水色のワニ

篠崎 時博

水色のワニ

 雲一つないこんな晴れた日、私は思い出す。


 あの、水色のワニを―――。


 ***


 ー九四五年

 当時私はアジアの小さな島で敵と戦う日々を送っていた。


 ぬかるむ道、重くなる足元、春とは言えぬ暑さ、きる食糧しょくりょう、みな骨が見えるほどせていきながらも、命令に従い過ごしていた。


 長期化する戦いはきっと人をおかしくするのだろう。

 餓死がしや病気、あるいは自死じしで周りが次々と倒れていなくなっても、涙など出やしなかった。悲しむ余裕なんて無かった。

 そしてこの戦いに怒りすら感じることもできなかった。

 あの頃は。


 *

 それは島に上陸して一月ほどが過ぎたあたりだろうか。


 近くの部隊と合流する途中、ぬかるんだ地面で足が滑り、私は崖から落ちてしまった。列になっていた隊の者は落ちた私など助けてはくれなかった。それよりも私が落ちたことで敵に見つかる危険性を感じたのか、進む速度を速めたように思えた。


 皆ちらりと私を見るか、あるいは見る気力もなく、さっさと通り過ぎていった。


 私も敵に見つかりたくはない。

 すぐに立ち上がろうとしたが、無理だった。左足に激しい痛みを感じた。落ちた際に怪我をしてしまった。血は出ていなかったが、ひどい捻挫ねんざか骨折なのか、内側からくる痛みに思わずうなった。


 その場から離れようにも離れられない。しかし、立ち上がる体力もすでになかった。


 私は死を覚悟した。


 これまでのことが走馬灯そうまとうのようによみがえった。


 ぼんやりとする頭の中で、家族との最後の日々を思い出す。


 見送った母と父そして妹。

 どうかご無事に、と言ってくれたあの人。


 誰にも知られず、荒れた土地で一人死んでいくのだ、私は。


 涙など出てこなかった。むなしくて、寂しくて、空っぽで、ただひたすらに死が来るのを待った。


 そんなときだった。


 ガサッと近くで音がした。


 敵に見つかったのだ、ついに。


 そう思ってぎゅっと目をつぶった。


 殺すなら早く殺してくれ、いっそひと思いに――。


 静寂せいじゃくがあたりを包んだ。


 何も起こらないことを不思議に感じ、私はゆっくりと目を開けた。


 目の前にいたのは、

 それはそれはきれいな水色をした――、一匹のワニだった。


 *

 動物は敵におそわれないよう、自然の色に近くなるものが多いようだ。そういう色のことを保護色というらしい。


 目の前のワニは水色である。


 これではまるで捕まえてくださいと言っているようなものだ。


 そんなことを思っていると、のっそのっそっとワニが近づいてきた。


「ひっ」

 私はとっさに後退あとずさりした。


 敵に銃を向けられるのは嫌だ。けれど、ワニに襲われて死ぬのも嫌だ。

 ほとんど空っぽ頭の中で、じわじわと自分が体をわれて死んでいくさまが思い浮かぶ。


 しかし、近づいたワニは一向いっこうに私を襲おうとしなかった。


 それどころかジッと私を見つめるのだ。


 その黒い瞳に自分の顔がうつる。


 痩せこけて、目のあたりはくぼみ、髭も伸びきっている。ここに来る前の自分とは比べようもないひどい姿だった。


 ……なぜだろう。

 なぜ私はこんなところに、こんなふうになるまでいるんだろう。

 なんのためにいるんだろう。


 ふと何もかもがどうでもよくなって、私は空を見上げた。


 きれいな、んだ空だった。

 こんな地獄が下で起こっていることなんてまるで知らないような、そんな色をしていた。


 そういえば……。

 私は思い出した。

 私の隊の中に不思議な奴がいたことを。

 持っていた手榴弾しゅりゅうだん(注:手投げ用の小形の爆弾)でうっかり死んでしまった――、


 そう、斎藤さいとうだ。


 *

 斎藤は私よりも五つ年上のひょろりとした背の高い男だった。


 斎藤は一言で言うと呑気のんきというか、協調性にやや欠けるというか、あまり隊に馴染なじんでいないような奴だった。


 よく自作のヘンテコな歌を歌ったり、森の中で珍しい虫がいると道を外れて捕まえようとしたり、食べられそうな植物がないか敵と戦っている時も草を食べて確認するような奴だった。

 斎藤はそんな男だった。



 ある日、空を見上げて斎藤は言った。


「きれいだなぁ。俺が住んでいたところと変わらないなぁ……」


 その日も雲一つないきれいな青空だった。


「俺さ、この空ずっと見ていられると思う。見てて飽きないよ。きっとめしなんかいらねぇ」

 よいしょっと言いながら斎藤はその場に寝転ねころんだ。

「おいっ!おい斎藤!」

 私は敵に見つからないよう小声で言った。

「なに?」

「いくら見張り中っていったって寝転ぶ奴いるか!」

「いやぁ〜、だってさ、俺たち朝からずっとここにいるけど誰も来ないじゃない」

「分からないぞ。この会話も今まさに聞かれているかもしれない」

随分ずいぶん気を張ってるね〜」

「気を張るのが俺たちの仕事だろ」


 事実、その日は本当に何事も起こらず、自分の陣地へと戻ることができた。


 そしてその二日後だった。

 彼が水筒と手榴弾を間違えて愛すべき空へと旅立ってしまったのは。


 彼が亡くなったと知ったとき、悲しむどころか皆、「あいつらしいな」と口をそろえて言っていたのを思い出す。



 目の前のワニは、その斎藤を思い出させた。

 青空のような色も、つかみどころがない不思議な感じも。


「斎藤……?お前じつは斎藤なのか?」

 私は思わず言っていた。


 そんなわけはない。

 そんなはずは。

 けれどその時、ワニが目を細めてフッと笑ったように見えた。


 *

“斎藤”のようなワニはその後、ついて来いというように私に背中を向けてのっそのっそと歩き出した。


 私はまるで導かれるように、痛む足を引きずりながら必死にワニのあとを追った。

 しばらくすると川に出た。

 川は太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。私はふらふらと川に近づいて水を飲んだ。


 美味うまかった。

 水がこんなに美味いとは思わなかった。

 夢中で飲んだ。

 飲んで飲んで飲んだ。

 喉が乾いていたことにずっと気づかなかった。


 ようやっと満足して顔を上げた時には、ワニはもうどこにもいなかった。


 そのとき少し離れたところから「おーい」と声が聞こえた。

 どうやら違う部隊の者らしかった。


 転んで隊列から離れてしまったと伝えたら、肩を貸してくれた。

 そうして私はその日のうちに陣地に戻ることができたのだ。



 八月十五日、戦争は終わった。

 多くの犠牲者を出して。

 見知らぬ地を赤く染めて。

 人を人でなくして。


 私は生きていた。生きて国に帰ることができた。



 そうして現在いまいたる。


 ***

 今日も晴れている。


 雲一つないこんな晴れた日、私は思い出す。


 あの、水色のワニを――—。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水色のワニ 篠崎 時博 @shinozaki21

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説