夢の寓意

秋月 八雲

第1話

 まただ、最近よくこの夢を見る。

 夢の中で夢だと認識できるものを明晰夢というらしい、と最近知った。この明晰夢の中では、私はいつも同じ状況に置かれる。

 髪の長い女が目の前にいる。背景は真っ暗だ。自分がどこにいるのかはわからない。漆黒の闇が広がっているだけの、ゲームの背景のような空間だ。だが最も危惧すべきことはそんなことではなく、目の前にいる女性がナイフを持ってこちらを睨んでいるということだ。睨んでいるということは分かるのだがその顔には見覚えが無い。若い女性だが、中学生の自分よりは力が強いことは明らかだった。ケンカになったら多分負けるだろうということは容易に想像できた。

 そうだ、この後は決まって。

 志保は身構える。その行動は目の前の状況からではなく、過去の記憶からだった。目の前の女性は見る見る距離を詰めてくる。左手に持つナイフの刃さえはっきりと見える距離だ。一方で自分は何も身を守るものを持っていない。ついに女は一足飛びの距離にまで詰めてくると大きくナイフを振りかぶる。

 その次の瞬間、志保と女の間に何か大きなものが飛び込んできた。視界はほとんどが黒でおおわれる。

 そこでいつも夢から覚める。


 この夢を見た後はいつも寝汗が酷い。

 ぐっしょりと濡れたパジャマが下着と一緒に肌に張り付く。起床の時間まではまだ二時間以上はある。だが、この夢を見た後に眠りに入る事はこれまで一度だって出来た試しがなかった。


「ねえ、お母さん」

「何?」

 台所に立っている母は忙しそうに朝食の準備をしている。母一人、子一人のリビングは手狭でも何の問題もない。むしろ母との距離が近い事が喜ばしいと言っても良いくらいだ。

「今日ね、なんだか怖い夢を見たんだ」

「へえ、どんな?」

 味噌汁ができたようだ。

「何だか、女の人が出てきて、包丁を持って私に襲い掛かるの」

 母は一度料理の手を止めた。

「うん、それから?」

 母は続きを促す。

「でも、刺さる直前に夢から覚めちゃうの」

「そう」

「実はこの夢、もう十回以上は見てるんだ」

 母は何も言わない。

「どうしてこんな夢見るんだろう。何か原因があるのかな。それとも何かの予言か何かなのかな」

「多分、それ予言じゃないよ」

 突然の言葉だったが、雰囲気は少し重い。

「どういう事?」

「多分、それは予言じゃなくて記憶だよ」

 母はそう言うとダイニングの向かいの席に座った。

 志保ももう大人だからね。その言葉は志保に向けられたものでもあり、母自身にも向けられたものなのだったのだろうと思う。

「志保、あんたね、一度暴漢に襲われたことがあったの」

「暴漢?」

 母は淡々と続ける。

「そう、暴漢と言っても若い女だったんだけどね。志保が4歳の時かな。夜だった。その日は花火大会を見に行って、一緒に帰ろうと思ったらいきなり暗闇から女が出てきてね。ホント危なかったのよ。今でも思い出すと怖くなる。

 私に体当たりしてつき飛ばした後に志保に向って突進していってね」

「そ、それで?」

「今度はこっちが必死に体当たりしたら、向こうはびっくりして逃げていったの」

「そんなことがあったの」

「そう、志保の夢はその時の事の記憶じゃないかな」

「そ」

 自分にそんな過去があったとは恐怖だ。だがしかし、確かに危険な事実ではあるものの夢の中にあった不気味な雰囲気は成りを潜め、事実が提示されたことは何だか気分をすっきりさせた。これでもうあの夢は見ないで済むのではないかと、この時は思った。


 ふと、今日から今日聞いた事件は新聞記事になってはいないのだろうかという疑問が湧いてきた。五時限目の数学の時間にそれを思いついてから何だか確かめたくて授業は上の空だ。

 図書室に入ることが出来たのは当然放課後になってからで、誰もいない図書室でパソコンにログインをした。

 このパソコンは新聞の過去記事を検索できるようになっている。早速、暴漢という単語で検索をかけるが、何千件という記事の海がヒットした。検索時期を十一年前の八月に絞ると記事は四件になった。順番に確認すると自分が住んでいる朝生市、という単語が目に飛び込む。

 これだ。

 注意深く記事を読み進める。

【警察発表によると、殺人未遂で逮捕されたのは住所不定無職の猪原愛容疑者。】

 殺人未遂?志保は記事に浮かび上がる単語に少し違和感を感じたが立ち止まることは許されなかった。

【猪原容疑者は二〇日の夜、花火を見に来ていた親子に対し、ナイフで襲い掛かった殺人未遂の容疑がかけられている。母親は背中を切られたが命に別状はない模様。警察は最近近くで怒っていた他の襲撃事件との関連を調べている。】

 母親は背中を切られた?

 志保はその言葉をもう一度咀嚼する。暫く考えると母親の背中の映像が瞼の裏に浮かんできた。

 そうだ、確か母の背中には傷跡があった。大きな傷だ。あの傷は私を助けるために負った傷だったのだ。


「ねえ、お母さん」

 志保が声をかけることが出来たのは夕食が終わった時の事だった。

「ん?」

 母はテーブルに座っていつも通りテレビを見ている。

「お母さん、背中に傷があるじゃない」

「ん?そうね」

「その傷、もしかして私が襲われたときについたの?」

 母は少し驚いていた様子だったが、まったく予期していなかった、という表情でもなかった。何となく、問いかけた声の抑揚で察知していたのかもしれない。

「まあ、そうね」

「痛かった?」

「いいや、全然」

「本当に?」

「うん、これくらいで娘を守れるんだったらいくらでもどうぞ、よ」

「そうなの?」

「そ、母親ってそういうものよ」

 母はそういうと大きな笑い声を響かせた後、いつも通りテレビに向かった。


 食後、志保は自分のベッドで横になった。

 少し眠気が襲ってきたが、母親とはそういうものだ、という言葉が耳から離れず眠りの邪魔をする。今の自分は物理的にも、精神の面でも吹けば飛んでしまうようなちっぽけな存在だ。時折学校生活でもそんな自分にうんざりすることがあり、母が持つ強さなど微塵もない。

 だが、母になると強くなれるらしい。

 そんな存在になってみたいと、志保は少しづつ遠のく意識の中で思った。


 また、またあの夢だ。

 また女性が刃物を持って私に向かってくる。志保が最初に思ったのは再びの恐怖ではなく戸惑いだった。なぜ。

 原因が明らかになって整理できたと思っていたのに、どうして再びこの夢を見てしまうのだ。

 そしていつも通り、真っ暗な視界から急展開する様に現実のベッドの中へ突き落とされた。


 すっかり睡眠不足の状態で登校する志保の足取りは重かった。こんな日に限って苦手な数学と理科の科目が圧し掛かってくる。その事を考えると、仮病でも使って早退してしまいたくなる。


 やっとのことで家路につく。授業はほとんど頭には入ってこなかった。今日は夕食の前に少し横になろう。そう心に誓いながら家に近づくと家の方が何だか騒がしかった。

 ただならぬ雰囲気を感じたのは自分の家の前にパトカーが止まっているのを確認してからだ。平屋の玄関は開けっ放しにされ、制服警官が忙しそうに出入りしている。どうしてよいか分からず立ちすくんでいると一人の男が声をかけてきた。

「朝倉 志保さん、ですか?」

 声をかけてきたのは白髪頭が特徴的な男性だった。公務員のような生真面目そうな雰囲気と、がっしりとした体躯で、いかにも警察官といった印象だ。

「はい」

 志保は訳も分からず返事をしたが、その混乱がありありと伝わったのだろう。目の前の男が発した次の言葉は志保を気遣うものだった。

「すみません、お騒がせしております。志保さん、大丈夫ですかね。まずは落ち着いてくださいね。大丈夫ですので」

「あ、はい」

 志保の心拍数は段々と平静を取り戻し、少しだけ意識がクリアになってきた。

「何があったんですか?」

「そうですね、車の中で少しお話しできますか?」

 男性は飛び切りの営業マンのような笑顔で志保をパトカーに案内した。


「私、北上警察署の酒井、と申します」

 そう言いながら警察手帳を提示する。ドラマのような展開に志保の心拍数は少しだけ上昇した。

「実は志保さんのお母さん、美由紀さんには今警察署の方でお話を伺っているんです」

「母は何か犯罪に巻き込まれたんですか?」

 志保はそう言いながら母の心配をする。

「実は、十年以上前にある女児が誘拐される事件がありまして、その際の重要な情報をお母さんに聞かせていただいている次第です」

「母は何かしたんでしょうか」

 雰囲気を察した志保は質問を変えた。男も志保の雰囲気を感じ取り営業スマイルを消した。

「そうですね、直ぐに分かる事ですからお教えしますが、実はお母さんは誘拐の容疑で逮捕されました」

 逮捕?たいほと言った?母が逮捕。

「母が、十年前に誘拐をしたという事でしょうか?」

「はい、そうです」

「誰を、誘拐したんですか?」

「貴女です、志保さん」


 志保はその後、警察で事情聴取をされた。三十分前には警察で被害者として事情聴取されるなんて夢にも思ってもいなかった。

 それと同時に誘拐事件のあらましに関して説明を受けた。

 美由紀は志保が三才の時に産みの母から誘拐した。その後自分が母親であるかのように志保を育てていたのだ。

 知らない事実が続々と明かされる中でも、志保が声を上げる程驚いたのが美由紀の若い時の写真だった。その姿と雰囲気が志保の夢に出てくる刃物を持った女とそっくりだったからだ。


 美由紀はその後有罪が確定し、志保は児童養護施設で引き取られることになった。児童養護施設と聞くと普段とは違う生活を想像しがちかもしれないが、志保にとっては悪くない環境だった。もちろん仲間と喧嘩をすることもあったけれど、一番の進展は悪夢を見なくなったということだ。

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