我愛妳

 林家の留守番を買って出たわたしは、林媽媽の到着を待たず、病院をあとにした。


 家に入ってまず目に入ったのは、散らかしたままのダイニングテーブル。

 当然のことながら、テーブルの上は食べかけの弁当箱や皿が出かけたときそのままで。ご飯粒まであちこちに飛び散っている。床には箸も転がっているし。慌てぶりを思い出し苦笑を漏らす。


 食べかけのお弁当と箸をゴミ袋に纏め、カップを流しへ片づけ、テーブルを拭く。洗い物をしながら、ふと、遠出をしていた林媽媽に思いを馳せた。


 台南から病院へ直行するとして——わたしたち同様、慌てているであろう林媽媽が、途中で食事を取る余裕があるだろうか。


 なにか軽く食べられるものを用意しておくべきだな、と、濡れた手をタオルで拭い、冷蔵庫の物色を開始した。


「なにがあるんだろう……」


 ニンジンに、ジャガイモ、タマネギ、キャベツ——。野菜は、根菜類と葉物が一通り揃っている。肉は——。


「塊のバラ肉……」


 わたしの料理のレパートリーは、片手の指が余るほど。ここにある材料で作れそうな日式咖哩飯は、ルーがないから作れない。そうなると、残るメニューは——。


「魯肉飯……」


 魯肉飯のプロに自作の魯肉飯を食べさせる度胸は、さすがに、ない。


「ほかに作れるものあるのかよ?」


 図星を指され、うっ。と、言葉に詰まる。


「ほかにないから、考えてるんじゃない」

「考えてもないものはないだろ?」


 カイくんのご指摘はごもっとも。厳しいお言葉、ありがとうございます。悔しい。


「いいんじゃない? 魯肉飯。作れよ」

「でも……」


 と、口では抵抗を試みるが、じつのところ、ほかに作れるものはなし。そうとなったら、女は度胸だ。


 カイくんに嘲笑されながらも冷蔵庫から肉を取り出し、あちらこちらと扉を開けてその他の材料も揃え、魯肉飯作りを開始した。


 まったく知らないわけではないが、不慣れなキッチンでの作業は、些か緊張する。調理器具も、使い勝手が違うし——うまくできればいいけれど。


 大きな中華包丁で肉を細切れにするのは、かなり恐ろしく骨の折れる作業だ。それでも、包丁自体を使い慣れてきているせいか、以前よりはずっとマシな気がする。


 お米は、洗って電鍋へ。肉の煮込みは、ガスの火で。肉を煮込む前に、フライパンで炒め余分な油を落とす。


「あ。しまった! 魯包……」


 調味料の引き出しを開け、奥の奥まで探してみた。なぜか、卵を入れるだけのインスタントスープを発見したが、肝心の魯包は、やはりない。


「……どうしよう」


 またかと呆れるカイくんを無視し、なにか代用できるものはないかと、調味料瓶のラベルをひとつひとつチェック。すると。


「五香粉?」


 瓶の蓋を開け、匂いを嗅いでみると、魯包に似た匂いがする。もしかして、これはイケるのではないだろうか。

 失敗すると恐いので、ほんの少しだけ煮込みの鍋に投入してみた。


 鍋がぐつぐつと煮えて、おいしそうないい匂いが漂ってくる。味は、どうだろう。スプーンですくった小さなひとくちを口に含んだ。


「……あれ?」


 小首を傾げ、もうひとくち。


「どうした? また失敗か?」

「うん? 違う……なんか……」

 ——おいしい?


「おい? 小鈴?」

「え? ああ、なんかね、うまくできるかも?」


 いまはまだ、気持ち薄味ではある。だが、このまま汁気がほぼなくなるまで煮込めば、いままでで一番おいしい魯肉飯ができるかも知れない。


 心のなかで小躍りしつつ、ガス台の前に張りつき、焦げつかないよう火加減に注意しながら、鍋をかき混ぜた。


「いい匂いだね」

「わっ?」


 声に驚いて振り返ると、林媽媽が笑っていた。


「アハハ。なにびっくりしてるんだい?」

「林媽媽!」

「へぇ、おいしそうじゃないか。小鈴、あんたが作ったのかい?」


 林媽媽はわたしからお玉を取り上げて、鍋の中身を確認している。


 びっくりした。いつの間に帰ってきたんだろう。足音も聞こえなかった。


「もちろん、食べさせてくれるんだろう? 支度しといとくれ。着替えて手を洗ってくるよ」

「うん!」


 薬缶を火にかけ、お茶の支度をしてからご飯をよそい、ほどよく煮上がった魯肉を乗せる。


 たくあんが見当たらなかったので、冷蔵庫にあった林媽媽の作り置き、キュウリの和え物を添えた。

 さすがは林媽媽。ちょっとつまんでみたが、いい感じに味が染みていて、箸休めにピッタリだ。


「口に合うかどうか、わからないけど……」


 テーブルで待つ林媽媽の前に、魯肉飯とキュウリの小皿を並べた。


「なに言ってんだい? 小鈴が作ったもんが口に合わないわけないだろう?」


 林媽媽は、不安げにしているわたしを豪快に笑い飛ばして、魯肉飯を口へ運ぶ。

 キッチンに戻りお茶を淹れてからテーブルを挟んで向かい合わせに座ったころには、茶碗の魯肉飯はもう半分になっていた。


 林媽媽の挙動を見守りながら、フーフーと息を吹いて熱いお茶を冷ます。人が食べているのを見ていると、お腹が空くのはなぜだろう。


 誘惑に負け、やっぱり食べようと腰を浮かしかけたところで林媽媽が茶碗と箸を手から離した。


「ごちそうさま。やっと一息ついたわ」


 飲みごろになったお茶を啜り、満足げに笑う。


「家に帰ったら嫁の作ったおいしいご飯が待ってるなんて贅沢だね」

「……え?」


 一瞬、なにを言われたのか、わからなかった。頭のなかで林媽媽の言葉を反芻する。


 林媽媽は少し顔を俯けて苦笑したあと、顔を上げて正面からわたしを見つめると、ゆっくりと言葉を続けた。


「おいしかったよ。そりゃ、ウチの味とは違うけど、小鈴らしい優しい味だね」

「わたしらしい味?」

「そうさ。作ってるときに味見をしただろう? おいしいと思わなかったのかい?」

「おいしい……うん。思った」


 そうだろうと、満足そうに林媽媽が頷く。


「自分が作って食べて、おいしいと思った。それがあんたの味さ。いいかい? 小鈴。たいていの人はね、努力すればそこそこなんでもできるようになるもんさ。だけどね、そこそこを超えようと思ったら、やっぱり好きじゃなきゃできないんだよ。料理も同じさ。手本があって練習すればある程度は作れる。そこで一番大切なのは、自分が食べておいしいと思える味を作り出すことなんだよ。わかるかい?」


 わたしの味。わたしがおいしいと思う味。


 いままで作ってきた料理はすべて、既存のレシピの真似をしただけ。

 月老に納得してもらえる魯肉飯作りもそう。月老においしいと言わせることが、正解なのだと思っていた。


 林媽媽に言われ、はじめてわかる。

 月老を納得させるためだけに、他人のレシピを真似て作った魯肉飯では、並以上になれるわけがなかったのだ。


「こんなにおいしい魯肉飯を作れるあんたが嫁に来てくれて、あたしゃうれしいよ。ありがとう、小鈴」


 嫁。林媽媽がわたしを、嫁と呼んでくれた。


 うれしくてなにを言えばいいのか、わからない。わたしは林媽媽を見つめたまま呆けた。


「ばかだねぇ、泣くことないだろう?」

「あ?」


 指摘され頬に触れれば、濡れている。

 林媽媽はそんなわたしを笑いながら、テーブルの端にあるティッシュボックスからサクサクとティッシュを数枚抜いて押しつけてくる。


 受け取ったティッシュでゴシゴシ拭い、鼻を啜った。


「小蓉から聞いたよ。阿海があんたと一緒にあの子を支えて病院まで行ったんだってね? 産まれたばかりの寶貝が阿海を見て笑ったって、うれしそうだったよ。阿海は、本当にあんたと一緒にいるんだねぇ。もしかして、いまもここにいるのかい?」

「うん。そこに……」


 テーブルの角。ティーポットのすぐそばに、カイくんが立っている。


 林媽媽がカイくんのいるほうを見て「あたしにも見えたらよかったのにねぇ」と呟いた。


「媽……」


 カイくんだって林媽媽に姿を見てほしいし、話しもしたいに決まっている。けれど、その望みは、林媽媽に届かない。


 悲しげに顔を歪めていたカイくんが、なにを思ったのか、ティーポットに手をかけた。ポットが傾き、ほんの少しお茶が溢れる。


 溢れたお茶で、カイくんが一文字ずつゆっくりとテーブルに文字を書く。

 その文字を凝視している林媽媽の顔が、一文字増えるごとに歪んでいった。


『媽 愛してる』


 林媽媽が大粒の涙をぽろぽろと零しながら、嗚咽と一緒に声にならない言葉で囁く。


「阿海……媽媽もおまえを愛してるよ」


 わたしも堪えきれず、林媽媽と一緒に声を上げて泣いた。



 気の済むまで涙を流してしまえば、所詮、いつまでも悲しみに浸れる性格ではないわたしたち。尽きぬ話の方向は、自ずと変わっていくわけで。


「つまり、あれだ。阿海は、あんたに取り憑いてるってことだろ? 霊魂に取り憑かれたりして大丈夫なのかい?」


 カイくん——林媽媽に憑依霊扱いされています。


「理由があって離れられないだけで、取り憑いてるっていうのとは違うと思うんだけど?」

「そうなのかい? だったらいいんだけど、相手は霊魂だからさあ、やっぱり心配だろう?」

「うん」

「ホントのこと言うとね、あたしゃ、あんたが娘だろうが嫁だろうが、どっちでもいいんだよ。ただね、小蓉に言われたのさ。阿海が四六時中へばりついてちゃ、好い人見つけて幸せになれって言っても、無理だろうって。だったら、嫁にするしかないじゃないか。そうだろ?」

「林媽媽……」

「違うだろ? 小鈴。媽だよ、媽」

「媽……」


 慣れない呼び方をするのは、少々照れくさく、どうしても小声になってしまう。


「まあ、でもそのうち、本当に好い人が現れたら、ちゃんとこの家からあんたを嫁に出してやるからさ」


 それがあんたの親になるあたしの使命だ、と、林媽媽が豪快に笑う。

 わたしはわたしで、横で苦虫を噛み潰したような顔をしているカイくんから顔を背けて、苦笑するしかない。


 あれ? でもわたし?


「カイくんと結婚してるんだよ?」

「わははは! なに言ってるんだい。あれは、冥婚だよ? 本当に結婚したわけじゃあるまいし。もっとも、本当の結婚だったとしたって、離婚って手があるからねぇ。あたしがちゃんとしてやるから。小鈴は、余計な心配しないで、あたしに任せときゃいいさ」


 ガチャン!


 突然、大きな音を立てて弾んだティーポットにぎょっとして、顔を見合わせた。


「阿海だね?」

「うん」


 眉間に皺を寄せた林媽媽が、ティーポットの向こうの空間へ顔を向けた。林媽媽には見えていないはずなのに、ふたりはちゃんと睨み合っている。


「阿海! このポット、あたしのお気に入りだって知ってんだろ? 壊したら承知しないからね!」


 怒鳴られたカイくんが「うわぁ相変わらず……」と呟き、額に手を当てた。


 どうやら、霊魂になってもカイくんの待遇は、生きていたころと差はないようだ。




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