約束の3年 ─ミルクティーの物語─

代官坂のぞむ

約束の3年

 このカフェに来るようになって、どのくらい経つだろう。

 初めて来たのは高校1年の時だったから、もう10年以上前になる。その時付き合っていた彼と一緒に、どきどきしながら入った。彼はブラックコーヒーを飲んでいたけれど、きっと無理していた。私は、コーヒーなんて飲めなかったからミルクティー。


 大人になり、別の人と結婚して子供も生まれた。赤ん坊を連れていると、泣き出したらどうしようとか、おむつを交換する場所があるかとか、気になることが多過ぎて、行ける場所が限られてしまうけれど、このお店にはずっと来ている。

 子供がぐずり始めると、マスターは奥の小部屋に案内してくれる。おむつ交換でも授乳でも、自由に使ってもらっていいですよ、と。大きなショッピングモールなら当たり前になってきたけれど、小さな街のカフェでそんなことができるのは本当に貴重。

 おかげで子供も、すやすや安心して寝ているし、私もゆっくり羽を伸ばすことができる。


 隣の席の高校生は、さっきからずっと見つめあってニヤニヤしている。私も10年前はあんなだったのかな。

 当時撮ったプリは全部捨ててしまったけれど、一枚だけスマホの写真にしてとってある。彼と初めてデートした時に撮った、自分史上最高の一枚。大学生になってメイクや加工を覚えて、綺麗な写真はいくらでもあるけれど、あんなに嬉しさがあふれている笑顔は、二度とできなかった。


***


 高校を卒業すると、二人はそれぞれ別の大学に通い始めた。私は薬剤師を目指して都内の大学の薬学部。彼は近郊の国立大学の理学部だった。それぞれ通学先が離れているので、平日は別々に過ごして、週末になるとデートに出かける日常。

 会う時は嬉しかったけれど、2年目になると次第に違和感を感じるようになってきた。何が違うのか、説明することはできなかったが、何かが違ってきていた。


 違和感を感じるようになったある日、私は一人でこの店に来てカウンターに座った。マスターは黙って、ミルクティーを出してくれる。

「なんか、疲れてきちゃった」

「そうですか。そんな時もあるものですね」

「何か不満があるわけじゃないの。彼はよくしてくれるし、優しいし。でも二人でいても寂しいことがあって。私一人がぽつんと座っているような感じ」

「何か、相手の方には、悩み事があるのかもしれませんね」

「悩み事……?」

 そんなことは考えたこともなかった。自分が感じる違和感や自分が感じる孤独感ばかりで、相手が何を考えているかなんて想像できなかった。

「まあ、年寄りの思い過ごしかもしれませんがね」

「ありがとうございます」

 すぐに彼にメールを送る。

『今度の土曜日、久しぶりに地元のあのカフェに行かない?』

 しばらくして届いた返事は、彼らしくシンプルだった。

『懐かしいな。いいよ』


***


 週末のカフェは、いつものように混んでいた。壁際のテーブルに向かい合って座り、いつものミルクティーを頼む。彼もいつも通り、ブレンドコーヒー。


「高校を卒業して以来か、ここに来るの」

「一緒に来るのはそうね。私は一人で、ちょくちょく来てたけど」

「そうなんだ。好きだね」

 ふっと笑う顔は、高校生の時と変わらず素敵。でも素に戻った時の目元が寂しい。


「ねえ。何か悩んでいることは無い?」

 マスターの受け売り。

「え、悩んでいること?」

「そう。最近、一緒にいても、何か心ここにあらずって感じがする」

 これは本当に感じていること。


 彼は少しの間、黙ったまま手元のカップを見ていた。

「君にはかなわないな。当たりだよ」

「……」

「実は、大学をやめようかと思ってる」

「どうして?」

「海外に行って、やりたいことがあるんだ」

「何をするの?」

 今まで聞いたことがなかった。そんなことを考えていたなんて。


「一緒にプログラムを開発しているグループの人が、シリコンバレーで会社を起こすことになったんだ。出資してくれる投資家が見つかって、資金が確保できたからって。卒業まで待たずに、その会社で一緒に働かないかって誘われてる」

 彼が、プログラミングを趣味でやっていることは聞いていた。海外の人ともネットワークでつながって仕事をしているのが楽しい、とも。でも自身が海外に行くなんて。しかも卒業も待たずに。


「本気、なの?」

「……悩んでる」


 私は、何と言ってあげるべきなんだろう。『がんばれ。挑戦しておいで』と後押しする? それとも『私のことはどうなるの』と泣きつく?

 どちらも違う。


「大学は卒業しないで、本当にいいの?」

「僕の専攻の地球物理学は、このまま卒業しても就職口なんて無いし。大学院に行って研究者になるのも狭き門だから。それよりは、今面白いことに挑戦してお金がもらえるのなら、そっちの方がリスクが少ないと思う」

 言うことが理系だ。


「向こうに行ったら、もう戻ってこないの?」

「数年は、その会社で頑張っていくことになる。うまく行って会社が成長していけば、ずっとかもしれないし。もし潰れちゃったら、帰ってくるかもしれない」

 もう結論は出てるじゃない。何を悩んでいるの。


 次が最後の質問。これは、聞くべきか、聞いてはいけないのか。踏み絵を迫るようで言い出すのが怖かった。

 私は、彼には本当にやりたいことをやって、幸せになってほしかった。その側に私もいられたら、どんなに幸せだろうと、ぼんやり考えていた。でも、彼の幸せの中に、私のいる余地はあるの? 私にその勇気はある?


「向こうに行くとしたら、私はどうすればいい? ううん。どうしたい?」

 彼の表情が曇った。私は涙をこらえるのがやっとだった。

「君とは一緒にいたい。だけど君には君の夢があって大学に進んだんだから、それを諦めてついてきて欲しい、なんて言えない」

 薬剤師になるのは、ずっと夢だった。それは彼もよく知っている。そのためには薬学部で6年間勉強して、国家試験に合格しないといけない。

「だから卒業して資格をとるまで、君は君の道を進んでほしい」

「それは、あと5年遠距離で頑張ろうってことね」

「いや。違う」

 彼はさらに暗い顔になった。

「もう、別れよう」

「……」

「これから5年、多分日本に帰ってくることも、ほとんどできないと思う」

「……」

「そんなに長い間、僕の身勝手で君を無為に拘束し続けるなんて、良くない。君はもっと幸せになるべきだ」

 とめどなく涙がこぼれ続けた。やっぱりこうなってしまった。


「さっき、その会社が潰れたら日本に帰って来るって言ったよね」

「ああ」

「どのくらいで結果が出るの?」

「3年やってダメだったら、資金が持たなくなると思う」

「じゃあ、3年間待つ。それで潰れて帰ってきたら、また日本で私とやり直そう。順調に成功し続けてたら、きっぱり諦める」

 支離滅裂な条件なのは、自分でもわかっている。でも彼とのつながりを残すには、これしか無かった。

「なんだその条件。成功したら君と別れる。失敗したら会社を失うけど君の元に帰る。まるで君のために失敗することを約束させられているみたいじゃないか」

「そんなことはないよ。成功するために全力で頑張って。全力で戦って、トップを目指してくれなきゃ、離ればなれで過ごす意味が無いじゃない」

「よくわからないけど、それが君の希望なんだね」

「そうよ」


 彼は私との約束を持って渡米した。

 新しい会社で、彼は次々と自動運転に必要な技術を開発し、特許を取っていった。それは、地球物理学で地表を計測する時に使う技術を応用したものだそうだ。就職の役に立たないと捨てた学問が、実業で役立つことになるとは皮肉だね、と自嘲気味なメールが届いた。

 3年後、彼の会社はI T大手に買収された。自動運転の技術と経営者も含めて丸ごと傘下に入る形となった。設立時から経営陣の一人になっていた彼も、おそらく高額の報酬を得て、買収会社のマネージャーになったようだった。


***


 その日も一人でこの店に来て、カウンターに座った。マスターは黙ってミルクティーを出してくれる。


「昨日、彼に約束通り別れましょう、ってメールを送ったの」

「そうですか」

「彼は、彼の夢を追って成功したんだから、そのままどこまでも進んで行ってくれないと。私が3年間我慢していた意味がなくなっちゃうから」

「彼はなんと?」

「今度は君の番だから、あと2年頑張って夢を叶えてほしいって」

「そうですか」


 マスターは、洗い上がったコーヒーカップを布巾でぬぐって私の前に並べている。

「やり直せるかなあ。彼以外の男の人と付き合ったことないから」

「恋愛だけが、人生じゃありませんから」

 カップを置く手を止めて、窓の外を見ながら続けた。

「自分にまっすぐに生きていて、そこで触れ合う人がいれば、もしかしたら、また恋が始まるかもしれません」

「……」

「でも、無理に誰かを好きにならなければ、と焦ることはありませんよ」

「ありがとう」

 じんわりと涙があふれてきた。


 大学を卒業して資格を取り、薬剤師として街の薬局で働き始めてからしばらくして、今の夫と知り合った。結婚、妊娠、出産とイベントが進むたびに、私はこの店に来て報告してきた。そのたびにマスターは、静かに話を聞いてくれた。

 しかし、今の夫をこの店に連れてきたことはない。ママ友を連れてきたこともない。なぜ連れてこないのかと、マスターが聞くこともなかった。


 子供が大きくなり、恋を知るような年になったら? また一人きりで来るようになるだろうな。

 隣の席の、幸せそうな高校生カップルを見ながら、私は暖かいミルクティーを飲んだ。

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約束の3年 ─ミルクティーの物語─ 代官坂のぞむ @daikanzaka_nozomu

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