第5話 「爪痕」

「ううっ」


 ズキズキと頭が痛む。

 目を開くと見慣れぬ天井。

 えっと、ここは……

 回らない頭を無理矢理起動させ、状況把握に努めた。


 ……知華さんっ⁉︎


 恐竜博物館、金沢の茶屋街、美味しい食事、アルコールに敗北……醜態。

 昨日の記憶が蘇り、ハッとして身を起こした。

 

 ズキンッ


 痛む頭を押さえ、周りを確認する。

 裸の知華さんが隣に横たわっているなんてことは無く、俺の服装も昨夜のまま。


 ほっと胸を撫で下ろし、喉がカラカラな事に気がつく。

 ベットサイドには、ペットボトルのミネラルウォーターが置かれていた。


 水分を補給して、時計を確認する。

 7時30分

 ゆっくりめであるが、寝坊ではない時間。取り敢えず一安心だ。


 ベットから降りて、テーブルに置かれた黒レザーのボディバックからスマホを取り出し、知華さんへメッセージを送った。


瑞季:今起きました。

   昨夜はご迷惑をお掛けしました。


 すると、直ぐにメッセージが返ってきた。


知華:おはよう。

   調子は大丈夫? 朝ご飯食べれそう?


瑞季:少し頭が痛みますが、大丈夫です。

   ご飯は少しだけ腹に入れたい感じです。

   シャワー浴びてからでいいですか?


知華:良かった。

   準備出来たら、教えてね。


瑞季:了解です。


 昨日はあのまま寝てしまったのか。

 思い出しながら、部屋を見渡すと色々な事に気づいた。


 昨夜は確か、鞄も靴も身につけたままだったよな。


 鞄はテーブルに置かれていたし、靴に至ってはクローゼットの前に綺麗に揃えられており、ベットの脇にはスリッパがあったので俺はごく自然にそれを履いていた。


 シャワー室に入ると、シャツのボタンがひとつ、そしてジーパンのボタンが外されているのに気がついた。


 知華さん……。

 有難いと気持ちと、居た堪れない気持ちが込み上げてきた。

 と同時に、知華さんの指が俺のボタンに掛かる様を想像してしまった。

 あの時、俺の上にあった彼女の触感が蘇り、朝から不埒な気持ちが込み上げてきた俺は、慌てて熱いシャワーを浴びた。


∗∗∗


 せっかくのビュッフェスタイルにも関わらず白米に味噌汁、そして梅干ししか取れなかった俺。

 一方、知華さんのトレイの上には、クロワッサン、スクランブルエッグ、キッシュ、スモークサーモン、温野菜などが所狭しと並んでいる。


 俺は味噌汁を口に含み、ほっと息を吐いた。


「少しは生き返った?」


「はい…… もう、ほんと、何と言ったらいいか。穴があったら入りたいです。昨夜は、介抱してもらってしまい申し訳ないです」


 改めて詫びる俺に対し、知華さんも頭を下げた。


「そんな事ないわ。私が早く気がつかなきゃいけなかったのよ。昨日は私も浮かれていたのかも。ごめんなさい」


「いえ。いい歳してセルフコントロール出来なくて恥ずかしいです。…… それで、俺、酔っても記憶力はしっかりしている方なんですけれど、昨夜部屋に戻るなりベットでコケて寝るほかに、何もやらかしてはいないですよね?」


「大丈夫だったわよ。朝まで見守った方がいいかなと思ったけれど、寝ちゃってからはすやすやと気持ち良さそうで。だから私も安心して部屋に戻ったのよ」


「良かった……」


 俺はほっと胸を撫で下ろした。


「ひょっとしてブラックアウトしたことでもあるの?」


「はい。昔一度だけ、記憶を無くした事があるんです。目が覚めたら隣に女の子がいて。俺、眠くなって寝た記憶しかないのに……。驚いたし、めちゃくちゃ後悔しました」


  しかも、半裸の熟睡写真を撮られていて、それが女子の間で回覧されていたというオマケ付き。

 それが初体験であろうというこの辛さ、男友達は羨ましがるばかりで分かってくれなかったし、俺史上最悪レベルの消したい過去だ。


「それはえらく痛い記憶ね。……まあでも、誰しも若いうちはひとつや二つあるものよ」


「知華さんもありますか?」


「うーん…… 秘密」


「ずるいなぁ」


 ニッと笑った知華さんに、俺は口を尖らせて返す。


 あれ? この話ってこんなたわいもなく朝の会話で話せるものだっただろうか。

 10代の俺に致命傷を与えた、誰にも触れられたくない思い出だったはずじゃ……。

 触れれば常に血を流していた深い傷は、いつの間にちょっとした古傷に変わっていたようだ。


 爽やかでゆったりとしたクラシックが流れている。

 美味しそうにクロワッサンを頬張る知華さん。

 それを見ているだけでこんなにも心が満たされる。

 今日この朝は、誰がなんと言おうと俺だけのもの。



∗∗∗



 夏休み期間はもう少しで終わる。

 コスモスを多く見かける季節になったというのに、俺は北陸旅行以来、ずっと知華さんに会えていなかった。

 

 たった2日の旅行だったけれど、あの時間は知華さんを更に俺の中の特別な存在にした。

 にも関わらず、彼女の人生の中での俺は、背景と同化しているモブキャラクターの一人に過ぎないんだろう。

 会えない時間は、そんな事実をひんやりと突きつけてくるようで、俺の胸は締め付けられる。


 このままでは辛いな。


 冷静な自分は、それが危険な思考だという事に気づいている。

 けれど、俺の恋心は彼女の中に少しでも自分を刻みたいと望んでいる。

 知華さんのハートを引っ掻いてみたいと。

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