初恋

崇期

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 高校時代によく通っていた喫茶店だった。しかし女の子から呼びだされる、というシチュエーションはあった試しがない。記憶を掘り起こすまでもなく、だ。


 現代の高校生もこういうレトロな店を利用するんだな、と思うと和輔たかすけは微笑まずにはいられなくなる。誰に会うにしても、こうしてよれよれの綿シャツに色褪せたジーンズで一向に構わないという自分は当時から色恋沙汰は蚊帳の外だったから、青春を謳歌する若者、自分とは違うカラフルな生活を送る者たちの日常を勝手に想像しては──リア充っていうんだっけ?──ドラマでも観るように悦楽を味わい、乏しい実体験の代わりにしてきた。


「ムフフ。同窓会のときに一度写真を見せてもらったんだ。あのときの晴香はるかちゃん、ランドセルしょってたなぁ。こうして会えるなんて思わなかったよー。お母さんより美人さんなんじゃない?」

 目の前の相手は、高校時代の憧れの女性、立石たていし真清ますみの愛娘・晴香だった。彼女は和輔を一目見てからかたくなそうな表情をより強張らせたように思えた。しかしまあ、それも想定済み。こっちは四十七歳のおっさん、逞しき中年男なのだから。

 和輔はミルクピッチャーをコーヒーに傾ける。スプーンでぴしゃぴしゃと交ぜる。音を立てて啜る。

 晴香は改めて顔を歪めてから言った。「世間話をするためにお呼び立てしたのではありません。あなたが母に送っている手紙のことです。もう送るのをやめてほしいんです。今日はそれを言いたくて。つまり、苦情の申し立てです」

「く・じょ・お? ええー、なんで?」

 和輔が声を大げさに張りあげるので、晴香は他の客の様子をさっと見回す。

「なんでって、こっちが『なんで?』ですよ。どうして正木まさきさんは母に手紙を書いてるんですか?」

「友達だからだよ」首を傾げる和輔。心底わからない、と表情が言っている。

 晴香はオレンジジュースのストローをつまむ、少し間を置いてから、言う。「母には大学時代の友達も数人います。その人たちは年賀状しか送ってきません」

「この喫茶店、すっごい懐かしいんだよー」和輔は顎を浮かせ、左右に動かす。「よく来てたんだよ、お母さんとも。当時のマスターはくだびれた大工の棟梁とうりょうみたいな感じのおじいちゃんでね──」

「話、ちゃんと聞いてくださっていますか?」

「もちろーん、ドローン、クローン、サブなんとかローン」

「正木さんはっ、」晴香は突然咳き込み、なんとか続ける。「母のことが好きなんですか?」

「ねえねえ、十七歳って二年生だよね? 今、学校はどんな感じ? 北校舎は今でも幽霊が出るの?」

 

 ガァン! 


 二人はしばらく、テーブルを殴打した可憐な手を眺めた。

「ふざけないでよ、おじさん……」荒馬を追い回したような息を鼻から噴きだす晴香。

「ふざけていないよ、おれ、いつもこんな感じだもん」

「へえー……」晴香は自分の手の甲を見つめたまま。「だから、そうなんですね? 既婚女性にあんなに手紙を送りつけてもおかしいと思わない、そういう節度のぶっ壊れた人なんですね?」

「量の問題なの?」和輔の顔にはじめて不安が差した。「お母さんが……真清ちゃんが、迷惑だって言ってるの?」

「母はなにも言いません。……でも、平常を生きる中で考えれば、誰でもおかしいと思うんじゃないでしょうか。あなたが昨年送ってきた手紙を──あの個性が過ぎる絵手紙も含めて──私、数えたんですよ。三十八通ありました」

「取っておいてくれてるんだぁ、ふふぅん」

「異常です」濁音に力を込めより濁らせてから、和輔を睨みつける。「あなた、ストーカーですか?」

「違うよぅん。手紙ニストだよ!」

「はっ」晴香は笑い飛ばす。「どこで配られてる称号ですか」


 日曜の午後のうららかなひととき──には残念ながら、ならないらしい。和輔は窓の外を埋める街路樹の緑と、そのあわいに現れては消えゆく車をひとしきり眺めた後、顎をゴリゴリ掻き、指同士をこすり合わせ、それへ視線を落とす。「でもさあ、お母さんが嫌がってないんだったら、問題ないんじゃない? 娘さんがわざわざ出てきてどうこう言わなくても」

「父は気味悪がっています」晴香は鋭い目を宙に固定させて言った。「父はとても繊細な人なんです。音楽をやっていますから」

「うんうん、ピアノ弾いてるんだってねぇ、知ってるよぉ」

「妻の高校時代の同級生の男が、月に何通も手紙を送ってくるなんて──」

「別に、お手々つないでホテルに入ったわけじゃないんだからさ」

「薄気味悪さではまさっていますよ? 母は返事を書いていませんよね?」

「おれが返事はいいよって言ったのよん。ほら、天ぷらを交ぜたりぬか床を揚げたりしてるときは手が離せないだろうなあ、と思って」

「あー、もう、話にならない!」


 そっぽを向く晴香。動いた軽やかな髪と、水色の髪留め。目を覆う睫毛や白くつるっとした頬は和輔の目をたじろがせる。真清はいつも明るく、人気者で、誰に対しても親切だった。こんな自分にも……。その真清の娘に怒られているのが不思議だ。

 晴香は顔を正面に戻した。「正木さんは独身なんですよね? 結婚はなさらないんですか?」

「ウハハハ。しなーい、スルー、しなーい、スルーって占ってたら、〝しない〟も〝スルー〟もどっちも拒否ってんじゃん、って」

「母のことをずっと想っている、とか?」

「勘違いしないで」和輔は困った顔になった。「四十七歳なんてまだピチピチだけどさ、君から見たら十分おっさんだよね? そんなおっさんが、腰痛とか痛風とかよりも、やっぱ恋だよねぇとか言って羽ペン走らせてると思う? ただ友達として近況報告を……競馬雑誌のコラム風に書いて送ってるだけだよ。真清ちゃんって、楽しいことが好きな人だったからさ。おれの手紙がご家族やご親戚のところを回り回って、ウケにウケて、いつか『職場の教養』に載ったらいいなあって、そんなふうに夢見てただけ。だけど、娘さんには不評だったんだねえ、知らなかったよ」

 ぱちん、ぱちん、と和輔は自分のこめかみを叩く。「おれってダメなやつ。今年もノーベル文学賞は候補止まりかあ」


 最初から最後まで滑稽でもてなして、いたいけな女子高生に「嫌悪」という手土産を渡してしまった。家庭に帰って、どういう会話がなされるだろう。真清は手紙のことをなんとも言っていないということだし、笑って済ませるんじゃないか。それとも、今日会うことは晴香は両親に話していないのかもしれない。

 晴香が去って一人きりになり、しばらくの間、空のコーヒーカップを前にぼんやりほうけていた。今日の天気の良さ、往来に溢れる光のせいではなく、晴香の存在が発していたような眩しさを浮かべながら、あの子、「そういうの、もういいから」って顔してたなあ……と、ふと思った。自分がなにか返すたびに、そういうの、もういいからって、実際口にはしなかったけれど。

 そういうの、もういいから……か。

 一瞬で脳によみがえった、市立図書館と高校の視聴覚教室のこと。あの苦い思い出──。


 

 高校三年生のとき、市立図書館で立石たていし真清ますみに会った。仲のいい同じグループに二人は属していたから、相手を見つけるとすぐに声をかけ、ほかの利用者の迷惑にならずに話せそうな場所──壁に面した長テーブルの端へと移動した。

 真清は借りる予定の本を十冊近く選んでいて、それを一冊一冊持ちあげては確認する作業をそこでやりはじめた。あたかも間違った物を自分が紛れ込ませている、とでもいうように。

 和輔たかすけはその様子を微笑ましく思いながら見ていた。いつも慎重で、何事にも丁寧に取り組む姿勢に何度となく惹かれた。ただ真清はなにをやっても許され、ただちに好ましいことになる存在ではあったが。確認が終わり、和輔の視線に気づいた真清がつられて微笑む。

「ねえ、正木まさき君って、結婚って考えたことある?」

「へえ?」そういう声が出た。あまりに唐突すぎて。

 真清の顔が窓に映って、外の緑と溶け合う。「私、すごく憧れがあるんだ。できれば早くに、すぐにでも結婚したいって思ってる」

 自分の知らない世界、予想もしていなかった話に胸がとどろく。シューティングゲームをしていても出ないような汗が和輔のてのひらににじんだ。

「みんなは就職のこととか考えてるのに、やっぱり変かな?」笑う真清。

「変じゃー、ないと、思うけど……」

「子どものこととか考えたことある? 自分の子どもがほしいとかって、思う? 正木君は」

「子どもっ!」

 和輔はごくん、と唾を飲み込んだ。とてつもなく長い足でとんでもなく離れた飛び石をひょいひょい渡っているのだ、彼女は。その人間としての雄渾ゆうこんなスタイル、感性に、和輔の頭はくらくらした。

「それは……将来、諜報ちょうほう活動を行うなら結婚して子どもがいた方が素性が怪しまれずに済むという話?」

「ええ? 諜報活動? なによぉ、それ」

「おれ、ダサいしトロいし太ってるし足短いし、変なやつだから」かなりしどろもどろになりながら、和輔は必死でそう返した。「結婚してくれる相手なんていないんじゃないかな。子どもがほしいなんて思ったことないよ」

「今はそうかもしれないけど──」

「いや、ずっとほしくないって。だって、おれに似ちゃったら、なんかかわいそうじゃん。だから嫌なんだよ、ほしくないんだよ」

「そんなことないよ」真清はやさしくさとすように言った。「正木君は変じゃない。すごくやさしいしおもしろいじゃない。それに、正木君も好きな人ができたら、やっぱり、その人との子どもがほしいって思うんじゃないかな?」

「ああ……」

 さすがに真清の口から流れでたすべての言葉が人生の辞書に刻まれたわけではなかったが、このときの会話は和輔に深く落ちて、憧れの存在、美しい精神の人、という真清の絵姿を強化したのだった。

 それが世間で、正しく生きる人が抱く正しい意見なのだと、信じてしまった。


 その一週間後だ。体育祭へ向けた話し合いで視聴覚教室に集まったとき、同級生の中でも粒ぞろいの強面こわもて男子たちが「この不毛な時間をさっさと終わらせろ」という危険をはらんだ団子を形成していて、むだなおしゃべりで場を濁していた。ほとんどの女子、ほとんどの下級生が彼らを避け、怯えた空気の中にいた。

 話し合いは当然進まず、進行役の生徒はもう隣にいる和輔の耳にも届かないようなか細い声しか出していなかった。

 同じ三年として、なんとかしなきゃ、と思った。誰だって嫌なものは嫌だし、やらなきゃならないものはやらなきゃなんだ。わがままが許されるものか!

 和輔は孤軍で問題の生徒たちの下へ進んでいった。彼らが話している内容が届く。

「池辺さん、逃げられそうにないってさ。結婚とか、ほんと最悪だよな。まだ二十二だぜ?」

「ご飯だけを毎日食い続けたら絶対飽きるだろ、という話ですな。たまには別のもんも食うのは当然でしょ」

「奥さんが二、三人いたら、よくない?」

「あ、いいねー、それ、ほぼ理想──」

「岩田君たち」と和輔は声をかけた。「いいかげんおしゃべりはやめて、話し合いに参加してよ。それから、そんなひどい話、しないでよ。女子もいるのにさ」

「は?」前を塞いでいた者が脇へ退しりぞいたので、机の上に座って膝を立てることで風格を表しているリーダー的岩田の姿が現れた。

「妙な念仏が聞こえてきたから坊さんかと思ったら、正木かよ。なんだよ、てめ」

「こんなところにお坊さんがいるわけがないよね? 話し合いに参加してって言ったの。それから女性に対して失礼になる話もやめるように──」

 失礼になる、のところで場の者たちが失笑した。

「しっしっ」追い払う仕草をする岩田。

 和輔は怒りがのぼって、彼らの禍々まがまがしい態度を矯正するにはこれしかないと、仕入れたばかりの美しき宝刀ほうとうを抜いてしまったのである。


「君たちだって、本当に好きな人ができたら、その人との子どもがほしいって思うようになるし、その家庭を大事にしようって思うようになるんだよ」


 一瞬で静まった教室。しかし岩田がすぐに「ごめーん、正木君、そういうの、もういいから」と切り返し、笑いを復旧させたばかりかその日一番の喧騒けんそうを発生させた。

「アッハッハ、今の名言、聞いた?」

「笑いすぎて腹いてー」

「てか正木ィ、おまえ体育委員なわけ? どう見ても保健委員か図書委員だろ。似合わねえとこにいんじゃねーよ」

 岩田グループの口から次々もれる嘲笑を背に受けながら和輔はすごすご引きさがっていった。帰った場所にいる者たちは皆味方のはずで、同情の目を拝んでもいいはずだったが、顔をあげることができなかった。憐みなどもらう資格はない。自分は間違った言葉を口にしてしまった──そのことがはっきりとわかった。



 喫茶店のテーブルのくすんだ色合いの木目に意識が戻る。四十七歳の自分なら身をもって言ってやれる。高校時代からの夢を叶え、芸術家な夫と母親想いで美形な娘に恵まれることが約束されていた人と、自分を一緒に並べられると思った? 同じ言語で生きられると思ったのか。

 和輔は顔をあげると、「よし、アイスクリームを頼もう」と切り替えた。それで帳消しにしよう。この辛苦しんくは、新たに人生に追加されていく恥のために取っておくべきである。これから迎える多くの困難のためのスペースにわざわざ過去の屈辱を引っ張りだして混雑させる必要はないだろう。

 現在のマスターはおしゃれに余念がない美容師、といった感じの若い男だった。注文すると、軽快な動作でバニラアイスクリームを運んできてくれた。


 クリーム色のなだらかな丘にさくらんぼが乗っていた。口紅を塗り込めたようなどこか作られすぎた色である。和輔は「うへぇ」と唇を曲げると、をつまんで顔の高さまで持ちあげた。

「これ嫌いなんだよな。色も、ふにゃふにゃした食感も」

 そのまま宙を移動させ、コーヒーのソーサーに着地させる。これでよし。紙のカップやプラスティックの袋を自ら開けてむさぼるものではなく、プロに給仕されて食べるアイスクリーム。そこにどれほどの違いがあるのか明言はできなかったが、これこそ贅沢、と言えそうな気がした。こうして改まって食べるのは一体何年振りになるだろう──。



   ♢ ♢ ♢



 たまたまタイミングを同じくしてしまったらしい突風と大型車の走行が轟音ごうおんとなって辺りを埋め尽くした。

 ほんの数秒間。音がやむと、薄いもやのかかった街並が目の前にあった。隣の老人がつぶやく。「あのとき異世界に行ってたら、おれもなにか変わったのかもしれんな」


 右手に握っていたはずのスプーンが消えていた。それどころか、喫茶店でもなくなっていた。傷みかけた木のベンチに和輔たかすけと老人だけが座っていて、恐る恐る腰をはがす。

「ここ、どこですか?」くたびれ方ではベンチに引けを取らない老人を見下ろして、和輔は訊いた。

「異世界に飛ぼうと思った矢先、親父が倒れちまってね。おれ、一人息子だったから……」と老人は首を垂れたまま悔やみを噛みしめている。

 異世界? 

 ぶつぶつと恨み念仏が続いたので、気まずくなりそこを離れた。


 和輔はわけもわからず通りを歩いた。さっきまで喫茶店にいたはずだよな? 慌てて手に持っていた携帯端末を確認するも、ディスプレイには「圏外」という文字が表示されている。

「いいかげんにしてよ!」

 声に振り向くと、派手な身なりをした中年の女が携帯端末にどなっていた。

「あんたがタイムトラベルするたんびに私に負担がかかってきてんのよ。わかんないの? 何度も何度も、いつも尻拭いするのは私じゃない。もう、こんなの耐えられない──」

 せかせかと動く足が目の前を通り過ぎていく。タイムトラベルだって? 

 後をついていくと、今度は道の真ん中で薄紫色のセーターにチェックのスカートをはいた女の子が泣いていた。両目に当てた手を支点にした肘までの角度とか、啜りあげるタイミングまで完璧な有り様で、「プロの子役みたいだ」と和輔は見惚れてしまいそうになる。そこから視線を少しずらすと歩道の木に行き当たり、枝に引っかかった風船、という事象がわかった。

 取ってやろうと伸ばしかけた手を、今度は若い女の悲鳴が止める。遠くの坂道で、女の持つ紙袋が破れ、大量のオレンジがばらばらとこぼれ落ちている。

「なんか怖い」和輔は走って場所を離れた。


 うらぶれた商店街もあったし、住宅の間に埋もれる小さな踏切もあった。田んぼに囲まれた陰気な神社も。どこにでもありそうで、では自分の街か? と問われるとなんとも言えない、無味無臭のサンプル的風景にいるような感じだ。喫茶店はどこへ消えたのだ?

 記憶喪失……すぐに首を振る。身に余る出来事をにわかには受け入れられない。家に帰ろう、帰りたい、そう思い足を速めた。アイスクリームなんて本当に食べたかったわけじゃなかったんだから。昔を思い出して、気分が落ち込んだだけだ。むしゃくしゃを払いたかっただけだ。

 息が切れ、心臓が音をあげた。ここが知らない街なら、駆けずり回ったところで家に帰り着くはずもない。見上げる空に太陽はなく、方角がわからない。通りが掲げる看板にも絵図と化した文字ばかりで、地図も町名もない。

 建物の隙間からタクシーが顔を出した。こちらへ向かってのろのろと走ってくる。そうだ、その手があった……。

 呼び止めると歩道に寄ってくれ、乗り込むことができた。


「運転手さん、おれ、迷子になっちゃって。こぶねちょうまで行ってもらえますか?」

「こぶね町?」運転手は前を向いたままつぶやいた。「知らないな」

「嘘でしょ?」和輔は悲鳴をあげたくなった。「運転手さん、もしかして新人さんなの?」

 運転手はシートの肩に話すように顔を傾けた。「それより、どこでもいいから適当に街を流しましょうか?」

「だめですよ、そんなの。料金は払いませんよ?」

「そっちがそうなら、こっちにも考えがありますよ」

「は?」

 車が動きだす。

「ちょっと……どうなってるんだよ」和輔はぶつぶつ言いながら携帯端末を持ちあげ、なにか情報が得られないかと画面をタップする。

「お客さん……」

「なんですか? っていうか、どこに行くつもり? 勝手に走らせて」

 運転手はルームミラーに目をやる。「なにか怖い話をしましょうか? とっておきのやつがあるんですよ」

「やめてください」和輔は前のめりになる。「そういうの、もういいからっ! 真面目にやってくださいよ。家に帰りたいんです」

「家に帰りたくても帰れない人が世の中には大勢います」

「そういうのいいって言ってるでしょ! セリフが全部とんちんかんですよ? わかってます?」

「日本人は真面目すぎるんですよ。そして日本の道路は狭すぎる、そう思いませんか?」

「だから、あのねー……」

 口から飛びだした唾をぬぐい、ふと冷静になる。自分は座席に着いてからシートベルトをしていない。

 ときたまタクシーを使って街に飲みに行くことがあり、そのとき必ず運転手からシートベルトをしめるように言われたものだった。たしか、いつごろからだったか義務化されて、後部座席だろうとしめなければならなくなったのだ。

 しかしこの運転手はさっきから素っ頓狂な返しばかりして、シートベルトのことはなにも言わない。それに、運転席との境に防犯用のアクリル板もないじゃないか。それもいつごろからか、どのタクシーに乗っても下がっているようになったものだ。

 和輔は息を飲み込んだ。もしかして、時間を遡ったのか? 過去にワープしたのだろうか。でも携帯端末の日付はそうだとは言っていない。

「平行世界に移動したんじゃないですかねえ」運転手がなぜか心の声に答える。

「平行世界? なんなの、それ」と和輔は訊いた。

「私も紳士のたしなみ程度にしか知りませんが。若いころにもっと勉強しておけばよかったなと思いますよね」

 和輔は怒る気にもなれなくなり、「もういいから、降ろして」と頼み込んだ。

 車から降りると、助手席の窓が開いて、運転手が「これからどうするおつもりですか?」と心配そうに訊いてきた。

「そういうの、もういいって!」和輔は身をひるがえして歩きはじめた。


 なにからなにまでおかしな街だった。なにがどうおかしいか、うまく説明できないのだが。自動販売機の足下に這いつくばって落とした小銭を探している老人がいた。スカートと髪がやたらと長い学生服の女が竹刀を肩に載せ歩いていた。小さな公園には子どもたちに紙芝居を見せている中年男もいた。 

「懐かしいと言ったらいいのかな」ぼんやりつぶやく。


 身なりのきちんとした若い男が狭い路地から出てきて、目が合ったので、捕まえて家の住所を口にしてみた。

「……知りませんか? 帰りたいんです」

「わかりました、どうにかしましょう」和輔たかすけの切迫した様子に合わせるように、真剣な面持ちで男は言った。「その代わり、これを預かってくれませんか?」

 手を掴まれ、なにかを押しつけられた。マイクロSDカードだった。

「もし一週間経ってもミラクル・ケーヴから私が戻らなかったときは、これを──」

「うがぁー!」和輔はそれを男へ突き返したが、こぼれてアスファルトで跳ねた。「そういうの要らないって言ってんだろ!」


 精神はかき乱されるばかりだったが、休まずに歩き続けた。いつか解決のいとぐちが掴めるかもしれない、と信じて。

 緩やかな長い坂を辿り、高架下を抜けると、白い大きな建物が現れた。どこかの学校らしい。華やいだ声が聞こえ、女子高生五人組が小さな店舗の陰から現れた。

「じゃあさ、この続きは、それぞれが考えるってことにしない? で、一番おもしろいものを採用するの」

「いいねー、そうしよう」

「異世界転生って、奥が深いわ」

「私、図書館で調べてみる!」

 

 和輔ははっとした。その声、セリフに聞き覚えがあった。

真清ますみちゃん?」

 その背の高い少女はまっすぐに図書館へ向かったようだった。間違いない、あの子は立石真清だ。

 高校時代もいつもそうだった。学校でエイズ予防教育が行われたとき、男女関係のことでどうしてもわからない事柄が持ちあがり、放課後、教室に残った八名くらいの生徒たちで頭を抱えることになった。保健体育の教師・遠藤に訊けばいいのだろうが、遠藤先生は女性でありながら豪傑で、捕まると地獄を見るということから〝生徒ホイホイ〟というあだ名がつけられていた。教室で訊けばいいものを後からわざわざ質問に行くというのもしおらしすぎるし、叱られたり笑われたりしないだろうか。ほかの先生に知られるのも恥ずかしい。先生はパスしたいということで、そのときも真清が「私が図書館で調べてくるわ」と言ったのだった。

 そう、彼女はいつも勉強熱心だった。そしてなにか困ったことがあると率先して動いてくれた。あの日、そんな彼女の真似をしようとしたことは間違いなかった。そんな熱心さも人望もなく説得力も持たないくせに、無理をして、彼女に近づこうとして、結果──玉砕。胸はどうしようもなく痛めつけられた。

 四十七歳の和輔は高校生の真清を追った。図書館か──。



 そこは和輔の生まれた街の図書館にそっくりだった。

 あの会話を交わした日と同じように、真清は窓際のテーブルで重ねた本を一冊一冊手に取り、タイトルを確認していた。自分があの時代と同じ姿ではないことを気にもせずに、和輔は近づいた。

「正木君?」真清は顔をあげて微笑んだ。「今ね、異世界転生について調べてるの」

「異世界転生ってなに?」と和輔は目を細め、尋ねた。

「今度の文化祭にみんなでなにか作って出そうって話になって、壁小説がいいんじゃない? ってことになったの。水彩で挿し絵もつけて、壁に貼るわけ。物語は、主人公がビルの屋上から落下した後、現実とは別世界に生まれ変わるんだけどね。その後──つまり、結末はどうするべきかってことになって」

「おれは元の世界に帰りたい」和輔は身につまされて言った。

「そうねえ」真清は窓に視線を向け、思案する。「主人公は現実世界では命が終わってるのよ。どちらかというと異世界でそのまま永遠に暮らす方がいいって意見が多かったんだけど──」

 真清が並べた分厚い本は、どれもファンタジー小説のようだった。小鳥や花のイラストで飾られた美しい装丁そうていが中身を保証している、薄っぺらな内容では決してないのだぞと主張している、それはまるで──。

「ねえ、正木君……」長い沈黙の後だった。和輔はその瞬間、意識が丸ごと二十九年前に飛んでしまいそうになった。それに気づくと必死で踏ん張り、真清の発言を制した。

「待って! 真清ちゃん、言わないで」

「え? まだなにも言ってないけど?」

 和輔は、いつも照れてまともに見られなかった真清の澄んだ瞳を見つめた。

「おれ、四十七になっても独身だし、子どももいないんだ。高校のころもそうだったんだけどさ、もてないし、ダサいし、性格も変だし……だから、予想どおりじゃんっていうか、仕方ないと思うんだけど、でも、そういう暮らしでもさ、不思議と孤独や不幸って感じがしないんだよな。本当だぜ? パチンコとか競馬ばっかじゃない、毎日いろんなことやってる。……そうだ、手紙に書いて送ってやるよ。こういうダッサい独身中年男の私生活、どんなんだって、君も興味あるだろ?」

 真清は困ったような表情を返した。「独身男って……正木君、まだ高校生なんだから、当たり前じゃない」

「当たり前だし、卒業してもなにも変わらないってこと」

「そんなことない」真清は首を振る。「正木君は全然変じゃないよ。そんなふうに卑下ひげしないで。もてる人がみんないいわけじゃないと思う。だって、自分の好みじゃない人もいっぱい寄ってくるってことでしょ? それはそれで大変よ」

 真清もそれで困ったことがあったのだろうか。

「じゃあさ、真清ちゃんは、もしおれが結婚してくれって言ったら、考えてくれるの?」

「それは……」

「わっ、ごめん、今のなしで!」少し調子に乗りすぎたか、と反省した。自分は四十七歳だってこと、忘れるな。相手は女子高生だぞ?

 制服姿の真清に対し、自分はよれよれの綿シャツとジーンズのまま。彼女の目に自分がちゃんと高校生だと映っていることが不思議だった。なんのマジックが発動しているのだろう。これが異世界なのだろうか。

 真清は微笑みを復帰させて言った。「仮定の話で言われたら、どう答えたらいいのかわからないけど。でも、もし本気で好きな気持ちを打ち明けられたら、誰でも真剣に考えるんじゃないかな?」

「そう……」真剣に考えられた上、振られるのもつらそうだ。

「大丈夫よ、正木君」真清は和輔の腕をぽんと叩く。「社会人になったら、急にモテモテになるかもよ? きっと正木君のこと想ってくれる人が現れるわよ」


(だから、現れないんだって。そういうの、想像できないんだろうな……)


 その後すぐ図書館を出て、彼女の隣を歩きながらいろいろな話をした。目の前に輝かしい女子高生だけが見えて、和輔の言葉も、なにを発しても、その明るさに包まれていくようだった。彼女はそういう魔法使い。その幻想は、世の中に出ていく前の高校生の自分には特別魅力的だったろう。彼女にも努力や葛藤があったはずだ。陰のような部分も。自分は物語を安全に楽しみたいだけの臆病な観客だったのだろうか。頭の中で終わらせた恋。でも、それが精一杯だったのかもしれない。




 意識が混濁して、それがやむと元の喫茶店だった。テーブルに置いた腕の下のくすんだ木目がはっきり目に映り、先には溶けたアイスクリームが溜まったガラスの器、寝そべる銀のスプーン、さくらんぼが載ったままの白いソーサーとコーヒーカップ。

 ふっ、と息を吐き、「ま、いっか」と言う。夢か幻か……いつもと違う夢を見る日というものがある。それだけ疲れてるってことだろうなと自分を納得させる日が。

 

 壁際の席に座っていた年配の男が新聞を畳んで腰をあげ、近づいてきた。

「お兄さん、随分ぼんやりしてるね。大丈夫かい?」

「ぼんやりはルーティンワークですから平気ですよ。懐かしい場所に久しぶりに来て気が緩んじゃったっていう説も採用したいところですけどね。半分寝てましたね」と和輔は答えた。

「大方、これの問題ってとこじゃないの?」男はにやにやして、「これ」のところで小指を立てて見せてきた。「奥さんにバレないように賢くやんなきゃ」

「あのですねー」言い返そうとして口を開いたのに、肝腎の言葉が出てこない。「えっと……あれ?」

「これやるから、元気出しな」男の節くれだった手がどくと、テーブルに喫茶店のサービス券が現れた。男はレジで金を払って出ていった。

 和輔は券を握りしめる。「もうっ、二枚もくれて、誰と来いっていうんだよ」

「あっ、それ、期限はありませんから、どうぞ」レジからマスターが声をあげる。

「こっちの命には期限があるからな、どうだろ」ふてくされたまま言って、立ちあがる。

「そんなー、まだお若いじゃないですか」

「じゃあ、お店の方も頑張って持たせてよ? また来るからさ」サービス券を一枚だけ取ると、和輔も金を払って帰ることにした。



〈了〉

 



  


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