第2話 すき焼き
ミナとの生活は、俺にとってはまるで猫を飼っているのと同じ感覚だった。
ヤッたのかって? そんなものはなかったよ。
つい一週間前までは知らない同士の男女が、何の理由もなくひとつ屋根の下で暮らしているという非常識な状況なのに、俺は、多分どっかで怖かったんだろう。
イヤ、未成年に対する猥褻行為どうのこうのってことじゃあなくって――からだに触れることで、ミナを、ひとりの人間として、女として認識してしまうことが怖かったんだ。
暮らし始めると、ミナはだんだんよくしゃべるようになった。
明るい子なんだな、と思った。
でも、俺はほとんど「ああ」とか「へえ」とか生返事であまりよくその話を真剣に聞いてはいなかった。その断片を思い出してみると、どうやら――俺の部屋に来るまで、ミナは家の事情で一人暮らしをしていたらしい。だから、家に帰らないからといって心配されることもない。親しい友達もいないという。
そんな身の上話を聞いても、俺にはなんの感情もわかなかった。俺はずっと自分のことにばかりかまけていたからね。
あの日は、あまりに月がきれいだったから、もっと近くで見るために屋上に上った、と言っていたように思う。
自分以外の何者かが、そんなふうに部屋にいるというだけで、だらけた気持ちにいくらか緊張感が生まれる。
メシを食べる、風呂に入る、本を読む、寝る、起きる、呼吸をする――淡々と生活を送るミナの姿をなんとはなしに見ているうちに、落ちぶれたミュージシャンの俺がすべきことは、とにかく息を吸ったり吐いたりするみたいに、何も考えずひたすら曲を書くことだと気付いた。
そこから俺は、自分の中からわきあがる旋律に耳を澄ませ、煮凝りみたいに固まった感情を言葉に置き換える作業に没頭した。
俺が食事もとらず、ノートに詞やコードやメロディを書き殴っている間、ミナは、一人で静かに本を読んでいた。
彼女はいつも、納められていた場所を間違わないようにするためか、本の列を崩さぬよう、音もたてずに本棚からそっと一冊抜き出す。漱石やら太宰やら鴎外やらといった俺の蔵書のラインナップを眺めて「国語の教科書みたいだよ」と笑っていた。
やがてB5ノートの隅々までがまっくろになって、歌いたくて歌いたくてたまらなくなったころ、俺たちは世に出るかどうかわからない新曲のレコーディングに臨むことになった。
ひさびさに顔を合わせたメンバーは、みんなしょぼくれたオヤジに見えた。なんだなんだ、どいつもこいつも冴えねえツラしやがって。だから俺は余計にやっきになって、生ぬるい音を出すあいつらを怒鳴り散らしたんだ。
わめいて、噛み付いて、もう何度目だったか覚えてないが、やっと満足のいく音が録れたのは真夜中だった。
そこからが本当の俺の出番――歌入れだ。俺は、五臓六腑が口から飛び出るんじゃないかってえくらい、声を張り上げた。喉が潰れても知るもんか。先のことをどうこう考えるよりも、ただ歌いたかった。――気づいたら、スタジオ中の全員が、狐につままれたみたいな顔をしてたよ。
プロデューサーから、一発オーケーが出た。
ミナとの生活の中で出来上がったその曲は、俺たちの再出発のしるしとして無事、発売されることになった。
俺という男は本当に単純だから、人に誉められたら嬉しい。頼りにされると腰がひけるが、「お前が一番」とおだてられりゃあ率先して木に上る性質なんだ。
シングルの発売日が決まった日、俺はいつになく高揚した気分で家路についた。途中、肉屋で牛肉なんて買ってさ。
部屋について開口一番「新しいシングルを出せることになった」って、ずいぶん使っていなかったホットプレート――いつか付き合っていた女の子の持ち物だった――を引っ張り出してきて、すき焼きをしようじゃないかとミナに提案した。
俺は、家庭なんて持たなくても、すき焼きはできるんだってことにあらためて感動した。ひさびさに食った肉もやたらと美味くて、それまで飲む気になれなかったビールをあけた。
ミナも嬉しそうだったな。ニコニコしながらたまごをといているその姿を見ていたら、急に、ミナのことがいとおしくてたまらなくなった。
そう、たまらなくなって――俺はミナの唇にキスをした。
恋は、一瞬で落ちることもできるし、一瞬で醒めることもできる白昼夢みたいなモンだ。俺は確かにその瞬間、ミナに恋していたんだと思う。いや、もしかすると、初めて屋上で出会ったときから、ずっとそうだったのかもしれない。
ミナはとんでもなくびっくりした顔をした。無言で真っ赤になりながら、慌てて肉を食ってはふはふいう。その様子が可愛いやら可笑しいやらで、俺が笑うと、「何してんの、もう」と言いながらふくれてみせた。
しかし、俺は、すぐにそんな自分の軽率な行為を後悔することになった。
その夜、ふと何かの気配で目を覚ますと、満月の光に満ちた室内で、窓を背にしたミナがこちらを見ていた。
――イヤな予感がした。
「何?」
ミナは、問いかける俺を凝視したまま黙っている。
「……怒ってんのか」
「ううん……別に」
このときの俺には、もうさっきまでの感情はなくなっている。男と女のしち面倒くさい人間関係を、ミナとのあいだにあらためて作りたくなかった。
「眩しいから、カーテン、閉めて」
俺の素気ない言葉に、ミナは、おとなしくカーテンを閉め、「おやすみ」と小さくつぶやいて布団にもぐりこんだ。
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