11 化け物の花嫁・終

 ヴァイルが用意した馬車は見たことがないほど大きく、シュエシくらいの小柄な体なら横になって寝ることができるほどだった。座り心地もとてもよく、長旅でずっと座っていても腰や尻が痛くなることもない。

 車内には長椅子のほかに折りたたみ式の簡易テーブルがあり、飲み物や簡単な食べ物を仕舞っておく小さな棚も備え付けられていた。テーブルや棚には馬車が揺れても飲み物や食べ物が倒れないような工夫がされていて、シュエシが好きな甘いお茶の葉や焼き菓子も用意されている。窓には陽射しを遮るためのカーテンもあり、どんなに揺れても倒れないというランプもあった。

 どれも初めて目にするものばかりで、シュエシはあちこちが気になって仕方がなかった。


「見たいのなら、遠慮せず見ればいい」

「……!」

「気になっているのだろう?」

「……はい」


 子どもっぽいことはしないようにと心がけていたのに、早速失敗してしまった……シュエシは心の中で反省した。

 西の国への旅が始まってから、シュエシは貴族然として美しいヴァイルに相応しい花嫁であろうと心がけるようになった。これから訪れる西の国では、ヴァイルと親しい人たちに会うことがあるかもしれない。それにヴァイルの生みの母親もいると聞いたし、みっともない花嫁ではいけないと考えたからだ。

 だから、馬車の中では落ち着いて過ごすように気をつけていた。それなのに、内心そわそわしていたことを呆気なく見破られてしまった。


(情けない……)


 しょんぼりしたものの、馬車の中を堪能したかったのも本音だ。許可がでたのであれば、思う存分見たり触れたりしたい。


(昔乗った馬車とは大違いだ)


 ゆっくりと撫でた長椅子も折りたたみ式の簡易テーブルも、あのときの馬車にはなかったものだ。シュエシは、幼い頃に乗ったことのある馬車を思い出した。

 両親と旅をしていたときに乗ったのは、それほど大きくない乗り合い馬車だった。ただの荷台に屋根を付けただけの乗合馬車には、人が荷物のようにぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。小さかったシュエシは、何度も大人たちに潰されそうになった。

 あのときの自分は、将来こんな立派な馬車に乗るとは想像してもいなかった。実際に乗っているいまでも信じられない。


「……きれいだなぁ……」


 壊さないように注意しながら、吊り下げ式のランプに指先でそうっと触れる。ランプの表面のガラスには模様が描かれており、揺れるたびにキラキラと不思議な光の模様を振りまいている。それが焦げ茶色で整えられた馬車の中を不規則に照らす様子は、ずっと見ていても飽きることがない。

 膝に抱えたフカフカのクッションも驚くほど気持ちがよかった。休憩のたびに馭者ぎょしゃの男が用意する温かくて甘いミルクの入った紅茶も、西の国の菓子だという小さなパンのようなものも初めて口にするもので、旅の間の楽しみになった。

 小さなテーブルに置かれた紅茶を見ながら、シュエシの顔が満面の笑みへと変わる。


「おまえは本当に変わらんな」

「あ……」


 ヴァイルの声に、ハッと我に返った。


「あの……ごめんなさい」

「いや、いい。そういう部分も愛しいのだ」


 愛しいと言われるだけで頬が熱くなる。それを誤魔化すように紅茶を飲みながら、そういえば以前、化け物は人のように食事をしないのだと言われたことを思い出した。その言葉を表すように、ヴァイルの前には紅茶も菓子も置かれていない。

 たしかにシュエシも空腹を感じなくなっていた。だが、こうして紅茶や菓子を口にすると体が満たされるような気がする。化け物になったばかりだからだろうかと思いながらもうひと口飲んだところで、ヴァイルの視線を感じて顔を上げた。


「喉は渇かないか?」

「喉、ですか?」


 たったいま紅茶を飲んだシュエシは、ヴァイルがなぜそんなことを尋ねるのかわからなかった。そういえば、旅を始めてから喉の渇きについてよく訊かれるようになった気がする。


(どういうことだろう……)


 不思議に思いながらも残すのはもったいないと思い、シュエシは出された菓子をすべて食べ、紅茶を飲み干した。



  ※



 馬車での旅路はとても長く、途中、貴族屋敷のような宿に泊まることもあった。そういった宿に泊まることが初めてだったシュエシは、宿の中で見る西の国の調度品に何度も感動し、少しだけ緊張したりもした。

 泊まる宿には、必ず浴室がついていた。それはヴァイルが入浴を好むからで、そういったところも貴族のようだとシュエシは感心した。一方、シュエシは入浴があまり好きではなかった。体を拭う湯を沸かすのは大変で、髪は冬でも冷たい水で洗っていたからだ。

 そんなシュエシは一度目の宿泊のとき、自分の入浴の仕方がヴァイルのとは違うことを初めて知ることになった。


 先に入浴するようにと言われたシュエシは、手持ち鞄から小さな布を取り出した。それを見たヴァイルは、わずかに眉をひそめながら「それは何だ」と尋ねた。


「これは、体を拭う布、ですけど……」

「拭う布?」


 気のせいでなければ、ヴァイルの黄金色こがねいろの瞳がシュエシの右手に握られた布をじっと見ている。


「わたしは、入浴をと言ったのだが」

「はい。ですから、こうして湯に浸して体を拭う布を……、あの、ヴァイル様……?」


 ますます険しくなる眼差しに、シュエシが不安そうな表情を浮かべる。


「もしや、あの屋敷でも湯船に浸かることをしなかったのか?」

「え……?」

「……なるほどな。教えなかったわたしが悪い」

「あの、」

「あぁ、いい。元々わたしたちは入浴を必要としない。これはわたしの趣味のようなものだ。だが、わたしは花嫁とこの趣味を楽しみたいと思っている」


 そう告げたヴァイルは、美しい笑みを浮かべるとシュエシを浴室へと連れて行った。そうしてドレスを脱がせ、下着を剥ぎ取り、自らもすべての服を脱ぎ去る。あまりのことに赤面するシュエシの手を取ったヴァイルは、執事だった頃のような手つきで入浴の世話をした。

 もちろんシュエシは何度も断ろうとした。しかしヴァイルの手を強く拒否することはできず、恥ずかしさから声も出なくなる。結局、シュエシは茹だったかのように全身真っ赤にしながらも、ヴァイルの手に身をゆだねることしかできなかった。

 このときから、二人そろって入浴することが宿での恒例となった。


 宿に泊まることになった六度目のこの日も、ドレスを脱いだシュエシは裸になったヴァイルに手を引かれ一緒に浴室へと入った。肌や髪を丁寧に洗われ、よい香りがする湯船へと導かれる。

 それだけなら気持ちのよい入浴で済むだろう。しかし、入浴中のヴァイルが執事のような口調になるのには、どうしても慣れることができなかった。


「ほら、体が温まると気持ちがいいでしょう?」

「ん……っ」


 ただ肩から湯を流されるだけなのに、なぜかみっともない声が出てしまう。髪を指で梳かれ泡を洗い流されているだけだというのに、ヴァイルの指なのだと思うだけで体が熱くなってしまった。


「おや、体が少しこわばっていますね」


 不意にかけられた言葉にビクッとした。


「また、あの頃のように揉んで差し上げましょうか?」

「……っ」


 何でもない言葉のはずなのに、シュエシの頬が一瞬にして真っ赤になった。初めてヴァイルに肩を揉まれたときのことを思い出し、さらに粗相をしてしまったことまで蘇って恥ずかしくなる。


「あの、ヴァイルさま、」

「さぁ力を抜いて……」

「……っ」


 おかしな声が出そうになったシュエシは、慌てて唇を噛んだ。ただ肌を撫で肩を揉む手に、どうしてこんなにも感じてしまうのだろうか。


「すっかり肌もきめ細やかになって……」

「っ」

「肉付きもよくなられましたね」

「……っ」

「しかし……首はまだ、こんなにも細い……」

「ん……っ」


 鎖骨から首筋をすぅっと撫でられただけで淫らな声を上げてしまった。いや、撫でられたからだけではない。いつも咬まれている首筋を何度も撫でられるせいで、シュエシは咬まれる瞬間の快感を思い出してたまらなくなるのだ。


「いくら気持ちがよくても、粗相をしてはいけませんよ、奥様?」

「……!」


 ヴァイルの囁き声に、ハッと目を見開いた。いまのは明らかに笑い声を含んでいる。つまり、からかわれたということだ。

 シュエシは顔どころか全身を真っ赤にしたまま下唇をそっと噛んだ。ベッドでもないのに熱くなってしまう自分が恥ずかしくてたまらなくなる。


「おまえは、執事相手だと思った以上に乱れるな」

「…………執事は、も、いやです……」

「そうは見えないが?」

「……僕は、ヴァイル様の、花嫁だから、……ヴァイル様のままが、いいです……」


 正直な気持ちを口にすると、頭上でヴァイルが小さくため息をつくのがわかった。


「昼間も馬車の中で散々悪戯をしてしまったからな、今夜はこのくらいでやめておこうと思っていたんだが……。煽ったおまえが悪い」

「ぇ……?」


 くたりと力の抜けたシュエシの体は、ヴァイルにいとも簡単に抱き上げられた。そのまま湯を拭うこともなくベッドへと運ばれる。

 その夜も結局、幾度となく交わることになった。そうして熱く火照ったシュエシの首筋にヴァイルの牙が穿たれたのは明け方のことだった。

 牙を感じるだけでシュエシは腰が砕けたようになり、牙の感触だけで何度も果ててしまった。そうなるとますますシュエシの血は熱く滾り、それをヴァイルは時間をかけて啜るのだった。



 こうした旅にも慣れてきたのか、シュエシは馬車の中でわずかに微睡まどろめば昼前にはすっかり元気を取り戻せるようになっていた。それがわかっているのか、元気になった途端にヴァイルがシュエシを求める。その行為は気持ちを確かめ合うというよりも、何かに焦っているような、それでいてがむしゃらに何かを求めているようにシュエシには感じられた。


(どうしたんだろう……?)


 飢えたようなヴァイルの黄金色こがねいろの瞳を見るたびに、シュエシの胸はズクリと疼いた。


 西の国との国境が近づくこの日も、シュエシは馬車の中で行為を求められていた。ドレスを着たままは苦しくて仕方がないのに、気が狂ってしまいそうなほどの快楽を感じると不思議なほど心が満たされる。そうしてシュエシの体は一気に昇りつめ、そのまま闇に飲まれるように意識を失った。

 その後、いつ宿に着いて、どうやって部屋に入ったのかシュエシにはわからなかった。気がついたときにはベッドに横たわっており、傍らには眉を寄せたヴァイルの姿があった。


「さすがにやりすぎたと反省している。すまない」

「ヴァイル様……?」


 横になったまま、いつもと様子の違うヴァイルを見つめる。すると、ふぅっと小さく息を吐いたヴァイルに頬を撫でられた。

 人だったときは冷たかった手も、同じ化け物になってからは程よい温かさを感じられるようになった。それを不思議に思うこともあったが、それよりも優しい手つきが心地よくてうっとりしてしまう。いまも気持ちよさにシュエシが目を閉じかけたところで、囁くような声が聞こえてきた。


「まだ、喉の渇きを覚えないか?」

「……?」

「……そうか、まだか」


 いままで何度も尋ねられてきた言葉だが、今回は少し寂しそうに、また残念そうに聞こえる。どうしたのだろうかとじっと見つめれば、少し微笑んだヴァイルが口を開いた。


「おまえはたしかに眷属になったが、まだ一度も血を口にしていないだろう?」

「……あ、」

「個人差はあれど、そろそろ喉が渇いてもいいはずなんだがな。喉が渇き、わたしの血を口にし、それでようやくすべての儀式が終了する。それまでは……」

「ヴァイル様?」

「……それまでは、おまえのすべてを手に入れたという確信が持てなくてな。こんな気持ちになったのは初めてだ。……不安を払拭しようとするあまり、おまえを抱き潰してしまう。これでは盛りのついた獣と変わらない」


 吸血鬼と呼ばれるヴァイルは頭か心臓を失わない限り死ぬことはなく、人よりも永い命を生きる。それは眷属となったシュエシも同じだが、そうなるには眷属にしたヴァイルの血を口にしなければならないと教えられたのは旅に出てすぐのことだった。互いの血を口にすることで、シュエシは完全な化け物となる。儀式が終われば、死してなお二人は離れられない存在になるのだとも教えられた。

 しかし、旅の間シュエシがそういった喉の渇きを覚えることはなかった。ということは、儀式は完成しないということだ。


「もしかして、僕は眷属になれないんですか……?」


 東の国の者は西の国の存在である吸血鬼にはなれないのかもしれない……。ふと、そんなことを思ったシュエシは途端に怖くなった。化け物になれなければ、ヴァイルと離れ離れになるのではと思い涙が滲む。


「そんなことはない。すでにおまえは眷属ではあるが……。いや、焦る必要はないか」


 ヴァイルの美しい顔がいつもの表情に戻る。


「我らは、最初に口にした血を至上のものだと感じる傾向にある。とくに人から眷属になった者は、最初に口にした者の血以外を口にできなくなるという噂があるのだ。そのせいで、少し焦ってしまった」

「どういうことですか……?」


 黒髪を優しく撫でながら、ヴァイルが何かを思い出すように目を細めた。


「深い森で領主に殺された父の妻は、元は人だった女だ。わたしの母が西の国に帰ったあと、父が眷属にした。彼女は、たとえ飢えていようと誰の血も受けつけなかった。干からびて骨と皮になりかけても、父以外の血を口にすることができなかったのだ。そんな彼女を見たとき、わたしは初めて眷属の噂は真実かもしれないと思った。……渇きを感じないおまえを見ていると、あの女を思い出して焦ってしまう」


 髪を撫でていた指が、シュエシの唇にそっと触れた。まるで何かを確かめるように唇を撫でていた指が顎を撫で、最後に首筋を撫でて離れていく。その感触に肌を粟立たせながら、シュエシが口を開いた。


「……僕は、初めて口にした人の血以外は、飲めなくなるかもしれないということですか?」

「その可能性があるかもしれないということだ。もしそうだとしたら、最初に与える血はわたしのものでなければならない。……早く、飢えを感じろ」


 そう告げるヴァイルの表情はシュエシが初めて見るものだった。どこか切なく、それでいて渇望しているような表情に、シュエシの心臓がトクントクンとわずかに鼓動を早める。


 いまのシュエシにとって、この世で大切なものはヴァイルだけだった。そのヴァイルと同じものになったというだけでも十分幸せなことなのに、ヴァイルの血しか口にできなくなるのかもしれないのだという。

 その言葉に心が震えるほど嬉しくなった。シュエシのすべてが、ヴァイルの存在によって生かされることに歓喜した。それほどの強い結びつきは、両親の結婚の比ではない。シュエシの心は狂喜に打ち震えた。


「ヴァイル様、きっと僕は、あなたの血しかほしくなくなると思います。まだ喉は渇かないけど、きっと、……絶対に、あなたがほしくなると思います」


 シュエシの言葉にヴァイルが目を見張った。見開かれた黄金色こがねいろの瞳はしばらくすると柔らかく細められ、いつもの美しい微笑みに変わる。


「さすがは我が花嫁だ」


 ヴァイルの美しい顔がゆっくりとシュエシに近づく。そうして口づけられた唇は温かく、濃厚な薔薇の香りがシュエシの体を包み込むように広がった。




 その後もシュエシが喉の渇きを感じることはなかった。それでもヴァイルが焦ることはない。

 あの日以来、ヴァイルが飢えたようにシュエシを抱き潰すことはなくなった。代わりに意識を失わないギリギリの愛撫で蕩けさせる。そんなヴァイルに引きずられるように、シュエシ自身も大いに乱れるようになった。

 シュエシは、そんな自分が淫乱になったような気がしてたまらなく恥ずかしかった。しかし、気がつけば羞恥よりも悦びを感じるほうが上回り、いまではシュエシのほうから行為をねだることさえある。そういう意味では、体よりも気持ちのほうが先に眷属らしくなったということかもしれない。


「ヴァイル様、きっと、そろそろだと思うんです」


 今日は珍しくシュエシのほうが先に目覚めた。まだ深く眠っているヴァイルの顔は寝ていてもとても美しく、閉じられた綺麗な唇に指先でそっと触れてみる。そこはほんのりと温かく、ふにっとした感触は、先日食べた卵白を使った菓子だというものに少し似ていた。


 西の国の国境を越えて数日が経った。間もなくヴァイルの故郷に着くのだと思うと、シュエシの胸に興奮にも似た気持ちがわき上がる。

 最初は、好きな人の故郷を見られることへの興奮かと思っていた。しかし、それとは違う疼きのようなものが混じっていることに気づいたシュエシは、「もしかして」と思うようになった。

 つい最近まで菓子や紅茶を口にしていたが、このところ食べたいという欲が随分薄れてきたような気がする。たまに口にしても、以前のように体が満たされる感覚もない。

 これが“喉の渇き”と関係しているのかはわからないが、シュエシはそうに違いないと思っていた。


 ヴァイルの故郷に着いたら、これまでの自分は終わるに違いない。そうして新しい命が始まるのだと想像するだけで、シュエシは胸の高鳴りが抑えられなくなりそうだった。

 新しい屋敷にはあの土地にいた影たちが既に到着していて、チェンチもシュエシの部屋の用意をして待ってくれていると聞いた。彼らに再会するのも、楽しみに感じている。


「ふふっ。僕、化け物になるのが、なんだか楽しみになってきました」


 ヴァイルの眉が少し寄り、白い瞼がわずかに動く。そろそろ目覚めるに違いない。シュエシはゆっくりと顔を近づけ、綺麗な紅色の唇に思いを込めてそっと口づけた。

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化け物の花嫁 朏猫(ミカヅキネコ) @mikazuki_NECO

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