ロード・トゥ・オオサカ

松藤四十弐

ロード・トゥ・オオサカ

 FM802に合わせたまま、車は高速道路を走っている。ラジオは無音から雑音へ。そして、知らない曲が流れ始め、また雑音になり、無音が聞こえ始める。それが繰り返される。

 大阪に近づいている。

 運転席には、まだ緊張した面持ちの女子大生がいる。運転免許は冬休みにとったばかりで、ハンドルの10時のところに左手、10分のところに右手を置いている。

 俺は助手席に座り、彼女と流れる景色を見ていた。そして、彼女に話しかける。こんなふうに。

「むかし、親父に言われたことがあるんだ」

「はい」

 左車線を時速80キロメートルで走ることは問題ないようだったが、こちらに視線を送るのは怖いようで、車に乗ってから、目は一度も合っていない。

「親父が言うには、ハンドルは8時20分の方がいいって。心臓より下に腕を持ってきた方がいいらしい。なぜ心臓より下の方がいいのかは忘れたけどね。……もちろん、そうする必要はないけど」

「はい」

 緊張はとれていない。でも、だからこそ彼女に運転を頼んだ。

 俺はもう一度、彼女を見る。完璧に緊張が解ければ、美人だろう。

「パパ活は何度かやってるって言ってたけど」

「はい。ご飯に行ったり、ただカフェで話したり。でも、定期で会っている人はいません」

「単刀直入に聞くけど、そういうことは?」

「そういうことって大人のほうですか? ないです」

「じゃあこういう、運転のお願いは?」

「運転手ですか?」と彼女は笑った。「ないです」

 十万払うから大阪まで運転してくれ。ここから二時間もかからない。

 出会うなり、そう言われた、明るい髪をした女の子は、ちょっと怯えた表情をしていた。

 それだけですか?

 そう。約束通り、性的なことは一切しない。体に触れることも、触れさせることもしない。どう?

 お茶とか食事とかだと思ってました。

 おじさんの愚痴を聞いたり?

 はい。

 どう? やる? やらない?

 私、初心者マークですよ?

 いいよ。

 でも高速道路とか、怖くて。

 大丈夫だよ。

 でも……。

 十万は少ない?

 いえ。でも事故ったら……。

 責任は問わないよ。傷付けてもいい。無理そうだったら、途中で代わるからさ。

 そう言うと彼女は承諾してくれた。

「誘われたたことはないの? ホテルとかさ」

「ありますよ。断りましたけど」

「賢明だと思うよ」

「なんでですか?」

「知らない相手と寝るなんて、怖いでしょ。俺も怖い」

「男の人も怖いんですか?」

「男が怖いかどうかはわからないけど、俺は怖い。あと、お金払って性的欲求を満たすという行為が理解できない」

「そういうもんですか」

「家の前に、コンビニがあったら、どうやって行く?」

 質問すると、前のトラックが追越し車線に移動した。前方に別のトラックが現れた。

「家の前にですか?」

「そう。家の前のコンビニ。マンションの一階でもいい」

「歩いて行きます」

「そうでしょ。つまり俺にとって、風俗や援助交際は目の前のコンビニにタクシーで行くようなもんなんだよ。自分で到達できるのに、金を払うのは理解できない」

「確かに、それは理解できませんね。……でも、風俗や援助交際が、宅配だとしたらどうですか?」

「……考えたことがなかったな。目的が向こうからやってきてくれるわけか。それは少し理解できるかもしれない。でも、俺は歩いてコンビニに行くよ。宅配は時間がかかるだろうし」

 前のトラックはかなり遅い速度で走っている。さすがの彼女もウインカーを出して、車線を変えた。トラックを追越し、すぐに本線に戻る。それまで、彼女は何も言わなかったし、俺も話しかけなかった。

「でも、お金を払って運転はさせるんですね」

 彼女が先に口を開いた。

「そう。お金を払って運転させる」

「何回かやったことあるんですか?」

「ある。三回。みんな俺を送り届けて、新快速で帰るか、新幹線で帰った」

「大阪に何があるんですか?」

「大阪には友達が一人と、死んだ親父がいる」

「死んだ?」

「親父が死んだって、三年前に義理の母親から連絡があってね。でも、確認してない。おそらく死んだんだろうけど」

「今日は確かめに?」

「いや、どうだろうね。実の親父の葬儀を欠席するくらい、義理の母親のことが嫌いでね」

「そうなんですね」

「親のこと好き?」

「はい」

「俺は母親のことは嫌いだった。産みの親は俺を捨てて消えたし、二人目も、三人目も俺に興味はなかった。四人目は料理を作ってくれたり、ドライブに連れていってくれたりしたけど、最後は親父とさよならして、俺ともさよならした。今の人は、よく知らない。親父から電話がきたとき、もう俺は成人していたし、興味もなかった。母親というより、親戚のおばさんみたいな感じかな」

「でも嫌いなんですね」

「母親という存在が嫌いなんだよ」

「親戚のおばさんみたいなのに?」

「きみはSっ気があるね。まあ、親戚のおばさんでも一応は母親だからね」

「なんで車を運転させるんですか? お金を払って」

「他人に命を預けるのが好きだからね。でも、誰でもいいってわけじゃなくて、女性がいい。未婚で、運転に慣れていない方が好みだね」

 彼女越しに赤いスポーツカーが抜けて行った。車内に沈黙が残った。

「例えば」彼女はまた口を開いてくれた。「若い女性に銃口を突きつけられるとか」

「何それ?」と俺は笑った。

「好きかなって」

「いいね。考えたことなかったけど、悪くないかもしれない」

「目隠しとか、縛られるとか」

 俺は首を横に振った。

「そういう身体的なものは求めていないなあ。もっと精神的なものだね。こうやって話すのは好きだけど、誰かと抱き合うのはあまり好きじゃない」

「キャバクラとか行かないんですか?」

「キャバ嬢は運転してくれないからね」

 彼女は、そうですね、と笑った。

 ラジオはまだ電波をひろったり、捨てたりしていた。外を見ると、どこに繋がっているのかわからない道があり、どうやったら行けるのかわからない畑があった。見かける度に、いつか行ってみたいと思うが、行くことはないだろう。それはブラジルやブルガリアに行く確率よりも低い気がする。

「すみません。お手洗い行きたいので、サービスエリアに寄ってもいいですか?」

「いいよ」

 次のサービスエリアが一キロ先にあることは、流れてきた看板でわかった。

 俺は目を閉じた。そのとき、ちょうど太陽の光が瞼に当たった。自分の血が赤いことを再認識した。

 彼女は少しずつスピードを緩め、サービスエリアに入っている気がした。今、どこかにぶつかって殺してくれないかなとも思ったが、そんなことにはならない。あの道や畑に行く確率よりも低い。

 車がゆるやかなカーブを進み、徐行速度になり、止まった。

「すみません」

 俺は目を開けた。

「どうした?」

「あの、こんなこと言うと、あれなんですが、先に五万円だけでも貰えませんか?」

「先に?」

「はい」

「どうして?」

「あの、車を離れるので」

「俺が金を払わずに逃げるのかもって?」

「すみません」

「まあ、心配にはなるかもね」

 俺は体を捻り、後部座席に置いていた鞄から財布を出した。そして、五万円を彼女に渡した。

「ありがとうございます」

 俺は、いいよ、と首を振った。そして、目を閉じた。

 彼女が車を降りる気配がした。運転席のドアが閉められ後部座席のドアが開けられる。リュックサックのファスナーが開く音がする。財布の金具が開けられ、閉まった音がして、ファスナーが閉まる。ドアが閉められる。

 俺は想像する。

 彼女が建物の方へ、歩いていく。左を確認し、車が来ていないか見て、道路を横断する。

 俺はいつのまにか寝てしまう。はっと起きて、目を開けると、もう一時間が経っている。彼女は運転席におらず、メッセージを送っても返事はない。ああ、逃げられたんだと思う。でも仕方ない。怖くなったんだ。目的地に着いたら、脅されて監禁されるかもしれない。バッグの中にナイフが入っているかもしれない。襲われるかもしれない。そもそも、運転だけで十万円っていうお願いが、気味悪い。わかる。わかるけど、そういうふうにして、俺はどうにか人生にバランスをとっている。

 もしくは、俺が彼女を置いて、一人大阪に向かう。母親が俺を捨てたように、俺が彼女を捨ててもいいような気がする。五万円は払っているし、アンフェアではないだろう。でも、そうしたら俺はきっと泣きそうになる。ただただ、そういう想像をしているだけで、少し涙が浮かんでくる。呆然と立ち尽くす彼女の姿を、頭の中でさえ見ていられない。

 俺はきっと傷つけるよりも、傷つく方が楽なんだ。母親たちが受け入れられなかったものを抱えながら、アクセルを踏んだり、ブレーキを踏んだりして、ハンドルを切る。そして、たまに楽になるために、彼女たちに運転を頼むんだ。そして、大阪に行く。ラジオを聴きながら。母親のいる大阪へ。割れた何かを見せびらかすように。

 そうやって、これからも生きていくことになるんだと思う。

 彼女が戻ってきても、戻ってこなくても。

 俺は目を押さえ、大きく息を吐く。雲の隙間から出てきた太陽を感じる。

「戻っても、戻ってこなくても」と俺は言った。

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