2.
「待って、渡辺さん!」
もうすぐ飛び降りられるというところで割り込んできた声。それは、クラスで浮き気味な光美姫でも聞き覚えがあった。
声優でも目指したら良いんじゃないかと思わせるような、はっきりとした発音で女の子らしさの滲む声は、
流石にクラスメートの目の前で自殺は出来まいと思い、名残惜しさを感じながらもフェンスから手を離す。
刹那の浮遊感、そして地面に足が着く。すぐに自殺を取りやめた光美姫の様子を見て、鈴はやや大袈裟に感じられるほど大きく胸を撫でおろした。
「今日の、何だか思いつめたような顔してたから。教室ふらっていなくなっちゃったとき、危ない!って思って出てきたの、正解だったかな?」
よく通る声でそう言いながら鈴は光美姫の方へと向かった。その間もニコニコとした砂糖菓子のような笑顔が浮かべられている。
「ねぇ渡辺さん。何か悩みとかがあるなら私に相談して欲しいの。ううん、私に言いにくいなら、他の子とか先生でも。死んじゃうなんて絶対にダメ。」
「別に。余計なお世話なんだけど。」
鈴の言葉を胡散臭い、と思って握られた手を振りほどいた。彼女に分かる訳がない。今まで光美姫が抱えてきた思いも、悩みも、全部。
「ごめん、怒らせた…?」
「怒ってない。分かったならさっさと授業戻んなよ。……皆、心配するよ。」
「でも、このまま戻ったらまた飛び降りるかもしれないでしょ?だから私、渡辺さんが教室に戻って授業を受けるまで今日は屋上に居る!」
ぱん、と自身の両手を重ねて顔の横に近づける。あまりに自然に行われた、可愛い女子にしか許されない仕草。
フェンスにもたれかかるようにして立つ光美姫の横に座り込み、動ないんだという意志を示して見せた。
なーにが『クラスのプリンセス』だ。
「もう今日は飛ばないから。だから戻って。」
「悪いけどその言葉、信じられないよ。何かあってからじゃ遅い。私に出来ることなら何でもするから、ね?」
「じゃあここから出て行って。」
「そう言うことじゃなくて…!皆も心配してるんだよ。最近、月に何回か授業中居なくなってるでしょ?」
「…嘘吐かないで!!」
どれだけ光美姫のことを生かしておきたいのか、クラスから自殺者を出したくないのかわからないが、よくもそうつらつらと嘘を並べられるものだ。
今まであれだけ名前のことをからかい、顔やスタイルを嘲笑い、もう一人のプリンセス───
気に掛ける様子なんて一切見せなかったクラスメートたちが、動物園のパンダでしかなかった光美姫のことを心配なぞするものか。
「嘘じゃないよ。全然授業に出てなくて大丈夫なのかなって皆言ってるし、受けてないところのノートのコピーだってしてる子が居たはず。私だってもちろん。」
「見世物の餌代ってとこ?」
「え?」
フン、と小さく鼻を鳴らし、善意だけで構成されている言葉を一蹴する。ひねくれた見方だとは自覚していたが、今までの彼ら彼女らの仕打ちを考えればこれくらいは許されて欲しいものだ。
名前通りのお姫様に比べられた、名前負けした可哀想なお姫様もどき。これが光美姫なのだから。
「渡辺さんは、見世物でも何でもないよ?」
「……ッ!」
きょとんとした顔で、さぞかし不思議そうな表情でそう呟いた鈴。その顔と声音に、言葉にならない声が喉の奥から漏れ出した。
「ふざけないで!!あんたのせいで…あんたのせいで、私はもっと哀れな目で見られることになったんだよ!?ベルの方は可愛くて頭もいいのに、オーロラの方はそうでもないなって!!本物のお姫様に比べられる庶民の気持ちが分かる!?分からないでしょ!?」
今まで堪えた気持ちが一気に爆発する。最も、鈴からしてみれば身に覚えのない話で怒鳴られているんだから更に目を丸くしてもおかしくはない。そして何より、光美姫自身も怒りを鈴に向けるのはお門違いだと分かっていた。
でも、今までのことも、死にたいと思うようになったことも、いざ死のうとしたのに止められたことも、蓄積されてきたもの全部が抑えきれなくなったのだ。
勿論そんなことはないが、今自分がこうして孤独な思いをしているのも、偏見を含んだ視線を向けられているのも全て鈴のせい。そう思ってしまえば、幾分かは心が軽くなったような気がしたから、全ての責任を彼女に押し付けていた。
でも、今の光美姫の状況の責任は、両親にも、光美姫自身にも、クラスメートや担任にも、鈴にもあるだろう。
それを全部鈴のせいにして、自分の悪いところは見ないふりをして、可哀想な自分に酔いしれて。
「……確かに、私に今まで渡辺さんが……光美姫ちゃんが、どんな気持ちで生活してきたのかは分からない。」
「それは、周りに人が沢山いたから?あなたとは違うのよって?」
自分の嫌なところも、最も醜い部分も、彼女の清らかさにも触れても尚、出てくる言葉はそんな冷たい言葉。
誰よりも悪人と見なしていた彼女が、一番心優しかったと言うのに。
「そんなわけない。そんなことが言いたいんじゃないの。あなたの今までは分からないけど、それでも死んじゃうのはダメ。何も知らない私が言うなって話なのは分かるよ?」
そう鈴が言葉を重ねるたびに、光美姫の心はどんどん荒んでいく。名前通り、誰にでも優しく接する彼女を見ると、ますますひねくれた自分が嫌になる。
もういっそのこと彼女の目の前で飛んでやって、善良で非の打ちどころのない彼女の心をズタボロにしてやろうか、なんて矮小な考えが湧き出してきた。
「流石『お姫様』だね。こんな私にも優しくしてくれるんだ。」
「お姫様、って何?」
「あなたの名前。鈴なんて、田中さんにピッタリじゃない。」
きっと彼女はキラキラネームで悩んでいることなんてほとんどないだろう、と思ってそんな皮肉を口に出した。もちろん悩んでいることがゼロな訳ないけれど、少なくとも光美姫よりも悩みは軽いだろう。
「私、名前にそこまで重い意味はないと思うんだよね。」
触れられてほしくないだろう名前について口に出したのに、返ってきた言葉は冷静で落ち着いたものだった。
「確かに重要なものだし、両親から貰った物っていう考え方も出来ると思うし。でも、私はそうは思えなくて。でも名前のことを意識しすぎて、名前負けしてるとか名前にふさわしいとか、意味わからないし意味もないと思うの。」
光美姫に対して話す、というよりは自分自身に言い聞かせているような口調でそう続ける。その目は彼女ではなくて空に向いている。
「それはそれとして、オーロラって名前素敵だと思う。美しくて、光のお姫様。」
一呼吸置き、打って変わって笑顔を向ける。光美姫の方を見て一音一音確かめるように呟いた。
その言葉を聞きながら光美姫は唇を尖らせながら釣られるように視線を上げる。
「名前にコンプレックスを抱く気持ちは凄く分かるの。名前負けとか言うのもどうでもいいと思ってる。でも、せっかくなら名前に似合うような自分になろうと思わない?」
「似合うような、自分に?」
「そう。だって、せっかく綺麗な漢字が三つも使われて、世界中の人が知ってるプリンセスの名前でもあるんだよ?なのに、負けてるとか言ってそのまま腐らせちゃうのは勿体ないと思うの。」
そう言う鈴の視線はとても真摯で、射貫くよう。距離を詰め、至近距離で光美姫を見つめた。
光美姫は似合うような自分に、という言葉を何度も反芻する。光り輝き、美しいお姫様。普通の顔、平々凡々なスペック、ひねくれた性格。とてもじゃないけど、そんなたいそうな名前に見合うようなものではないと思う。
オーロラ姫との共通性は生まれながらに呪いをかけられていることくらいか。呪われて若くして死ぬか、一生後ろ指を指されて生きていくか。オーロラ姫の呪いの方がまだましかもしれない。
「これは、高校に上がってから誰にも言ったことがない話ね。」
そう前置きして、少し悩んだような表情を見せた後に人差し指を立てた。
「私、高校上がる前まではびっくりするくらいの芋だったの。凄く太ってたし、髪の毛もぼさぼさ、成績も悪くて運動神経も悪くて。」
「本気で言ってる?嘘を付くならもっとうまい嘘を…。」
「ほら、これ。中学二年生くらいの時の私。この時、『ベルなのにブスなんだー』みたいなことばっかり言われてたの。」
スマホから出てきた写真は、今の彼女とは信じられないような鈴の姿。言葉通り、今よりも全体的にムチムチとしていて髪の毛も寝ぐせだらけ。化粧っ気も無くて眉も整えられていないことも相まり、芋と言われるような中学生が映っていた。
「名前がなんだ、私を見てくれって思って色々頑張って変わったの。ダイエットしたり、勉強頑張ったりね。そうしたら、今の。今の私が名前に見合っているかどうかは分からないけど、きっと近づけたんじゃないかな。世間一般的には。」
そう語った彼女は、スマホの電源を落として今の自分の顔に視線が向くように続ける。今の鈴は文句のない美人である。
「私は、田中さんと違うから…。そうやって痩せることも出来ないし、人の優しくすることも出来ない。名前にふさわしくなんて、なれない。」
「出来ないって言う前に、やってみたらどうかな?」
今までで一番強い口調の鈴には、想像以上の迫力があり光美姫は言葉に詰まった。
「キツいこと言っちゃってたらごめんね。でも、光美姫ちゃんはさ、努力の一つでもした?何もする前から出来ないっていうのは、あまりに勿体ないよ。」
確かに、今までは努力はしていなかった。その上で現実から目を背けて名前のせいにしていた。否定をしたかったが、その言葉は光美姫に深く突き刺さる。
「…そんなの分かってるに決まってるじゃん……。」
そうひねり出した言葉は今までに比べて弱々しい。死にたがりの独りの浮いた高校生、というのは何処へやらだ。
「じゃあ、一緒に頑張ってみようよ?」
「…どういう、こと。」
「文字通りだよ。私もこうして変われたんだから、光美姫ちゃんが変われない訳がないでしょ?」
華が開いたような笑顔を浮かべながら鈴は光美姫の手を取った。クラスの…学年の男子を虜にしてやまない、自然で明るい笑顔は同性の光美姫でさえも恋をしてしまいそうな表情だった。
「でも、私はそんな資格ないでしょ。こんだけ斜に構えてるんだし。」
「そんなことないよ。私から見える光美姫ちゃんはとても素敵な人だもん。きっと、少しずつ変えていけば『名前にピッタリ』になれるはずだよ。」
「名前に、ね。」
小さくその言葉を反芻する。そうなれたら苦労しないのに、と思いながら。
「ね、少しだけでも試してみようよ。…まずは、一か月。それで何も変わらなくて、光美姫ちゃんが人生に絶望してしまったって言うのなら、私はこれ以上首を突っ込まない。でも、その一か月で少しでも価値観が変わったなら、考え直してみて欲しいの。確かに名前で苦労することは沢山あるだろうし、とても分かる。でも、それを原因に全部投げだしちゃうなんてズルい。一度しかない人生なんだから、楽しまなきゃ。」
人差し指を立てて、一か月というところをアピールする。砕けた口調だけれど、その言葉の響きは真剣だ。
その視線と声音に、随分動いていなかった胸の内のどこかが動いたような気がした。こういうのを琴線に触れる、とか言うのだろうか。
今まで張り詰めていた何かがぷつんと切れるように、全身から力が抜けていく。
久しく触れていなかった人の優しさや温もり、それは光美姫の硬い心のガードを甘やかに溶かしていった。
気づけばフェンスに沿ってずるずるとへたり込み、手で口元を覆う。ボロボロととめどなく溢れる涙を堪えようとしながらも、全然止まらない涙を何度も拭う。
「考え直してもらったり、出来るかな?ということでまず、屋上から教室にってところからでも。」
尚も泣きじゃくる光美姫を優しい瞳で見据えながら、鈴は彼女に手を差し出した。目の前に出てきた手は、歪んだ視界からでも分かるほど隅々まで手入れが行き届いているのが分かる。
「まぁ…一か月くらいなら。」
これだけ泣いておきながらも、出てきた言葉はそんな素っ気ない物。これだけ言葉を尽くしてくれた彼女に対して取るべき態度じゃないことは分かりつつ、光美姫は鈴の手を取った。
「私が死ぬか死なないか決めるのは、もう少しだけ後にするから。…だから、私をプリンセスに……名前に見合う女子になれるようにする手伝いを、して欲しい。」
ようやくやや素直になった言葉を口に出せた光美姫へと、鈴は今日一番の笑顔を向ける。一拍置いて、勢いをつけて抱き着いた。
急激に詰まる距離に言葉が出ない光美姫なんて知らないのか、鈴は歌うように続ける。
「当たり前だよ。光美姫ちゃんが生きててくれるって言うなら。」
その甘い声は光美姫の耳を柔らかく絆し、じんわりと溶け込んでいく。
久しぶりに感じる多幸感に目を細めながら、初めて今後の生活に期待を馳せるのだった。
プリンセスは屋上で 華乃国ノ有栖 @Okasino_Alice
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