第2話 カルーア・ミルクは甘くない
ガシャン。
何かの割れる音。俺の背後でかなり派手に響いた。
36枚撮りのリバーサル・フィルム。そのラストカットを撮り終えたところ。
最近じゃデジタルカメラが主流で、プロでも銀塩カメラを使っている奴はほとんど見かけない。
フィルムと違ってデジタルは現像の手間もかからず、その場でチェックができて、確かに便利なことこの上ない。俺だって余程のことがない限り、使わないという選択肢は有り得ない。
だが、俺は昔ながらのフィルム撮影の面倒臭さも好きだ。現像してみなければ上手く撮れているかわからないという、一種のギャンブル性も慣れれば病みつきになる。時間や金銭的な負担は自分の手で現像すればそれほど苦にならない。
だから状況が許せばデジタルとフィルムを併用して使っていた。半分以上、趣味みたいなものだけどさ。
その愛用のニコンをフィルムチェンジのために、カメラ・アシスタントの良雄に預ける。
モーター・ドライヴの駆動音が、ウンウンと唸りを上げてフィルムを巻き上げていく。
その時、背中越しにガラスが割れるような硬質な音が聞こえた。
俺は振り返る。
それと同時に今回の主役、新人アイドルの葉月に同行してきたマネージャーである蒲田の怒鳴り声が響いた。
「何で、こんなところに置いておくんだ!」
怒鳴られているのは照明スタッフの林。足許にはスタジオライトをのっけたスタンドが倒れている。
生憎と今日はあまり天候がすぐれない。陽射しが射したり翳ったりしている。
それで急遽、予定を変更して室内の撮影に切り替えた。
ダウンタウンの洒落たカフェを借りての撮影だ。
室内だから使っていないものを含めて、あちらこちらにライトやストロボが立ててあったり、三脚が転がっていたりする。
その一つに蒲田がつまずいたようだ。
普通に考えれば、そんなところをウロチョロしている方が悪い。
けど、奴は中堅とはいえ、出版元とも深いつながりを持つ芸能事務所のベテラン・マネージャーだ。
噂じゃ、デビューしたてで素人の域をまだ出ない新人担当に回されたことが面白くなかったらしい。
今回の撮影でも事ある毎に、若いスタッフに当たり散らしていた。
しかし、業界での影響力を考えれば、誰も咎め立てすることなどできない。そんなことをしたら、仕事が回って来なくなることは請け合いだからだ。
林もそれを知っているからこそ、黙って怒鳴られているに違いない。
「ふざけんなよ」
良雄が相手に聞こえない音量でボソッと呟いた。
俺は、蒲田に文句を言いかけて口をつぐんだ。
林が視線で、〈やめてくれ〉と訴えていたからだ。
グイッ。誰かが俺のウエストを引っ張る。
見ると、和美だった。
俺が暴走しないように、抑えているつもりらしい。
「大体な」
と、蒲田。心底、意地の悪そうな表情を浮かべる。
「機材の管理もまともにできなくて、それでプロの仕事と言えるのか」
〈お前の方こそ、その暑苦しい体型をちゃんと管理しろよ〉
俺は胸の中で悪態を吐く。
「只でさえ、この天候で予定が狂っているんだ」
〈なら、邪魔をするな〉
「その上スタッフがこんなんじゃ、大したものはできそうにないな」
〈つまずいたのは林のせいじゃないだろ〉
「だから、こんな仕事は若手にやらせろと言ったんだ。わざわざ俺が出て来るような現場じゃないってな」
〈聞いたぞ。ハワイに行きたくて無理矢理同行したそうじゃないか〉
「まあ、いいさ。タレントになりたいって奴は大勢いるんだ。一人や二人、売れなかったからってどうってことはない」
そのひと言は、とうとう俺の我慢の限度を越えた。
どうなったってかまうものか。ぶっ飛ばしてやる。
ズルズルと和美を引きずったまま、蒲田の前へ。
「な、何だ。文句でもあるのか」
俺の剣幕に気圧されて、奴は後ずさり。
「ダメよ。誰か抑えて」
和美が叫ぶ。
両側から良雄と林が、俺の腕をつかんだ。
「バカなマネはよせ」
「殴ったってしょうがないでしょ」
「いいから放せ」
さすがに大の男二人に左右からがっしりと抱えられては、身動きが取れない。
振りほどこうともがいた。その時だ。
「ごめんなさい!」
という大声が室内に響いた。
全員が一斉に、その方向を向く。
声の主は葉月だった。
突然、謝られてポカンとしている俺達に対して深々と頭を下げると、
「あたしがモタモタしているせいで皆さんをイラつかせているんですよね? 本当にごめんなさい。昔からドン臭くて、周りに迷惑を掛けてばかりで。あたしが全部いけなかったんです」
顔を俯かせて、そっと目尻を拭った。
「そんなこと、ないっスよ」
この撮影が始まってから、やたらと葉月を気にかけていた、自称ファン第一号の良雄が慌ててフォローする。
「俺だってドジばかりしてて、よく怒られてるんで」
「それを言うならこっちも色々と至らない点があって申し訳ない」
と、林。何となくつられて俺も、
「いや、カメラマンの俺がしっかりしていないから現場が混乱するんだ」
と、何だか弁解するみたいな口調になってしまった。
和美までもが、
「スタッフで女は私一人なんだし、もっと気をつかうべきだったのよ」
と、わけのわからない恐縮をする始末。
他のスタッフ達や日本語がよくわからないはずの現地コーディネーターまでも次々と自分のミスを口にして、なぜか謝罪合戦が始まってしまった。
一人だけ取り残されていた蒲田は、ハッと我に返ると、毒気を抜かれたように店の奥に引っ込んだ。
表情はまだ憮然としているが、自分でも言い過ぎたと悟ったのだろう。
けど──。
「これは今日はダメだな」
割れたライトを眺めながら、俺は呟いた。
よりにもよって一番強力なやつだ。代わりがないわけじゃないが、たぶん光量が足りなくなる。
幾らハワイの日光が強烈でも、まさか天井を突き破って降り注ぐわけにはいくまい。
こんな時は笑って済ませるしかない。
スケジュールは一層厳しくなるが、明日少々早めに撮影を開始すれば何とかなるだろう。
ただ、蒲田の表情がますます憮然としたのは言うまでもない。
★
予定外のオフ。
林と良雄は代わりのライトを調達するため、出かけて行った。
他のスタッフ達は、めいめい中途半端な時間を過ごしていた。
まあ、海外の
天気が悪くてNG、モデルの到着が遅れてNG、パスポートを紛失してNG。一度など
そんな状況では慌てたって何の解決にもならないことは身を以て経験している。スタッフも慣れたものだ。
賭けポーカーに興じる奴、街へ出てナンパにいそしむ奴、ホテルのプールでひたすら泳ぐ奴、過ごし方は人それぞれだ。
俺はホテルのプールサイド・バーへ。
まだ時間は早い。さすがにリゾート地とはいえ、客の姿はまばらだ。
初老のバーテンダーが注文を取りに来る。
1/4秒考えて、俺はプリモを頼んだ。
伝統的なハワイ産ラガーと言われるプリモも、実際には
けど、雰囲気の問題だ。
プールでは、ハイビスカス柄のビキニを着た和美が飛び込むところだった。
大して凹凸のない身体付きなんだから、あんな本気の飛び込みをして水着が脱げなきゃいいが……。
本人に伝えたら、余計なお世話だと怒鳴られそうだ。
そんな要らぬ心配をしつつ、俺はプリモを喉に流し込む。
セルフタイマーをセットして、ジッとシャッターが落ちる瞬間を待っている、そんな時間が過ぎていく。
ホテルの中庭から葉月が歩いて来るのが見えた。
白いTシャツに、白いショート・パンツ。そこから伸びたスラリとした脚は、見慣れているとはいえ、なかなかの破壊力だ。日焼け防止に、薄手のヨット・パーカーを羽織っている。
黙って俺の隣のストゥールに腰を下ろす。
〈そういえば、撮影は初めてだったな〉
慣れない海外、経験したことのないロケ。当然、暇の潰し方だって知らないに違いない。
日焼けしすぎるのは御法度だから、プールで泳ぐというわけにもいかなかったんだろう。
手持無沙汰で、部屋から出てきたらしい。
「何か、飲むか? 奢るよ」
俺は訊ねた。
「何でもいいわ。お酒ならね」
そう言って、そっぽを向いた。
大人ぶってみたい年頃のようだ。
俺は、頭の中で彼女のプロフィールを反芻する。
福岡県出身。中学までは地元の公立校に通う。雑誌のミスコンで準グランプリを獲得。それが今の事務所の目に留まり、とんとん拍子にデビューが決まったって話だ。
年齢はもうすぐ十七才。
それなら──。
「カルーア・ミルクを」
俺は、初老のバーテンダーにオーダーする。
彼は、〈悪くないチョイスだ〉と言わんばかりの表情で頷いた。
ところが葉月には気に入られなかったようだ。
「子供扱いしないでよ」
と、怒ったような口調で抗議する。
〈ミルク〉というのが、気に障ったらしい。けど、カルーア・ミルクはコーヒーのリキュールをベースにして作る立派なカクテルだ。
「十六才は充分、大人さ」
てっきり子供に見くびられたと勘違いしていた葉月は、不思議そうな顔で俺を見上げる。
「結婚だってできる。離婚だってできる」
「アハハ。それもそうだね。でも、もうすぐできなくなるんだよ」
女性の結婚年齢が引き上げられることを言っているのだろう。
コースターに、大ぶりなショットグラスに入ったカルーア・ミルクが置かれる。
「十六才に乾杯」
「ベビーフェイスに乾杯」
そのセリフに、俺は苦笑する。
ベビーフェイスは年齢の割には童顔に見られる俺が、スタッフ達に陰で囁かれているあだ名だ。
大方、和美辺りが吹き込んだんだろう。
「甘い。でも、ちょっとホロ苦い」
「まあ、コーヒーの酒だからな。大人への入門編としちゃ、そんなもんだろ。そういえば昼間は助かったよ」
俺は、何気なしにそう言った。
葉月の機転で、大事にならずに済んだ。おかげで俺のクビは今もつながったままだ。
すぐに何のことか葉月にも理解できたようだ。
「別に本当のことを言っただけだよ。それに悪いのはうちのマネージャーなんだしね。あ、だけだよ、なんて言葉使っちゃダメかな。マネージャーからはもっと言葉遣いを丁寧にしろって言われているんだけど」
「俺には構わないさ。でも礼儀に厳しい人もいるからな。マネージャーの言うこともあながち間違っちゃいない」
「方言まで直せって言うんだよ。それって失礼ちゃろう」
俺は笑った。
「うるさいのはどこにでもいるからな」
「学校にも、職場にも、ね」
葉月も笑う。その笑顔は、確かに年相応に思えた。
「ねえ。カメラマンから見て、あたしの初仕事の出来ってどう?」
唐突に訊かれて、俺は返答につまった。
「あんまり、良くないってことね」
そうじゃない、と俺は言った。
「こういう仕事をしていると、納得できる仕事なんてごくわずかだ。妥協しろって言ってるわけじゃない。だが、限られた予算とスケジュールの中で、思うようにいかないことだってあるさ」
「はっきり言って頂戴。あたしは、あたしの仕事の出来はどうって訊いたのよ。ここには頭の固い
やれやれ。どこでそんな言い方を覚えたのやら。俺は呆れたが、葉月は真剣だ。
「そうだな。新人アイドルの初仕事にしちゃ、まずまずだ。及第点をやってもいい。ただ……」
「ただ?」
俺はひと呼吸置く。
「本当の君は撮れていない気がする」
「ホントの……あたし……」
そう、確かに葉月はこれが初めての撮影とは思えないほどの笑顔を振りまいていた。表情のバリエーションが乏しいのは、経験不足だろうから仕方がない。
しかし、そうしたこととは別に、どこか本気で笑っていない気がずっとしていた。
もっとも、グラビアの写真からそれを読み取れる人間なんてまずいないはずだ。
そういう意味では俺の勝手な押し付けに過ぎないとも言える。だから、彼女に言うべきか迷ったのだ。
風が、わずかに涼しさを増してプールの水面を通り過ぎる。
十六才にしては少々不釣り合いに見える、派手なイヤリングが乾いた風に吹かれて揺れた。
「……それって必要なのかな?」
ポツリと葉月が呟いた。
「それは俺にもわからない。答えを出すのは自分しかいないと思う」
何かを手に入れるということは、それとは正反対なものを失うことでもある。
仕事、恋愛、自由──。
おそらく人間っていうのは、思っているほど色んなものを手にできないんだろう。
十六才の少女が、これから何を手に入れ、何を失くすのか。
それは結局のところ、誰にも予想はつかないのだ。
いつの間にか中庭のプルメリアの樹が、芝生に長い影を落としていた。
日中と夜とのほんの短い狭間。黄昏時という表現がピタリとくる一瞬だと思った。
カウンターの片隅に置かれた古ぼけたラジオが、明日は快晴だと告げていた。
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