4 プロトコル



 施錠されていた鍵を開け、自宅のドアを押す。23:02。

 部屋に明かりはなく、わずかな物音も聞こえない。おかえりなさいの呼び声もない。スミレはきっと、すでに眠りに就いているのだろう。荷物を置き、僕自身の寝室を覗いてみるが、当然そこには何の気配もない。

 スミレの姿を確認しておきたくて、僕は彼女の部屋をそっとノックする。応答はなかったが、構わず部屋に入る。暗闇に目は慣れ始めていた。ベッドの上に、スミレの姿を認めることができた。そしてスミレは、まだ眠ってはいなかった。上体を起こし、壁に背をもたれかからせながらぼんやりと座っていた。

 その表情は、はっきりと見定めることはできない。

 ただいま、スミレ。僕はそっと声をかけた。

 スミレはちいさくうなずくだけで、声に出して返事をしなかった。

 話したいことがあるんだ、と僕は言う。となり、座ってもいい?

 スミレはまた、無言でうなずくだけだった。

 僕はベッドの縁に静かに腰を下ろす。スミレとの距離が近くなったことで、僕はある事実に気づく。


 スミレは泣いていたのだ。


 どうしたの、スミレ。僕は硬直した心地でそう尋ねる。それに対してもスミレは、首を振るだけで何も答えなかった。僕はもうすこしだけ身を寄せて、そっとスミレの頬に触れる。泣いているじゃないか、と確かめるように僕は言う。そして尋ねる。ねえ、どうして泣いているの?

 何でもありません、大丈夫です。これまでの僕の記憶にない、感情のふるえを抑えきれない声色でスミレは言った。大したことじゃありません、どうか、どうか心配しないでください。

 心配しないわけがない、と僕は感情的に答える。スミレのほそい肩にそっと手を触れ、さとすような口調で僕は言う。スミレ、こっちを見て。

 小刻みにふるえながらもスミレは、言われるままゆっくりと、僕に顔を向ける。

 ねえ、お父さんを信じてほしいんだ。泣き濡れたその顔を真剣に見つめながら僕は言う。頼りないと思うかもしれない、でも、信じてほしい。信じて、教えてほしい。いったい、どうして泣いているの。心配しなくていいから、大丈夫だから、ごまかしたりしないで、お父さんにその理由を聞かせてほしいんだ。

 そして僕は決意を込め、スミレの瞳を覗き込む。涙に潤んだその視線はそっとふせられ、ためらうようにちいさく揺れた。何かの均衡を保とうとするような水面下の葛藤があって、そしてそれは破られて、再び大粒の涙をあふれさせながらスミレは言った。大丈夫です、覚悟はできています。こうなることはわかっていました。だから、ほんとうに、いままでありがとうございました、お父さんのことは、絶対に、絶対に、絶対に忘れませんから!

 矢継ぎ早に繰り出される唐突な言葉に混乱しつつも僕は、ともかく泣きじゃくる娘の肩をそっと撫でる。神経質な痙攣を増すそのちいさなからだを、なんとか落ち着かせたいと焦りを抱く。ねえ、どういうこと? 僕は尋ねる。何を、いったい、何のことを話しているの? 大丈夫だから。不安がることは何もないから、だからスミレが何を心配しているのか、くわしくお父さんに聞かせてよ。

 〈大統領〉がわたしを〈養子〉に迎え入れることは、知っているんです。息苦しそうにしゃくりあげながらスミレは言う。きょうの会食が、そのために行われたことも、知って、います。仕方のないことだとはわかっています。それが、誰のためにもいいことなんだと、理解、しています。わたしはお父さんに苦労をかけてばかりだし、笑ったり、喜んだりするのが、苦手で、可愛げなんか、全然、ないし、それに、それに。

 スミレはためらうように口をつぐみ、ぎゅっと唇を噛みしめると、そのまましばらく黙り込む。

 でもけっきょく、スミレはふるえながら口を開いて、その言葉を放つ。


 それにわたし、知っているんです、わたしはお父さんの、実の娘じゃないことを。


 まるでその、自分自身の口にした言葉に絶望してしまったかのように、スミレは甲高く嗚咽し始める。悲痛な声で泣き始める。まるで9年前のあの日、スミレが最後に〈癇癪かんしゃく〉を起こしたあのときのように、ひどく拡散的な仕方でスミレは泣いた。何もかもが悲しくて仕方がないというふうに、当たり散らすようにスミレは泣いた。

 あのときも、いまも、おなじように、まるでこの世の終わりのようにスミレは泣き始めたのだ。


 僕はその、無防備な姿をじっと見つめる。

 強い痛みが胸にきざす。

 不安の塊そのもののような慄きを、からだの深部に分かちがたく感じる。

 いま、何をすべきか、何かできるかを、切実な思いでひとつひとつ、考えていく。

 でも、僕がやれることなんて、初めからひとつしかなかったのだ。


 スミレ、こっちを見て。僕は短く声をかける。その言葉は、泣きわめくスミレの耳には入らない。もう一度言う。スミレ、こっちを見て。でもスミレは、返事をせずに泣き続ける。僕の言葉はまだ、スミレには届かない。距離がある。僕とスミレのあいだにはまだ、目には見えない距離がある。

 スミレ! そう声を上げると僕は、慟哭するスミレのからだを無理やり強く抱き寄せる。そうするよう言われたからじゃない、〈父親ごっこ〉を演じるためでもない。僕は自らの意思で娘のからだを強く抱きしめる。発熱するそのちいさなからだを、抑え込むようにしっかりと抱きとめる。そしてすぐ間近になったスミレの耳元に、その心に浸透させるように、僕は言う。スミレ、聞いて、〈深呼吸〉だ。深呼吸。まずはそれだけでいい、ゆっくりと、深呼吸だけをしよう。ほら、吸って。吐いて。吸って。吐いて。

 ふるえる声を上げ続けるスミレは、でも、ともかく僕の言葉を受け入れるように、乱れた呼吸をわずかずつ、そのリズムに合わせようと努力する。吸って、吐いて。吸って、吐いて。獰猛に荒れ狂うような嗚咽の衝動を、スミレは一進一退しつつもすこしずつ、飼いならそうと抑え込む。吸って、吐いて。吸って、吐いて。


 吸って、吐いて。吸って、吐いて。


 しゃくりあげながらもスミレは、そのゆるやかな呼吸のリズムを、時間をかけて受け入れていく。

 無音の時間が戻り始め、ときどき痙攣的に起こる荒い息遣いのみが、それをわずかに乱すだけになる。

 でもそれも、徐々に弱まっていく。

 部屋にはまた、平穏な静寂が取り戻されていく。


 〈癇癪〉は収まった。スミレはもう、泣き止んだのだ。


 静まり返った部屋のなかで、僕はもう一度、先ほどの言葉を繰り返す。スミレ、こっちを見て。からだをすこしだけ離し、僕はスミレをじっと見つめる。赤らんだスミレの瞳が、不安げながらも僕を見返す。僕たちは見つめ合う。

 見えない距離はもう、どこにもない。


 そのおでこに向けて、僕はかるく〈頭突き〉をする。


 予想外の僕の行動に驚いて、スミレはぎゅっと目を閉じる。からだがちいさく硬直する。そのまま、互いのおでこをくっつけ合わせた姿勢のままで、僕は言う。スミレ、忘れないでほしい。スミレはお父さんの娘だ。何があっても、スミレはお父さんの娘なんだ。だから言わないでほしい。実の娘じゃないなんて、そんなことは言わないでほしい。血がつながっていないなんて関係ない。そんなつながりがなくたって、お父さんとスミレは親子なんだ。これまでもそうだったし、これからもそうだ。頼りないと思うだろうけど、お父さんはスミレの父親だ、それだけは絶対に、何があっても、変わらないから。

 おずおずと開かれたスミレの瞳は、ほとんどゼロ距離に僕を見つめる。不安げに、でも何かをそっと、確かめるように。僕は目をそらさない。そらさないまま僕は言う。〈大統領〉がスミレを〈養子〉に迎えたいと提案したのは、確かにそのとおりだった。〈大統領〉はそのつもりだったよ。でも、お父さんにはそれを受け入れるつもりはいっさいなかった。そんな申し出なんて絶対に認められなかった。だからもちろん断ったよ、きっぱりと拒絶した。だからスミレが〈大統領〉の娘になることはないんだ。スミレはこれからも、お父さんの娘のままだ。

 断ったんですか。意外そうな声でスミレは言う。そして尋ねる。でも、〈大統領〉は、それを承諾したんですか?

 承諾か、どうだろう。僕は困って、あいまいにつぶやく。さっき、〈大統領〉にウィスキーをぶちまけて席を立ってしまったから、彼が承諾したかどうかまでは、わからないな。

 ウィスキーをぶちまけた!? スミレはびっくりしておでこを離すと、見開いた目で僕を見つめる。

 まあ、その、いろいろあって。しどろもどろに僕は答える。嫌なことも言われて、我慢できなくて。もちろん、何があったとしても、そんなのは褒められた行動ではないんだけれど。

 お父さん、いったい何をしているんですか、相手はあの〈大統領〉ですよ? 無表情のままでスミレは言う。でもたぶん、気持ちとしては呆れ、苦笑してしまっているのだろう。涙の跡を拭き取りながらスミレは言う。わかりました、あす、いっしょに謝りに行きましょう。大丈夫です、わたしもいっしょなら、〈大統領〉も無碍にはできないはずですから。

 いいや、あすはお父さんひとりで謝りに行くよ。僕はきっぱりとそう伝える。お父さんだけの力でそれをやる。しっかりと謝って、そしてちゃんと承諾を得られるよう頑張って説得するよ。

 そうですか、わかりました。案外とすなおにスミレはその言葉を受け止める。しっかりと僕の目を見つめて、スミレはつぶやく。〈大統領〉はあのとおり我の強い人ですから、じゅうぶんに気をつけてくださいね。

 ああ、そうするよ、と僕は言う。

 お父さん、とスミレは呼びかける。

 なに?

 きょうもいっしょに眠ってくれませんか? おずおずと、遠慮がちにスミレは言う。二日連続は、ダメですか?

 何日連続だって構わないよ。笑いながら僕は答える。いいよ、でも待ってて。歯磨きをして、寝支度を済ませてくるから。

 はい、とスミレは答える。立ち上がり部屋を出ようとする僕へ、スミレはまた声をかける。あの、お父さん。

 僕は振り返る。

 真剣な眼差しで僕を見つめながらスミレは口を開く。お父さんがわたしのお父さんでいてくれて、良かったです。ありがとうございます。無表情のまま、訥々とつとつとした口調でそう告げる。

 でもそこに、スミレの〈笑顔〉を僕は感じる。

 お父さんもだよ。ほほえみながら僕は答える。お父さんのほうこそ、スミレが娘でいてくれること、い続けてくれることを、心の底から、真剣に、とてもとてもうれしく思っているよ。


 *   *   *


 夜が明けてすぐ、僕は〈首席補佐官〉へと電話をかける。まだ早い時刻ではあったものの、数コール後に彼女につながる。

 〈大統領〉と面会をしたいのだと、僕は伝える。

 昨夜、何があったのですか。その申し出に、不安を隠せない声で彼女は尋ねる。

 ちょっとした口論があって、と僕は説明する。それで僕が一方的にウィスキーをぶちまけてしまったのだと伝えると、電話口の向こうで〈ぶっ〉と吹き出すような声が聞こえた。わかりました、時間が取れるかどうかはともかく、伝えます。後ほどまた、返答します。ふるえを噛み殺すような声で苦しげにそう答えると、通話は切れた。

 数分後、〈首席補佐官〉から折返しがあり、このあとすぐならすこしだけ時間が取れるとのことだった、と状況を伝えた。〈公設第一秘書〉がすでに車を出しているから、迎えが来たらそれに乗るだけでいいと彼女は言った。お礼を伝える僕に、頑張ってくださいねとだけ、彼女はちいさな声で答えた。

 迎えはほんとうにすぐにやってきた。呼び出しを受けるまま、急ぎ足に僕は玄関のドアに手をかける。

 あの、お父さん。

 その背中に、スミレがふいに声をかけた。

 僕は振り返って、なんとなく不思議な気分でその姿を見つめる。いってらっしゃい。おずおずとした声でスミレは言う。そのことにどこか、軽く違和感を覚える。その原因にはすぐ気づく。考えてみれば僕は、これまでいつも見送る側だったのだ。こうして誰かに見送られるという経験は、いままであまりなかったのだ。

 いってきます。僕は快活な気分で言う。そしてスミレに近づくと、ぎゅっとそのからだを抱きしめる。すこしのあいだ、お留守番よろしくね。

 スミレはうなずくと、そっとちいさく手を振って、名残惜しそうに僕を見送った。


 〈大統領官邸〉の応接室はまだ無人だった。ソファに腰掛けるよう促されたが、僕は立ったまま待つことにした。07:12、朝の日差しはまだ、白く新鮮さを保っている。

 07:16、ノックもなしに勢いよくドアが開く。射すくめるような強い視線を宿した、〈大統領〉が部屋にやってきた。眉間にしわを寄せ、僕の姿は一顧だにせず直線距離でソファに向かい、ほとんど勢い任せに腰を落として脚を組んだ。かすかに光沢のあるチャーコールグレーの三つ揃いを纏い、整髪も済ませたその出で立ちは、すでにこの時間からも〈大統領〉としての公務が始まっていることを物語っていた。

 タイミングを見計らい口を開こうとすると、やはり僕へは視線を合わせないまま、〈大統領〉は先んじて口を開いた。君も、座ってくれないか。そう言ってから、〈大統領〉はまるでいま自分が脚を組んでいることに初めて気づいたような顔で脚先を見つめ、素早くそれを解くと今度は前のめりにうなだれるような姿勢を取った。表情が見えないことに若干の不安をいだきつつも僕は、言われるがままに〈大統領〉の向かいのソファに静かに腰を下ろす。真下を向く、〈大統領〉の表情はここからも確かめられない。僕が口を開こうとする直前、またしても〈大統領〉はそれに先行した。

 おれに詫びを入れる人間はとても多いんだ、と彼は語り始めた。まあ、わかると思うが。権力の中心にいるということは、つまりそういうことだからな。その声音は、しかしどこか沈痛な雰囲気を宿している。うつむいた姿勢のまま〈大統領〉は続ける。おれにはわかる。けっきょくやつらは本心では何も謝ろうとはしていない。本気で詫びる気持ちなど持ち合わせてはいないのだ。これはある種のパワーゲームにおける〈プロトコル〉にすぎんのだ。そしておれ自身、そのゲームを受け入れてもいる。本心など必要ない。ただ必要な所作をこなして、ルールに則り話を前に進めればそれでいいのだ。そこに心など必要ない。うんざりするほどたくさんの本心のない謝罪というものを、事実おれは、受け入れてきた。

 〈大統領〉は顔を上げ、そして僕を見つめる。


 だからおれもまた、あいつら同様本心で詫びを入れるということができないかもしれない。


 〈大統領〉は、鬱々とした声でそう言った。その表情は、苦痛に歪んでいるようにさえ見えた。だが、と彼は言う。だがそれでも、おれは君に謝ろう。悪かった。昨夜のおれの発言は君にもスミレにも大変に礼を失したものだった。だからそれを撤回し、詫びる気持ちを伝えたい。これは〈プロトコル〉ではなく、本心だということを、信じてほしい。このとおりだ。


 そして〈大統領〉は、僕へ向けて深々と頭を下げた。


 あまりのことに驚いて、僕はそれを何とかやめさせようと言葉を尽くした。国家元首が簡単に頭を下げるべきではない、それに謝罪しなければならないのは私のほうで、私の昨夜の行為こそ言語道断のものなのだ、スミレに対してはともかく、私に対して頭まで下げる必要は、まったくないはずだ。でもそのような、本心のない〈プロトコル〉などはいまこの瞬間にふさわしくはないのだろう。そう気づき、言葉も半ばに僕は口をつぐむ。

 身じろぎもせず頭を下げ続ける〈大統領〉に対し、ようやく僕は、僕の〈本心〉で報いることを決める。

 〈大統領〉、あなたの謝罪の気持ちは理解しました。僕はそう告げる。そしてゆっくりと、言葉を足す。私はそれを、本心から受け止めたいと思います。でも、そのためにひとつだけ条件をください。スミレは僕の娘です。〈大統領〉の〈養子〉にするわけには行きません。それは絶対にゆずれない。そのことを、どうか、認めてください。

 下げ続けていた頭をゆっくりと上げ、〈大統領〉は僕を見つめる。ああ、もちろんだと彼は言う。それで非礼を許してもらえるのならば。

 その言葉に対し、僕はゆっくりとうなずいてみせる。

 僕たちはしばらくの間見つめ合い、相互の意志がじゅうぶんに伝わったことを、確かめる。

 〈大統領〉もまたちいさくうなずき、それまでの表情をようやく弛緩させ、そしてにやりと笑みを作った。おもむろに僕に向けて右手を差し出すと、それでは仲直りの握手をしてもらえるかな? といたずらっぽく申し出た。うすうす危険を感じながらも僕がその手を取ると、信じられないほどの強さで〈大統領〉は握り返してきた。僕の上げた悲鳴に近い叫び声に対し、いかにも楽しげに彼は笑った。いや、よかった! 君たち親子と、いや君と、仲違いをせずに済んで良かったよ。これからもおれたちは、良き相方でいようじゃないか、な?

 でも、〈大統領〉。しびれるような圧力を右手に感じつつ、僕は何とか声に出す。先ほども申し上げましたが、私自身もまた、昨夜はひどい行いをしました。これもまた、簡単に許されることではありません。私も、謝罪をしなければならない立場です。私の謝罪を、受け入れていただけますか?

 それだよな。〈大統領〉はようやく僕の右手を開放し、いかにも楽しげに僕の言葉を引き取る。もちろん原因はおれにあったわけだが、しかし、国家元首にウィスキーをぶちまけるなんていうのはただごとではない。どんな口の悪い政敵だって、ふつうそこまでのことはしないものだ。共和国の栄誉に誓って、君の謝罪を簡単に受け取るわけにはいかないな。だから君にならって、おれも条件を付けようじゃないか。

 それは、どんな条件でしょうか? 恐る恐る僕は尋ねる。

 〈大統領〉は立ち上がると、窓辺に向かい真新しい朝の光をそのからだに受けた。〈大統領選挙〉は半年後に迫っている、と振り返らずに彼は言った。おれも当然、再選を目指して立候補をする。現状おれの支持率は高いし、〈イースタシア〉勢力の選挙干渉はあるだろうが、まあ、問題はないだろう。

 そして彼は僕へ目を向けると、不敵に笑った。彼は言った。! 君がおれの対立候補となるのだ、それを謝罪受け止めの条件としようじゃないか!

 え、はい? 僕は思わず聞き返す。

 もちろん政権をゆずるというわけじゃない。インタビューのときに熱弁を振るうスタイルで彼は言う。おれもしっかりと戦うぞ。次期〈大統領〉を決めるのはあくまで国民だ。そしておれは、おれが選ばれるよう全力を尽くす。だから君も君で全力を尽くすのだ、おれが言いたいのはそういうことさ!

 いやいや、待ってください! 僕は慌てて反論する。私が〈大統領〉なんて、いくらなんでも冗談がすぎます! 動機もなければ、能力だってない。昨夜も言いましたが私はただの凡夫です。凡夫に〈大統領〉が務まるはずもありません。そもそも選挙であなたに勝てるはずもない。何もかもがちぐはぐだ、そんな要求は、あまりに馬鹿げています!

 動機も能力も君にはあるさ。ソファに戻り、満足げな笑みを浮かべて彼は言う。困惑する僕をしっかりと見据え、泰然として彼は続ける。君はスミレの父親だ。この国を救う〈天才少女〉の父親なのだ。君が〈大統領〉としてスミレをサポートすることが形としてはいちばん理にかなっているし、スミレもまた、その状況でこそ全力で君をサポートできるだろう。スミレが力を貸せば、選挙戦でもおれとじゅうぶん戦える。それはおれが保証するよ、スミレの緻密な選挙戦略は、敵になれば実に恐ろしいものだ。そしてそっと目を伏せ、しばし考える時間を置いたあと、再び僕を射すくめる強い眼差しを取り戻して彼は言う。おれがスミレの父親になれないのなら、〈ほんとうの父親〉に頑張ってもらうより他にない。違うか? 君はこれからも、スミレの父親を続ける、続けていく、その覚悟が、あるのだろう?

 直截的な力を宿す〈大統領〉の強い視線を、僕はまっすぐに受け止める。

 目をそらさない。そらすわけにはいかない。その言葉の重みをじゅうぶんに理解し、そのうえでなお、僕はその言葉に対してゆっくりとうなずく。そうです。私はスミレの父親を、これからもしっかりと、続けていくつもりです。

 〈大統領〉はそっと目を伏せ、やや間をおいたあとでにやりと笑い、それでいいと低くつぶやいた。

 ドアをノックする音がした。〈公設第一秘書〉がやってきて、そろそろお時間ですと短く告げる。07:30。

 あまり時間を取れなくてすまないな、この件については、改めてじっくりと話し合おう。〈大統領〉は立ち上がるとまた、企むような笑みを浮かべた。〈ジョニー・ウォーカー〉はまだたっぷりと残っている。おれたちはたぶん、やろうと思えばもうすこし平和にグラスを傾けることもできるだろう。また時間を作ろうじゃないか。それじゃあ、また!

 そして〈大統領〉は颯爽と応接室をあとにした。〈公設第一秘書〉はあとでまた車を出すので、すこしの間ここで待つように僕に告げた。ひとりきりになった応接室で、僕はともかく考えをまとめようとする。物事を整理しようと試みる。でもそれは、うまく形を結ばない。いろいろな要素のひとつひとつがあまりにも現実離れをしすぎているせいで、考えようとしてもそれは、実感として像を結ぶことができない。

 だから代わりにスミレのことを考える。スミレの父親でいることについて、考えてみる。それはくっきりとしたイメージを形作って僕に接近する。そこに付随するさまざまな困難が、慌ただしく目の前に浮かんでいく。そしてそれを受け入れる覚悟は、僕にはもうできていた。娘を愛することが僕にはできる。そのことをいま、確信する。能力があって、必要なのであれば、それはやるべきことなのだ。

 僕はもう、迷わない。


 そのときふいに、〈国家安全保障に関する重大危機警報レベル3〉を告げるブザーとアナウンスが響き渡る。せわしない物音があちこちから放たれ、〈大統領官邸〉の朝の静謐な雰囲気は、跡形もなくかき消されてしまう。

 すぐにもNSCが開催され、きっとスミレも招聘されて、この国に迫る甚大な危機について、対処するすべを探り当てようと苦慮を重ねるのだろう。この国はいま、おびただしい数の困難に取り囲まれている。そして誰かがその困難に、取り組まなければならないのだ。


 僕は天井を見上げ、ぼんやりとそのことについて考えてみる。

 〈大統領選挙〉は、半年後に迫っていた。



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そして、天才少女は大統領の娘になる あかいかわ @akaikawa

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