3 ジョニー・ウォーカー・レッド・ラベル



 〈第一迎賓館〉へ向かう、〈環状第7号線〉はすでに夕闇が迫り始めていた。

 実質的な灯火管制のもと、街路灯への電力の供給は絶たれている。

 きっと、断ることはできないんでしょうね。

 先程とは打って変わって規範的な運転に努める〈首席補佐官〉の車に揺られながら、あきらめの色をにじませて僕はちいさくつぶやく。

 〈大統領〉の指示に、立場上わたくしは反することはできませんと、〈首席補佐官〉は平板な声で言った。けれどもその声音は、いつもの冷酷な響きをすこしだけ失っている。ですが、と彼女は続ける。それはわたくしが彼の指示にじゅうぶん納得しているということを意味しません。言い訳がましく聞こえるとは思いますが、わたくしは精一杯抵抗しました。立て続けに緊急招集をかけて大切な誕生日の時間を奪ってしまったのだから、せめて残りの時間は親子ふたりですごしてもらうべきだと、説き伏せようといたしました。案の定、と言うべきか、まったく聞き入れられなかったわけですが。彼の頭のなかに、今夜の会食が執り行われないというオプションは一切ありません。つまりはまあ、そういう〈キャラ〉なんです。ほんとうに、申し訳なく思うのですが。

 わかりました、と僕は答えた。スミレに目をやると、彼女もちいさくうなずいた。

 でも、〈大統領〉は何を話すつもりなんだろう。流れる景色を眺めながら僕はあてもなくつぶやいた。

 その問いに、答えるものはいなかった。


 簡易的なセキュリティ・チェックを受けて庭苑西門を通り抜け、擬古典主義的壮麗さを誇る〈第一迎賓館〉にたどり着くと、〈大統領〉の〈公設第一秘書〉を名乗る壮年の男が僕らを出迎えた。

 お待ちしておりました、こちらへどうぞ。

 不安げに見送る視線の〈首席補佐官〉と別れ、館内の控室ですこしだけ待たされたあと、まもなく僕らは広漠な大客間へと案内された。

 会食のために設えられたテーブルにまだ、〈大統領〉の姿はなかった。予定していた会合の終了がやや遅れているのだと〈公設第一秘書〉は言った。申し訳ございませんが、ここですこしお待ちくださいませ。

 古典様式の華美を極めた渺々びょうびょうたる大広間にポツリと、僕とスミレだけが取り残される形となった。

 緋色の絨毯も、大理石の壁も、そこに飾られる民族主義的な絵画の数々も、僕ら親子を監視するようにどこかよそよそしい。威圧され続けているような、浸透性の居心地の悪さがじくじくと肌に突き刺さる。

 〈アウェイ感〉が半端ない。

 ねえ、スミレはここで食事をしたことある? 僕は小声で尋ねてみる。ないですよ、とスミレは素早く答える。ここにはよほど大事なお客様しか呼ばれませんから。

 よほど大事なお客様、と僕は繰り返す。それはそうだ、何せここは迎賓館なのだから。わかっていた。わかっていたことだけれど、スミレの口からそう言われると、その事実性が改めて重みを増す。どうしていち下級役人に過ぎない僕がいま、こんなところに座っているのだ? もちろん〈大統領〉が、まさか街場の大衆居酒屋で食事をするわけにもいかないだろうけど、それにしても、迎賓館だなんて、あんまりじゃないか?


 僕たちはその、〈よほど大事なお客様〉なのかな。


 僕がちいさくそうつぶやいた、その瞬間、ほとんど怒声に近い声で取り巻きに矢継ぎ早に指示を繰り出す、壮健な出で立ちの男が部屋に入ってきた。先程の〈公設第一秘書〉が手帳に素早く何かを書き込み、取り巻きの男たちに破り取ったその紙片を渡すと手振りで大広間から彼らを追い出して、そして一礼すると彼自身もそっと部屋をあとにした。いつの間に現れた細身の給仕係が椅子を引き、その男は僕とスミレに向かい合う席に、どかっと勢いよく腰を下ろした。

 いや、呼び出しておいたのにすまないな。〈神殿省〉のやつらはとかく、話が長くてどうしようもない。普段から根も葉もないことばかりしゃべりちらしているからそうなるんだろうな、まったくもって、死んだほうがいいくらいにくだらん連中だよ!


 テレビで目にする顔が、まさにそこにあった。

 〈大統領〉だ。


 お招きいただき光栄です、〈大統領〉閣下。僕は緊張を隠しようもない声でひとまずそう言った。他にどう挨拶をすればいいのか、はっきり言って、検討もつかなかった。

 君がスミレの父親だな。

 〈大統領〉は、射すくめるような貫通力のある直截的な視線を僕に向けた。おそらくひと回りほど年長な彼の姿には、僕が人生を三度繰り返しても現れないような、決断と疲労と自信の堆積した複雑怪奇な地層が重く刻みつけられていた。僕はちいさくうなずくことしかできなかったが、彼はにやりと笑い、つまりこの国の陰の第一級特別功労者だな、とどこか満足げに言った。

 いいえ、閣下、それは違います。わたし自身はこれまで大したことは何ひとつしていません。僕は慌てて、本心からそう答えた。わたしはただの凡夫です。確かにスミレは天賦の才を持っていますが、スミレはそれを自らの力で引き出して、伸ばしていきました。すべてはスミレの努力の結果です。わたしが与るべき栄誉なんて、ひとつだってないのです。

 くだらん謙遜を言うな、その超弩級に国宝級な娘を、君はこの年までしっかりと育ててきたんじゃないか! 人差し指を立てて〈大統領〉は主張した。誇るべきなのだ、君はまる10年にわたってその偉業を成し遂げた。その結果、ほとんど存亡の危機に瀕しているこの国の窮状に、いまやほのかな光が差し始めている。うそじゃない、おれにはその道筋が見えている。それが君の功績だ。その功績を否定することは、誰にも、君自身にだって、出来はしないのだ。

 〈大統領〉は言い終わるとパチンと強く指を鳴らした。食事が運ばれる合図なのかと思ったが、やってきたのはまたも〈公設第一秘書〉で、前かがみにデザートワゴンのようなものを押しながら広間にやってきた。その台座には、古びた書物が無数に積まれていた。

 おれからの〈誕生日祝い〉だよ、スミレ、と〈大統領〉は言った。探していると言っていた植物学分野の各種稀覯書きこうしょだ。あらゆるつてをつかってかき集めた。あとで家に送らせるから、またじっくりと読むといい。

 スミレは興味深そうにそのうちのひとつを手に取り、ページを繰って簡単にその内容に目を通す。ありがとうございます、と無表情のまま言ったが、そこにはほんのすこしだけ、高揚した息遣いがあったかも知れない。

 〈大統領〉は満足げに笑みを浮かべた。

 さあて、もうこれ以上待たせるわけにもいかんから、いい加減に食事を始めよう! と〈大統領〉は手を打ち鳴らして宣言した。今度こそ給仕がやってきて、スパークリングワインを空のフルートグラスに注いだ。スミレには、フルーツが華麗に飾り付けられたノンアルコール・カクテルを。アミューズの皿が運ばれ、給仕係がこまごまと説明を加えようとしたが、〈大統領〉はうるさそうにそれを遮った。きょうはスミレの誕生祝いだ、堅苦しいのは抜きにして、楽しんでもらえればそれでいい。そしてワイングラスをかざし、乾杯の仕草をした。君たち親子に会えてうれしいよ、これからまためまいのするほど忙しい日々が続くと思うが、まあ、ともかくきょうは楽しんでくれ! じゃあ、乾杯!


 *   *   *


 〈大統領〉の健啖家けんたんかぶりには眼を見張るものがあった。


 次々に運ばれる贅の尽くされたポーションの数々を、ほとんど差し出されたと同時に平らげ、代わる代わる別のワインを抜栓していき、飽きることなく食べつ飲みつの動作を繰り返していく。そんなふうにして、〈大統領〉は貪欲に食事を進めた。肥満型にも見えないのに、それだけの量の食物を収めるスペースがどこにあるのだろうかとただ驚くばかりだ。まるで百戦錬磨のスナイパーが次々と敵兵を仕留めていくように、彼は予備動作も休息もなくひとつひとつの料理を食べ尽くしていく。からだの造りが僕のような凡人などとはまるで違うのだと僕は思う。奇妙なほどの納得感を持って、だから彼は〈大統領〉なのだと、そんなふうに僕は感じた。

 そしてそんな精力的な食べ方に呼応するように、とにかく〈大統領〉はしゃべりつづけた。リベラル派マスメディアへの不信、国際的な金融商品に対する税制改革の必要性と予想される各種抵抗、宗教右派の繰り返すうんざりするような欺瞞、〈イースタシア〉勢力の狡猾な偽情報戦略とその盲点、そして半年後に迫った、〈大統領選挙〉の基本戦略。僕には微塵も入り込めないその各種話題に、スミレはその都度ささやかながら的確に応対していた。ときに〈大統領〉はスミレの返答に深くうなずいて、感じ入ったようにじっくりと考え込む瞬間さえあった。まさに僕が先程思い描いた、グロテスクな滑稽さが正確に目の前に展開されていたわけだ。そして僕はただその光景を、埒外から眺めているだけだった。


 〈天才少女〉と〈大統領〉はおなじ視点を共有し、精密にその思考を分け合っているようだった。

 僕はそれを、ただ部外者として観察する。

 この場に僕が共有できるものはなにもない。

 ふたりの間に割り込む余地は、ほとんどどこにもないように思えた。

 そんな時間が、長く続いた。


 これで何皿めの料理になるのか、もはや覚えていないが、ともかく芳ばしく焼き上げられた〈うずらのロースト〉が運ばれてきた。

 食事が始まって、すでにどれだけの時間が流れたのだろう。この大広間には当然のように時計などなく、と言ってこの状況で自らの時計を取り出して確認してみるわけにもいかず、その正確な時刻を測ることはできなかった。でもきっと、2時間くらいは平気ですぎているのだろう、あるいは3時間に近いのかもしれない。だとすればいまはもう、〈21時〉に近いだろうか。例によって〈大統領〉は目の前の料理をぺろりと平らげると、シノン産の赤ワインをひと息に流し込み、それから天井を仰ぎ見て大きく息をついた。〈大統領〉は唐突に、しばしの間口をつぐむ。彼が口を閉ざしてしまうと、この会食で初めての明瞭な形をした沈黙が我々の間に訪れたように思う。僕とスミレも口を開かない。この荘重な大広間には、むしろこの静寂こそが似つかわしいようにも感じられる。しかし、それも長くは続かない。〈大統領〉はそれまで終始険しかった表情をふいに緩めると、相好を崩してスミレを見つめ、ゆっくりとした口調でしゃべり始めた。なあ、楽しんでくれているか、スミレ? 楽しんでくれてほしいんだ。おれは滅多に本心を言わないが、これはほんとうだ。おれはスミレのことを、〈実の娘〉のように感じているんだからな。

 はい、ありがとうございますと、スミレは無表情のままその言葉を拾った。

 〈大統領〉は満足げに微笑んで、給仕係を呼び寄せるとさらにまた、別のワインを開けさせた。


 とすれば、まだ、この会食は続くのだろうか?


 横目でちらとスミレを見やる。いつものことながら表情にこそ浮かんではいないものの、そこには拭えない疲労と、眠気の靄が重くのしかかっているような気がした。

 確証はないが、たぶんそうだ。

 スミレはもう、疲れ切っている。


 意気軒昂と次の話題を持ち出そうとする〈大統領〉を遮って、無謀にも僕は口を開いた。あの、すみません、〈大統領〉閣下。

 〈大統領〉は口をつぐみ、僕へ素早く視線を向ける。スミレに対して向けていた柔和な表情はすでになく、射すくめるような強い瞳の光が戻っている。すこしでも自らの邪魔立てをするものを、徹底排除するかのような仮借のない〈大統領〉の視線。怯む気持ちを必死に抑えつつ、僕は言う。会食はまだ続くのでしょうか? すでにかなりの時間をすごしています。娘は昨晩じゅうぶんな睡眠を取れておらず、きょうも過密なスケジュールをこなしています。できればそろそろ、お暇を願いたいのですが。

 意外そうに、スミレは僕を見る。〈大統領〉はゆっくりと飲み込むように僕の言葉を受け取り、不機嫌そうな表情を崩さないままで僕を見つめる。内心深く動揺しつつ、それでも僕もしっかりとその瞳を見返す。何もかもを弾き返すような獰猛さを秘めたその視線に、死にものぐるいで僕は耐える。目をそらさない。痛苦に満ちた長い時間のすえ、〈大統領〉はおもむろにポケットから時計を取り出すと、ちらとそれに目をやって、なんだ、もうこんな時間かと低くつぶやいた。視線を戻して彼は言った。いや、長く時間を取りすぎてしまったな。父君の言うとおりだ、ここらでもうお開きにしよう。スミレがじっくり眠ることも国家にとっては重要なことだ、すぐに車を出すから、きょうはゆっくりと休んでもらおうか!

 申し訳ございません、不躾なお願いを申し上げました。存外あっさりと〈大統領〉が折れたことに安堵して、僕は定型文的にお礼を言った。本日はお招きいただきありがとうございました。貴重な書籍もいただき、お礼を申し上げます。じゃあスミレ、行こうか。

 いやいや、そうじゃない! と〈大統領〉は、そんな僕の動きを制止した。振り返る僕を見つめ、不敵ににやりと笑いながら彼は言った。おれはスミレにはもう休んでもらおうと言ったが、君は違う、君はまだ行けるだろう? なあ、飲み足りないんだよ。もうすこしおれに付き合うんだ。君に話しておきたい大事な〈要件〉が、まだあるんだ。だから君は残るんだ、いいな?


 *   *   *


 〈首席補佐官〉がスミレを家まで送る。僕と〈大統領〉は、〈公設第一秘書〉の運転する車で〈大統領官邸〉まで向かった。


 車中、〈公設第一秘書〉も含め、僕らはまったくの無言だった。


 やがて官邸に着くと、そのまま〈大統領執務室〉へと通された。いかにもと言った感じのマホガニー製の執務机こそ威圧的だったものの、先程の迎賓館大広間に比べれば部屋はずっと手狭で、ふたりだけであっても空虚な印象は比較的薄かった。もちろんそれで、くつろいだ気持ちになるということは、一切なかったのだけれど。

 ソファに座ってくれ、と〈大統領〉は促した。そしてキャビネットを開けると、そこにはずらりと飴色の砲弾のように無数のウィスキーのボトルが並んでいた。なあ、何かリクエストはあるか? と彼は尋ねる。いろいろあるぞ、好きなウィスキーの銘柄は?

 何でもけっこうです、と僕はつぶやくように言った。すこし考えて、いくぶん挑発的な気分も手伝って、言葉を足す。もし、あるのなら、〈ジョニー・ウォーカー〉の〈レッド・ラベル〉を。

 おいおい、そんな安酒、ここにあると思うのか? 困惑するような表情を浮かべて〈大統領〉は振り返る。その表情のまま、すこしだけ間をおいて、それからふいににやりと笑う。キャビネットの奥のほうから、まさにその銘柄を引っ張り出して僕に示す。実はあるんだな、これが。ときどき学生のころを思い出して、安っぽく飲みたいときがある。なんだ、おれたち気が合うじゃないか、なあ?

 カットグラスになみなみとウィスキーを注いで、そのひとつを僕に差し出した。〈大統領〉は僕の向かいのソファに腰を沈めて、脚を組んだ。互いにすこしだけグラスをかかげて乾杯の動作を示し、その中身を口に含む。平板ながらどこか懐かしい味わいが、揮発するエタノールとともに口蓋を一気に支配する。


 ため息のような重苦しい息を、僕たちはそれぞれにゆっくりと吐き出した。


 閣下。ほとんど睡魔のような重苦しい沈黙にさざなみを立てるように、僕はちいさくつぶやいた。気乗りしないまま、引きずり出すように、僕はその問いを投げかける。先ほどおっしゃっていた、〈要件〉とはいったい、なんのことでしょうか?

 単刀直入に言うが、スミレのことだ。回り道をいっさいしないしゃべりかたで彼は言った。できるだけ早く、スミレをおれの〈養子〉に迎えたい、ということだ。

 僕は自分のグラスをもう一度口に含み、ゆっくりと、咀嚼するように味わった。

 痛みと渾然一体となった甘い風味が、僕の感覚受容体を熱感をともなって刺激する。

 それは、なぜですか? たっぷりと、長い文章を紡げるだけの時間のあと、ようやく口にできたのはたったそれだけの言葉だった。

 おれは最終的にはスミレにこの国の〈大統領〉を務めてもらいたいと思っている。あくまで野太く力強い声で彼は答えた。むろんすぐにではないが、可能な限り早いタイミングでそれを実現させたい。そのためには、端的にスミレには〈おれ〉になってもらいたいのだ。おれを貪欲に学んでほしい。その状況を生み出すには、おれたちはいま以上にもっと密接に関わる必要がある。それこそ、親子のように。それならばほんとうの親子になってしまうのがいちばん早いということだ。それがおれの結論だ。

 彼は僕に視線を向けていたようだったが、僕は頑なに目を合わさなかった。手元のグラスに視線を落として、その液面を見つめていた。彼の言葉にも、僕は何も答えなかった。

 あの子の心は〈ガランドウ〉だ、と彼は言った。あの子には強い欲求や意志のようなものは宿っていない。その心を動かすには、それだけ強い刺激が必要なんだ。親子の関係を結ぶことで、おれはあの子に強い刺激を与えられる。そうしなければ、あの子は主体性を持ってこの国を率いようとは思わないだろう。せいぜいがただの優秀な官僚として、与えられる課題をこなすだけの無目的な存在で終わってしまう。それはあまりにもったいないことだ、この国にとっても、あの子自身にとっても。だから、なあ、簡単なことでないことは百も承知だ。だが、あえて言う。あの子をおれにくれないか? あの子を育てることをおれに任せてくれないか? けっきょくそれがいちばんいいことなんだ。それですべてがうまく行く。だから、どうか決断をしてほしい、どうかあの子を、おれの〈養子〉にさせてくれないか? それがおれの、〈要件〉だ。

 僕はそのときようやく、〈大統領〉の目を見た。

 意外にも、あの射すくめるような攻撃的な視線はそこにはなく、懇願するような切実さを秘めた、不安げな眼差しが僕に向けられていた。

 僕はすぐに目をそらした。そしてちいさく首を振った。できない、と僕は乾いた声で答えた。そんなことを認めるわけにはいかないと、僕は弱々しく拒絶した。

 なぜだ、と〈大統領〉は言った。威圧的な声でなく、絞り出すような声だった。

 娘だから、とふるえを感じながら僕は答えた。スミレは僕の、娘だから。

 〈大統領〉は静かに天井を仰ぎ見た。深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。おもむろに席を立つとそのまま窓辺まで行き、レース越しに、実質的な灯火管制の敷かれた暗い首都の様子をぼんやりと眺めた。それからゆっくりと、つぶやくように言った。なあ、おれは君のことが好きだ。君はむろん、おれのことは好きでないだろうが。そもそも君は、根っからのリベラル派のようだしな。低く笑って、〈大統領〉はこちらを振り向く。なあ、スミレはどうだろうな? 保守派なのかな、それともリベラル派なのかな。まだそんな年齢でもないか。

 僕は、答えなかった。

 スミレの母親のことは調べているよ、と彼は言った。〈分離独立派〉はリベラル派というか、極左過激派だな。おれは彼女のことを言っているわけじゃない、わかるだろう? 彼女は君と結婚する前に、別れた前夫がいたな。人里離れた山奥の祠を管理しているが、〈神殿省〉には所属しない在野の神官だ。相当な切れ者で、天才気質の男だったようだな。そして秘密裏に、〈分離独立派〉に支援を重ねていたことが疑われている。たぶん彼として、思想的に共鳴するものがあったのだろう。これは憶測だが、スミレの母親はきっと交際中にはその事実を知らなかった。それを知ってしまったからこそ、万難を排してその男と別れざるを得なかったのだ。それは彼女には受け入れることのできない世界観だったのだろう。まあ、大した話じゃないさ。彼ほど刺激的ではないかも知れないが、そのあとで君のような良き夫とも巡り会えたわけだから。

 彼はソファに戻ると、深く腰を下ろしてまた僕と相対した。そして言った。別れた前夫はなかなかの変人だったようだな。人付き合いも不得手で、表情にも乏しく、何を考えているのかわからないと評判だった。感情がないとさえ言われた。まあ、しかし、〈天才〉というのはみんなそんなものかもしれんがな。

 何が言いたいのですか。押し殺した声で僕は尋ねた。

 もう無理をしなくてもいいということさ、と彼は答えた。あの子の相手をするには、君はあまりに〈まとも〉すぎるということだ。重すぎる。はじめから無茶だったのだ。君とあの子では、何もかもが違いすぎた。はっきり言って、苦労の連続だっただろう。重荷に感じることだらけだったろう。自分はあの子にふさわしくないと思うことの繰り返しだっただろう。そんな苦しみを抱えたまま、君は走り続けてきたのだ。たったひとりで。だが安心していい、おれがすべてを引き受ける。あの子とおなじ視点に立てるおれがあの子をしっかりと引き受ける。〈ガランドウ〉な心のあの子を、強く引っ張っていく。それですべてが解決する。何もかもがうまく行く。だからもう、君は無理をしなくていいんだ。これ以上、無理をしなくてもいいのだよ。

 僕はそっと目を閉じる。

 無理。

 その言葉をそっと思い浮かべてみる。

 無理。

 スミレとすごしたたくさんの日々のことを思う。無理。

 無理?

 〈大統領〉、と僕は声を出す。ゆっくりと、思っていることをひとつずつ言葉にしていく。〈大統領〉、たしかに僕は、自分がスミレにふさわしくないのではと、ほとんど毎日のように思っています。知的水準は遠く及ばないし、意思疎通が円滑にいっているとも思えない。必要なときにちゃんと喜ばせてあげられているかいつも不安だし、危険から守ってやることさえきっと満足にはできない。これで父親と言えるのかと、頼りなく思うばかりです。

 でも、と僕は言う。それでも僕は、たしかにスミレの父親なんです。ふがいないけれどどうしようもなく、僕はスミレの父親なんです。生物学的なつながりがどうであれ、そんなことは関係ないんだ。頼りなくても、張り合わなくても、たとえ〈能力〉が足りなくても、それでも僕はスミレの父親なんです。ゆずることはできないし、ゆずりたくもない。僕は絶対に、それを手放したりはできないんです。手放すわけにはいかないんだ。

 そして、と僕は最後に付け加える。そしてこれだけは言っておきたいんだが。

 僕はソファから立ち上がると、カットグラスにまだ8割以上を残している〈ジョニー・ウォーカー・レッド・ラベル〉を〈大統領〉の頭にぶちまけて、怒りに任せて声を張り上げた。


 二度と言うな、あの子の心は絶対に、絶対に〈ガランドウ〉なんかじゃないんだ!


 そのまま何も言わず僕は執務室をあとにする。廊下に待機していた〈公設第一秘書〉が僕の剣幕に驚いたようだったが、引き止めることはしなかった。誰も僕を追わなかった。警報も何も鳴らなかった。僕はひとり大統領官邸を抜け出して、灯火管制下にあるひと気のない暗い首都の街路を歩きながら、波打つ感情を抑えつつ、何も考えず、脇目も振らず、自宅のある官舎区へと足早に向かった。



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