天命

「小鈴。小鈴」


 わたしを呼ぶ声が聞こえる。


「小鈴。起きなさい」

「うーん……」

 ——煩いなぁ。人が気分よく寝てるのになんだってのよ。


「小鈴!」


 浮上する意識とともに細く目を開けると、目の前でなにかが光っていた。


「カイくん……なんなのよいったい?」

「好い加減に起きないか!」

「……?……」

 ——カイくんじゃない?


 ハッと目を見開くとそこにあったのは、薄ぼんやりと光る月老の顔。


「げっ! 月老……じゃなかった、師父(仮)さん? なんで?」


 驚いた。どこから入って来た——いや、どこからでも入ってこられる人、じゃなくて神様だった。


 目を凝らして周囲を見回しても漆黒の闇。月老の姿以外は、なにも見えない。

 その月老の様子も普段と違う気がする。なにが違うのか——目を擦りもう一度、その目で月老の姿を捉えたのだが。


「嘘?」


 ひらひらとした純白の長衣。髪は驚きの白銀。頭頂の髷には銀の冠、残った長い髪をうしろへ流している。手には、扇子。

 月老はまるで、テレビでよく見かける中国の武侠系古装ドラマから出てきたひとみたいだった。


「……カツラ?」

「地毛だ」


 違う。うっかり些末なことに意識が向いてしまった。


「いっ、いったいどうしたんですか? その格好」


 初お目見えの怪しいスタイル。

 訝しげな目を向けると月老は、さっと目を逸らしコホンと咳払いをした。


「おまえのミッションは、達成された。よって阿海を消滅から救ってやろう」

「え? ミッションって……」


 林媽媽に嫁として受け入れてはもらえたものの、魯肉飯は——。


 わたしの疑問を見越した月老が、ゆっくりと頷いた。


「舒淇が言ったとおり、おまえは、おまえの味の魯肉飯を作った。それでいいのだ」

「あ……」

 ——そうだったのか。


 大好きなカイくんと一緒にいたい。林媽媽や芙蓉姐と家族になりたい。自分の味の魯肉飯。これらはすべて、わたしの心の奥底にあった望みだった。


 月老のミッションは、わたしがごまかしたり逃げたりせずに、自分の心と正面から向き合うことだったんだ。


「わかったら、ここへ来て跪きなさい」


 促さるままベッドから下り、月老の前で跪く。

 見上げる月老は衣装のせいか、いつもとどこか違って見える。


「……なんかカッコいい」

 ——わたしはパジャマだけれど。


 一瞬、にやりと口角を上げた月老が表情を引き締めた。


「叩頭」


 声が、直接頭のなかで響く。あの霞海城隍廟ではじめて会ったときと同じだ。ただ、あのときとは違い、不思議と怖ろしいとは感じなかった。


 ドラマの場面を思い出してそれを真似、上半身を折り曲げて床に手と頭をつける。それを三度繰り返した。


「林美鈴。おまえを私、月下老人の正式な弟子と認め、その命を預かる。証としてこれを授けよう」


 腰を少し屈め目線を下げた月老の袖から出てきたのは、乳白色の玉石の腕輪。


「右手を」


 その言葉に釣られるようにわたしの腕が勝手に持ち上がり、前へと伸びる。


 月老の手で、腕輪が腕に通された。腕輪が触れた箇所から、生まれてこの方、感じたことのない感触が、全身に広がっていく。


 あたたかい。


 この温もりはなんだろう。不思議に思いながら見つめるうち腕輪が発光をはじめ、その光が、戸惑う間もなく全身へと広がった。


 目の前にいるはずの月老の姿も、眩い光のなかへ溶け込んだ。



 締め切られたカーテンの隙間から入り込む日差しが、キラキラと輝いている。


 頭はスッキリ、体も軽い。目覚めがこんなに気持ちがいいのはひさしぶりだ。

 なんだか凄く不思議な夢を見た気もするし。


「うーん」


 ふたりが十分寝られるクイーンサイズのベッドの中央で、全身で大きく伸びをしたところで気がついた。


 林媽媽は?


 隣で寝ているはずの林媽媽が消えている。慌てて枕元に置いてある携帯電話で確認すると、すでに九時を回っていた。


「やっちゃった!」


 嫁、第一日目にして、寝坊とはなんたることか。


 ベッドから飛び起き、洗面所に飛び込む。歯ブラシを咥えて鏡に映った自分の手首を見て驚愕した。


 歯ブラシを持つ右手首を見て、もう一度、鏡に映るそれを見る。


「なにこれ? なんでこんなものが?」


 超特急で歯を磨き終え口をすすぎ、濡れた手と口元をタオルで拭ってから、恐る恐る腕輪に触れた。


 乳白色の玉石は艶やかに輝き、温もりのある滑らかな手触り。太さの割に不思議と重さを感じないは、高級品がゆえだろうか。だがしかしこれは。


「なんだか見覚えがあるような……?」

 ——そんな? まさか? あり得ないでしょう!


 鏡のなかの自分と問答をはじめそうになったところで思い出す。のんびりしている場合じゃなかった。


 大急ぎで着替え、廊下とダイニングを小走りで通り抜けて店へ出ると、朝食のピークはすでに過ぎ、小母ちゃんたちが厨房近くのテーブルでご飯を食べている。


「おや、小鈴。いま起きたのかい?」

「重役出勤かい? こりゃまた偉い嫁さんだねぇ」


 お嫁さんになった話は、すでに回っているようで、一齣言いたい放題されて笑われた。


 わたしは悟る。ここにいる小母ちゃんたちは、みんな姑になったのだ。

 先を思い描き、浮かべる愛想笑いが引き攣ったのは、仕方がない。と、思う。


「そんなことより、就職のお祝いだろう?」

「そうだったねー。おめでとう、小鈴。月さんのところに就職決まったんだって?」

「就職?」

 ——わたしはいったい、いつ、月老婚姻紹介所に就職したんでしょう?


「おや、お目覚めかい? ちょうどよかった、いま呼びに行こうと思ってたんだよ」

「林媽……じゃなかった、媽、おはよう」

「月さんが、あんたを待ってるんだよ。仕事の話だろう? さっさと顔出しといで」

「あ、うん」


 朝から元気な林媽媽にありがとうとお礼を言って、月老を探す。入り口付近のテーブルで食後のお茶を優雅に啜る月老の姿を認めた。


「師父(か……」

「(仮)は、要らない」


 いつの間に(仮)が取れたんでしょうか?


「ええっ? まさか昨夜のあれって……」

「まさかとは思うが……おまえはあれが夢だとでも思っているのか?」

「え? だって、あれ……あ? だったら……カイくん! カイくんはどこ?」


 驚いて周囲を見回しても、カイくんの姿がない。気配すら感じられないことに不安を覚えた。


「大丈夫だ。安心しなさい。あれは、役所へ届け出に行かせた」

「届け出、ってことは、カイくんは?」

「うむ。もう消滅することはない」

「消滅……しない」

 ——わたし、カイくんと、ずっと、ずっと一緒にいられるんだ。


「私の裏書きつきだからな。すぐに研修に入り、一ヶ月後には戻ってくるぞ」

「一ヶ月後……」

「おまえの難儀な縁も、これでとりあえず繋がったな」


 月老の説明を聞きながらも、信じられない気持ちでいっぱいだ。


 昨夜のあれは、夢ではなかった。課せられたミッションは達成され、約束どおり、ちゃんと幽霊になったカイくんと、ずっと一緒にいられる。研修が終わる一ヶ月後には、ちゃんと戻ってくる。


 よかった。


 あんなに泣いて苦しんで、無理やり諦めたカイくんとの『縁』は、切れずにこれからも続くのだ。


 うれしいなんてひと言で、簡単に言い表せないこの万感の思いを、どう表現すればいいのだろう。


「さて、行くか」


 遠くへ旅立っていた意識がその言葉で現実世界へ引き戻された。


「行く?」

「ここではなんだから、事務所へ戻って具体的な話をしよう」


 具体的な話——ってことはつまり、わたしは。


 いつの間にやら立ち上がり、隣に並んでいた月老に背中を押されて店の外へ出た。


 遠く聞こえるバイクのエンジン音や車のクラクション。ざわざわと空気を揺らす、人の営みの喧騒。目の前には、すっかり見慣れた台北の、日常の風景が広がっている。

 建物の向こうを見上げればそこには、雲ひとつない青空。今日も季節外れの暑さになりそうだ。


「いい天………?」

 ——えぇえ? なにあれ? ひ、人が空を飛んでいる?


 あんぐりと口を開け、瞬きを数度繰り返し、試しに目も擦ってみた。ありえないものを見た人の反応は、大方こんなものだろう。


「ああ、あれか。あれは黒龍だ。またひとつ、難儀な縁か……」


 遠目で顔かたちまではっきりと確認はできないが、それでもやはりあれは人。どう見ても黒い衣装を身に纏った人間に見えるのに、月老が黒龍と言ったら、黒龍なのか。

 そもそも、龍は想像上の動物で実在するなんてことがあるはずが——。


 いや、いいのか。幽霊も神様も妖怪もいるのだから、龍のひとりやふたり増えても。


 ふと視線を正面に戻せば、向かいの眼鏡屋の前を箒で掃いている小父さんの姿が目に入った。


「みっ、耳っ?」


 小父さんの頭の上にはぴょこんとふたつ、モフモフにしか見えない耳が生えている。その隣にいるのは、半透明の小さな女の子で。


 目を丸くしたまま月老を振り返ると、その顔にははっきり『愉快』の文字が見て取れた。


 この神様、タチが悪い。わたしの反応を面白がっている。


「おまえが驚くのも無理はない。これらは普通、人間には認識できないものだからな」


 無理はないどころか、驚かない方がおかしいです。


 楽しそうに微笑む月老が言う。


「わかっただろう。これが、この世の真実の姿だ」

「この世の真実の姿?」

「ああ。そうだ」


 この世は人だけのものではなく、神、仙、人、妖怪、霊魂、魔、あらゆる種族が共存している。しかし、人間が認識できるものは、そのうちのごく一部にすぎない。


 人の世が続く限り、人は、あらゆるものを証明し、自分たちのものとする努力を続けるだろう。だが、人の寿命は短い。人の叡智が及ばないこの世のすべてを、知ることはできないのだ。


「寿命の短い人には認識できない……」

 ——え? だったら、わたしは?


「人が考える神の寿命は、永遠だ。おまえは神である私の弟子。つまり、その寿命は……言わずもがなだ」


 はじめて月老に相談したあのとき、カイくんとわたしが、月老に命を預けたら死ぬのだと思ったあれは、誤解だったけれど。


 月老の正式な弟子となり、命を預けたいま、わたしは。


「ええっ? それじゃあ、わたし、死ななくなっちゃったってこと?」

 ——うっ、嘘でしょう?


 得体の知れない恐怖に引き攣るわたしに、月老は極上の笑みを浮かべた。


 永遠——。


 それがどんなものなのか、わたしには、理解できない。

 ただ、知っているのは、わたしはその永遠を生きる、と言われた言葉だけ。


 わたしはこの世で、月老の弟子をやって、カイくんと一緒に、人と、人には見えないものに囲まれて、永遠の時間を生きていく。その運命を受け入れてしまったことだけは、確かなのだ。


 そんなこと! 信じられない!


 呆然と立ち尽くすわたしの肩を、月老がポンッと叩いた。


「まあ、がんばれ」


 と、言われても……囧。


 棒読みの激励を受け、わたしの心に隙間風が吹いたのは言うまでもない。





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神様の縁結び〜台灣で挑む月下老人のおいしいミッション〜 いつきさと @SatoItsuki

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