第4話 咆哮
桜が散って緑の葉が生い茂り、空に毎日灰色の雲が垂れこめる梅雨を抜けて――俺たちは、ふた月後にひさびさの大規模なライブを控えていた。
ミナはもう独り言を言わなくなっていた。相変わらず、日がな一日中イヤホンで音楽を聴いていはいたが。
たいそうな難産だったアルバムのセールスは順調で、俺はちょこちょこテレビなんかに出るようになった。ドラマの主題歌も決まった。俺たちにとって、初めてのドラマ主題歌だった。
そのドラマの出演者顔合わせの席で、俺は主演の女優にひと目ぼれをした。
これまで俺が見てきたどんな女よりも美しくて、自分がどんなふうに振る舞えば周りが幸せな気分になるかを熟知していた。
どうやったらこんなにきれいな人間が生まれるのか不思議で、俺は彼女にえらく興味をそそられたんだが、相手も同じように俺に興味を持っていたようだ。
俺と彼女は、急速に近づいていった。ミナのことは――まったく頭になかったな。
俺は、自分の部屋に戻るよりも、彼女の部屋に入り浸ることが多くなった。俺は、自分がいわゆる芸能人だなんて自覚がなかったもんだから、かなり堂々としてたと思う。でも、彼女は違ったんだよな。
ある日、俺が彼女のマンションから出てくる姿を写真週刊誌で大々的に報道された。
プロデューサーにこってり絞られて――とりあえず、騒ぎが収まるまで部屋には帰るな、と命令された。でも、このスキャンダルは結果的にドラマの視聴率にかなり貢献したらしいな。
俺は、大っぴらに彼女に会うことも難しくなったんで、メンバーの家に泊まったりして日々をやり過ごした。俺自身も、ミナの待つ部屋になんとなく帰りたくなくて、部屋に戻る日を引き延ばしていた。
それでもやっぱり、いつまでもそんなことをしているわけにはいかない。ようやく部屋に戻ったのは週刊誌に載ってから、二週間は経っていたかな。
ひさしぶりの部屋は、初夏の夕闇に沈んでいた。
ミナは音楽を聴きながら、俺が最後に部屋を出て行った日と同じように、本を読んでいた。いや、読んじゃいなかっただろうな。明らかに、部屋の中は、文字なんか追えない暗さだった。人形みたいに、そのまんまの体勢で固まっているような――。
かなりの音量で音楽を聴いているらしく、イヤホンからは何の曲かわからないぐらいの音が漏れていた。
ミナは、俺の姿に気づいて、ふっと顔を上げた。見開いたその眼は、とろりと濁っていた。
ミナのかたわらには、俺と彼女の記事が載っている週刊誌があった。
「お前……どうしたんだよ」
ミナは俺の言葉に答えなかった。
そして、いきなり立ち上がると、俺の胸に抱きついてきた。ミナがそんなふうにするのは、初めてのことだった。
俺が戸惑っていると、突然ミナは、今まで聞いたことがないくらいのでかい声で、けたたましくしゃべり出した。
「ね、ずっとどこに行ってたの? なんで帰ってこなかったの? なんで知らない女の人のところにいるの? あなたには私がいるでしょう。あなたには私がいる。あなたには私がいる。アナタニハワタシガイル。わかってるでしょう? ね、ね、私はここでずっと何をしていたと思う? あなたが戻ってくるのを待っている間、月の光をいっぱい浴びたの。なんでかって? 魔法が使えるようになるためだよ。金華の猫って知ってる? 中国の猫でね、月の力を吸いこんで、魔力が使えるようになるの。私は月を見ながら、そういえば自分は猫だったってことに気付いたんだ。そして月の力をいっぱいもらって、魔法が使えるようになった。嘘じゃないの。その証拠に、あなたはこうして戻ってきた!! うふふ、そんなにびっくりした顔をしないで。逃げたい? 猫から逃げるには、火であぶってその肉を食べなきゃいけないの。でもあのとき、あなたは私を火あぶりにできなかったよね。なんでだと思う? それはね、あなたは私の半分だから。あなたは私の鏡で、私はあなたの鏡。わかっているよね。あなたは私がいないと駄目になると思う。私もあなたがいなかったら駄目になる。あなたも猫なんでしょ。屋上で会ったときから、それよりもずっとずっと前から私は知っていたよ。あなたもずっとずっと前から私のことを知っていたよね。私のことを歌っていたよね。繰り返し繰り返し、あなたと私のことを歌ってくれていた。ね、お願い、離れないでね。離れられないんだよ。もうずっとずっと離れないよ。私は魔法が使えるから、どこにいたって、わかるから! 絶対に、絶対に!!! あはははははははは!!!!!」
限界まで溢れた泥水が、堤防を、橋を、家を、すべてを壊して流れていくように、機関銃のようにしゃべりながら、ミナがどんどん壊れていく。
俺はただ――恐ろしかった。
なんなんだ、こいつは――ほんとにミナなのか?
俺は、胸にすがりつくミナを突き飛ばした。その拍子に、ミナの耳からイヤホンが抜け、静かな部屋の中に、音楽がうすく響いた。
さっきからジクジクと漏れ聴こえていたそれは、――俺のデビュー曲だった。
オマエは何者だ
オマエは何者だ
頭上の月を仰ぎ見ろ
空を覆う黒旗は この世のすべての憎悪
俺を嘲笑う浮世の恥 俺とオマエを笑う
たすけてくれ たすけてくれ
もう逃げたくないんだ でも逃げるしかない
オマエと一緒にこの世から逃げよう
さあ 俺は何者だ 俺は何者だ 俺は――
もう、限界だ。恐ろしさのあまり、俺は部屋を飛び出した。背後で、ミナがケタケタ笑っている声が聞こえた。俺が何をしたってんだ。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――。
俺は、そのまま二度と部屋に戻ることはなかった。
夏の暑さとめまぐるしい忙しさの中で、月日は淡々と流れていく。
空気からだんだん熱気が取れかかってきたころ、俺たちは間近にひかえるライブの準備をしていた。1万人のキャパのある、大きな会場だ。
ミナがどうしているかなんて、考えるヒマもなかった――いや、考えないようにしていたんだろう。
部屋は引き払った。メンバーに様子を見に行ってもらうと、もう何日も人の気配がない、とのことだったから、ミナは、自分の生活に戻っていったに違いない――そんな都合のよいことを考えていた。
しかしある日、何気なくテレビのニュースを見ていた俺は、脳天をかち割られたような衝撃を受けた。
画面に映っていたのは、あの屋上だった。
俺とあいつが出会った、屋上。
「――練馬区の大学校舎で、身許不明の女性の遺体が発見されました。女性の遺体は10代から20歳代、やせ型で、ショートヘア――全身を強く打っており、5階の屋上から転落したものとみられています。屋上には、人気ロックバンドのCDが遺されて――警視庁では、女性の身許の解明を急ぐとともに、飛び降り自殺とみて、その動機などを調べています――」
アナウンサーの声を途切れ途切れに聞きながら、視界が真っ白になっていく。俺の脳裏には、月を背に、ふわりと宙に飛びあがるミナの姿が浮かんだ。
そして――そのまま俺の思考は停止した。
ミナは、猫だから死なないだろう。
そうだったんだ、最初から。
あいつが自分で言っていたじゃないか。
どこかで、俺を待っているはずだ。
何故か、もう逃げることはできない、と思った。
そしたら俺は、暗闇で待つミナにきっと殺される――それならそれでいい。
✳︎
ライブ当日――。
超満員の観客が、俺を待っていた。
あの屋上から飛び降りた女性が持っていたCDが、俺たちのアルバムだったことは、すでに報道されていた。でも、ライブの開催は中止にはならなかった。
会場に渦巻く歓声は、ニャアニャアとなく猫のようだ。誰もが腕を振り上げて俺を求めている。眼という眼が、俺を見つめて、血走っている。
歌いながら、無意識に俺はミナの顔を思い出そうとしていた。でも、記憶の中のミナは、靄がかかったようにおぼろげで、はっきりしなかった。
俺は客席にミナの姿を探していた。あんな顔だったかもしれない、いや、この顔かもしれない。
探しているうちに――地面に叩き付けられ、脳漿が飛び出た血だらけのミナの顔が眼前に迫る。
気が付いたら、会場にいるどの顔も、頭からだらだら血を流していた。発情した猫のような声をあげ、眼だけをギラギラと輝かせて、俺をじっと見つめていた。
なんで俺を見ているんだ。
見るな。俺に、俺に構うな。
ここにいるのは――1万人のミナだ。
うわあああああああああああああああああああああああああ。
もう逃げられない。
そうだ、俺は、俺はこの世のどこへも、ミナから、猫から逃げられない――。
✳︎
……ところで、あんたは誰なんだ。
記者? 取材? 嘘つけ。
俺を見るな。
お前、お前もだ。お前も。
ミナなんだろう。そうなんだろう。
隠れていても、化けていてもわかるぞ。
俺はもうじき死ぬんだから、もういいじゃないか。
なあ。勘弁してくれよ。後生だから。
ああ、猫がホラ、そこから見ている――。
了
金華の猫 やわらか昆布 @tomuyosi
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