金華の猫
やわらか昆布
第1話 インタビュー
最初に、お断りをしておかねばならない。このインタビューは、あるロックミュージシャンの長い独白を収録したものである。
独自の哲学に基づいた骨太なロックで、本邦の音楽シーンを席巻し、あるとき忽然と姿を消した彼の行方について、これまでさまざまな憶測がなされてきた。しかし、彼自身の言葉でその理由が語られたことはなかった。
彼は、郊外のとある病院の一室で、静かに日々を過ごしていた。現世の無常を、世俗の愚かしさを拳で殴りつけるように、激しく歌い続けていたころよりもはるかに痩せ、落ち窪んだ頬の陰が、彼独特の頽廃的な印象をさらに濃いものにしていた。
これまで、禍々しくも華々しい伝説で彩られてきた数多くのスターがいる。セックスや暴力、酒、クスリ、犯罪――しかし彼に起こった出来事は、そのどれにも当てはまらない。もっと普遍的な、人間の根源に潜む「ひずみ」が、彼に、悲しい疵を残しているように感じられた。
そして僕は――数時間に及ぶ長いインタビューを終え、テープを文字に起こしている最中も、そして、この原稿を書いている今も、彼が語ったことを、世間に向けて公表してよいものか悩み続けている。というのも、その内容があまりにエキセントリックであり、一介の音楽ライターである自分の手にはとうてい負えるものではなかったからだ。
だから、彼が語った言葉を何の脚色もなく(多少の整理はしているものの)、ありのまま書き記すことにする。プロ失格と思われてもいい。この長いインタビューの真偽をどう判断するかは、読み手に任せようと思う。
*
……へえ、物好きな雑誌もあるんですね。
これってもう回ってるんですか? テープ。ああ、はい。
ほら自分はもうこの通り、歌いたくても歌えない状況で。歌いたい、と思うことですか。ありますよ。でもだめなんですこれが。――歌えない。
俺はね、猫に魅入られてんですよ。
猫は猫ですよ、ニャアってなく、あの猫。
どういう意味かって?
まあ、死期の近い狂人の戯言と思ってください。
……聞きたいんですか?
あなたも物好きな人だね。
あの――金華の猫って知ってますか。
中国の伝説なんだけど、妖かしの一種でね。
金華の猫は、屋根の上で月の精気を吸い、美しい人間に化けるんです。その猫に魅入られた人間は、正気を失って、終いには死んでしまう。
治らないのかって?
その猫の肉を食えば、正気に戻るらしいんだけど……もう、この世にはいないんですよ。その猫。
この先を知りたいの?
――ホントに、物好きな人だな。
*
二度目の契約打ち切りは、目前だった。
三十過ぎのいい大人が世間にむけて糞くらえと叫んだところで、面白みも迫力もないというのは重々承知だった。それでも、チャートの順位がどんどん下がっているにも関わらず、俺たちの音楽を誉めてくれる人は相変わらずたくさんいて、売れないと言われてもピンとこなかった。
学生時代から一緒にやってきたメンバーの幾人かにはすでに結婚して子供もできていた。ロックバンドらしからぬ所帯じみたムードがバンド内に蔓延してしまうことがたまらなくイヤな反面、俺も家庭を持ってのほほんと幸せに暮らすこともそう悪くはないかもしれないなあなんて、それこそロッカーらしからぬ考えが頭に浮かぶこともあった。
でもそれも、レコード会社からお払い箱になってしまえば、実現不可能なわけで。
今さら転職なんて冗談じゃない。かといって路線を変えて愛だの恋だの「僕たち幸せになろうね」みたいなものを歌えるわけはないし、メンバーと顔を突き合わせて、この先どうすべきかを考えるのも非常に鬱陶しく、俺は、うららかな春の陽気とは裏腹に、四六時中くさくさした気分のまま、灰色の日々をやり過ごしていた。
ミナに出会ったのは、そんなある日のことだった。
バカと煙は高いところに上る、なんて言葉があるけれども、その夜、俺はむしょうに高い場所に行きたくなった。
前に付き合っていた彼女としし座流星群を見に行った屋上で、ほころび始めた桜を見下ろしながら、俺は太宰よろしく自虐的な感傷にたっぷり浸ってやろうと思ったのだ。
――なんて俺は駄目なんだ、誰もかれもが俺を指さして笑っている。俺は孤独だ、誰も俺の苦悩なんてわからない。この世のすべてを憎んでいる――
俺は、むかしからそんな歪んだナルシシズムに浸ることで癒されてきた。考えてみたら、年だけ食って、芯になるような部分はまったく中学生ぐらいの時分から成長していなかったように思う。
当時住んでいた部屋の近くに大学があったんだが、これがとんでもなくセキュリティの甘い学校で、夜中に簡単に忍び込めるうえ、外から屋上に通じる非常口のカギが壊れているという、いつ飛び降りが出てもおかしくないようなところだった。
縁もゆかりもない学校に忍び込んで、たとえ不法侵入でお縄になってもそれはそれ、だ。
進退きわまった状況で、人生に投げやりになっていたというわけじゃない。自分は生来そういう何につけても後先のことがどうでもよくなってしまうところがある。
新入生を待ちわびる、誰もいない校舎の屋上には、ぽっかり白い月が浮かんでいた。ギターをかたわらに置いてたばこをふかしながら、しばらくのあいだ何を考えるでもなくそのぽっかり具合に見惚れていると――月と俺のあいだにいきなり何かが立ちはだかった。
「何してるの」
月を背にしたそれは、小さな声でつぶやいた。
そのときの俺は酔っていた。酒じゃねえよ。誰もいない真っ暗な校舎の屋上で、ギター一本抱えた俺が月と対峙しているっていうシチュエーションと、それから、思春期みたいな心地のよい不安に。
だから、あまり驚かなかった。ピーターパンの――何ていったかな――ああ、そうそう、ティンカーベル。そういうふわふわした何かだと一瞬、本気で思ったんだ。
よく見るとそれはショートカットの女の子だった。高校生くらいに見えたけど、実際のところはわからない。月の逆光ではっきり見えない顔の中で、水気の多い眼だけがやけにきらきらしていて、印象的だった。
黙っていると、彼女は俺の横にするりと座った。野良猫が気まぐれで甘えてくるみたいに、そうするのが当たり前といったふうな自然な動作で。
その日はそのまま、会話もせずに別れた。
あれは何だったんだろう、とあらためて不思議に思ったのは、部屋に戻って歯を磨いているときだった。
翌日も俺は屋上に出かけた。目的は、あの少女に会うことに変わっていた。どういうわけか、屋上に行けば必ず会えるという確信があったのだ。
その日も、次の日も、また次の日も、彼女は屋上に来た。俺と彼女の間で多くの言葉が交わされることはなかった。
一度、名前をたずねてみたら、彼女は「ミナ」とやっぱり猫が鳴くみたいに小さく答えた。
ミナはよく見ると可愛い顔をしていた。少し吊り目のくりくりした目の周りが長いまつ毛で縁取られ、鼻や口は小さかった。白い月の光に照らされた彼女はビスクドールそのものだった。
そうやって屋上に上るようになって五日目くらいかな。ミナは俺の部屋までついてきた。
俺はまたどうでもよくなって、帰れとも何も言わなかった。その日から、ミナは俺の部屋で暮らすようになった。
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