第3話 あの飛行機雲にGOOD LUCKを

「ハイ」

 と、エミィ。セーリングクルーザーのバウデッキから俺の名を呼んだ。

「やあ」

 俺も笑顔でそれに応える。

 ワイキキの西。アラ・ワイ・ヨット・ハーバー。

 何艘もの大型クルーザーが停泊していた。

 もちろん、俺のものじゃない。

 ダイヤモンド・ヘッド辺りのプール付き豪邸に住む、どこかの金持ちの船だ。

 けど、構うもんか。

 俺は誰の許可も受けることなく、勝手に乗り込む。

 エミィも何も言わない。

 彼女はデッキ掃除のアルバイトだ。

 地元の高校生。

 チャイニーズと白人ハオレのハーフ。

 少し栗色がかった黒髪。

 肌がミルク・コーヒー色なのは、ハワイの陽射しのせい。

 ショート・パンツからスラリと伸びた自慢の脚は、バスケで鍛えたと言う。

「これでもチームじゃポイントゲッターなのよ」

 ニコッと白い歯を見せて笑うと、かなり魅力的な娘だ。

 彼女と知り合ったのは二日前。

 グラビア撮影でハワイを訪れていた。

 その仕事は既に片付いていたのだけれど、明後日には別の仕事がやはりハワイである。

 他のスタッフは帰国したが、俺は出直すのも面倒なので、そのまま居残ることにした。

 ブラブラとワイキキのメイン・ストリート、カラカウアAve.アベニューを歩いていた時だ。

 ドンと誰かにぶつかった。

 相手のロコ・ガールは、手に持っていたチリドッグでアロハシャツに赤い染みを作っていた。

「どうしてくれるのよ」

 と、ロコ・ガール。

 俺はしばらくシャツの染みと彼女の顔を見比べる。そして、

「ついて来いよ」

 と、その手をつかんで有無を言わさず歩き出した。

 それがエミィとの出会いだった。

                   ★

「あの時はビックリしたわ」

 ひと息ついたエミィがおどけた調子でそう言う。

「レイプされるとでも思ったかい? それともPOLICEに突き出されるとか?」

「やっぱり気付いてたんだ」

「まあね。今時、あんな古い手口を使う人間がいるとは思わなかったけどな」

 観光客にわざとぶつかって、着ている物を汚す。

 そのクリーニング代をたかる。特に小金持ちで面倒事を嫌う日本人は標的にされやすい。

 ひと昔前に流行った手口だ。今はほとんど見かけなくなった。

 普通は20ドルも払って丸く収めようとするだろう。

 けど、俺はいやがる彼女を強引に引っ張って、今、泊まっているホテルに連れ込んだ。彼女の方にも負い目があるから、激しく抵抗できないと見越した上でだ。

 もちろん、ベッドに押し倒そうと思ったわけじゃない。

 部屋には、スタイリストの和美が残していった強力な染み抜き剤があったからだ。

 それで俺はエミィのアロハシャツを洗った。

 無理矢理アロハを脱がされたおかげで、エミィは上半身が下着姿だったけど、それを隠すのも忘れて、ポカンと眺めていた。

 白人の血が流れているせいか、陽に灼けていないエミィの小高い丘はやけに白く、ブラジャー越しに薄っすらと透けて見える乳首はほんのり桜色だった。

 俺は、丁寧に洗ったアロハをベランダの手すりに干すと、自分のアロハをエミィに着せた。

 それからルーム・サーヴィスでビールと軽食を頼み、一緒に乾杯した。

 アルコールが入ると、エミィはポツリポツリと自分のことを話した。

 観光客相手の詐欺を働こうとしたのはこれが初めてということ。

 どうしても急いでお金を用意しなければならなかったということ。

 でも、自分には人を騙す才能がないとわかったからもうしない。

 捕まったのが、あなたみたいなおかしな人で良かった。

 そうしてエミィの頬にかすかに赤味がさしてくる頃には、アロハはすっかり乾いていた。

 さすがにプロが使う染み抜きなだけある。

 アロハのチリ・ソースは見事に落ちた。

 今、エミィが着ているのがその時のものだ。

 ちょっと色落ちしたアロハは、年代物ヴィンテージの雰囲気が出て、ロコ・ガールのエミィによく似合う。

「すぐ済むからもう少し待ってて」

 エミィはにっこりと微笑むと、デッキ・ブラシで看板をこすり始める。

 まだ陽は高い。

 五分もしないうちに、エミィの額には汗が伝う。

 キラキラと宝石のように輝くエミィの横顔を見つめながら、俺は大きく伸びをした。

                   ★

 夕陽がダイヤモンド・ヘッドを押し倒そうとしている。

 ここから望む日没は、そんな風に見える。

 俺とエミィは掃除の終わったデッキに並んで腰かけ、ぼんやりとそれを眺めていた。

「ホラッ」

 俺は、ABCストアで買ったプリモをエミィに手渡す。

「サンキュ」

 エミィは、プル・トップを開けると、本当に美味そうにグイッと飲んだ。

 二人だけのサンセット・バーの開店だ。

 ビールを美味そうに飲む女の子は、ワインを上品に飲む女の子の百倍魅力的だ。

 自分もプリモを流し込みながら、ふとそんなことを思う。

「借りたお金はこのアルバイト代でちゃんと返すから安心して」

 あの後、俺は彼女に金を貸した。貸したといっても大した金額じゃない。日本の高校生なら小遣い程度の額だ。返ってこなくても構わないというつもりだった。

 でも、彼女は必ず返すと言った。律義な性格らしい。

 金が必要な理由は訊ねなかった。

「一つ、訊いてもいい?」

 と、唐突にエミィ。

「3サイズ以外ならね」

「バカ。まじめな話よ」

 いつもの笑顔から、真剣な表情になっている。

 俺も真顔で頷く。

「スチール・カメラマンだって言ってたわよね?」

「ああ」

「何でカメラマンに?」

 俺は五秒ほど考え込む。

 別に隠すようなことじゃない。

「俺の家は貧乏でね。学歴もなかったし、コネもなかった」

「日本でもそんなことがあるの?」

 その言葉に俺は苦笑する。

「日本人が全員金持ちってわけじゃないさ。とにかく俺には財産と呼べるものが何もなかった。ただ──」

「何?」

「一つだけ親父が俺にくれた物がある。それがカメラだった」

 確か当時としてはかなり高価なライカだった。

 眼を悪くした親父からそれを譲られると、俺はいろんなものを撮りまくった。アルバイトで得た金のほとんどは現像代に消えたと言ってもいい。

 幾つかの賞に応募したこともある。

 やがて、あるプロ・カメラマンの眼に俺の作品がとまった。

 彼の下でカメラ・アシスタントを五年間した後、俺は独立した。

「……羨ましいわ」

 ポツンと呟くように、エミィが言った。

「だって私には、それすらないんだもの」

「……どうしてそんなことを訊く?」

 今度は俺がエミィに訊ねた。

「……あたし、モデルになりたいんだ」

 そうか、俺は思い出した。

 アメリカでは間もなくハイスクールの卒業シーズン。とっくに進路が決まっていてもおかしくはない。

「ニューヨークのモデル・クラブのオーディションを受けるの」

「ニューヨークか……」

 ハワイにもモデル・クラブがないわけじゃない。けど、やっぱり本場に比べると見劣りするのだろう。

「プロの眼から見て、どう?」

 エミィはデッキに立ち上がると、クルッとターン。ポーズを決めた。

 俺の目の前。ショート・パンツから突き出た素脚が眩しい。

「受かるさ。保証するよ」

 言葉とは裏腹に、相当難しいと思った。

 俺はアメリカのモデル事情なんて知りもしない。ただ、ニューヨークのモデル・クラブに所属するってことは、世界でも一流で通用するってことだ。

 当然、競争は想像もつかないくらい過酷なものになるだろう。

 が、可能性がゼロってわけでもない。

 1%でも残っていれば、挑戦するのが若さってやつかも知れないな。

 エミィは、また隣に腰を下ろす。

 膝を抱えて、俺の肩に頭を乗せた。

 髪の毛から、地元のティーンエイジャーがよく使う甘いシャンプーの香りがした。

「本当は不安なんだ」

 エミィは呟いた。

「強引にカット・インしてのシュートが得意じゃなかったのか?」

 俺はそう言ってみた。

「……シュートを決めるには誰かがパスしてくれなきゃ」

 エミィと目が合う。

 五秒……十秒……。

 そっと唇を触れ合わせる。

 海から吹く風が、エミィの髪を優しく撫ぜた。

                   ★

「レフ、もうちょい上向きに」

 俺はファインダーを覗き込みながら指示を飛ばす。

 モデルの顔に当たる反射光バウンスを調整する。

「露出のチェック」

 アシスタントの良雄が、白人モデルの顔の前に露出計を持っていく。

「あと半絞、絞れます」

 良雄が叫んだ。

 エミィのボディにカット・イン・シュートを決めて、ちょうど一週間が経つ。

 この間に彼女はハイスクールを卒業し、俺はまたいつもの撮影漬けの日々に戻っていった。

 今日はエミィがニューヨークに旅立つ日だ。

 10時32分発のパン・アメリカン航空508便。

「見送りに行けなくてすまないな」

 そう告げると、エミィは笑って、

「かえって助かったわ」

 と言った。

 湿っぽくなるのが苦手なんだろう。

 ファインダーの隅に、ホノルル空港から飛び立ったジェット機が飛行機雲を描きながら横切っていくのが映る。

 腕のダイバーズ・ウオッチにチラッと目をやる。

 10時45分。

 あれがエミィの乗った飛行機だろうか。

 俺は、予備のカメラに500ミリの望遠レンズを取り付けると、目一杯ズームした。

 けど、逆光で機体はシルエットでしか確認できない。

 まあ、いいさ。

 俺は、あの飛行機雲の先にエミィがいる、そう思うことにした。

 一人で旅立つ少女の横顔を想像する。

〈GOOD LUCK〉

 胸の中でそう呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スローシャッターを日暮れまで るさんちまん @nok_amn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ