一家人
和解
留学生活最後のクラスがはじまった。勉強は予想どおり難しくなっている。毎日大量の宿題を熟し、予習復習に追われる。検定試験の準備もはじめた。
本来の目的であった語学留学は、中国語能力の進歩もそれなりに実感でき、学習面に於いては、充実した日々を過ごせている。
アマンダとはまた、同じクラスを取っている。彼女のほうは相変わらず漢字の書き取りに苦しめられているが、ふたりで足りないところを補い合い勉強するのは、楽しい。
曉慧は、夜の付き合いが悪くなった。
彼氏ができれば女友だちなんてこんな扱いだよね、と、アマンダは文句を言っているが、幸せそうなふたりを見ているだけで、わたしは満足だ。
ただし、突然呼び出され、喧嘩の愚痴を聞かされるのには閉口する。
吐き出したい気持ちはわからないではないが、所詮は惚気話。聞かされるわたしたちは、たまったものではない。
学校が終わった昼からは、林家魯肉飯へ通い、店の手伝いだ。
林媽媽も芙蓉姐も相変わらず。あんなことを言ってしまったわたしに、いままでどおり接してくれる。
芙蓉姐は、いよいよ臨月だそう。時折赤ちゃんに蹴られ、イタタタとお腹を押さえて苦笑いしている。
わたしもお腹に触らせてもらった。赤ちゃんがグリグリ動く感触に、生命の神秘を感じる。
魯肉飯研究も、もちろん続けている。
調味料や香辛料、水の分量を加減したり、肉を一度茹でこぼしてザルに上げて洗い、余分な油を抜いてみたり。外鍋へ入れる水の量を減らして煮込み時間も調整し、こまめに味を確認しつつ仕上げている。
工夫を重ね、『並』評価より少しはマシなできになっているとは思うのだが、いまだ並以上の評価をもらっていない。これ以上なにをどうすればいいのだろう。
月老はどうやって知るのか、魯肉飯ができあがった頃合いに現れ、毎度しっかりと完食する。そして、どこからともなく現れるくせに、帰りはドアから出て行くのだ。
神様っていったいなにを考えているのか。本当につかみどころがない人だ。あ、人じゃかなった神様だった。
月老とふたりで食べてもまだ余る魯肉は、ぴっちりと袋に入れて冷凍庫へ。これも大分ストックが増えてきて、そろそろ冷凍庫から溢れそうだ。
カイくんは、あれ以来、わたしの前から姿を消したまま。しかし、姿が見えないだけで、常にそばにいるのは気配でわかっている。カイくんは気づいていないかも知れないけれど。
時折声をかけてみるが、返事もしてくれない。のべつ幕なし言いたい放題されていた日々を思い出しては、静けさにため息が出る。
特に独りの夜は、いろいろなことを思い出し、気持ちが沈む。
カイくんは、わたしを避けているのだろう。でもなぜ?
林媽媽たちと話をしたあのときに、なにもしてくれなかったのを悔いているから顔を出しづらい?
それとも、もうわたしと一緒にいたくないと思っている?
このまま姿も見せず、ひと言の断りもなく、消えてしまうつもりなの?
林媽媽は、わたしに幸せになってほしいのだと言った。
残りの留学生活を熟し、日本へ帰り、叔母の家で元の暮らしに戻る。適当な就職先を探し、仕事をして、そのうち誰かと恋愛して結婚して子供ができて——。
いつか、カイくんへの気持ちも、ここでの生活も出会った人々も、すべて過去になって、あんなこともあったなと思い出しては、懐かしむ日が来るのだろうか。
それが、わたしの望む幸せなのだろうか。
満月まで、あと三日。
月老のミッションは、クリアできていない。
このまま時間が過ぎれば、月老との約束もなかったことなり、カイくんの魂は完全に消滅し、この世から消えてしまう。
月老が納得する魯肉飯も作れなかった。林家の嫁にもなれなかった。
わたしは自分の真の望みに気づいてしまったのに、それをつかみ取ることができなかった。だから、残りの生涯は、挫折感と後悔に苛まれて過ごすんだ。
「……ぜんぜん幸せなんかじゃないよ」
ベッドに転がって、ところどころにシミのある古ぼけた天井を見上げた。
「きっと、はじめから全部、間違ってたんだよね」
カイくんははじめ、月老に相談するのを反対していた。月老に命を預けろと言われたときだって、わたしを止めた。
それを強引に推し進めたのはわたし。月老のミッションも『こんなの簡単』と、後先考えずに安請け合いしたのもわたし。
「結局、わたしの独り相撲だったんだね」
冥婚の儀式だって、林媽媽に頼まれただけで、カイくんが望んだわけじゃないし。
カイくんはいつもわたしの傍らにいて、話を聞き、愚痴を受け止め、慰め、助言してくれた。
けれども、わたしがしたことは、その優しさに胡座をかいて、カイくんの気持ちを知ろうともせず、カイくんを振り回しただけだった。
自分だけが、いい気になって突っ走っていただけだったんだ。
魂が完全に消滅するなんて、そんなのカイくんがかわいそうだ、と思ったのも嘘なら、消滅してしまったら林媽媽や芙蓉姐が悲しむから止めなければ、と思ったのも嘘。
カイくんの口から一度だって『消滅したくない』なんて聞いていなかった。カイくんに消滅してほしくなかったのは、わたし。
なにもかもすべて、わたしのわがままだっただけなんだ。
「ごめんなさい……」
目頭が熱くなり、唇が震えて止まらない。涙があとからあとから溢れてくる。
「カイくん、ごめんなさい。わたしが間違ってた……ごめんなさい」
いまさら謝ったところで、カイくんは姿すら見せてくれない。わたしの声が聞こえているはずなのに、なにも言ってくれない。わたしはもう愛想を尽かされてしまったのだ。
「わたし、カイくんが好き。だから、カイくんと……ずっと一緒にいたかったの。幽霊でもなんでも。ずっと一緒にいたかったの」
どんなに泣いても、現実は変わらない。過ぎた時間は取り戻せないのだ。
頭を抱えて蹲り、枕に顔を押しつけて子供のように泣きじゃくった。
涙も涸れ、いつのまにかウトウトしていたらしい。ぼーっとした頭に、わたしを呼ぶ声が聞こえた。
「リンリン……」
ハッと目を開き、じっと耳を澄ませた。
「リンリン……ごめん」
もう一度、その声が聞こえた。もう二度と聞くことはないと思っていた、耳慣れた、カイくんの声だ。もぞもぞと体を起こすと、壁際にカイくんがいる。
呼吸も忘れ、その姿に見入った。カイくんは、わたしを見つめたままゆっくりと近づき、音もなくベッドに腰を下ろした。
「リンリン、ごめん。間違ってたのは、オレのほうだ」
わたしの姿を映さないカイくんの黒い瞳を、覗き込んだ。
「ごめんなさい……わたし……」
「謝るのはオレだよ。オレのほうこそ、ごめん。リンリンはずっとオレのために頑張ってくれたのにな。オレは、一方的に気持ちを押しつけて、リンリンを傷つけてたんだな」
「そんなことないよ。カイくんは——」
「オレ……霊魂のオレがいつまでもくっついているより、消えちまったほうが、リンリンのためだと思ってたんだよ。だから月さんのミッションにだって反対したし——本当は失敗すればいいとも思ってた」
「カイくん……」
「リンリンがそんなにまでオレと一緒にいたいと思ってくれてるなんて考えもしなくて。ホント……ばかだよな、オレ」
わたしも、カイくんも、それぞれ勝手に相手を思いそれを押しつけていただけだった。
もし、お互いの考えを言葉にしていたら、辿り着いた結果は、違っていたのかも知れない。いまさらもう遅いけれど。
「ううん。違うよ。わたしこそカイくんの気持ちも考えずに、勝手なことばっかり……」
目が熱くて痛い。涸れ果てたはずの涙が、また頬を伝う。
「リンリン、一緒にいられなくて、ごめんな。オレもずっとリンリンのそばにいたかった。本音を言えば——消滅なんてしたくない。だけど……」
言葉を紡ぐカイくんの目から溢れる滴が落ちるたび、キラキラと光っては消えていく。
「リンリン。ありがとう。楽しかったよ」
わたしたちが一緒にいられる残り時間は、あと僅かだ。
「わたしも、ありがとう。カイくんと出会えて、一緒にいられて楽しかった」
わたしたちの別れは、カイくんが死んでしまったあの日、すでに決まったこと。その後の時間は、おまけみたいなものだったのだ。
ここで別れるのがオレたちふたりの縁。辛く悲しいけれどもオレたちらしく、最後の瞬間まで笑っていよう。そして、オレが消えたあとは、わたしに前を向いて新しい人生を生きてほしい、と、カイくんが言った。
触れることのできないわたしたちは、お互いの顔を見合わせ、止まらない涙をそのままに、笑った。
「写真くらい撮っときゃよかったな」
携帯電話の写真アプリをスクロールしながら、気がついた。
あちらこちらへと遊びに行くたびにたくさん写真は撮ったけれど、人物はどれもすべて集合写真で、ほかは、景色や食べ物。カイくんとのツーショットが、なぜかひとつもないのだ。
「撮ってみるか?」
「え? いま? カイくん、実体がないんだから無理でしょ?」
「わかんないぞ? 撮れるかも知れない」
「それって……心霊写真?」
「心霊写真ってなんだよ?」
なんと。カイくんは心霊写真を知らなかった。
心霊現象、超常現象なんてものに一切興味のなかったカイくんは、その手の情報に触れることもまったくなかったらしい。さすがは理系男子と言うべきか。
「心霊写真っていうのはね、たとえば、写真に写った人物の肩に、ないはずの手が映り込んでるとか、集合写真にいないはずの人が混ざってるとか、空中に人の顔が浮かんでるとか——」
「そんなのあるわけないだろ?」
「あるんだよそれが……実物は見たことないけど、テレビとかで見たことあるもん」
なにかがおかしい。
いま、カイくんとツーショットが撮れたとしたら、それを心霊写真と言うんだよ?
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