抉り取る。
「前にも言っただろう? 君にはあの『腕』を着けてもらうと」
病室で聞かされたときとおなじ台詞に、はっと目を見開く。
あのときから、すべて決まっていたのだ。
否、それよりずっと前からなのかもしれない。神崎が気がついていないだけで、粛々と事は進んでいたのだ。悪夢へ向けて一目散に坂道を転がり落ちる小石のように。
「……全部おまえらの掌の上かよ」
は、と吐息をこぼす。
それならばあの態度も納得だ。端からこちらの話なんて聞かなくても、どうせ結末は決まっている。
となれば、もうとるべき手段はひとつしかない。
「おまえの申し出に乗ってやる。『腕』でもなんでも着けてやるよ」
「透っ!」
「その代わり、これ以上ほかの連中に対する実験はなしだ。それが約束できないなら、おまえのことを殺してでも計画を止めてやる」
吐き捨てるような言葉だが、最大限に譲歩はした。
腹は括った。あとは、天に運を託すほかない。
じとりとドクターを睨む。脅迫まじりのそれにさえ、ドクターはまだ余裕のある表情をしてみせる。
「その言葉を待っていたよ、神崎中尉」
やわらかな物言いを瞬きひとつでかき消し、かるく顎を動かす。乱暴に引き起こされた神崎は抵抗することもなく、おとなしく憲兵たちの後に従った。そしてそのまま、少年が泣き叫ぶ実験室へ連行されていく。
まだそれを受け止めきれずにいる天谷に、悪いな、と口だけ動かしてみせる。力ない笑みに、さすがの天谷も察したのだろう。悲痛そのものの表情をのぞかせていたものの、やがて諦めたように顔を伏せる。
そうして無情に閉じられていく扉に対抗しようとする気概すら、もはや残されてはいなかった。
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