土壇場に目に焼き付き

さちはら一紗

✴︎

   1



 いつからだろう。

 光に目を眩ませることがなくなったのは。


 穂乃果は歌いながら舞台に登る。

 衣装という名の、一メートルいくらという安布を纏い、頼りないスポットライトの光を一心に浴びながら、終幕を彩る歌を響かせて。


 いつからだったのだろう。

 踏み出す足が震えなくなったのは。

 震わす喉から吐き出る歌声が、台詞が、虚しく聞こえるようになったのは。

 心臓が高鳴らなくなったのは。

 高揚を忘れてしまったのは。


 ──舞台に酔えなくなったのは。



 それでも今宵の主役は穂乃果だった。

 この劇団イチイコの一番は彼女だった。


 穂乃果はプライドの限り役に殉じ、けれど全力を尽くさずとも成り立つ舞台では全霊を持て余し、穂乃果の心は舞台から離れて宙吊りになったまま事は終わる。


 カーテンコール、客席への挨拶の最中。

 役が抜け、そこに立つのがただの穂乃果自身に戻った時。

 彼女は辺りを見渡した。


 貸し舞台の客席はまばらという言葉すら贅沢な空白だらけ。

 少ない客も劇団員の知り合いに身内ばかり。

 千秋楽の熱狂など、夢のまた夢。


 穂乃果は貼り付けた笑顔の底で、深く、失望を覚えた。



(──ああ、つまらない劇)



 そして劇団イチイコの最後の公演は、さもしい拍手と共に終わった。



   2



 穂乃果が女優を志し上京したのは四年前のことだった。

 劇団イチイコは自転車操業の小劇団だったが、当時は新進気鋭、クオリティも高く、団員は皆精力に満ち、界隈では一目を置かれていた。


 何より穂乃果にとって大事だったのは、イチイコには学生時代の先輩・律子が所属しているということだった。

 情熱的で才能に溢れた、憧れの人。


 先輩である律子は、当時その劇団でも最も名のある女優だった。

 何せ時折テレビドラマの端っこに映る。

 世間的にはまだ「売れない女優」だったが、劇団の出世株候補であり、もっともスターへのチケットに近い人間だった。


 穂乃果もまた、律子がいつか映画の主演に抜擢されることや大劇場の公演のポスターを飾ることになると信じて疑っていなかった。


 ──だが、その律子も二年前に舞台を降り、演劇人を辞めた。


「つまらなくなったの」

「演劇が?」


 引退の直前、冬のキャンプ場に行った。

 そこは度々劇団の面子でバーベキューや何やらを行うお決まりの場所で。

 けれど冬のその日は律子と穂乃果の二人だけだった。

 焚き火の揺らめく火を見つめながら、律子は後輩である穂乃果にだけ辞める理由を教えた。


「『自分がとてもつまらないものになった』と思ってしまった時、わたしはもう歌えなかった」


 律子の夢はミュージカル女優だった。

 彼女が念願の舞台に、まだ立っていないはずなのに。


「つまらなくなんかないです。律子さんは綺麗で、歌も演技も上手くて、私たちの誰よりも才能があってっ……それに、昔から私によくしてくれた。優しい人です。みんなだって、そう思ってます。絶対に」


 慰めでも励ましでもなく、責めるような語調で迫る。

 穂乃果は、穂乃果の好きな律子のことを、律子自身にすら貶めてほしくなかった。


「ありがとう。でもね、もうだめなの。わたしは若くて綺麗だ。それなりに才能があって、可能性がある。この二年、自分のことを女優だと名乗って生きてきた……でも、もう。そんな自分をとてもつまらないと思う」


 淡々としたその言葉に、自虐や卑屈の色はない。

 賛辞を真っ向に受け止め、臆面なく自画自賛をしたその上で、律子は毅然と貶める。

 その結論がどうあがいても覆せないものだと、穂乃果は理解して、駄々を捏ねるように吐き出した。


「辞めてしまうんですか。私たちまだ……何にでもなれるのに。言ったじゃないですか律子さん。私を演劇に誘った時『何かを始めるには遅すぎるということはない』って。だから私はここにいるのに。あなたが、教えたのに。東京に、私を置いていってしまうんですか」


 爪を立てて引っ掻くような穂乃果の恨み言に、けれど律子は顔色ひとつ変えない。


「そうだね、でも。辞めどきを見失うことは不幸だよ。つまらない自分のまま生きていくことは不幸だ」


 傷ひとつ付けられない。

 律子の目にはもう火がない。

 情熱が、ない。



「君もいつかわかるかもしれないけど。ずっとわからないままでいることを祈ってる」



 そして律子は劇団を去った。

 夢を追う日々の中、何度も支えられ教えられ、一歩後ろを共に歩んだ律子が、果たして優しかったのか優しくなかったのか。

 穂乃果にはわからなかった。



 ──あれから二年。


 穂乃果は劇団で一番の女優になり、そして劇団イチイコはかつてとは見る影もなく落ちぶれ、そしてついに潰れる。


 最後の公演に喝采はなかった。



   3



「ダイジョウブですか?」


 劇団イチイコの最終公演の翌日。

 コンビニバイトの品出しの途中で物思いに沈んでいた穂乃果は同僚の声で我に返る。


「少しぼうっとしてただけ」


 二十四時間光る箱。深夜のコンビニが穂乃果のバイト先だった。

 眉を下げて心配そうにこちらを見る彼女は、留学生のレイだ。

 年下の大学生。小麦色の肌に彫りの深い顔立ちは、黒髪黒目のアジア系でも日本人のそれとは雰囲気が異なる。

 レイは幼さの残る笑みと、アクセントに癖のある流暢な日本語で彼女は労いの言葉をかける。


「昨日はオツカレさまでした、ホノカさん。劇、トテモ素晴らしかったです」


 穂乃果は複雑な思いで「ありがとう」と返す。

 レイはこの四年、何度も穂乃果の出る劇を見に来てくれていた。

 だがそれを純粋な友情で片付けるには後ろめたい背景がある。


 小劇団の収入は公演のチケット頼みだ。

 劇団員には捌かねばならないチケットノルマがあることも珍しくなく、劇団イチイコもそうだった。

 比較的良心的な枚数のノルマではあったが、捌けなければ全額自己負担。少ない生活費の中から捻出するには痛い金額になる。

 だが単身で上京した穂乃果には、劇団員以外の知り合いがいない。


 そんな中バイトの同僚であった留学生のレイと親しくなった。

 こちらに来たばかりで日本語も不自由で生活に戸惑っていたレイに穂乃果は親身に付き合った。

 その恩から、レイはチケットを買ってくれるのだ。


 遠い異国で勉学に励みながら稼ぐお金がどれほど重たいものが知っていて、彼女の純真を利用している。

 四年で次第に大きくなった罪悪感を、穂乃果は持て余していた。


 だがそれももう終わりだ。

 彼女は大学を卒業し、もうすぐ国に帰る。

 何よりも既に──


「劇団、なくなってしまうんですよね。ザンネンです」


 レイは穂乃果を励ます。


「元気を出してください。劇団がなくなるのはザンネンですが、ホノカさんならダイジョウブです。アナタはキレイで、優しい人」


『律子さんは綺麗で、才能があって、優しい人です』


「この四年見てきました。ホノカさんはいつかもっと大きな舞台に立つ女優になります」


『律子さんはいつか大劇場でミュージカルの主演をやるんだって、信じてます』


「ワタシが国に帰っても、ホノカさんのことを応援しています、ずっと」


 屈託のない笑顔、真っ直ぐな黒い瞳に見つめられて。

 穂乃果は目眩がした。

 かろうじて礼を述べた。


 レジの方で怒号が聞こえる。

 粗野な客が店員の不在に抗議の声を上げているのだ。

 辟易とする。ああいう手合いはきまって客が神だと思っている。

『お客様は神様です』という言葉が芸の心構えのことだと彼らは知らない。


 「レイちゃん、私がいくよ」といつものように言おうとして。

 穂乃果よりも早く、レイはレジの方へと向かっていた。

 そして当たり障りのない、手慣れた対応をお客に対してこなす。

 穂乃果はそれを遠巻きに見る。

 完璧な文法で話す彼女はもう何も知らない世間知らずの、外国から来たか弱い女の子ではなかった。



 ──芸事の世界において、お客様は神様だというのなら。



 神前のような心持ちで向き合うべきだというのなら。

 チケットを押しつけてまで客席に引き摺り込んだレイが、穂乃果の神であるべきだ。


 はたして穂乃果は、そのお眼鏡に叶う芸を続けてきただろうか?


 真摯に、誠実に、客席に向き合えていただろうか?


 レイは穂乃果がつまらない劇をしていることに、自分がつまらない時間を買わされていることに。とっくに気付いていたのではないか?


 穂乃果は自分を「女優」と名乗ったことがこの四年で一度もなかった。



 客は去り、そして光り続ける箱はまた静かになった。

 店内の放送も外の道路を走る車の音も、喧騒のうちには入らない。

 二人してレジの中に立ち尽くす。


「レイちゃん」

「はい」

「この四年どうだった?」


 彼女は屈託なく、晴れやかな笑顔で。



「楽しかったです。トテモ」



 穂乃果は彼女が、とびきりに優秀な学生だという話を思い出していた。



『いつかわかるよ』



 律子の言葉が追い付いてくる。




   4




 二年振りに律子に会う約束を取り付けた。

 夕方、待ち合わせ場所に現れた律子は変わっていた。

 今は会社勤めをしているという彼女は髪を短く切り、スーツを身に付け、憑物の落ちた表情をしていた。

「や」と軽やかに手を挙げて穂乃果に笑いかける律子は、不思議と昔より綺麗に見えた。



 律子の車で向かった場所はいつかと同じ冬のキャンプ場だ。

 着いた頃にはとうに日が暮れていた。


「火を焚こうか」


 律子が言う。穂乃果がライターを取り出す。

 けれど焚き火に焼べるのは薪ではない。


「ようやくわかりました。律子さんの言ったことが」 


 ライターの先で燻る小さな火を、見つめて。穂乃果は吐き出した。


「つまらなくなっていくんです。夢を追うことが段々と。気付けば必死に追うことに必死で、自分の立っている場所が駄目になっていくことにも気付かなかった。いえ、気付かないふりをしていた。あの場所が好きだったから。劇団がなくなるまでしがみついた。……落ちぶれていくあの場所にいても本物の女優にはなれないことくらい、考えたらわかるはずなのに」


 そんなこともわかろうとしなかった。

 そしてわかってしまった。



「つまらなくなったのは演劇じゃない。私だった」



 火に焼べるのは売れ残ったチケット、公演のチラシ、読み込んだ台本──四年の軌跡。

 穂乃果が劇団イチイコで過ごした時間そのもの。

 それなりに輝かしく、それなりに苦楽のあり、けれど何の実も結ばず過ぎ去った日々が、炎の中で黒く焼き焦げていく。


「この四年、辛かったはず。苦しかったはず。必死だったはずです。夢を追うことってそういうことでしょう。なのに私、もしかして──楽しいだけだった?」


 自分がとてもつまらないものに思えた時、穂乃果は辞め時を悟った。

 夢を追う自分に酔っていただけと気付いた時、そんな自分を惨めに思ってしまった時、それはつまり。

 自分が目指したものにはなれないと認めてしまった時だ。


 自分を哀れんだままなれるものなどない。

 女優になる夢の情熱を、女優になりたいと嘯く自分への嫌悪が上回った時、辞める他に救いはない。

 すべてを終わらせなければならないと穂乃果は理解した。


 だから燃やした。


 ──律子と同じように。



 舞台を降りる時、律子もまたこの場所で、同じようにこうした。

 何故そんなことをしたのか当時はわからなかった。今ならやはりわかってしまう。


 綺麗に幕を引くには未練を焼き尽くさねばならない。

 けれど一人で幕を引くことができず、穂乃果は律子をここに呼んだ。

 終わりの、証人として。

 もしかしてかつての律子もそうだったのだろうか。


 冬の外気に凍えた肌を、爆ぜる炎が照らす。

 頬を熱いものが伝う。

 言葉も嗚咽も出すことをやめた穂乃果の肩を、律子はそっと抱いた。


「大丈夫だよ。夢なんか追わなくても生きていける。もう何にでもはなれないけど、まだどうとでもなれる。君は、君を幸せにできるよ」


 慰めのようでいて冷たく突き放すその声は、けれど変わらず優しく。

 穂乃果は炎が絶えるまで、温かな光を見つめていた。

 触れればちりちりと身を焼くその、光を。



   5



 灰にすべきものを灰にして、思い出の場所を後にした。

 車を走らせそのまま律子が穂乃果を連れ込んだのは明るく騒がしい居酒屋だった。

 他人に興味のない東京の、大衆居酒屋は穂乃果の空っぽの心を酒精の酔いで満たした。

 律子は最後まで素面で、穂乃果の話をすべて聞き、酔い潰れる前に車で穂乃果を家へと送り届けた。


 別れの言葉は「またね」だった。

 律子が舞台を去る時に言った「さよなら」とは違う。

 地に降りた者同士、二人の道はまた交わった。

 夢を捨てることは失うばかりではないらしい。


 穂乃果は上機嫌にアパートの階段を登る。


 いつ以来だろう。

 階段を俯かずに登るのは。


 上京したばかりの頃は城に思えた壁の薄いマンションは、次第に戻ることが億劫な巣になっていた。

 けれどもう穂乃果は後を濁さず発つだけだ。

 増えていく壁の染みが穂乃果を追い立てることはもうない。


 気付けば階段を上がりながら、穂乃果は歌を口ずさんでいた。


 気分が良かった。

 ──まるで東京で初めて舞台に上がった時にように。


 歌う曲は、最後の公演のそれだった。

 あの時は無心にならなければ歌えなかったそれを、穂乃果は一音一音慈しむように口ずさむ。


 ふら、ふらと階段を上がる。

 自分の部屋の前で、きれかけた廊下のライトがぱち、と瞬いて。

 穂乃果は足を止めた。


 眼下には東京の街が広がる。

 夜更ですらなお明るく煌々と灯る、光る箱たち。

 幾度となく目にした深夜の光景に今更見惚れることなどない。

 けれどその光に呼応するように、穂乃果の瞳の中で異なる光が瞬き始める。


 酔いが覚めないまま、思考が冴えていく。

 か細い声で歌い続けたまま、喉が掠れてていく。

 燃えていく火が、まだ、目に焼き付いて離れない。


 あれは自分を葬るための儀式だった。

 夢を終わらせ前に進むための通過儀礼だった。

 あの火は、見た目ほど華々しくはなく、暖かさすら寂しさを感じさせる光だ。


 けれど穂乃果は、その光こそを綺麗だと思った。

 眩しいと感じた。


 穂乃果は自分を燃やし尽くす火に、スポットライトの輝きを見ていた。

 焼き焦げていくチケットを見ながら、穂乃果は舞台のことを考えていた。

 溢れた涙のわけは哀愁や感傷などではなかった。


 ──穂乃果は考えていたのだ。次の舞台のことを。


 辞めると嘯きながら。

 この後に及んで。


 掠れた歌声は次第、嗚咽になる。


 みっともなくて仕方なかった。

 何かを始めるに遅すぎるということはなく、けれど辞めどきを見失うことは不幸である。   

 頭ではわかっていて、心は既に折れていて、この先に栄光なんてありはしないのに。


 この後に及んで。



(──私は、つまらない自分を、捨てられない)



 燃やし尽くせず残ったそれを、後生大事に抱えて。

 穂乃果はどうにもならない道に縋り続ける。

 この目を焼く光が消えてくれない限り、新しい道へは踏み出せない。


 きっと自分はまた舞台に立つのだろう。

 つまらない自分にしか、なれないまま。



 酔いはまだ覚めない。

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土壇場に目に焼き付き さちはら一紗 @sachihara

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