第3話 焦り

 

 俺という人間は、実に自分勝手でわがままで、人の気持ちを考えることができない。人一倍、人に好かれたいと思っているのに、誰かに依存されることに恐怖を覚える。

 そもそも、感情や興味のベクトルが自分にしか向いていない俺の恋愛は、いつも自慰行為の延長でしかなかったような気がする。いや、それとも――俺は女が怖かっただけなのかな。


 崖っぷちの状況で作られた俺たちのシングルは、ひさびさに売れた。タイアップだなんだと、プロデューサーが本当に頑張ってくれたみたいだ。


 次に待っていたのは、アルバムの制作だった。俺はミナを避けるように、レコーディングにせいを出した。部屋に帰っても曲を作っているか、さっさと寝るだけのことが多くなり、会話はますます少なくなっていった。


 ぎくしゃくしているという感じはなかったよ。それまでも、お互いを気にかけて生活していたわけじゃあなかったから。

 ただ、ミナは、夜中に起き出して窓の外を眺めていることが多くなった。月がぺかぺかとまあるく光っているときなんかは、外に出かけてもいたようだった。


 レコーディングが佳境に入ると、俺はイライラを募らせ始めた。

 ――俺のいつもの癖だ。


 あとは詞をつけるだけの曲がいくつもあった。自分の中にわだかまっている感情が上手く言葉になって出てこないわずらわしさ、またそれを詞に昇華して伝えることができないもどかしさ。そんな自分に自分でイライラして、メンバーやスタッフに散々当たり散らす。子供そのものだ。


 そんな態度を何度もプロデューサーに諌められたが、答えは出ないままだった。捨て鉢な気分でスタジオをあとにして、「つまらねえ」と愚痴をこぼしながら、酒をくらって部屋に帰る。気分はちっとも晴れず、苦しかった。


 帰ったら帰ったで、イライラはおさまっていないから、ミナとは会話どころか目も合わせない。ウイスキーをボトルからひとくち飲んで、ベッドに突っ伏してそのまま寝ちまう。


 ミナは相変わらず夜中に起き出しては、ぼんやりしていた。寝返りをうつふりをして、こっそり暗闇の中から様子をうかがうと、ミナの手のひらにほのかな明かりがあった。どうやら、イヤホンで何か音楽を聴いているようだった。


 そのころからだ、ミナの様子がおかしくなってきたのは。


 ミナは朝も昼もイヤホンをつけたままだった。

 最初は、しゃべらない俺への当てつけかと思った。ミナの瞳が日に日にうつろになっていっているのを、そのときの俺はまったく気付いていなかった。


 ある日のことだった。


 俺は帰って服も着替えずにベッドに倒れこんだ。部屋のすみっこで本を読んでいたミナは、何も言わずにそっと自分の布団をしいて、電気を消す。


 今日もうまくいかなかった――俺は壁側を向いて、寝たふりを決め込んだが、曲のことでいっぱいで、頭はぎんぎんに冴えていた。


 しばらくそんな状態で悶々としていたんだが、そのうち、考えが朦朧として、うとうとしてきた。夢と現実が入り混じって、手足がフワーと重くなってきたころ、ふと、何かぼそぼそとつぶやいているような声が聞こえてきた。


 空気の震えだけが感じられるような、今にも消え入りそうな、小さな小さな声だ。俺は、狸寝入りをしながら、その声に耳を澄ませる。ところどころで伸びたり切れたり、高低がつけられているその震えは――歌だった。


 ミナが、暗闇の中で歌っているのだ。


 闇の中での小さなつぶやきは延々と続いた。

 そして、そのつぶやきはいつのまにか、あるひとつの言葉を繰り返している。


 ――タシガ……シガイル……アナタニハ……イル……ナタ……タシガイル……アナタニハワタシガイルアナタニハワタシガイルアナタニハワタシガイルアナタニハワタシガイル――


「あなたには私がいる」


 背中に、ぞっとするほどの視線を感じた。確かにミナは、俺の背中を見つめている。


 ミナの方を向いて確かめなくてもわかった。心拍数が急に上がっていくのを感じた。俺は、まるでお化けに出くわしたみたいにからだをちぢこめて――心臓の音がミナに聞こえないように、わざと大きな寝息をたてた。


 朝になるとミナは何事もなかったようにけろっとしていた。


 台所にいるミナに、俺が「おはよう」と声をかけると、フライ返しを握ったミナが笑顔で「おはよう」と振り返る。

 ひさびさの会話だった。それから、朝めしを二人で食べながら、目玉焼きは片面焼きか両面焼きかについて討論しあった。


 平和な朝の光に満ちた部屋の中で見るミナは、いつものように明るかった。俺には、そのギャップが怖かった。何事もないようにふるまっているミナが、そして自分が信じられない。


 その日も、レコーディングは進まなかった。


 俺とミナは、お互い傍観者だったんだ。相手が同じ部屋の中で何をしていても、関わろうとすることはなかった。夜中にミナが起きてどこへ行こうが、ぼそぼそ独り言を言おうが、それを止める権利は俺にはない、そう考えていた。


 だから、ミナがつぶやきを止めて、布団に潜り込み、その寝息が聞こえるまで――俺は毎晩眠ることができなかった。


 ミナの独り言は、明らかに俺に向けてのものだろう。ミナは俺のことをどんなふうに認識しているのか――あいつは俺に何をしてほしいのだろうか。


 俺には、自分がミナに何をしたか、自分がミナをどう思っているかを考える余裕なんて1ミリもなくなっていた。真綿でじわじわと首を絞められているような、身にまとわりつくなまぬるい不快感と、いつまでも完成しない曲への焦り。


 俺は、おこがましくも、音楽にもミナにも執着されていると感じていた。それはとても息苦しかったけれど――でも、小心者の俺には、音楽をやめることも、ミナに出て行けと言うこともできないのはわかっていた。


 苦しさに立ち向かう気力や根性はもとからない。ふたつの方向から襲いかかってくる重圧に、耐えることができなくて、俺はもう、何もかもがイヤになった。


 そのときの俺は、ある種の強迫観念のようなものにすっぽりと支配されていたんだな。ただ、逃げたい、逃げたいと――そればっかりを思っていた。


 逃げたいという思いが最高潮に達したある夜、俺は、ベッドの中で、手にライターと、ライターのオイルの缶を握っていた。ミナが寝たのを確認すると、月の光がカーテンの隙間から薄く差し込んでいる窓辺に立った。オイル缶のフタを取り外すと、独特の香気が鼻にしみた。


 缶の注ぎ口をそっとカーテンにあて、傾ける。ざらざらした感触の厚い布に、じわじわオイルが染み込んでいく。かちゃんとライターの蓋を開け、そして、ホイールに親指をかけて――。


「何してるの」


 はっと振り向くと、ミナが起き上がってこちらを見ていた。俺は何も言わなかった。ひと目ですべてを察したミナは、窓を開け、パッパッとカーテンをはずして風呂場へ持って行った。


 俺は、ここから逃げたい一心で、火をつけようとしていたんだ。馬鹿げているけれど、ちっちゃなライターひとつで。


「手を洗って」


 立ち尽くしていた俺は、ミナにうながされるまま、台所で手を洗った。カーテンのない部屋は、街灯と月の光で、電気をつけなくてもそれなりに明るい。


 それから俺は、窓際の床にへたりこんだ。

 頭が痛い――オイルの匂いで気分も悪かった。頭をかきむしって、自分でも何をしているのかわからなくなって、ただ――涙が出てきた。


 ミナは、頭を抱えて泣いている俺の前にちょこんと座って、俺のからだを黙って抱きしめてくれた。


 音楽も、ミナも、俺には捨てられない。

 でも、だからこそ遠ざけたくなる。


 お願いだから俺に構わないでくれ――俺は、その一言を飲み込んだ。


 

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