あの時の彼女へ
大垣
あの時の彼女へ
これは僕が今でも後悔することである(この語りが事実か、あるいは文学上のrhetoricとしての表現かは、想像にお任せしたい)。
おそらく取り返しはもうつかないだろう。しかしそれは僕が直接人を殺めてしまったとか、何か犯罪を犯してしまったとか、そういうことではない。大人になるための証として、僕の思春期の柔い心にそっと押された判のような出来事である。
僕は中学生だった。どこにでもいる至極普通の中学生である。普通に学校に行き、普通に授業を受け、普通に部活動をやり、普通に帰って宿題をしてゲームをするだけの、これといって面白味もない、ぼんやりとした生活を送る中学生だった(その時そうした自覚はなかったが)。
少し学校の様子のことを詳しく言えば、学校もどこにでもある普通のもので、一つのグラウンドがあり、一つの体育館があり、一つのプールがあるような、多少年季の入った校舎をした市立中学校だった。都会でないのは明らかだがとんでもない田舎という訳でもなく、生徒数もそれなりにいた。
ただ周りの中学校と比べるとあまり治安の良い学校ではなかったので、いわゆる不良と言われるものたちがちらほら居た。彼らは何かと授業を中断させたり、すれ違いざまにまるで通り魔のようにちょっかいを出したりからかって来たりした。窓ガラスが割られるのはよくあったし、先生と生徒が殴り合いの喧嘩をしたこともあった。
しかしそんな中でも幸い僕に実害はあまりなかった。波風立たせぬ性格のせいか、認識もされないほど地味な存在であるせいか、上手く話を合わせられたせいか、運よく僕は彼らに目を付けられることはなかった。これは僕が平穏な生活を送れた理由の一つでもある。
部活は小学生から硬式テニスをやらされていたのもあってソフトテニス部に入り、特にこれといった興味もなくさほど上手くなるつもりもない競技を、さも努力を惜しまぬよう優良な生徒であるように、先生やコーチの顔色を伺いつつ調子を合わせながらやっていた。それでも続けているとそれなりに上達はしてしまったので、いわゆる一軍というものの下の方に入れさせられることもあった。無論大会などで勝ち進むようなことは滅多になかったが、団体戦で補欠としてベンチで応援しているだけで賞状を貰ったこともあった。しばらくして上手い後輩が入ってくると、自然と二軍が僕の常なる居場所となった。僕としてはこちらの方が居心地が良かった。
そんな風に僕は傍から見ても何気ない、同じことを繰り返すだけの、ある種自堕落とも言える日常を送っていた。しかしながらある時、その平穏な心は大きく波立つこととなった。
年明けの中学二年生の最後の学期のことである。
冬の寒さが学生服を貫くその頃、クラスで席替えがあった。席替えは必ず男子の隣が女子になり、女子の隣が男子になる。僕は後ろの方の席で、男子の知り合いが近くに居れば隣は特に誰でも良かった。もともと女子の類と話すのは得意でもなかったし、色恋沙汰にさしずめこれといった興味も縁なかった。
席替えの方法ははっきりとは覚えていないが、確か先生が男子用と女子用の番号の書かれた紙が入った箱を回し、それを一枚づつ引いて、黒板に席を模して書かれた図と同じ番号の場所に机を動かすというものであった気がする。
結局僕が引いた席は願い叶わず左の窓際から二列目、前からは二番目という余り良いとは言えない席だった。そしていざ机を動かしてみると、近くに仲の良い友達も居なかったので少しがっかりした。
その時隣の席になったのがNという女の子である。
同じクラスなのでNのことは知ってはいたが、直接話したことは殆どなかった。Nはどちらかと言えば陽気で交友関係も広く、僕と過ごしている世界の階層が違った。恐らく隣りの席にならなければ一度も話さず学校生活を終えただろうと思えるくらい、定規で引いた綺麗な二本の平行線のように僕らはそれまで互いに交わることはなかった。
しかしながらそんなNもどうやら近くに親しい友達が居なかったようで、机を動かした後も、ざわつく教室の中でしばらく喋ることもなくじっと座っていた。僕も机に肘をついてそうしていた。
するとNが、
「ねぇ、喋る人誰もいないね。この席つまんない」と言った。
僕はNの方を見た。Nは僕に話しかけてるようだった。椅子に膝を立てて、手にしたタオルをいじりながら(確かバンドか何かのタオルだったはずだ)こちらを見ていた。Nの背は小さく、長く黒い髪を後ろでまとめ、左右の前髪を少し垂らしていた。
僕はその些か周りの席の人間に失礼とも言える言葉に、
「うーん、まぁね」と苦笑いしながら言うしかなかった。
会話と言えるか定かではないが、この時二本の平行線はわずかに、いや急激にと言ってもいいかもしれないが傾きを変え、刹那の時の中で交わろうとしていた。
そこから数ヶ月の間、Nが隣にいる学校生活が始まった。
周りの席の中で話すなら仕方なく僕しか居なかったのだろうが(何だかそれも傲慢に聞こえる)、Nは初めて話す僕に対して何の気兼ねもなく、まるで小学校から親しかったかのように話しかけてきた。明るく笑い、気さくで、恐らくNは男子だろうが女子だろうが誰にでもそうやって話すことの出来たのだろうと思う。Nは男子との交友関係も多くあったから、ラフで男勝りな話し方をした。それは僕にとって幾分話しやすくもあった。Nが陸上部であるとしばらくして知った(何の種目かは忘れてしまった)。
僕自身も程なくしてNと気軽に会話できるようになっていた。僕はNに対して確かに好意を抱いていた。しかしそれは不思議と恋愛的な感情ではなく、ある種同姓的、友情的なものだったように思える。Nは器量も良かったから、誰かと付き合ってるだとか、誰かがNのことを好きだというような話題が上がることもしばしばあったのがそうさせていたのかもしれない。また僕はNに対して好意を抱いているが、Nの方は僕に対していくらかマシな暇つぶしの話し相手程度にしか思っていなかったはずだった。僕もそれに対して何ら不満や嫉妬の気持ちは抱かなかった。
Nはこう言ってはなんだが余り勉強ができる方ではなかったので、僕が勉強を教えることが多くあった。僕は基本的に真面目に授業を受けてはいたので、それなりに勉強は出来た。事あるごとにNは、「ここ教えて」と言って授業終わりや休み時間にノートや教科書を僕の机の上に放り投げてきた。
僕にとっては難かしいものではなかったので、僕はそれを言われるがままに教えてあげた。Nは椅子を僕の方に寄せ、机に肘を突きながらノートを覗き込み、長い髪をだらりと垂らして、少しめんどくさそうにしながらも、頷きながら大抵は素直に聞いていた。
しかしNはいつも快活かと思えば、決してそういうわけでもなかった。
この辺りは雪が積もるようなことは滅多になかったが、それでも冬は寒い。教室に陽が差し込むと、Nはお気に入りのタオルを抱きかかえるようにして机に伏せ、休み時間もその陽だまりの中で眠っていることがよくあった。また時折、退屈そうにぼんやりと窓の外を眺めたり、深い目をしてどこか空中の一点を見つめるようにしている時があった。
前置きが長くなったがその僕を後悔せしめた話というのは、そんなNが隣にいる時の、ある平凡な日の給食の時間だった。給食の時間には近くの席同士が机を向き合せる。当然僕とNも向き合って給食を食べることになっていた。僕とNは特別共通する話題がたくさんあるわけでもないから、二言三言メニューについて話す以外は、基本的には黙々とパンやらスープやらを口へと運ぶことしかしなかった。先生との席が近かったから、たまにNが先生へ話しかけたり、僕が先生に話しかけられることもあった。
その日のNはどことなく暗い顔をして、メニューの話さえしたくないといったような雰囲気をしていた。僕は向こうから話しかけてこなければ、ただ目の前の給食を食べるだけだった。するとNがふと口を開いた。
「○○(僕の名前だ)って兄弟いるの?」
僕は手を止めて、
「うん、いるよ」と言った。
「何こ離れてる?」
「2つかな。今高校2年」
「じゃああたしと一緒だ」
へぇ、と僕は適当に言った。
「でもあたしのお兄ちゃんはもう駄目かもなぁ」とNはそこで言った。
僕はNの言葉の意味することがはじめよくわからなかった。勉強のやる気でもないのかと思って僕はまた適当に、苦笑交じりに返事をした。
「ねぇ先生、どうすればいいと思う?」
Nは先生に尋ねた。先生は真面目な顔つきをして、そうだねえとしか言わなかった。先生はNの兄の何が駄目なのか知っている風だった。僕はまたNの顔を見た。Nは何か胸の内から湧き出るものを懸命に堪えているような顔をしていた。僕はそこで段々とNの『駄目』が意味していることが尋常ならぬことであることを感じ始めた。
「どうすればいいのかなぁ」
「…何かあったの?」と僕はTに恐る恐る聞いてみた。Nは、
「病気。もう助かんないみたいでさぁ」と言った。
僕はそこで少し固まってしまった。自分の兄と同い年のTの兄が今、病で死にかけている。それは平和で穏やかなはずの給食の時間に突如として降って来た話題としては余りに重いものだった。
そして次にNは僕に、
「ねぇどうすればいい?」と聞いた。
僕は困った。恐らくこの質問は僕の人生で初めて聞かれた質問であり、また深刻で難解な問いであった。僕はさっきまでこの後の昼休みは何をしようかとか、今日の給食は美味しいとかそんなことしか考えていなかったのだ。周りの席の笑い声は僕の耳の前で途絶え、お昼の放送の軽妙な音楽だけが残った。
返答に窮した僕は一先ず唸ることしか出来なかった。僕はその間に色々なことを考えた。そして幾らかの沈黙の後、僕がとうとう出した答えは全く酷いものだった。
「その、なんて言うか、病気の人にもずっと声を掛け続けてあげれば、良くなるかもしれないよ」
僕は言ってから後悔した。僕はあろうことか、以前雑誌か何かで読んだことを口走ってしまった。
「本当?」
「うん。らしいよ」
僕はその時Nの顔を見ることは出来なかった。
次の日のまた給食の時間、Nはウチの兄貴は本当に良い兄貴なんだと言った。
そしてその次の日に、言われた通り声を掛け続けてみたけどやっぱり駄目だったと言った。僕は何も言わなかった。Nはそれから数日の間学校を休んだ。
そういう話である。僕は中学生のあの日から今日に至るまで、何度もこの時のことがふとした時にフラッシュバックする。それまで僕は自分の身近な人が死ぬという体験をしたことがなかった。僕はあの時初めて死というものを意識した。
僕が後悔するのは、僕のあの時の返答は自分の心からの言葉ではなく、あまりも姑息で愚かなものであったということである(適当、いい加減、そう言ってもいいかもしれない)。全くもってただ平凡な日常を繰り返すだけの馬鹿な中学生の馬鹿な答えだった。あの重く苦しい状況から抜け出す為だけの、自分勝手で卑怯な答えだった。
しかしその言葉を彼女は最期の時間の中で信じてしまっていたのだ。
しかし僕はNにどんなことを言ってやれば良かったのだろうか?若干十四、五歳で自分の兄を失うことになったTに、果たして何て声を掛けたら良かったのだろうか?大丈夫、きっと良くなるよなどと無責任なことは断じて言うことはできないだろう。僕は彼女の兄の顔すら見たことがない。ましてや僕は医者でもない。
僕の発言でNの兄の病状が変化することは有り得ない。あの時察するべきは兄が助かるかどうかではなく、Nの心の方だったのだ。そして結局のところ、死を知らない中学生の僕がかけられる言葉と権利は何もなく、ただ多くの大人がそうするように、沈黙という行為にすがる他はないだろう。
Nがあの時の僕の言葉を覚えているかは分からない。僕だけがこのことを考え続けているのかも知れない。
Nとの関係はその後も変わらず続いた。三年生になってクラスが変わると僕とNは殆ど話すことはなくなった。そして卒業し、何処に行ったかも分からない。もう一度会って謝る勇気もなく、時間は流れ続ける。
二本の直線が接点を交えたあとは、ただ互いに離れていくだけなのだ。
あの時の彼女へ 大垣 @ogaki999
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