第6話 「石に刻むように」
予感っていうんだろうか。
その日は、何となく感じた。
永遠に訪れて欲しくないと願っていた「その時」の気配を。
午前11:00『cafe miracle 』店内。
俺達は、久しぶりに顔を合わせた。
上品なデザインのベージュのワンピースの知華さんは、今日も美しかったけれど、いつもより言葉少なで疲れもみえる。
忙しかったのかな?
目元がくすみ、瞳が充血しているよ。
「ニューヨークに行く事になったの」
そう切り出して知華さんは目を伏せた。
「えっ、今度は『アメリカ自然史博物館』を見に行くんですか?」
俺の惚けた言動に、知華さんは眉を下げた。
「ううん、引っ越すの。だから瑞季くんと会うのも、これで最後になるわ」
「…… 急ですね。何かあったんですか?」
「夫がね、向こうの学校呼ばれたの。以前から話はあったんだけれど、漸く行く気になったみたい」
そう言う知華さんの声音は、いつもより沈んでいる。
「旦那さん……単身赴任しないんですね」
「うん。『一人じゃさみしい』って」
「知華さん仕事は?」
「取り敢えず休業かな」
「企画、残念ですね。あんなに頑張ったのに」
「鈴木くんに引き継いだから、きっと上手くやってくれるわ。企画展が始まったら瑞季くんも是非見に行って頂戴」
「はい」
余計な事は言わずに笑顔で別れるのが、お互いにとってのベストだと分かっていた。
でも、この時の俺は、当たり障りの無い思い出になるくらいなら、小さくても疵になりたいって思ったんだ。
「知華さん、俺は貴女が好きです」
彼女は息をのみ、瞳を広げて俺をじっと見る。
「知華さんは、ここでやれる事が沢山あります……このまま他の人に尽くして枯れる必要はないですよ。俺なら、貴女に全部捧げます。日本に残りませんか?」
俺は、自分勝手で無責任で傲慢な告白をした。
こんなに簡単に俺から離れていってしまう人に、忘れられたくなくて。
罵られてもいい。
頬を張られてもいい。
さあ、思い切りフって。
そう思って彼女を見つめた。
知華さんは、微笑んだ。
そして、瞳の端から涙がこぼれた。
それは、叩かれるより遙かに痛く、深く、俺を抉った。
「……ふふっ、熱いなぁ瑞季くん」
そう言った知華さんの目からもう一筋の涙が流れる。
「ダメだよそんなこと言っちゃ。君には夢がある。食料不足を解消して、豊かな地球を守っていくんでしょ?」
彼女はゆっくりと俺に問いかける。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
「瑞季くん、夢を叶えて」
「…… 分かりました。でもいつか、お金を返しにいっても良いですか?」
知華さんは首を横に振った。
「あれは、将来あなたに余裕ができた時、必要とする誰かの為に使って。私たちは、きっともう会わない方が良いよ。さよなら」
そう言って知華さんは唇をキュッと結んで立ち上がった。
「俺はっ、知華さんの事を本気で応援しています。いつか教科書を変えてしまう位の発見、楽しみにしていますから」
「私も、心から瑞季くんを応援してる。『Nature』の表紙を飾るの待ってるね」
「任せて下さい。成果も出して見せますよ。誰もが飢えることのない未来を作ってみせます」
そう言って俺たちは、微笑みを交わして別れた。
知華さんは大人だった。
俺の何倍も。
こんな別れじゃ、綺麗な思い出じゃないか。
悔しくて。切なくて。嬉しくて。
実らない恋でも……愛しい。
さよなら
∗∗∗
幾数年の月日が流れた。
『Japanese researchers Kenichi Hayami won the Nobel Prize …………』
スペイン広場の脇にある老舗のティールームで、ニュースをチェックしていると、こんな話題が飛び込んできた。
負けられないな。
思わずそう思ってしまった自分に苦笑しながら、コクとキレの申し分のないダージリンセカンドフラッシュを味わう。
華やかな香りが鼻から抜ける。
美味しい。
知華さん。
俺、紅茶にも詳しくなったんだよ。
博士号まで取得したけれど、俺は今、大学の研究室にいない。
食糧不足、栄養不足は未来の課題ではなくて、現在進行形の問題で日々深刻になっている。
将来にわたるカロリーやタンパク質不足を科学的に解決することも大切だけれど、研究成果もっと実務的に生かしたいと思った俺は、飢餓の撲滅を目的とする専門機関に籍を置いている。
知華さんと出会わなかったら、俺はこんなにも世界を意識する事は無かったと思う。
貴女は、俺に色んなものを刻んでいった。
俺の心は石のようで、砕けても刻まれた思いは消せないんだ。
一体いつまで? 自分でも呆れてしまうけれど。
そのうち何処かに沈めるからさ、お願い。
もう少しだけ、俺を照らして欲しい。
A love carved in stone. 碧月 葉 @momobeko
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