美容室ペレグリン《 夢の入り口 》 // お望みのスタイル 必ず叶えてさしあげます //

寄賀あける

迷い人は眠らない = 霧の中 =

 コーヒーに角砂糖を入れていた隼人はやとが、ふと顔をあげた。

「バンちゃん、ボクの領域に誰かが迷い込んだ」

「うん? 今日は予約、入ってないよ?」

「バンちゃん、馬鹿なの? 迷い込んだんだよ。予約客じゃない ―― あぁ、砂糖、いくつ入れたか判らなくなった……1から始めようかな」

「ダメ、もう5個入れたよ。それ以上入れちゃダメ」

「バンちゃんのケチ……」




 敷地をぐるりと囲む高木こうぼく、公道から続くのは優雅なカーブをえがくアプローチ。イングリッシュガーデンが広がる奥には白い建屋があるが、それはしょくさいが吹く風に揺れた時、わずかに姿を見せるだけだ。この敷地の中だけは時間の流れが違っていて、別世界があるようだ。


 けれどやはりここも、ひとつながりの世界だとアプローチの入り口に立てられた看板かんばんかたっている。細い丸太に板を打ち付けただけ、板は木目がかされて、左右は木目に沿ってくずれている。その看板には『美容室ペレグリン』と黄色い文字で書かれていた。


 佳代子かよこはその看板を見た時、そうだ、せっかくだから綺麗きれいにしてからにしよう、と深く考えず、アプローチに足を踏み入れて行った。綺麗にしてから何をするのか、それはまだ考えていなかった。


 この街には初めて来た。飛び乗った電車の終着駅だった。職場に向かうはずだったのに、なぜか反対方向の電車に乗ってしまった。


 駅を出ると霧が出ていて、全てがあいまいに見えた。でも綺麗、そう思いながらそぞろ歩いた。


 どこに行くあてもなく、彷徨さまよい歩いているうちに霧がどんどん深くなり、辿たどり着いたのがこの美容室だった。


 アプローチは手入れの行き届いた庭を楽しめる作りになっていた。ある意味『美容室』は別世界への入り口かも知れない。今までの髪型から新しい髪型に変わる、生まれ変わる場所かも知れない。そこへの導入に、この夢の中で見るような花咲く庭は相応しい、佳代子はそう思った。


(わたしも生まれ変わりたい。今のままでは、このままでは……)


 生活に埋もれて、自分を見失う。もう見失っている。唯一の心の支えも、もう見えない。


 煉瓦れんが敷きのアプローチの終点はちょっとした広場になっていて、木のベンチ、アイアンと陶器とうきタイルのティーテーブル、そしてテーブルとそろいのデザインのチェアー2脚が置かれていた。庭をながめながらティータイムを楽しむのだろう。そしてその先に、白い板張りの建屋があった。


 庭によく似合うその建物の屋根は大きく傾斜し窓があったが、きっと2階ではなく、せいぜい屋根裏部屋と言った感じだ。


 白いドアのかたわらには、やはりこの庭や建物に似合うベルが取り付けられている。佳代子はらされた細いチェーンを引いて、来訪を知らせた。チリンチリン、と可愛らしい音がする。


 こんな音で、中にまで聞こえるのかしら? それより、本当にここは美容室? 美容室って、たいていガラス張りで、中が見える。それにメニューや料金の表示もない。


「はい、美容室ペレグリンです」

 急に声がして佳代子を驚かせる。どこかにスピーカーが取り付けられているのだろうか?


 佳代子が戸惑っていると、

「本日はどのような?」

「あ……髪を、カラーをお願いします」

「お客様、ご予約いただいておりますか?」

「い、いいえ……」

「お待ちください。美容師に確認して参ります」


 どうしよう、ひょっとして随分ずいぶん、場違いなところに来てしまった? 予約が必要な美容室は多いけれど、呼び鈴を鳴らして店員を呼ぶ美容室なんて、かなり高級なのでは? このまま帰ってしまおうか?

「お待たせいたしました ―― 幸い本日は予約に空きがございます。お客様さえよろしければ、お通しするよう美容師が申しております」


 どうしよう……ここで料金を聞くなんて恥知らず?

「ただし、お客様にご確認したいことが2点ほどございます」

「確認?」

「はい。2点とも美容師についてとなりますが、無口と申しますか……気のいた会話の一つもできません。もちろん、サービス提供に必要なことはキチンと申し上げますので、その点はご心配いりません。よろしいでしょうか?」

「はい……」

 むしろ黙っていてくれたほうがいい。


「もう1点、こちらのほうが重要です。美容師ですが、見た目に少々、なんがございまして。腕は確かですので、お客様が見た目をお気になさらないのでしたら、必ずお望みのスタイルに仕上げる事を保証いたします」


 見た目に難? 男性だか女性だか知らないが、あらかじめ了承を得なくてはならないなんて、どれほどみにくい容姿なのだろう? 具体的に聞かないと、何とも言えない。

「あの、見た目に難とおっしゃいますと?」

「珍しい目の色をしております。しかも、右と左、別の色です」


 オッドアイ……話には聞くけれど、会うのは初めて。そんなに嫌じゃない、と佳代子は思った。

「それだけなら、気になりません」

「はい、それだけです。では、お通しいたします」

「あ……」


 やっぱり先に料金を聞こう、どうしても気になる。

「あの。料金はおいくらくらいになりますか?」

「当店は一律で頂戴ちょうだいいたしております。どのメニューでもお客様の満足度に応じてお支払いいただいております」

「満足度?」

「はい。仕上がりをごらんいただいて、お客様が適正と思われるがくをお支払いください」

「そうとう、技術に自信がおありなのですね」

「いかがいたしますか? お入りになりますか、それとも?」

そんな自信家ならば、ひょっとしたら『自信』を分けてくれるかもしれない。

「お願いします」


 そう言い終わるとともに、ドアが内側に開かれる。薄ぼんやりした照明の中、ドアを押さえているのは若い男性だ。


 色白で、端正な顔立ち、茶髪にはメッシュが入っている。白いウイングカラーのシャツは、袖にゆったりとひだを取ったものだ。クロスタイに黒いベスト、スラックスも黒、美容師と言うよりはレストランのボーイのようなで立ちの彼は、まだ20前に見える。


「お入りください」

 夢の中を歩くような心持の中、足を中に踏み入れる。後ろでドアが閉まる音がし、急に部屋が明るくなる。


 見渡すと部屋は円形で、窓がないのか、壁際かべぎわには闇があるだけだ。中央部分だけスポットライトで照らしているようにも見える。


 建物の外見とそぐわない気もするが、見上げると光が差し込んでいる。傾斜した屋根にあった窓からの光だろう。


 さらに進むと奥に、足元まで見えるほど大きな、美しい縁取りが施された鏡が置かれ、その前に瀟洒しょうしゃなデザインの椅子が置かれている。ドアを開けてくれた男が椅子の前まで進み、腰かけるよう佳代子をうながした。


「お荷物とお召し物をお預かりいたします。少々お待ちください。美容師がじき、参ります」


 佳代子が椅子に座ると、グルッと椅子を鏡に向かわせて回し、男はどこかへ行ってしまった。どうやってあの椅子を回したのだろう。あのデザインで、回転させる機能を持たせるなんてできるとは思えない。そう言えば、高さを調整できるようにも思えない。でも事実、ぐるりと回ったのだから、私には判らない仕掛けがあるのかもしれない、そんな事を考えながら、佳代子は鏡に映る自分を見詰めた。


 疲れた顔をしている。毎日毎日、同じことの繰り返し、何の変化もない。与えられた仕事をこなし、身に覚えのないミスを叱責しっせきされ、味気のない食事を取り、ただ泥のように眠るだけ。なんでこんな生き方になってしまったのだろう。


 昨日は心の支えを失った。唯一のなぐさめが私の物ではないのだと知った。わたしに生きる意味はあるのだろうか?


 社会人になった時は、新生活に心を時めかし、自分の可能性に夢を見てた。でも、もう、どんな夢を見ていたかさえ思い出せない。


 鏡に映る自分の顔はどことなく老けたように見える。老けた、違う、疲れているだけ。髪もなんだか草臥くたびれている。


 どうするか聞かれ、思わずカラーと言ったけれど、思い切ってカットも頼もうか? そう考えた時、案内をしてくれた男が戻ってきた。


「施術のご用意をさせていただきます」

 黒いタオルを襟元えりもとに巻かれる。

「あの……カラーだけでなく ――」

「申し訳ございません、お客様。ご要望は全て美容師がうけたまわりますので」

佳代子の言葉をさえぎって、男は黒い上っ張りを、腕を通すようにと広げてくる。


 そうね、直接美容師さんに言った方がいい。男は佳代子の身支度を進めると、光が届くギリギリの端に下がり、控えるように立った。


「いらっしゃいませ」

 不意に聞こえた声に佳代子が驚く。

「本日はいかがいたしましょう?」

いつの間にか、鏡の中の佳代子の後ろに立つ人がいる。肩に届くストレートの黒髪、前髪は真っ直ぐに切りそろえられている。服装は案内をしてくれた男と同じだ。


(綺麗な人……)

 うっかりすると見惚みとれてしまいそうだ。でも、そう、右の目はイエロー、左は……灰色? 知らなければ振り向いて、じかに見て確認するという不躾ぶしつけなことをしてしまったかもしれない。


「カラーをお願いしたのですが、カットも追加できますか?」

「もちろんです。カットとカラリングですね」

鏡の中でオッドアイが微笑む。そしてブラシを取り出して、佳代子の髪にあてる。

「ブラッシングいたします」

ブラシを髪にすべらせながら、美容師が問う。

「お色はどのようにいたしましょう」


 せめて髪の色くらい明るくしたい。でもあまり明るすぎるのは嫌。無理して明るくしていると思われたくない。

「少し明るくしてください」

「かしこまりました」


 ブラシは柔らかく、優しく髪を滑る。心地よさに目を閉じたくなるが、閉じたら眠ってしまいそうだ。


 丁寧ていねいなブラッシングが続く中、案内をしてくれた男 ―― 多分助手だ、が小さな容器を持って美容師の横に立った。美容師は小さな溜息ためいきくと、ブラシを助手に渡し、容器を助手から受け取った。


「お色をってまいります」

 え? いつの間にか美容師の手には手袋がかぶせられている。染料を手に付けないためだろうけれど、めるところを見ていない。ブラッシングの前からしていたのかしら? 手袋は、あの看板と同じ黄色だ。


(あら……温かい)

 カラリングの染料は、いつも最初はヒヤリとする。塗られていくうちに感じなくなるけれど、常温だから頭皮に触れれば冷たく感じる。


 どうやらこの美容室では温めてくれているようだ。他では感じたことのない心地よさを感じる。温めてあるだけでこんなに違うのね。佳代子はまた、目を閉じたくなる。それほど心地よい。


 そう言えば、カラーの確認をしなかった。よく、色見本を見せてくれて、これくらいの色に、と指定したりするけれど、ここではそれがなかった。美容師さん、センスにも自信がおありなのね。心の中で佳代子は微笑んだ。


 オッドアイだけど、まるでモデルか何かみたいな容姿のこの美容師は、技術とセンスが言う通りなら、相当の売れっ子美容師になるだろうに。オッドアイだと雇ってくれる美容院がなかったのかしら? そんな事はなさそうなんだけど。


 それとも、この人自身が拒んだのかしら? オッドアイがコンプレックスなのかもしれない。容姿に難あり、って言っていたっけ……


「美容師さん?」

「……はい、なにか?」


「こちらのお店、お席は一つだけのようですが、美容師さんはお一人?」

「さようでございます。1日1名様、ご予約限定でお請けさせていただいております。本日はご予約いただいておりませんでしたが、たまたま空いておりまして、これもご縁かと、お客様をお通ししたしました」


「そうだったのね……」


 美容師は無口と言っていた。人と接するのが苦手なのかも。だから1日1名。それがやっとなのかもしれない。でも、それで経営は成り立つの?


 佳代子はこの美容室の庭を思い出す。いくら郊外とは言え首都圏でこの規模の土地が安いはずがない。もともとお金持ちなのかもね……


 染料を塗り終わったようで、美容師は佳代子の髪をラップで包み込んでいる。ガラガラと音がして、グルリと回るヒーターが後ろの方から進んでくる。助手が押してきたのだろう。


「少し温めさせていただきながら、お時間を置かせていただきます。リラックスしてお過ごしください」

 美容師が佳代子の視界から消えた。


 美容師は男なのか女なのか、どっちだろうと考えながら、どっちでもいいや、と佳代子は思う。声は男のようだけど、あの程度なら低めの女声と思えなくもない。見た目だけでは判断のつかない事は世の中、沢山あるものだし、きっと大抵の事はどうでもいい事だ。


 そう、もう、何もかもどうでもいい ――


「お薬を流させていただきます」

 急な声にハッとする。既にヒーターは片づけられて、鏡に映るのは自分と助手の男だけだ。


「椅子を倒します」

 えっ? ここで? と思った時にはどんどん背もたれが倒れていく。頭の後ろを支えられ、されるがままにしているうちに椅子が止まり、首筋に硬いものが当たる。その硬い物も温かい。顔にガーゼが被せられ、視界がさえぎられる。


「お流しいたします」

声は助手ではなく、美容師の声だった。頭を包むように腕を回されたとき、何かフワッとした感触がして、美容師は女性なのかもしれないと佳代子は思った。


(気持ちいい……)

 シャワーが止まり、ポンプを押す音がして、何かいい香りが漂ってくる。すぐにシャンプーが始められる。


「いい香りですね」

「当店のオリジナルです。庭のハーブ園のハーブを使っております」

 会計の時、シャンプーの値段を聞いてみよう。買える値段なら、欲しいと思った。香りに包まれるだけでも疲れが取れていく気がする。


 シャンプーが洗い流され

「軽いマッサージの後、トリートメントいたします」

と、美容師が言う。

「トリートメントは頼んでいませんよ?」

「当店の標準メニューでございます ――トリートメント剤を付けたあと、しばらくミストで温めてまいります」


 すると、蒸しタオルが首の後ろに差し込まれた。これもまた何とも気持ちいい。ミストの発生も始められたのだろう、顔に被せられたガーゼの隙間を通って、霧が立ち込めるようだ。


 何分そうしていただろう。霧の立ち込める花畑を佳代子は歩いていた。あぁ、わたし、夢を見ているんだわ、佳代子がそう思った時、遠くで

「やっと眠ったね」

「しっ! まだ夢の入り口だ。静かに」

助手と美容師の声がかすかに聞こえた。


 霧に誘われるように、佳代子は咲き乱れる花をながめながら、ゆっくりと進んでいく。


 あれ、季節はいつだったっけ? チューリップが咲き、ヒマワリが咲き、コスモスが咲き、ポインセチアが咲いている。春も夏も秋も冬も、一緒くたに咲いている。


 やがて佳代子はバラ園に辿たどり着いた。大輪小輪、色様々なバラと、かぐわしい香りに包まれる。


『やぁ。やっとここに来たね』

 頭の中に直接、話しかけられたように感じた。声がした方を見ると、あの美容師だ。すぐ後ろには助手もいる。でも、違う、二人とも別の人だ。あの美容師と助手だけど、別の人だ。だってここは、だもの。


「あなたは誰?」

『ボクは渡鳥ペレグリン。世界のどこにでも行ける。キミを連れて行ってあげるよ』

美容師の別人が言い、それを助手の別人が受けて語る。

『ペレグリンはハヤブサ。ハヤブサは世界を巡る。世界を巡る太陽神ホルス

「ホルス……」

『キミの本当の願いはなぁに?』

ホルスが美しい微笑を見せて佳代子に問う。


 私の願いは何だろう? 私は何を望んでいるのだろう? 疲れ切ってしまって、何かを願う事も、求める事も忘れてしまった。


『迷い人は、やはり迷い人だね、隼人』

 助手の別人の声がボンヤリ聞こえる。

『迷い込んだのは霧のせいだよ、バンちゃん。街に発生した霧と、庭を満たす霧が同化して、境界を曖昧にしてしまった。だから迷い込んだんだよ』

『どちらにしろ迷っているね』

『そうだね。道が見えずに迷っているね』


 そうか、ホルスの名はハヤト、助手の別人はバン。夢の中でもちゃんと名前があるのね。うつろな意識の中で佳代子が思う。

「名前が欲しいわ」

『名前? 今の名前は嫌い?』

「いいえ、嫌いじゃない。変えたいとも思わない。でも、【なまえ】が欲しいと思ったの」


 霧が流れているのが見えた。風が吹いているわけでもないのになぜ? 佳代子が思う。

(それに……この霧は私の頬を撫でている)


 ハヤトを見ると、佳代子にニッコリと笑顔を見せた。

『お望みの場所は、あなたのすぐ近くに。いつもあなたを励ましてくれるその場所に、店を出たら電話することです。あなたの願いが何なのか、必ずあなたは知ることになる』


 ハヤトの傍らに、ドアの前で見たティーテーブルとチェアが現れた。


『ハーブティーをどうぞ』

 バンがポットを持ち、カップにお茶をそそいでいる。

『本日はカモミールティーでございます』

バンが口元を動かすことなく言った。


 気が付くと佳代子は座ってカップを手にしている。

『いい香り……』

差し込んだ陽光が暖かく、まぶしく……


(差し込んだ?)

 目の前のガーゼが外されて、目の前に助手が見えた。周囲は闇の壁に閉ざされた空間、スポットライトのように照らされて、傾斜屋根の窓からも陽が射している。


 助手が佳代子の髪をタオルで包み、

「おつかれさまです。椅子を起こしますね」

と言うと、頭の後ろが支えられ、背もたれが上がってくる。背もたれが上がり切ると、目の前には鏡があり、自分の姿が佳代子に見える。佳代子の横には美容師が映っている。

「どのようにカットいたしましょう?」

美容師が言う。


 私はこの人の名前を知っている。でも、なんという名前だったっけ? 鏡に映る美容師の顔を眺めながら佳代子は思う。

「わたしに似合う髪型をと、お願いしてもいいですか?」

「かしこまりました」

美容師が優しい頬笑みを浮かべうなずく。


(そうだ、わたし、夢を見ていた。いつの間にか眠ってしまった。でも、どんな夢だったか思い出せない)

 鏡の中の美容師は、器用にハサミとコームを使い、佳代子の髪を切っていく。時折、頭をかしげける仕種が、なんだか小鳥みたいで可愛い。そんな事、思っちゃ失礼かしら、そう思いつつ、つい笑みを浮かべてしまう。

「どうかなさいましたか?」

そんな佳代子を美容師が不審がる。


「いいえ、なにも。こちらにお願いしてよかった、と思って」

「それはようございました。いらした時よりお顔の色もよろしいようで。少しはお疲れが取れましたか?」

「えぇ、とても」

「ハーブのお陰でございましょうね」

「美容師さん、よかったらお名前を教えてくださいません?」


 すると鏡のなかに助手が現れた。美容師に何か耳打ちして、後ろに下がった。

「お客様、申し訳ございません。少々、お待ちください」

と、美容師は鏡の中から姿を消した。


 後方から声がする。今度予約が空いているのは何日先だ、と美容師の声がし、それに助手が答えている。判りましたと助手がいい、美容師が鏡の中に戻ってきた。


 今度はハサミではなくドライヤーを手にしている。

「乾かしてまいります」

温かい風が吹き、またもうっとりと心地よい。

「もう眠っては駄目ですよ」

美容師がクスリと笑った。ハッとして美容師を見ると、ドライヤーが終わっていて、美容師の姿もない。その代わり助手がいて、上っ張りを外しにかかっている。パラパラと、髪の切れ端が床に落ちる。襟に巻かれたタオルを外されている間、佳代子は鏡に映る自分を眺めた。


「後ろのほうはこのようになっております」

 美容師の声がして、鏡のなかで、鏡を持った美容師を佳代子が見る。合わせ鏡には佳代子の後頭部が映っている。


 髪の長さはたいして変わっていない。色もそれほど変わらない。だけど、軽やかで、程よく華やいで、まるでカモミールの香りのように爽やかに仕上がっている。


「えぇ、素敵だわ。こんなに素敵にしていただけるなんて」

「……本来のお客様を引き出せるよう、工夫いたしました。気に入っていただけて、ようございました」

「あの……代金はいかほど?」


 美容師が首を傾げる。あ、この仕種、知ってる。小鳥みたいだ。佳代子はそう思った。何度もそう思った気がする。

「お会計は、ドアのところで、おたずねください。本日はありがとうございました」


 鏡の中から美容師が消えた。あっ? と周囲を見渡すと、急に照度が下がったようで、出口のほうしか見えない。そこに立った助手が

「こちらでございます」

と、佳代子に言った。


 佳代子は椅子から立ち上がる。そして足元に、さっき落ちたばかりの髪の切れ端がない事に気が付く。シャンプー台もどこにも見えない。でも、どうでもいいや、と思った。そんな細かなことを気にしていたら、キリがない、そう思った


 出口の周囲は明るかった。スポットライトが部屋の中央からこちらに移動したように感じる。そこで佳代子は、助手が手にした自分の上着に袖を通し、バッグを受け取った。

「お会計ですが、最初にご説明差し上げたとおりです。よろしいでしょうか?」

「はい」


 助手は会計皿を両手で持って佳代子に言った。

「もし、お気に召さなければ、お支払いいただかなくても差しつかえございません」

「いいえ、いいえ、ちょっと待ってね」

慌てて佳代子はバッグから財布を取り出し、いつも美容院で支払う料金より多めの金額を会計皿に置いた。それでも少ないと思っているのに

「お釣りはいかがいたしますか?」

と、問われ、いりません、と首を振った。

「ありがとうございます」

そう言った助手の手から会計皿が消えている。


「公道に出たら左にお行きください。すぐ駅につくでしょう」

 ドアを開けながら助手が言った。佳代子は、何か聞き忘れたような気がしたけれど、それが何かを思い出せず、ドアの外に出た。

「ありがとうございます」

助手の声を後ろに聞いて煉瓦れんが敷きのアプローチを進む。霧はうっすらと、少しは薄くなってきたようだ。


 公道に出ると、左に曲がった。

(あ……)

忘れていた、電話しなくちゃ。無断欠勤してしまった。


 急いでスマホを出して、勤務先の同僚に電話する。わたしが一番 頼りにしているあの人。いつもわたしをかばってくれる人。でも、昨日、私のミスに激怒した人。


 するとすぐに相手が出た。

「佳代子さん、良かった、連絡ついて」

「え?」

「無断欠勤なんて、佳代子さんがするはずないと思って、何度も電話したけど、出なくて。心配していたんです」

「わたしの事を心配?」

「昨日のこともあるし……」

「あ、あれは、わたしがいけなかったの。わたしのミスなの」

「いえ、僕も不注意でした。それにあんな言い方をしちゃいけなかった」


 ホントに使えない、昨日、わたしはそう言われたんだった。

「あんなこと、同僚に言うべき言葉じゃない。すごく反省しているんです。許してください」


 同僚……そうだ、わたしはこの人の『同僚』だ。


「あの時、佳代子さんの泣きそうな顔を見て、なんでこんなに大事だと思っている人を泣かせたんだ、って、そう思ったんです」


 大事な人……大事な仕事仲間、私にとっても大事なこの人は『大事な人』だとわたしを思ってくれている。


「え、っと……なんとか言ってください。僕は、僕は……」

 もう一つ、わたしには名前はつきそうだ。『同僚』『大事な人』そしてもう一つは何だろう? 一番欲しかったものかもしれない。


「明日はちゃんと行きます」

 そう答える佳代子の声に、電話の向こうにいる人の顔は、きっと明るくなっただろうと佳代子は信じていた。


 そう言えば、美容師さんの名前を教えてもらっていない、それにオリジナルシャンプーの販売はしているだろうか? あの香りを家でも楽しみたい ――


 電話を切った時、思い出した佳代子は慌てて来た道を引き返した。けれど、イングリッシュガーデンも、アプローチの入り口の看板も、佳代子には見つけられなかった。もう霧は晴れていた。


***


「バンちゃん、コーヒーれて」

「はい、はい、はい」

 美容室ペレグリンの入り口前の小広場のティーテーブルで隼人が騒ぐ。


「もう、疲れたっ! なんでこんな疲れる事、ボクにさせるんだよっ! バンちゃん、どういうつもりっ!?」

 いや、僕に言われても……美容室がやりたいって言ったの隼人じゃん。


「それじゃ、もうやめる?」

 ムッと、隼人がほほふくらませる。


「バンちゃん、ちゃんとお砂糖、5個入れてよね! ミルクはたっぷりだからね」

どうやら隼人はまだまだ美容師ごっこをめる気がないらしい。仕方ないから僕も付き合うことになる。


 それにしても、確かに今日のお客は疲れた。あんな至近距離で目をのぞき込んだのに、一向いっこうに眠らなかった。僕の神通力、かなくなったのかな?


 でも、隼人がブラッシングしても眠らなかった。眠っていない人の頭の中に入り込むのは危険すぎる。精神を崩壊ほうかいさせかねない。染料を渡した時、イライラした隼人が、思わずため息をついたのには笑っちゃったけど。


 あのお客は、迷いに迷い、眠る事にも迷っていた……そして『生きること』にすら迷っていた。それを感じたから隼人は、予約がなくても『いいから店に入れて』と言ったんだ。


「はい、角砂糖5個、ミルクポーション3個入り」

 隼人の前にカップを置いた。すると隼人は僕を引き寄せる。フワッとした感触がして、隼人が僕の耳元でそっとささやいた。


「うん、それは、そうだね……夕飯を食べてからにしよう」

そう答えると、隼人が嬉しそうに頬を膨らませる。


 隼人が僕になんと囁いたのか、それは隼人と僕、2人だけの秘密――



< 完 >

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