小寶貝

『台鉄弁当が食べたい。お願い買ってきて』


 授業が終わり学校を出てアマンダと別れたところで、芙蓉姐からの電話を受けた。


「姐の奴、人使い荒すぎじゃないか」

「しょうがないよ。林媽媽はいないし、詠哥も出かけてて独りで留守番してるって言うんだもん」

「まあな。自分で買いに行かれるよりはマシか」

「そうだよ。芙蓉姐だよ? わたしが断ったら絶対自分で行くに決まってるもん。そっちのほうがよっぽど心配だわ」

「この子が食べたがってるのよーってでかい腹摩って泣き真似されたら、断れないしな」

「うん」


 今日は、林媽媽が親友の結婚式——なんと、十歳年下の彼氏と再婚するらしい、とのことで、台南へお出かけ。

 ついでに従業員のみんなにも休暇だ、と、滅多にない休業日のため、わたしのお手伝いもお休みなのだ。

 天気はいいし、お昼をどこかで買って、久々に大安森林公園でものんびり散歩しようかと予定を立てていたのだが。


 公園を外から眺めつつ最寄り駅まで歩き、台北駅の地下街で台鉄弁当を買い、林家を訪ねた。


「小鈴、いらっしゃい。案外早かったわね」

「スイゴニュ、リハ!」


 先客がいた。


「陳さん、こんにちは……。芙蓉姐、はい、お待ちかねの台鉄弁当。今日はツイてたんだよ。並ばないで済んだの。きっと、もうちょっと時間が遅かったら大行列か売り切れか、だったんだろうけど」

「台鉄弁当はすぐ売り切れちゃうのよねぇ」

「俺のは?」


 陳さんがお弁当の入った袋を凝視している。


「突然来た叔父さんの分なんてあるわけないでしょ?」


 片方の口の端に意地悪そうな笑みを乗せ、テーブルにお弁当を広げる芙蓉姐を、陳さんが「ちぇ!」と舌打ちをして睨む。


 お弁当はふたつ。芙蓉姐とわたしの分だけだ。

 陳さんがいるなんて知らなかったんだもの。仕方がないじゃない。


「なあ小鈴、半分くれよー。いいだろ?」

「意地汚い……」


 芙蓉姐がぼそっと呟いた。


「なんか言ったか?」


 フフンと鼻を鳴らし勝ち誇った芙蓉姐は「べつにー」と言いながら、見せつけるようにお弁当の蓋を開け、割り箸を袋から取り出した。


「しょうがないなぁ。ちょっと待ってて。お箸と取り皿持ってくるよ。あ、ついでにお茶淹れるね」


 どうせ全部は食べきれないし、あとでお腹が空いたらなにか軽くつまめばいいだろう。


「お茶の用意、途中までしてあるわよ」

「うん。わかった」


 キッチンへ行くと、火にかけられた薬缶から湯気が出ていた。カップがふたつとティーポットに茶葉も用意してある。

 ティーポットにお湯を注ぎ、戸棚からカップをひとつ取り出して。


 トレイにお茶を淹れたカップを乗せ戻ってくれば、芙蓉姐が排骨パイグゥに齧りついている。素晴らしい食べっぷりだ。


「うーん。しあわせ」


 ひとくち食べるごとに唸る芙蓉姐は、よほどお腹が空いていたと見える。


 回り道して買ってきたかいがあったなと満足しつつ、向かい側へ座る。弁当の蓋を開け、気持ち排骨を少なめに取り皿へ取り分け、弁当箱を陳さんに差し出した。


「いい子だ」


 うれしそうにわたしの排骨を頬張る陳さんに褒められても、わたしはちっとも、うれしくない。


 タレの染みたご飯をひとくち頬張り、にんまりしたところで顔を上げた芙蓉姐と視線が交わる。突然、芙蓉姐が顔を顰め、お腹を押さえた。


「あ、イタタタ……」


 わたしと陳さんの箸が止まる。


「芙蓉姐?」

「どうした?」

「うん……なんかお腹が……イタタタ……」

「まさか……産まれるんじゃないのか?」

「……それは、ないでしょう? 予定日まだだし。さっきから時々……大丈夫、ちょっとしたら収ま……ああっ——」

「こりゃ間違いなく陣痛だ!」

「うそ? 芙蓉姐! 病院行こう!」


 顔色を変えた陳さんが、勢いよく立ち上がった。


「俺、車回してくるわ!」


 手に持ったままだった箸を放り投げ、陳さんは玄関に向かって走って行った。


「芙蓉姐、大丈夫? 立てる?」

「うん」


 お腹を守るように抱え体を丸める芙蓉姐の背を撫で、うしろから抱きかかえるようにして立ち上がらせる。


「あ……バッグ……」

「これでいいの?」

「うん」


 椅子の背に引っかけてあるバッグを腕にかけ、芙蓉姐に肩を貸して玄関へ向けてゆっくり歩いた。


「ああっ、痛い……」


 覚束無い足取りの芙蓉姐を必死で支える。母子ふたり分の重みが、わたしの体にのしかかってきた。まずい。一緒に倒れそうだ。どうしよう。


「危ない!」


 ふっ、と、体が軽くなり、向こう側を見ると、カイくんが芙蓉姐を支えていた。


「カイくん?」

「姐! 大丈夫だ。しっかりしろ」


 芙蓉姐が斜め横を見上げ、目を見開いた。


「小鈴! ぼーっとするな。行くぞ」

「う、うん」


 両側から芙蓉姐を支え、ゆっくりと外へ出ると、陳さんの車が玄関の前に停車したところだった。


 バタンと大きな音を立て陳さんが、車から降りてくる。開けてもらった後部座席のドアから芙蓉姐を押し込み、わたしも一緒に乗り込んだ。


「飛ばすぞ!」

「陳さん、だめ。安全運転!」

「……冗談だよ」


 ハンドルを握った陳さんは、さっきまでと形相を変え、落ち着いていた。妊婦に負担のないよう、急ぎつつも安全運転だと、バックミラー越しにウインク。


「…………」


 こんなときだからこそのユーモアのつもりなのだろうが、似合っていないから苦笑いしか出てこない。


「姐、大丈夫だ、オレたちがついてる」

「そうだよ。芙蓉姐。すぐ病院に着くから、頑張って」


 芙蓉姐は小声で励まし続けるカイくんとわたしの顔を交互に見ている。


「阿海……」


 カイくんの名を囁く芙蓉姐の頭を、カイくんがそっと撫でる。荒い息の下、微笑みを返す芙蓉姐の目尻から、涙が一粒溢れた。


 病院の正面玄関前に車を横づけした陳さんは、停車させると同時にドアを開け、一目散になかへ。間髪を入れず複数の看護師が車椅子を転がしこちらへ走ってくる。


 あれよあれよという間に、芙蓉姐は車椅子に乗せられ、産科の診察室へ運び込まれた。これ以上は役立たずのわたしたちは、目の前でドアを閉められてしまえば、待つしかない。


「俺、姐と詠健に電話してくるわ」


 バタバタと走っていく陳さんの背を見送り、ホッと息をつく。よかった。これで一安心だ。


 並べてある長椅子にでも座ろうかと振り返ると、そこには、カイくんが横たわっていた。


「カイくん?」


 慌てて駆け寄って跪き、顔を覗き込む。疲労の色がありありと浮かぶその白い顔に、棺に横たわっていたあのときの姿を思い出し、恐怖を覚えた。


 まさか、このまま消えてしまうなんてことは、ないよね?


 ゆっくりと瞼を開けたカイくんが、怯えるわたしに口角だけで力なく微笑んだ。


「大丈夫。ちょっと疲れただけだから」


 そうは言われても、小さな物を落としたり、音を立てたりするのとはわけが違う。一人前の幽霊としての研修も受けていないいまのカイくんが、人ひとり支えて歩くのは、かなりの負担であることは間違いない。


「ばーか。心配すんなって。休めば戻る」

「うん」

 ——でも。


 心配しないなんて無理だ。せめてタイムリミットだけでも無事に迎えさせてほしい。カイくんを消さないで、と、心のなかで神様に祈った。



 産声を聞くまでの待ち時間は、長い。

 遅れて駆けつけた詠哥は、まるで熊だ。難しい顔をしてぶつぶつなにかを言いながら、分娩室へ続く自動ドアの前を行ったり来たりしている。


 林媽媽は、台南からこちらへ向かっているとのこと。出産までどれくらいの時間を要するのかわからないが、間に合ってくれるといい。


 運転手に連絡係と大活躍の陳さんは、いま現在も活躍中。入院手続きやらなにやらで、大忙しだ。


 休息を取り無事復活したカイくんは、わたしの隣に座っている。

 詠哥がそばにいるので、お喋りはできないが、カイくんがポツポツと語る言葉に耳を傾け、小さく相槌を打つ。


「男の子かな? 女の子かな? 姐の奴、事前に聞いてなかったのかよ?」

「まさか立ち会えるとは思わなかったな」

「姐、大丈夫かな? どっちでもいいから、無事に産まれてほしい」

「まだかな。いったいいつまで待てばいいんだよ……」


 苛立ってきたその様子に、カイくんまで詠哥と一緒に歩き出すのかと呆れたそのとき、ドアが開いた。分娩室から出てきた医師の笑顔に、詠哥の顔が綻んだ。


「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。出産は順調で、母子ともに健康です」


 感激で顔を真っ赤にし、目を潤ませた笑顔の詠哥と一緒に、医師からの説明を聞く。初産にしては軽いお産で、時間もかからず出血も少なかったとの医師の説明を聞き、よくわからないながらも胸を撫で下ろす。引き続き、看護師からもその後のケアなどの説明を受けた。


 芙蓉姐と赤ちゃんに会えるまでには、もうしばらく時間がかかるとのこと。待ちきれない詠哥はまた熊に戻ってしまった。

 お父さんになったのだから、少しは落ち着いて座っていればいいのにとは思うけれど、詠哥の喜びようもわかる。


 まるで夢みたいだ。


 ひとつの命が、産声を上げ、周囲の人々に愛され育っていく。家族が増える喜び。わたしにもいつか、そんなときが訪れるのだろうか。


 でもいまはそんな不確かな未来よりも、産まれたばかりの彼の成長を、わたしも見守っていきたいと思う。


 ここにいたい。この家族と一緒に。


 そう簡単に諦められるものではないんだな、と、カイくんの目を盗んで苦笑した。


 しばらくして、ストレッチャーに乗せらた芙蓉姐が、分娩室から出てきた。

 半泣き笑顔の詠哥が「頑張ったな!」と、声をかける。うんうんと頷く芙蓉姐は、疲れた様子ながら元気そうだ。


 用意された病室は、個室。ベッドの横には、ちょっと堅そうだけれど、人ひとりなんとか横になれそうなソファまである。

 こちらでは、夜、家族がお世話のために泊まり込むのが当たり前とのことで、こんな仕様になっているらしい。


 テキパキと病室を整えて芙蓉姐をベッドへ異動させ、その合間に家族への指示も忘れない。看護師さんって凄いな。感心していると、待ちに待った赤ちゃんの登場だ。


「わー、ちっちゃい」

「大きかったら出てこれないでしょ」


 ベッドの背を起こして座る芙蓉姐の腕のなかで、おくるみに包まれた赤ちゃんは、細目を開けたり閉じたり大あくびをしたり忙しい。

 かわいい。

 表情を変えるたび顔がくしゃくしゃになる。


 ふやけてシワシワの小さな手にそっと手を伸ばせば、触れた途端に親指をギュッと握られた。こんなに小さいのに、案外力は強いんだ。


「赤ちゃんってこんななんだ……かわいい」

「真っ赤でシワシワで猿みたいだよねぇ」


 命懸けの出産を終え、感動の新米ママである芙蓉姐は、すでに平常運転。母は強し。ベテランの風格さえ漂わせている。


 詠哥はといえば——まだ泣いている。

 普段、飄々としているこの人が、こんなに泣く人だったとは、知らなかった。


「詠哥。抱っこしてみる?」

「え? なんで俺?」

「なんでって、あんた父親でしょう?」

「あ、いや……そうなんだけども……」


 和やかな芙蓉姐とは対照的に、狼狽している詠哥。

 情けないわねしっかりしなさいと、叱咤され眉を下げてる様子がなんだかかわいいけれど。新米パパってこんなもの?


「じゃあ、小鈴。あんた抱っこしてみる?」

「えぇえ? なんで、わたし?」


 突然こちらへ振られるとは思いもせず。詠哥を笑っている場合じゃなくなった。


 抱っこは、してみたい。でも、赤ちゃんなんて、はじめてだもの。


寶貝バオベイ、ほーら、小鈴叔母さんに抱っこしてもらうのよー」


 ほーら、と差し出されても、はいそうですかと手を出せるわけがないのだけれど。緊張しているわたしにお構いなく、芙蓉姐に赤ちゃんを押しつけられてしまった。


「ちょ……わ……」


 びっくりするほど、軽い。小さくてフワフワ。力加減がわからず落としそうで恐い。

 すぐ目の前の小さな目は、わたしの引き攣る顔を不思議そうに見つめている。


「芙蓉姐、寶貝って、この子の名前?」


 芙蓉姐が、プッと吹き出した。


「ばかねぇ、違うわよ。赤ちゃんは宝物だから『寶貝』って呼ぶの。名前はね、いくつか候補はあるんだけど、まだ決めてなかったのよ。性別もあえて聞いてなかったし、予定日もまだ先だったしねー」

「そうなんだ」

「媽が口出す前に、さっさと決めた方がいいぞ」

「え?」

「名前だよ、名前」


 赤ちゃんの顔を覗き込んでいるカイくんが、ぼそっと言う。


「小鈴?」

「あ、えっと……林媽媽が口を出す前に、名前を決めちゃったほうがいいって……」


 一瞬目を丸くした芙蓉姐が、クスクスと笑い出した。


「阿海ね?」

「うん」


 いまの芙蓉姐には、カイくんの姿も見えなければ声も聞こえないよう。でも、芙蓉姐はちゃんと、カイくんがここにいるのを知っている。


「あ? ねえ、この子もしかして……」


 芙蓉姐の声に赤ちゃんへ意識を戻した。

 大きな潤んだ瞳が、一点を見つめている。その視線のすぐ先にあるのは、カイくんの顔。


 わたしは確信を持って頷いた。


「うん。この子には見えるのね」


 そういえば、子供が小さいうちは、人に見えないものが見えたり、前世の記憶があったりする子もいると、聞いたことがある。


 予備知識のない真っ新な状態だから、大人には見えないものが見えるのだろうか。


 芙蓉姐も体を起こして座り直し、赤ちゃんを覗き込んだ。


「子供って、不思議ねぇ」


 感慨深げに芙蓉姐が微笑む。その時、じっとカイくんを見つめていた赤ちゃんの表情が変わった。


「あ?」

「笑った?」


 赤ちゃんがニッコリと、カイくんに笑いかけている。

 カイくんも幸せそうに笑って、赤ちゃんの頬をチョンと突いた。




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