4-2
*
呪詛に満ちた言葉なら、物心ついたときからうんざりするほど聞かされていた。
母は、よくいえば天真爛漫なひとだった。たいした学はなかったが、その愛されるべき気立てのよさと美貌だけを武器に世間へ飛び出して、そうして導かれるまま父と恋に落ちた。
……運命の相手、といえば、ロマンチックに聞こえるだろう。しかし現実はそう甘くなかった。
実のところ、父のことはよく知らない。母は死んだとしか言わず、ほかに尋ねるべき親類も知らない。手がかりは二十歳そこそこの母と仲睦まじく肩を組んだ写真一枚きり。名前どころかその声すら聞いたおぼえはなく、その手のぬくもりも、神崎は知らない。
記憶のなかの母は、父のことを心底恨んでいた。一度は愛した男をそこまで呪えるものか、いっそ不思議でならなかったが、情の深さが仇にでもなったのかもしれない。やがて母は父の面影を強く残す神崎まで遠ざけ始めた。
昼夜問わず酒に溺れ、薬がなければ精神の安定を欠くような生活のなか、自暴自棄の頭で母はこう繰り返す。
「あんたさえ、いなければ」
呪いのことばは、いまなお脳裏にはっきり刻まれている。
だから早々に家を出たのだ。幸い身体には恵まれていた。自分でも持て余すほどのフィジカルを生かすには、軍人となる以外の選択肢しかないと思うほど。
……そういう意味では、天谷のことがうらやましかったのかもしれない。
親に愛され、そうあるべくして教育を施されてきた天谷とはなにもかもが正反対だった。なにか望まれたこともなく、愛情らしい愛情を与えられた記憶もない。ただただ呪いの言葉だけを投げつけられ、多感な時期をすさみきった心で埋める。
ずぶり、と闇色のぬかるみに足をとられる。
悪夢と呼ぶのがふさわしいのだろう。ありとあらゆる負の感情がふきだまるそこに沈めば、あそらく二度と這い上がれない。沈んで、見えなくなればそれっきり。死と呼ぶにはあまりに惨めな最後が待ち構えている。
そんな暗がりの淵から、いくつもの声がした。
助けてくれと叫ぶ声。命だけは、こどもだけは、どうかどうか見逃してほしいと
よく聞く命乞いだ。戦場に赴任したばかりの新兵たちには、そんなものに惑わされるな、と第一に言い聞かせている。そういう情に訴えてくるやつこそ、手ひどい裏切りを与えてくるのだ。だからこそ、己が感情に蓋をしろと教えこまれる。
それはあながち間違いではないのだ。人間らしい感情なんてものは、戦場においてもっとも不要なものだ。それはひいては自分たちをも苦しめる。だからさっさと捨てろというのは、先人からの最初で最後のやさしさだ。
ずきりと頭の奥が痛む。傷を受けた覚えはないが、さしずめこびりついた罪悪感というものだろうか。そう、まだ人間らしいものが残っていたことにかすかに口元を緩める。
悪夢の淀みに囚われぬように、懸命に足を動かす。それでも声はどうしても暗闇をついてまわる。
彼らは、けして豊かな暮らしを望んでいたわけではない。アナーキズムを掲げ、反国家の旗を翻していたわけではない。
家族とともに、愛するものとともにいただけだ。心穏やかに、静かに、与えられた土地で生をまっとうするはずだった。
それなのに、ただ奪われる。蹂躙される。
無慈悲な鉄槌は容赦なく振り下ろされる。
壁の内側にある人間が「正義」と呼ぶもののために。
馬鹿馬鹿しい。そう笑い飛ばせればどれほどよかっただろう。しかし一度坂を転がり始めてしまえば、止めることは不可能なのだ。愚かな自分の母が歩んだ人生が、そうであったように。
思い出す母の横顔に、ふと足が止まる。
その隙を狙っていたかのように、闇の奥からいくつもの手が伸びてくる。そのまま全身に絡みつき、深い沼底に引き摺りこまんとばかり縋りつく。
どうして、と声を重ねて。
「どうして、助けてくれないの」
わたしはこんなに、つらいのに。
折り重なる言葉は、まるで呪詛のようだった。そのままきつく喉を締め上げる。胸の内側をけして消えない
爛れた皮膚で。涙に濡れた瞳で。怒りに、悲しみに、全身を震わせて。
力があるくせに、どうしてその手を差し伸べない。
やはりそれは、呪いであったのだ。自嘲的なそれがふとこぼれ落ちる。
そのとおりだ。かつて先進国と呼ばれた国にある人間の多くは、それ以外の人間のことなんて見向きもしない。自分勝手に線を引き、彼らの大地を縦横無尽に侵略してなお、そこから生まれる誰かの苦痛は知らなかったことにして。
その浅ましさを、彼らが知らないわけがない。
だからいつまでたっても戦火は収まらない。当然だ。理不尽を抱える人間はそれだけ多い。すべて水に流すことなど到底不可能だ。
奥歯を噛み締める。知らずにつくった拳を解放することはとうにできないまま、こんなところまで来てしまった。戻ろうにも道はなく、ただ暗闇に在る。
助けて。どうして。
悲痛な叫びは延々と繰り替えされる。耳奥にこだまする。またひとつ、澱みを深くする。
――塗り潰される。
ずっしりとのしかかるそれに耐えかねて膝をつく。そのままずぶずぶと、底なし沼へ沈んでいくかのように落ちていく。
抵抗する気はとうに失せていた。それが罰だというのなら、受け止めるだけの覚悟はとうにできていた。
おまえさえ、いなければ。
反芻する母であった女の声に、まったくそのとおりだと同意する。
自分さえいなければ、きっとだれもがもっとまともな結末を迎えていたにちがいない。
そう思うと、もうなにもかもがどうでもよかった。
――厭な夢を見た。
こびりつくような後味の悪さにきつく唇を噛む。どうせ夢ならば指の隙間をこぼれ落ちる砂のように逃げてくれてかまわないのだが、こういうものはいつだって我を張りたがる。具体的な内容までおぼえていなくともこれほど主張が強いと本当に厄介だ。
空調はしっかりきいていたはずなのに、悪夢のせいかすっかり寝汗をかいていた。おかげで全身べったりと気持ち悪い。まるで初めて戦場に出たばかりの一兵卒の頃に戻ったようだ。力なく笑い、それからちいさく息をつく。
このところ、そういうものばかり見る。
無理もない。こんなストレスのかかる環境にいては道理だ。そう思うものの、いまだここを抜け出せずにいる。
素っ気ない天井をぼんやりと眺める。このまま二度寝でもきめてしまいたかったが、そうかんたんにはいかないのだ。
「おはようございます、透」
ほら来たとばかり声のしたほうへ視線をやる。
おそらくそういう時間帯ではないだろうに、まったく律儀なやつだ。そう胡乱なものを返し、横たわったまま投げやりに片手を挙げる。
彼らの間は、分厚いガラス板によって分断されていた。通路を挟んで向かい合わせの個室は、どう見積もっても独房と呼ぶにふさわしい。最低限寝転がれるだけの簡素なベッドとトイレがあるだけで、装飾の
そもそも向かい合わせの部屋の時点で正気とも思えないのだが、ドクターにはそれほど余裕があるということだろうか。だとしたら、とんだもてなしだと感服せざるをえない。
事実ここにいる間は唯一見張りの目が外れる。無論カメラによる監視はされているのだろうが、無愛想極まりない人間が視界にいるいないの差は歴然だ。くわえて食事は決まった時間にきちんと運ばれてくるうえ、要請すればある程度のものは聞き届けられるという贅沢ぶりだ。あの窮屈な病院ではそうもいかない。
これで出入り自由となればいうこともないのだが、さすがにそこまで求めるのはやりすぎだ。
ぐらつく頭のままなんとか起き上がる。かるい脱水症だろうが、これくらいならどうにかなると自身に言い聞かせる。
この監房のような部屋に連れてこられたのはドクターの執務室を出てすぐだった。そしてそれ以降、天谷は一歩たりとも外に出ていない。まるでその必要がないとばかりにおとなしく収容されている。これほどの模範囚もいないだろう。しかし諦めている、というわけではないらしく、黙々となにか考えるようなそぶりをみせている。なにか期待のようなものをせずにはいられないが、いまのところ天谷は沈黙を貫いていた。
なんせ数時間おきに実験への協力要請を受ける神崎には、そんなものを考える暇もない。その都度抵抗はしているが、なんの躊躇いもなく鎮静剤を持ち出されてはさすがに従うしかなかった。ドクターもドクターだが、ここの職員も相当いかれている。そうこぼしたところで自分たちがおかしいと微塵も思わないあたり、やはり同類なのだとつくづく思わされる。
いくら睡眠をとろうがまったく体が休まらないのはそのせいだ。その間天谷は読書にふけるなど優雅に過ごしていたらしく、筆記体の踊る革張りの表紙に、おおげさにため息をこぼしてみせる。
「おまえ、何気に満喫してねぇ?」
「まさか。入院してるほうがよっぽどましですよ」
おどけて返されるが、いささか怪しいものがある。うっかりコーヒーが許可でもされたらきっと小躍りして喜ぶにちがいない。
つい浮かんだそれを出さないよう、むずがゆい奥歯を噛みしめる。うっかり知られでもしたらなかなか面倒なことになるのはまず間違いない。
「どうでしたか。あちらは」
かすかに冷たいものをにじませる天谷を一瞥し、それから神崎は苦いものを浮かべた。
「いつものつまんねえ検査しかしてねえよ」
吐き捨てるような物言いに、今度は天谷が困ったように笑う。
さすがにそればかりは同情せずにはいられなかった。
食事のたびに採血を受けることにはじまり、心電図に筋電図、はてに持久力や様々な状況下における対応力までありとあらゆる分野を徹底的に調べ上げられるとなると、疲弊しないわけがない。彼らがなにを調べているのかなんて知るよしもなかったが、ここまで事細かに検査されるとなれば話は別だ。
これならば看護師たちにがみがみ言われているほうがよほどましだ。すくなくとも、
「あいつら、やるだけやるくせに俺の言い分なんざ聞きやしねえ」
「……まあ、当然といえば当然ですが」
しかしわざわざ耳を傾ける必要はないといわんばかりの態度が気に食わないのだろう。神崎はすっかりへそを曲げているが、それは仕方ない、と思わずにはいられない。
もう何度となく繰り返されているのだが、いまだに手こずらせようと画策する根性は本当に相変わらずだ。そう苦笑のようなものを浮かべる天谷に、神崎はさらに口を尖らせる。
「しかもあいつら、まだあのチビども解放してねえんだぞ?」
その言葉には、さすがの天谷も顔を曇らせた。
あの通路で別れたきりとなっていたが、まさかいまだにこんな僻地に足止めしているなんて正気ではない。彼らの親にはなんと説明しているのだろう。そもそも話がついているのかどうかすら怪しいところだ。ただでさえ軍人なんて市民から冷たい視線を受けることがままあるというのに、これ以上評判を下げられたら目も当てられない。
「ちょっと反発したくらいでチビどものこと引き合いに出してきやがって、ほんと気にくわねえ」
「またやったんですか?」
「またもなにも、はじめっから振りまわしにきてんのはあっちだろ」
さも当然とばかりに言ってのけるが、挑発し返すのも正直どうかと思う。そんな本音をなんとか飲み下すものの、一度火が点いた神崎は止まることを知らない。
「あと飯が不味い」
「…………それ、今言う必要あります?」
まったくとばかりにため息をこぼす天谷に、神崎はしかし不満をあらわにする。
「いやだってこれどう考えてもレーション囓ってたほうがましだろ」
「透」
ふざけている場合ではないんですよと言いたげな視線を向けられたが、事実なのだから仕方ない。一応壁の内側ではあるのだからせめてまともなものを口にしたいと思うのは当然だ。しかしここにいる人間はそんなことにリソースを割くことに必要性を感じていないらしい。食事など脳に栄養素を供給するための手段にすぎないとでも思っているのだろう。だから適当な携帯食やゼリー飲料だよりになってしまうのだ。効率的ではあるが、致命的に豊かさに欠けている。
考え出すと無性に腹が立ってきた。がしがしと頭をかきながら、不服そのものの声をあげる。
「なにがむかつくって、アイツ、あれから一切出てこねえんだよ」
それは、と天谷も首をすくめた。
ともあれ神崎のいいたいこともわかるつもりだ。もともと短気なほうではあるが、どうもドクターとは特別相性が悪いらしい。ここまでよく我慢してきたものだとは思うが、おなじく軟禁状態にある天谷にあたられてもどうしようもない。
「最終調整だかでお忙しいんだと。所長サマは大変だよなぁ?」
思い出すだけでふつふつと怒りが湧き上っているらしい。こうなると正直宥めるのも一苦労なのだが、そうするほかに道もない。
たびたび協力したくもない実験のために呼び出され、同意を求められることもなく勝手に事が進められていくというのが、本当に腹に据えかねているのだろう。次々飛び出しくる罵詈雑言の嵐をなんとか受け流していると、無機質な廊下に人影が映りこんだ。その見慣れてしまった堅苦しい詰め襟に、ついふたりの口元が歪む。
しかし憲兵はそれに微塵も心動かすことなく、淡々と
「中尉。所長がお呼びです」
告げられたそれには、思わず顔を見合わせた。
いやにタイミングがいい。否、よすぎるというべきか。
もしや監視カメラのほかに盗聴までされているのではないかと疑いたくなってくるほどだ。思わずあたりを見回すものの、それらしいものが見当たらないのもそれはそれでむかつく。
しかし、ここと実験室とを行き来するのもそろそろ飽きたのはそのとおりだ。
ガラス越しに天谷がちいさく頷いたのを確認してから、やれやれとばかりに立ち上がる。
本当にろくでもないことばかり続いて腹立たしいことのこの上ないのだが、呼び出しに応じなくとも無理矢理連行されるのは目に見えている。もちろんそうしてやりたいのは山々だが、いかんせん薬物片手に脅されるのは気分が悪い。
のろのろと準備をしていると、透、と呼び止められる。そちらを振り返ると、天谷は祈るようにゆっくり口を開いた。
「気をつけて」
天谷にしてはいささかかたい表情だった。そんな天谷を安心させてやるつもりで、かるく右手を挙げる。
利き腕ではないほうでの挨拶はいまだに慣れない。それに苦笑のようなものをひとり滲ませて、淡々とつづく廊下を踏みならす。
何度か往復しているはずの道なのだが、どうにも記憶が曖昧だ。それほど殺風景な廊下だった。何人かそのまま行方不明になっていてもおかしくない。毎度引きずられていく実験場も複数個あるだけに、いまだに地図を描くことすらままならなかった。そもそもどんな意図があるのかもわからない退屈な実験が数時間おきに繰り返されていては、脳裏に道順をたたき込む余力もない。
……思い出すだけでやはりむかついてきた。そう不機嫌さながらに歩を進める。こんなところを歩かされるくらいならあてもなく荒れ地を行軍でもしていたほうがよほどましだ。憤然としたそれを苦々しく思うものの、脱走してやるにはまだいろいろと情報が足りない。
そうして相変わらず雑然と書類が積まれている執務室に再び足を踏み入れる。ひとを呼びつけておきながら片づける気はさらさらなかったらしい。なんとか応接用のソファーに座れる場所を確保したようだが、それだけだ。ドクターばかりがそれにひとり満足げだが、わざわざ反応してやるようなことでもない。
おかげでデスクのほうは今にも雪崩れてきそうな書類の山に浸食されたようだが、神崎が憂慮してやる必要はそもそもない。サイン待ちの紙束という光景には若干既視感があるものの、親近感より嫌悪感のほうが勝ってしまう。
「顔を出せなくて申し訳ない。すこし立てこんでいたいたものだから」
促されるままに渋々ソファーに腰かけたが、コーヒーの申し出は慎んで辞退した。なぜかドクターは至極残念そうに眉尻を下げていたが、こんな男と膝を付き合わせて味わうくらいなら泥水でもすすっているほうがよほどましだ。
「そのままくたばってくれてよかったんだがな」
ほぼ嫌味でしかないそれを右から左に聞き流し、ドクターは微笑を浮かべる。まったく薄ら寒いのだが、どう返したところでこの男に響くものなどありはしない。
どうせこれも口先だけの謝罪だ。そんなものを聞くためにここにとどまっているわけでもあるまいに、と容赦なく言葉をたたきつけてやりたいのをどうにか堪える。
ずり落ちかける眼鏡を押し上げながら、そうしてドクターは軽快な口調で語り出した。
「検査結果にはすべて目を通しているよ。やはり君以外に僕の『腕』に相応しい人間はいないようだ」
褒められているのか正直判断つきかねる物言いだ。とはいえ額面どおりに受け取るわけにもいかず、口をへの字に曲げることでせめてもの抗議の意を表しておく。
「俺より自分の心配したほうがいいんじゃねえか?」
その言葉に、青白い顔をしたドクターが不思議そうに小首を傾げたのはいっそ滑稽だった。せせら笑ってやりたかったが、しかしこうも皮肉が通じない男にはなにをするだけ無駄だ。
代わりに冷たい視線を浴びせかけるも、どうも自覚症状はないらしい。たかが数日顔を合わせていないだけだというのにすっかり頬は
実のところそのまま倒れてくれてもまったく問題ないのだが、それでこの研究所に引き留められる時間が延びては元も子もない。
「僕の長年の夢が叶うなら、これくらいなんでもないさ」
その言葉にかすかに眉をひそめると、ドクターはどこか楽しそうな表情を浮かべてみせた。
「さて、何から話そうか」
「……俺はここにおしゃべりしに来たつもりはねえんだが?」
「おや、そうだったのかい?」
さも驚いたとばかりの顔のドクターにうんざりしたとばかりにため息をこぼす。
どうもあちらはそのつもりで声をかけてきたらしい。どの世界に自身を拘束している相手となかよく茶を飲み交わす人間がいるというのだろう。やはりというか、この男には他人の機微について察する能力はまったく欠如しているようだ。
正直あきれかえって文句も出ない。このまま天谷のところへ帰りたくて仕方ないが、あの監房に戻ったところでまた別の実験にかり出されるのはまったく癪だ。
「聞いておいて損はないと思うよ。僕という人間を理解したいのであれば」
いつもより落ち着いたトーンに目をやれば、ドクターは祈るように組んだ手を顎先に添えて、どこか遠くを見つめていた。いつもの勝手気ままに振る舞っていた姿とは打って変わって物静かな姿に、なんとなくひやりとしたものをおぼえる。
どちらを選ぶにしろ、それなりの苦痛が待ち構えているのはまず間違いない。
半分以上諦めの境地に浸りながら、ため息交じりに居残ることを選択する。それだけでもドクターのご機嫌とりには十分だったらしい。これでいつものろくでもない話を聞かされるのであれば机をひっくり返してやるところだ。
「君の生いたちについても改めて調べさせてもらったよ。なかなか悲劇的じゃないか」
「どう考えてもひとの経歴に口出すほうが悪趣味だろ」
「そこは大目に見てほしいね。なんせ不可抗力だ」
ここまで言われてなお自身を正当化しようとするのにはさすがに付き合いきれない。無論こちらと同じことをしているだけだと返されればぐうの音も出ないのだが、そこまで追求するつもりはなさそうだ。おおよそ見当はついているのだろうに、おやさしいことだ。そう口にする代わり、胡乱な瞳を投げる。
しかしドクターにとっては、それも些末なことらしい。
「僕も似たような境遇にいたからね。つい思い出してしまったよ」
「なんのことだかさっぱりわからねぇな」
とぼけたように返す神崎に、しかしドクターの端的な言葉が降りかかる。
「単純なことだよ。僕も、君も、両親からの愛情を知らない」
――瞬間、相手の胸倉を掴みあげようとしたのをすんでのことで耐える。
しかし一瞬にして殺気立った空気に、並々ならぬものを感じたのだろう。入り口を固めていた憲兵が一拍遅れて身構える。ドクターが諫めていなければ、そのまま強制退去でもさせられていたのかもしれない。むしろそのほうが都合がよかった気もするが、どう判断するかはあちらの問題だ。
珍しく不満が残る顔つきをしてみせる憲兵たちが拝めただけ満足しておくべきかと、他人事のように思案する。ぴりついた空気が漂うなか、しかしドクターの間延びした声だけが響く。
「すまないね。彼らもこれが仕事なものだから」
「……仕事熱心で結構じゃねえか」
「ああ。だからこそ、僕も自分の研究に専念していられる」
いちいち鬱陶しい言い方をする。そう言いたいのを堪えながら、がりがりと前髪をかき上げる。
こういう舌戦は正直得意ではない。天谷が適任すぎるせいもあって、神崎はいつも高見の見物を決めこんでいたくらいだ。が、あちらが指名してきたとなれば、敵前逃亡するわけにもいかない。
「僕はね、あの家にいてはいけない子どもだったんだよ」
戯れに言葉にするには不穏すぎるそれに、険のある視線を送る。それに気がついたのか、ドクターはやおら明るい声をあげた。
「あの日、君は何をしていたのかな」
それが示すものがわからなかったのは一瞬だ。それからはっと息を呑み、きつい目でドクターを見据える。
ドクターは、しかし身じろぎひとつしなかった。静かな色をたたえた瞳で、やはり虚空をみつめている。
「僕はまだ学生でね。といっても、まわりは皆年上だったから、あまりそれらしい記憶はないのだけれど」
口調は、どこか夢見心地でさえあった。負の記憶をそんな風に語り出すなど、それだけで十分異常なのだが、この男のことだ。なにがおかしいのすら理解していないにちがいない。
ぽろぽろと切り出されたそれは、おおよそ天谷から聞いていたとおりだ。海の向こうの大学で飛び級を繰り返し、あまつさえ首席で卒業したという鮮やかな経歴は、神崎の灰色がかったそれをかんたんに塗りつぶしていく。それどころか裕福な家に生まれていたくせに、なにがそれほどこの男を狂わせたのか。まったくもってわからない。
「それでも研究は楽しくてね。運良く後押しもあったし、恵まれた環境で文字どおりぬくぬくと暮らしていたよ」
両親は、あまり子どもらしくない僕に散々手を焼いていたようだけどね。
しかしその程度はよくあることだ。ひとの親になるつもりなど金輪際ないが、おとなの頭を悩ませるのは子どもの特権といってもいい。
自嘲気味に笑うドクターの瞳に、静かな色が弾けて消える。
「それが、あの日ですべて崩壊した」
胸の内側が軋む。悲鳴のようなそれから、つい視線をそらす。
軍人という肩書きのせいではない。そんなものでいちいち傷ついていては、とてもではないが正気を保つことなど不可能だ。
舌打ちをこぼす。そんな神崎を責めるわけでもなく、ドクターはいつ淹れたのかまったくさだかではないコーヒーに手を伸ばした。冷たい水面が、静かに揺れる。
一般に、「大厄災」と呼ばれるその日がすべての起点とされていた。
この無秩序を作り上げた悪魔の日。
それは、欧州各地の原子力発電所がテロリストにより占拠、爆破されたことに始まる。
当初は労働者によるデモやパフォーマンスとされていたが、詳細はいまなお不明。歴史のブラックボックスに堂々入りこみ、いまを生きるすべての人類に生涯消えない傷を刻みつけた。
さらにちょうど監査に来ていたお偉方が巻きこまれ、命を落としたおかげでなお事態は深刻化した。
かたやこれを聖戦の幕開けとしたアナーキズム団体は後を追うように一斉蜂起。それぞれ武器をとり、世界革命の狼煙をあげた。一夜にしてテロ集団と成り果てた彼らは、以降暴走機関車のように世界中を駆け巡る。先の見えない紛争地帯も、国境の曖昧な自治組織もすべて巻きこんで、この混沌極めた世界を形作った。
予想よりはるかに火の手がまわるのが早かったのは、それほど脳天気に過ごしている人間が多かった、ということだろう。自分たちには関係ないと目や耳を塞ぎ、これが平和なのだと思いこむ。まったく平和主義が聞いてあきれてしまう。
胡乱な目をドクターに向ける。彼は、やはりどこを見つめているともわからないような瞳で、するすると言葉を紡ぐ。
「妹はすぐ見つかったよ。もっとも、それは僕の探し求めていた妹の姿とは似ても似つかなかった」
五体満足ではなかったからね、とドクターは力なく笑う。
そうすることしかできなかったのだろう。当時も、そして今でさえも。
珍しくないことだ。同情なんてしたくもなかったが、さすがにこればかりはと深く息を吐く。
爆心地に近いほど、まともな状態で見つかった犠牲者はほとんどいない。なにか手回り品の一部でも遺族の元に戻れば御の字とまで言われたほどだ。あの日、なすすべもなく大切な誰かを奪われてしまった人間はそれほど多い。
「僕は学会で運よく難を逃れたんだ。あのときほど自分の悪運の強さを呪ったことはない」
さっさと終わってしまえとこれほど呪ったのは、いつぶりだろう。
聞きたくないと言えば嘘になる。そうであれば、このまま暴れてやればいいだけだ。しかしそうしないのは、ドクターが吐き出したそれは、本心にほど近いものであったからに他ならない。
すくなくともいままで耳にした戯れ言のどれよりまともだ。
本当に、皮肉なものだ。つい歯噛みする神崎に、しかしドクターはなんでもないかのように笑う。
「それでもようやく帰宅した僕に、母はなんて言ったと思う? 妹じゃなく、僕が死ねばよかったのに、だよ。まるで自分だけが悲しいみたいに泣き叫んでどうしようもなかった」
おそらくその一言が、彼の家族を完全に崩壊させてしまったのだ。なお歪な笑みを浮かべるドクターにかける言葉もなく黙りこむ。
「それからだよ。僕がそれまで以上に研究に没頭するようになったのは」
はたしてそれが正しい選択であったのかは、神崎にはわからない。知るよしもないことだ。あの混乱の最中、まともな判断ができた人間はだれひとりとしていなかっただろう。そうしているうちに全世界を舞台にした戦争の口火が切られ、いまなおその炎は燻り続けている。
頭の奥がずきんと痛む。奥歯を噛んでなんとか凌ぐが、しかしドクターの語り口は止まることを知らない。
「あの日。なにかが違えば、妹は助かったのかもしれない。何事もなく、いまも僕の傍にいてくれたのかもしれない」
だがすべて、無駄なことだ。
言葉が、冷たい床に転がり落ちる。ドクターはそれに見向きもしなかった。神崎もまた、その行方を追うつもりは毛頭なく。
ぎろりと机越しに睨み合う。間の空気は、真冬の外気よりもきつく冷え切っていた。しかしそれでも、互いに目をそらすことはしない。
ただ静かに対峙する。見えない銃口を突きつけ合うかのように。
「僕は彼女を取り戻したい。実の親にすら理解されなかった僕に、たったひとり寄り添ってくれたやさしい妹を」
ここだけ切り取れば、善良な市民の心をくすぐるような立派な演説になるのだろう。
よぎったそれをしかし鼻先でいなす。壁の内側で庇護されるだけの善良な彼らは、その言葉に感激のあまり涙すら流すだろう。平和な頭で結構なことだ。その旗を振りかざし乗りこんだ戦場で後頭部を吹き飛ばされでもしない限り、現実を知ることもない。まったく想像するだけでうんざりしてしまう。
所詮彼らにとっての世界なんてものは壁の内側に広がるものだけだ。それ以外に興味関心を持つことなどほとんどない。
だからこそ、この男はこんな狂気に囚われてしまったのだ。
「そのためならば、僕はなんだってやる」
「美しい兄妹愛ってか? 結構なことだな」
そう悪態づくも、ドクターはきょとんとした顔を浮かべるばかりだ。
「たったひとりの妹を救うより大事なことが、ほかにあるとでも?」
熱に浮かされたような虚ろな目は、目の前にいる神崎を映していなかった。それに気づいたと同時、浮かんでしまった記憶にひとりぞっとする。
それと似たものを、以前見たことがあった。中東の、とある宗教団体施設に乗りこんだときだ。信仰者の若い女がひとり、血まみれの広間でひとり膝を抱えていた。腕のなかにはこどもの生首がひとつ。子守歌のような鼻歌を途切れ途切れに、ふらりふらりと肩を揺らす。鼻がいかれそうな臭気に躊躇ったものの、ともかく生存者保護を、と動こうとした瞬間閃いたのは銀のナイフ。すんでのところで回避したものの、急所を狙ってきたそれにはさすがに絶句した。
にたりと女が笑っている。血塗れの刃を手に、ぎらぎらと目を輝かせて。
……壮絶すぎるその光景には、さすがの神崎も眉をひそめたものだ。
そして残念なことに、いまのドクターの目は、その狂信者のものと酷似している。決定的に異なるのは、その手に凶器が握られているか否か、という点くらいだ。
「医学的に妹はまだ生きている。だから今度こそ、僕が彼女を護ってやらねばならない」
狂ってやがる、と、漏れた言葉に、ドクターは嗤う。
ともすれば、彼の言い分は正しいのかもしれない。しかしそれを判断するのは神崎の仕事ではない。相手が犯罪者ともなればなおさらだ。
「……神サマにでもなるつもりかよ」
「いいや。僕はそれすら超えてみせる」
いやにまっすぐ見据える瞳から察するに、どうも本心らしい。いっそいつもの馬鹿げた理論を並び立ててくれたほうがよほど突っぱねやすかったものを、と、しつこく口内にはびこる苦味を噛み砕く。
こういうことならなおさら天谷を引っ張ってくるべきだったと心底後悔したが、いまさら遅い。おそらく当の本人は本を片手にひとり先の見えない展開を読もうと躍起になっているにちがいない。
「そもそも神なんて非科学的な存在を信じているほうがどうかしているんだよ。ほんとうに人智を超えた存在がいるというなら、是非その証明をお願いしたいものだね」
沈黙する神崎に向かい、ドクターはにたりと口端をつり上げる。
「だから僕は科学の力を信じているんだよ。人間に――、科学に、できないことはないのだと」
ペテン師でもこれほど堂々と言ってのけるほどの度胸はなかなかいない。その点だけは評価してやってもいいほどだ。
どうだかな、と肩をすくめるも、そんな弱々しいものではまったく挑発にもならない。不敵に微笑むばかりのドクターに、冷たいものがぞっと背中を駆け抜けていく。
「所長。時間です」
機械のような平坦な声が降りかかる。実際そうなのではないかと内心疑ってはいたのだが、そんな馬鹿げたことを口にするほどの能なしと思われるのも癪だ。
連絡に来た憲兵に片手でこたえ、それからドクターは貼りつけたような柔和な笑みを見せつけてくる。
「丁度いい。神崎君も見てくれるかな。そのほうが、僕がなにをしたいのかわかるだろう」
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