婚約破棄されましたが、ファン倶楽部を名乗る方々に助けられました。いや、意味わからん!

七緒ナナオ📚2/1発売【審問官テオドア】

婚約破棄されましたが、ファン倶楽部を名乗る方々に助けられました。いや、意味わからん!

「アンゼリカ・オーレル、お前との不毛な関係も今日で終わりだ! 無理矢理結ばされた婚約など、今、この場で即刻破棄し、代わりに愛するシルヴィアとの婚約を宣言する!」


 ダルタール王立学院の祝福すべき卒業パーティーで、空気も読まずに不穏な声明を高らかに宣言したのはモーリス・コルニアック侯爵子息だ。


 今代では、王族や公爵家という最も高貴なる血に連なる方々の子息令嬢が、たまたま学院に通われていない。それをいいことに、モーリスは我が物顔で講壇にズカズカと上がり、アンゼリカを指差し罵った。


「アンゼリカ! 俺の婚約者である立場を笠に着て、よくも愛しのシルヴィアを心身ともに傷つけたな!? 絶対に許さない、お前には裁かれるべき罪があるのだ! 覚悟して断罪を受けよ!」


 ひとまずは言いたいことを言い切ったらしいモーリスが、満足したように鼻の穴をフンスと膨らませ、アンゼリカを見下すように睨みつけている。


 一体、なにが起きているのか。理解が遅れてしまったアンゼリカは、ポカンと開けた口を扇子で隠すことも忘れて、間抜けな顔を晒している。と、傍らで控えていた護衛騎士兼侍従であるガエル・バローが、アンゼリカのドレスの袖を引き、大丈夫か、と囁いた。


 アンゼリカは、瞬きを2回。ぱちり、ぱちりと瞬いて、ようやく我に返った。そうして、ホールの中ほど、ざわざわとざわめく人混みの中で、壇上のモーリスをぼんやり見上げる。


 モーリスの腕には、少女——シルヴィアがひとり。モーリスは、彼女の細い腰を自分のもののように抱いている。

 抱かれているシルヴィアは、豊満な胸を惜しげもなく半分晒し、今にもこぼれ落ちそうなほど。そして、情欲的なくびれを強調するようなデザインの、白と青との美しいドレスを身に纏っていた。


 白いかんばせ、白金に近い金色の髪。長い睫毛の奥でうるうると濡れている瞳は、冬の泉のような薄い青。巻かれた長い髪がふわふわと揺れている。


 一方、紫色の吊り目、鋼のようにまっすぐ伸びた黒い髪。女性らしい凹凸はあるものの比較的スレンダーで、背も高い。紫と黒を基調としたシンプルなドレスを身に纏っているものの、スーツを着れば、尚、似合うといった容姿のアンゼリカとは、正反対。


 アンゼリカが、学院の王子様、といった呼称がピッタリならば、シルヴィアは、まるで絵本の中の聖女かお姫様のよう。

 けれど、彼女の熟れた肉体が、時折見せる流し目が、欲望を誘うように触れる指先が、その印象を台無しにしている。


 今にも泣きだしそうに潤んだ大きな瞳、色っぽく濡れた吐息と桃色に色づいたくちびる。その姿はまるで……そう、まるで、娼婦のよう。


 アンゼリカが、壇上の婚約者モーリスと、婚約者の腕に抱かれたシルヴィアとを眺めていると、青い眼をけわしく細めながらガエルが呆れたようにため息を吐いた。


「……お嬢をエスコートせず、なにを企んでいるのかと思えば……」

「ガエル、ここは学院よ。せめて『様』をつけなさい」

「失礼、お嬢様。……婚約者殿はアレですかね。学院デビューというヤツですかね? いや、卒業のタイミングでカミングアウトしてくるってことは、卒業デビュー? いやいや、卒業パーティだからって、はっちゃけすぎでは?」

「さぁ……そうね、そうなるのかしらね」


 アンゼリカは、壇上でシルヴィアの腰をまぁるく撫でながら、鼻の下を伸ばしているモーリスを興味なさそうに見て、静かに長く息を吐く。


 ダルタール王立学院へ入学するまでは、モーリスは清く正しい婚約者であった。けれど、アンゼリカより1年先に学院へ通いはじめてから、音沙汰はまるでなし。


 人を使って調べたところ、モーリスははじめてアプローチをした、それも、拙いアプローチに応えてくれたシルヴィアに、酷くのめり込んでいるらしい、ということがわかった。

 その関係は、壇上を見れば現在進行形であることがよくわかる。


 だから今日、この卒業パーティーで、モーリスはアンゼリカのエスコートをしなかったし、それどころか、当日はエスコートができない、という断りの連絡も寄越さなかった。そして、ドレスも髪飾りもなにもかも、アンゼリカに贈ることは一切なかった。


「……お嬢様。あのドレス、もしかして……?」

「ええ、そうよ。コルニアック侯爵家からオーレル伯爵家へ贈られるはずだったドレスよ……」

「それを横流ししたのか、あの馬鹿は」


 アンゼリカが受け取るべきドレスや髪飾りは、みなすべて、モーリスが抱いているシルヴィアの元へ。

 だからアンゼリカは卒業パーティーに出席するために、自分の護衛騎士であるガエル・バローにエスコートを命じた、というわけ。


 ガエルがシルヴィアのドレスの真実に気づいてモーリスを密かに罵ると、アンゼリカはモーリスの婚約者として正しく振る舞うためだけに、ガエルをそっと嗜めた。


「ガエル、言葉が汚いわよ。残念だけど、モーリス様はまだ私の婚約者なの」

「失礼しました。でも、直に婚約者ではなくなりますよね、だから、いいかと思って。……それにしても……サイズを直しもせず贈るとは。紳士の基本がなってませんね。それ以前に、あのドレスはお嬢様には似合いませんけど。オレが用意してよかった」

「そうね。……あのドレス、私のサイズで作られている筈だから……可哀想に、胸元あたりが窮屈そうよ。苦しそうね……大丈夫かしら……」


 アンゼリカはドレスを横流しされたことよりも、シルヴィアの身を案じて眉根を寄せる。

 そう、シルヴィアは、アンゼリカに見せつけるためにモーリスにしなだれかかっているのでは、ない。決して、ない。


 窮屈なドレスを無理矢理着せられて、呼吸もままならなかったのだ。

 愛するひととやらが、そんな苦しい状態であることにも気づかずに、モーリスは自分演出の断罪劇場に酔いしれている。


「悪女アンゼリカよ! お前の悪行を、悪虐非道な性根を、みなに知らしめてやる! ははは、覚悟しろ! そして大人しく婚約破棄を認めるんだな!」


 と。大音声でがなり立てているモーリスは、実はアンゼリカの姿を、その視界に捉えてなどいなかった。壇上であちらこちらに視線を飛ばしてアンゼリカを探す様は、少し、いや、かなり滑稽だ。


 アンゼリカは、もう少しだけ様子を見よう、とそう決めて、傍らのガエルに耳打ちするよう囁いた。


「ガエル、これは……百歩譲ったとして、なにかの茶番サプライズかしら?」

「いえ、違うと思いますよ。婚約者殿は本気です」

「やっぱり。……本気なのだとしたら……そう、仕方がない。仕方がないことよね」


 意味深に呟いたアンゼリカのくちびるが、なにかいいことを思いついたかのように弧を描いている。実際、アンゼリカの頭の中では、これからの計画プランが高速で構築されつつあった。


「名誉毀損に不当で一方的な婚約破棄。コルニアック侯爵家は財政難で、我が伯爵家を頼ってきた立場だというのに……モーリス様は理解されていないの?」


 もともと、アンゼリカとモーリスの婚約は、政略的なものだ。

 何代か前のコルニアック侯爵が事業に失敗し、借金を作ることは回避できたものの蓄財はすっからかん。新たに事業を起こしても、失敗続き。


 そうして今代の侯爵は、あまり豊かな領地ではないのに領民が裕福な暮らしをしているオーレル伯爵家に支援を打診した。

 資金面の支援と、人材派遣だ。コルニアック侯爵家と領地を立て直すための人材を融通してくれ、と。


 オーレル伯爵領は痩せた土地が多く、際立った特産物や鉱山などは、ない。けれど領民が裕福なのは、伯爵家が人材育成や人材支援に力を入れているからだ。


 人こそが財産。という家訓の元、オーレル伯爵領では学術支援、職人育成、騎士養成など、人を育てる方向へ舵を取った。その結果、領民は豊かになり、オーレル伯爵家も財を築くことができたのだ。


 そんな訳があって、アンゼリカとモーリスは婚約した。差しだすものがないコルニアック侯爵家は、アンゼリカをモーリスの妻として迎えることで、オーレル伯爵家との繋がりを得ることにした。


 いわばこの婚約は、事業契約の一環だった。オーレル伯爵とその娘アンゼリカの寛大な心の下に結ばれた政略結婚だったのに。


「仕方がないわ、公的な謝罪と慰謝料をモーリス様から毟り取って、逆婚約破棄といきましょう。くれぐれも、侯爵家の皆さまに迷惑をかけては駄目よ」

「承知しました。すぐ手配します」

「ありがとう。ああ、でもガエル。あなたもこの茶番を見ていきなさい。手配は帰宅してからでも充分間に合うわ」

「わかりました、お嬢様」


 ガエルに指示をだしたアンゼリカは、ひと息吐いて気持ちをリセットすると、人混みを掻き分けて、モーリスが占拠する講壇へと歩いて向かう。


 ざわざわとざわめく人々など、アンゼリカは気にしなかった。様子を窺うような視線も、同情に嘆く声も、すべて無視をする。

 そんなもの、アンゼリカには必要ない。アンゼリカは自分に非がないことをよく知っていたからだ。


「モーリス様がおっしゃる私の罪……とは、一体なんですか? 断たれるべき罪を教えていただきたいわ」


 講壇前にガエルのエスコートでたどり着いたアンゼリカは、愉悦に浸って酷く歪んだ顔をしたモーリスを冷たく見上げながら、そう言った。


「ハッ! ようやく姿をあらわしたと思ったら……とぼけるのもいい加減にしろ。お前、シルヴィアに立場をわきまえろと暴言を吐いたそうだな!」


 アンゼリカに問われたモーリスは、水を得た魚のようにイキイキと饒舌にアンゼリカのあるはずのない罪を暴いてゆく。

 それをアンゼリカとガエルのふたりは、無言、無表情で受け止める。反論など、しない。こういうのはすべて出し切ってくれた方が、後で対処が楽なのだ。


「いいか、それだけじゃない。シルヴィアの魅力を最大限に引きだすためのドレスにケチをつけたと聞いたぞ! なんてことをしてくれたんだ、シルヴィアのよさがお前のおかげで台無しだ!」


 残念で台無しなのは、モーリスの頭では? と、うっかり突っこみそうになったのだけれど、アンゼリカは淑女の技術スキルで呑みこんだ。


「いいか、お前の意地の悪いところはそれだけじゃないからな! シルヴィアが俺に愛されていることに嫉妬して、シルヴィアを仲間外れにして孤立させたことは、もうわかっている。まったく、お前とはただの政略結婚にすぎないのだぞ? 嫉妬してどうなる。役目を果たせばお前など用済みになるというのに!」


 真実本音だからといって、言っていいことと隠すべきことは、当然ある。今のモーリスには、それがまったくできていない。

 恋がひとを愚かにするのか。それとも、モーリスが元々愚かな考えを持つ者だったのか。


 アンゼリカは、そのどちらでも現状と結論に変わりはないわ、と冷静に思考を弾いて無言を貫く。

 傍のガエルはなにか言いたそうにしていたけれど、ガエルの主人として、態度にあらわしてはいけない、とハンドサインで伝えておいた。


 そういうわけで、アンゼリカとガエルは、冷めた目でモーリスの演説を最後まで見守ったのだった。

 ——そして。


「シルヴィアが平民だからといって、やっていいことと悪いことがあるんじゃないのか!?」

「……そうですね、モーリス様のその言葉にだけは同意いたしますが」


 と。モーリスの訴えが終わった頃を見計らい、アンゼリカはただ、思うままに感想を述べた。話をよく聞いていなかった、ともいう。

 モーリスはアンゼリカの言葉に、言質を取ったと嬉々として高らかに笑い、アンゼリカをさらに責める。


「はは! ようやく認めたな! やはりお前がシルヴィアを……! 俺に愛されたというだけで、なぜシルヴィアに危害を加えた!」

「——は? 危害ですって? どういうことなの、聞いていないわ!」


 モーリスの言葉に、今度はアンゼリカが被り気味で問い返した。

 聞いていない、シルヴィアが怪我をしただなんて。いつ、どこで? 事故なのか、事件に巻きこまれたのか?

 問いただしたい気持ちを抑えながら、アンゼリカは今日はじめてモーリスをキツく睨みつけた。そう、感情のこもった目で、はじめてモーリスを直視した。


 アンゼリカの紫色の眼が鋭く細められると、モーリスは少したじろぎ、言葉を詰まらせる。けれどすぐに、これは好機チャンスだと思ったのだろう。モーリスは爛々と目を輝かせ、アンゼリカに罵声を浴びせたのだ。


「しらばっくれるのも大概にしろ! お前の罪は神殿へ報告し、婚約破棄の手続きとともに、祭司長様に断罪してもらう! 公的にな!」

「……っ!」


 ダルタール王国では罪の裁きを神殿が行う。一度訴えられると、神殿は徹底的に罪を暴き、凄惨な断罪が行われる。

 それは、決して、公平ではない。


 神殿への寄付金額や血縁者が入殿しているか、という私的な事情が優先される。不公平で捏造を厭わない取り調べや調査。自白を引きだすための拷問なども、場合によっては行われるという。


 モーリスは、そんな場所へアンゼリカを引き摺って行こうというのだ。

 言われたアンゼリカは、言葉を呑みこんでしまう程には驚いた。けれど、いたって冷静だ。神殿での裁きを持ちだすなんて、少しがすぎる、と感じはするけど、ただ、それだけ。


 もしかしたらアンゼリカが冷静だったのは、冷静ではいられないひとの怒りを抑えるために、ハンドサインで指示をだしていたからかもしれないけれど。


(ダメよ、私は大丈夫。あなたは大人しく口を閉じていなさい)


 口を閉じて黙って見守っていなさい、と言外に伝えて、アンゼリカは思案した。この状況からどうやって逆転するのか、を。


(さて、なにから反論しましょうか。私が危害を加えた、ということになっている件が気になるところではあるけれど……)


 と、アンゼリカが悠長に考えていたところに、突然、見知らぬ第三者が割りこんできた。


「モーリス・コルニアック侯爵子息様、少し冷静になってくださいませんか?」


 あらわれたのは、ひとりではない。

 ダァール侯爵令嬢とリュデュース侯爵子息を先頭に、何十名もの学生が規律正しく列を作り、モーリスが立つ講壇前に整列したのだ。


「な、なんだ……お前らは? 数の暴力で俺を脅すつもりか?」

「いいえ、そのようなつもりはございません。そのような野蛮な真似を、わたくし達が行うはずがありません」


 ダァール侯爵令嬢が深紅の扇をゆらゆら揺らめかせながら、そう告げた。背筋をピンと伸ばした堂々たる態度は、今代の学院の女王として称されるだけのことはある。


 彼女に続いたのは、リュデュース侯爵子息。王立騎士団団長の息子で、学院卒業後は騎士団へ配属されることが決まっている。彼の癖だろうか。少し芝居がかったような古めかしい口調で、侯爵子息が告げる。


「我々はアンゼリカ・オーレル様が無実であることの証明をしたく、こうして参った。どうか我々に発言の許可を、コルニアック侯爵子息?」

「ふふ。できない、とは言わせませんよ? 一方的な断罪は、貴方になにか企みごとがある、と明言しているようなものですからね?」


 ダァール侯爵令嬢とリュデュース侯爵子息が前へでて話ている間、アンゼリカとガエルは伯爵位以下の子息令嬢たちに守られるように囲まれていた。


「あ、あの……皆さま方は、一体……?」


 アンゼリカが疑問を口にして首を傾げる。と、彼ら彼女らはなぜか途端に慌てて焦りだす。


「いけません、アンゼリカ様ッ! 我々のことなどお気になさらず! いけない、気にしてはいけない!」

「ああッ、認知されてしまうのは、その……ちょっと……困りますッ!?」


 彼ら彼女らが言う『認知』という言葉の意味が、アンゼリカにはよくわからなかった。隣のガエルはどうだろう、とアンゼリカが横目で様子を窺うと、ガエルもアンゼリカと似たような感じだった。


 だからアンゼリカは、疑問が解消しないなら、と彼ら彼女らにどうしたらよいか直接聞くことにした。


「は、はぁ……ええと、認知? 認識? ……しない方がよろしいですか?」

「あ、待って、お願い待って! 考えさせて欲しい!」

「いけないわ、推しに……学院の王子様に認知されるなんて……で、でも、このときを逃したら……ッああ!! どうしたら!?」


 また新しい言葉がでてきた。推しって、なに。それが認知となんの繋がりが? と、混乱してしまうのはアンゼリカだけではなかった。


「……おい、なんなんだ、貴様らは」


 彼ら彼女らの存在が、突如としてわらわらと湧いてでたように感じたのであろう。モーリスが、顔を引き攣らせてそう言った。


 アンゼリカだって、彼ら彼女らの目的がいまだ不明だ。なんの利益があって、アンゼリカを(ついでにガエルも)囲んで守っているのやら。


 とにもかくにも、モーリスの言葉に反応したのは、学院の女王ダァール侯爵令嬢だった。


「言葉が過ぎますわよ、モーリス様。公爵位より下位の方々が多いとはいえ、わたくしの家は貴方と同じ侯爵位です。礼を尽くしなさい。そして……」

「我らは学院の王子であり、風紀取締委員アンゼリカ・オーレル様の非公式ファン倶楽部会員だ!」

「は、はぁ……?」


 その気の抜けた呟きは、果たしてアンゼリカのものか、それともモーリスか。どちらのものであっても、アンゼリカにはどうでもよかった。


 よくよく周囲を見渡せば、アンゼリカを取り囲んでいる子息令嬢たちは伯爵位以下の者たちばかりではない。中には、侯爵位や辺境伯位などの高位貴族の子供も混じっている。


 いやいや、それよりも、だ。非公式ファン倶楽部って、なに。


 確かにアンゼリカは彼らが言うように、ダルタール王立学院で風紀の取締を請け負っている。ついでに、学園の王子様だとかなんだとかと称されて、遠巻きにされていることも知っている。


 アンゼリカの性別は、紛うことなく女である。男装が趣味だとか、男性のように振る舞ったことなど、一度としてない。

 男装は趣味ではないけれど、第一学年時の学園祭の出し物で、騎士の扮装をしたことは、ある。


 心当たりがあるとするならば、風紀取締活動の中で御令嬢を助けたり、剣術の授業で勇ましく剣を振るい成績を上げたり、貴族階級など関係なく平等に礼儀を尽くしたことくらいしかない。


 そのおかげかどうかはわからないけれど、学院の王子と囁かれるアンゼリカは伯爵令嬢にしては目立っているし、ほぼすべての学生に顔を覚えられている。委員会として風紀を取り締まっているのだから、敬遠されていることも知っている。


 知ってはいたのだけれど……まさか、もしかして、遠巻きにされていたのは、近寄らないでおこう、という感情からくるものではなくて、ファン倶楽部がどうだとか、推しがこうとか、認知がアレだとか、そういう話、なの?


 アンゼリカはしばし呆然として、けれどすぐに背筋を伸ばして毅然とした態度を取る。隙を見せては仇となる、と漠然と感じたから。


 そして、横目でチラリとガエルを窺うのも忘れない。ガエルはアンゼリカと違って動揺した気配もなかったから、非公式ファン倶楽部とやらの存在を、はじめから知っていたのかもしれないけれど。


「さて、モーリス殿。貴殿が先程上げたアンゼリカ様の悪行、悪事とやらですが……裏はお取りか?」


 そうして、状況をまだ完全に把握しきれていないアンゼリカを置き去りにして、非公式ファン倶楽部会員たちとモーリスとの討論がはじまった。


「裏? ああ、証拠のことか? そ、れは……お、俺が見て感じたことが証拠だ!」

「なるほど、証拠などないのですね?」


 あれは、モラリス辺境伯の三男か。彼の鋭い指摘にモーリスは思い切り言葉を詰まらせた。


「ぐッ……だが、しかし! 俺は見たのだ、シルヴィアを苛めるアンゼリカの姿を!」

「姿? お姿だけですよね、アンゼリカ様とシルヴィア嬢の会話を聞いていたわけではない。それについては裏が取れています」

「はい、証言いたします。モーリス様がアンゼリカ様とシルヴィア嬢の会話に割りこんだことはなく、我々のようにお声が聞こえる距離で見守っていた、ということはありません」


 今度は、ラングラート伯爵子息と、モラノーツ子爵令嬢だ。

 モラノーツ子爵令嬢は、ちょっと聞き捨てならないことを証言したような気がするのだけれど、この場でそう思っているのはアンゼリカだけらしかった。


 いや、ひとりだけ。アンゼリカと同じ思いをしている人間がいた。モーリスだ。


「な、なにを馬鹿なことを……」

「我々はアンゼリカ様のファン倶楽部ですから。包み隠さずお話しますよ、モーリス様」


 そう、ニヤリと深く微笑んで、モラノーツ子爵令嬢はモーリスの実家との爵位の差などに怯むことなく、どこからともなく一冊の小さなメモ帳を取りだした。乙女のドレスには、あらゆるものを隠しておく宇宙ポケットのようなものが存在するのだ。


 そして、取りだしたメモ帳を何枚かペラペラペラリとめくりながら、記載されているのであろう事柄を読み上げる。


「第一に、アンゼリカ様は学院長から任命された風紀取締委員です。身分など分け隔てなく風紀を取り締まられております。その姿は凛々しくお美しい……はぁ、素晴らしい……」

「ああ、そうだ。学院はオーレル伯爵令嬢に、確かに風紀取締の権限を与えた」


 ちょっと待って、なぜ、経済論担当のトッテム教授まで、証言に参加しているの。モーリスを止めて欲しいくらいなのだけれど!? というアンゼリカの思いは、虚しくも周りの異様な空気に溶けて消えた。


 アンゼリカの周りの非公式ファン倶楽部会員たちは、当然のような顔をして、時には頷きながら、トッテム教授とモラノーツ子爵令嬢の証言を聞いている。


「……と、トッテム先生も証言していただいております。ですから、アンゼリカ様がシルヴィア嬢へ風紀的な指導をなさるのは、なにも問題はありません」

「アンゼリカ様がシルヴィア嬢に、立場をわきまえろ、とおっしゃったとモーリス様は言っていますが、それは事実と異なりますね」


 今度は、ラゼルナリア伯爵令嬢が参戦してきた。彼女も使い古したメモ帳を取りだして読んでいる。


「正しくは、こうです。『平民という立場からよく勉強して学院へ入学を果たしたのですね。ここは貴族の子息令嬢が多く在学しておりますから、立場をわきまえろ、と難癖をつけてくる方々もいます。現に、いらっしゃったかもしれませんが、これからは違います。私が取り締まりますから、遠慮なく相談してくださいね』です。モーリス様の証言内容とは真逆のお言葉です」


 シルヴィアにそんなことを言ったような、ないような。もう2年も前のことだから、アンゼリカは細部なんて覚えていない。


 ラゼルナリア伯爵令嬢のメモが正しいのか、どうか。なんて指摘は、きっと野暮なのだろう。アンゼリカは今のところ、彼ら彼女らを困惑気味に眺めることしかできそうにない。


「次に、アンゼリカ様がシルヴィア嬢のドレスにケチをつけた、とのことですが……」


 モラノーツ子爵令嬢が進行役なのだろうか。彼女がキリリとモーリスを睨みながら話を進めてゆく。


「これは仕方のないことよ。シルヴィアさんが用意されていたドレスというのが、その……肌を露出するようなものでしたから、わたくし達がアンゼリカ様にお願いをして、シルヴィアさんにお話をしていただいたのです。風紀の乱れを防いでいただいて、アンゼリカ様には感謝しておりますのよ」

「我々としても、目のやり場に困るようなドレスでは……その、困るのだ。だからアンゼリカ様の働きには大変感謝している」


 補足説明をしたのは、ダァール侯爵令嬢とモラリス辺境伯家の子息だ。

 この補足は正しい。アンゼリカもよく覚えている。シルヴィアが用意したドレスが、貴族淑女の基準からかなりかけ離れたものだったのだ。


 気合を入れるため、そして自分がどのような者であるかを示すために用意したというシルヴィアのそのドレスは、どこからどう見ても娼婦のものだった。控えめに言うことすらできないくらい、娼婦らしいドレスだったのだ。


「……なんだと? ということは、つまり、お前らがよってたかってシルヴィアを!? あのドレスのどこが不満なんだ! 最高だっただろ!?」


 それまでポカンとしていたモーリスが、シルヴィアのドレスの話になって喰いついた。欲望まるだしである。紳士教育をきちんと受けているのか、と問いただしたい。


 ここまで反応するのなら、もしかしたらモーリスは、あのドレスをなにかのタイミングで見たのかもしれない。あるいは、シルヴィアとふたりきりのときに、着るようせがんだか。


 とにもかくにも、あの破廉恥極まりないドレスをモーリスは気に入った、ということだけは、わかった。大変よく、わかった。

 そんなモーリスに呆れてため息を吐いたのは、アンゼリカだけではない。


「ですから、それは認識が間違っているのです、モーリス様。あのままシルヴィアさんが露出激しいドレスを着てあちこち歩き回っていたら……」

「いずれ不届きなヤカラにどこかへ連れこまれているか、遠巻きにされ続けて学院での友人もできなかったことだろう」

「そうですよ! シルヴィアはちょっと警戒心が薄いから……あのままでは大変なことになっていました!」

「学院の治安を間接的に守っていただいたのだよ、アンゼリカ様にな」


 また新たな参戦者がいた。ヤーマル男爵令嬢だ。彼女の証言を支えるように、リュデュース侯爵子息がモーリスに厳しく告げる。


 同格の、いや、侯爵位の中では天と地ほどの差もあるリュデュース侯爵子息にそう言われ、モーリスは悔しそうに奥歯を噛んでいた。もちろん、天がリュデュース侯爵家、地がコルニアック侯爵家だ。


「それから、アンゼリカ様がシルヴィア嬢を仲間外れにした、とのことですが……」

「そんな事実はありません! そうだとしたら、私はどうなるんですか? 私、シルヴィアの友人ですよ? 一緒に勉強もしますし、お茶だってしています!」


 そうして議題は仲間外れの件に移り、可愛らしい小鳥のような声で、ヤーマル男爵令嬢が勢いよく証言している。どうやらヤーマル男爵令嬢はシルヴィアの友人らしい。


 きちんとしたお嬢さんと友人関係を築けるなんて、と感心しながら、アンゼリカは議論の行く末を見守った。


「先週だって、私はシルヴィアと一緒に王都を散策しましたもの! 来月は私の家でお茶会をすると約束もしています!」

「だがッ! この女が、アンゼリカが、シルヴィアを避けるように命じていたのではないのか!? 風紀取締委員とやらの権限を使って!」

「そのような指示、命令など、受けたことは一度もありませんわ」

「あの……もしかしてモーリス様は知らないのですか? シルヴィアが1日に何回か、ひとりになりたいときがある、って」


 ラゼルナリア伯爵令嬢とヤーマル男爵令嬢が、かわいそうな人を見る目でモーリスを見つめていた。

 同情されたことに気づいたのか。いや、気づいてなどいないモーリスは、動揺を隠しきれずに震えた喉でなんとか声を絞りだす。


「……は? な、なんだ……と?」

「シルヴィアがひとりになりたいときは、私達に教えてくれるのです。アンゼリカ様も私達も、シルヴィアを尊重してひとりの時間を過ごしてもらっていたのですけれど……」


 どうやらモーリスは、いまだ腕に抱いたままのシルヴィアから、なにも聞いていないらしい。

 アンゼリカを訴えるなら、せめて被害者である(とモーリスが思っている)シルヴィアから、証言を取ることくらい、すればいいのに。それもしていない、だなんて。なんて雑すぎるのだ。


「そういうわけで、アンゼリカ様はシルヴィア嬢に対する罪などありはしないのです。わかりましたか、モーリス様」


 進行役らしきモラノーツ子爵令嬢が、そう締めた。モーリスは悔しそうにギリリと奥歯を噛み締めて、壇下の非公式ファン倶楽部の人たちを睨みつけている。

 アンゼリカの存在など、もう、どうでもよくなってしまったかのように。


 そんな状況でアンゼリカは、自分がなにひとつ反論していないというのに、無罪を勝ち取ってしまったかのようで、酷く動揺していた。


(な、なんなの……こんなに多くのひとが私を助けるために……?)


 助けられる理由が、今ひとつ、よくわからない。第一、ファン倶楽部って、なに。なにがよくてファンなんかになってくれたの。


 アンゼリカは学院の風紀を守るための行動しかしていない。

 爵位差や年齢差がある方々にも臆することなく接し、凛とした態度で風紀を取り締まってきた、はずだ。

 どちらかというと疎まれこそすれ、慕われるなんてことは、あり得ない。まったくないだろうに。


 それでも彼ら彼女らは、アンゼリカのためにこうして前にでて声を上げてくれた。客観的な証言だって、してくれたのだ。

 なんて、なんて素晴らしい。ダルタール王立学院の理念を体現しているかのよう。


(いえ、いいえ。感動している場合ではないわ。これ、私のプライベートが侵害されてない? ファン倶楽部会員の皆さま達の証言がやけに詳しすぎない? 大丈夫? これ、頼って大丈夫なやつ?)


 と、我に返ったアンゼリカが聞いたのは、奇しくも似たような考えに至ったらしいモーリスの困惑に満ちた怒声だった。


「……っ、クソ! なんなんだ、なんなんだよ! なんでそんなにアンゼリカとシルヴィアの関係について詳しいんだよ!」

「我らファン倶楽部会員には、『推しの推しは推し』という理論がありますので。こう言い換えても構いません。『推しが推しを推している姿でしか得られない栄養がある』と」


 なにやら至言を言ったかのような達観した様子で、リュデュース侯爵子息がそう告げた。

 ——が。


「いや、意味わからん」


 思わず呟いてしまった、というようにガエルが言った。彼の呟きにアンゼリカは全面的に賛成だ。ほんと、意味わからん。

 アンゼリカは周囲に聞こえないよう声量を落とし、隣のガエルに疑問を投げる。


「……ガエルは知っていたの? あんな倶楽部? があるってこと」

「認識はしていましたよ、お嬢に関することですから」

「もう。忘れているわよ。ちゃんと『様』をつけなさい」

「失礼、お嬢様」

「……ふう。それで、ガエルはファン倶楽部の会員にならなかったの?」

「なる必要が? 毎日朝から晩まで共にいるのに?」


 サラッとなんでもないことのように。あるいは、当たり前のことを告げるように、ガエルはしれっとそう言った。

 確かに、ガエルに言われるまでもない。


「——……それもそうね」


 アンゼリカは事実をただ事実として認めるように、ガエルの言葉に頷いた。

 一方で、モーリスはシルヴィアの腰を抱くというよりは、シルヴィアに捕まってかろうじて立っている、という状態だった。


 自分に興味がまるでなさそうな生意気な婚約者アンゼリカを、婚約者有責で婚約破棄し、日頃の鬱憤を晴らすサンドバッグにしてやろうとしただけなのに、なぜ、こんなことに。どうして自分が、こんなに大勢の人間に責められなければならないのか。


 モーリスの自尊心と虚栄心は、もうボロボロだった。けれどモーリスの頭は、まだしぶとく回り続けていたのである。


「……クッソ、なんなんだよ……。なんなんだよ……アンゼリカのファン倶楽部? 聞いてない、聞いてないぞ……。……は! お、お前ら、それで終わりか、終わりなのか? あとひとつ残っているじゃないか! あの女がシルヴィアに危害を加えた件はどう説明するんだ?」


 と。ひとつだけ残ったシルヴィア傷害事件について、モーリスが嬉々として喚きだした。


「は、は、は! そうだ、そうだ、まだ残っているじゃないか! シルヴィアは傷を負ったんだぞ!? あの芸術的な胸を、あの女が切り裂いたんだ! おい、お前ら。それについては、どう説明するんだ? あ?」


 モーリスが、アンゼリカを取り囲む子息令嬢たちを睨みつけている。問い詰められた子息令嬢たちは、誰も彼もがみな、視線を伏せて言い淀む。


「そ、それは……」

「……それについては、無実であるという証拠も証言も……ないのです」


 モラノーツ子爵令嬢が悔しそうにそう言うと、モーリスが鬼の首を取ったかのように目を爛々と輝かせて、アンゼリカへ言葉の刃を投げつける。


「それ見たことか! やはりな! アンゼリカ、お前がやったんだろ? シルヴィアに嫉妬して、怪我させたんだろ? 俺を虜にするシルヴィアの胸が羨ましくて、お前が切りつけたんだろ? 他のは子供の嫌がらせみたいなやつだが、これだけは違うもんな?」


 モーリス本人は悦に浸って高笑いしているけれど、アンゼリカを責め立てる言葉のチョイスが、なんとも残念極まりない。


「おい、悪女アンゼリカ! 傷害の罪だけは重いぞ!」


 人垣で囲われた中から、ようやくアンゼリカを見つけだせたモーリスは、彼女をビシッと指差して高らかにそう言った。

 指されたアンゼリカは、黙ったまま。


(この件だけは……私も把握していない。私が知らない、ということは、ファン倶楽部の方々も知らない、ということ。あの方々は、あくまでもシルヴィアではなく、私を見守ってくださっているのだから)


 アンゼリカはモーリスに反論する言葉も証拠も、持っていなかったのだ。ファン倶楽部会員たちのストーカーまがいの行動を、うっかり肯定してしまう程にアンゼリカは動揺していた。


 アンゼリカは自分がやっていない、ということを、よくわかっている。けれどそれを知るひとは、身内であるガエルしか存在しない。そしてガエルは、アンゼリカに付き従う侍従であり護衛騎士だから、彼の証言は証言と見做されない。


「こんなの、悪魔の証明だわ……」


 シルヴィアが、どうして胸に傷を負っていたのか。は、なんとなくではあるけれどアンゼリカには、わかっている。

 けれど、それを、ここで言ってしまうのは躊躇われた。アンゼリカが持つ、ただの伯爵家の令嬢、という立場でそれを暴露してしまうのは、あまりにも危険だから。


「ふ、ふははは! さすがのお前でも、その取り巻き達も、傷害の罪だけは覆せないようだな!」


 モーリスはひとしきり笑うと、抱いていたシルヴィアを解放し、不法占拠していた壇上を降りた。そして、アンゼリカの非公式ファン倶楽部の会員たちを掻き分けて、彼女の前へ。

 そして、おもむろにアンゼリカの腕を掴むと、


「ふんッ、悪女め来い!」

「な、なにを……?」

「お嬢……ッ様!」


 モーリスは力任せにアンゼリカを引き摺って、ホールの出口へ向かいだした。

 あまりのことに、一瞬固まってしまったガエルだったけれど、すぐに我に返ってアンゼリカとモーリスの後を追う。


「俺が直々に神殿まで連行してやる! 神殿で祭司長に引き渡してやるから覚悟しろ! ……クソッ、馬鹿にしやがって! ザマァみろ!」


 アンゼリカを無理矢理引き摺りながら、モーリスは次から次へと悪態を吐いている。けれどアンゼリカも、ただ引き摺られているわけじゃない。


 必死に抵抗してはいるものの、モーリスの力が強いのだ。そして、追ってきたガエルが簡単に手をだせないように、モーリスはホールに飾られた装飾品や、卒業パーティー用に並べられた軽食の皿などを、ガシャガシャンと派手に薙ぎ倒しながら歩いているから、厄介だ。


 そうして憎々しげに歪んだモーリスの顔がアンゼリカを見やるたび、アンゼリカは心の奥の、あるいは心臓の裏側が、ヒュッと萎んで縮こまるような感覚を味わった。怖い。とても、怖かった。


「クソ、クソ! お前、俺を嵌めようとしやがって! なんなんだよファン倶楽部って! お前の取り巻きだろ? 引っこむよう指示しろよ! それともあの男の手下なのか? クソッ、あの男と結ばれるために仕組んだんだろ? そうなんだろ!?」

「……あの男……とは?」

「あの男はあの男だ! お前の護衛騎士だよ!」


 そう叫んだモーリスの言葉にアンゼリカは、はぁ? と思わず聞き返しそうになって、どうにか堪える。


(私が、ガエルと? 一体、なんの根拠があって……くだらない、くだらなすぎる。ガエルは護衛で侍従なのよ。私の半身に近い存在。結ばれるとかどうだとか、そんなこと、ありえない)


 アンゼリカの理論は、こうだ。自分自身とは決して結ばれることはできない。だから、半身であるガエルとも結ばれることはない、なぜなら、ガエルは自分自身なのだから、というトンデモ理論だ。


 それに気づいていないアンゼリカは、素でモーリスを嫌悪した。この男は一体、なにを言いだすんだ、と。

 そうこうしていると、ガエルに続いて我に返ったリュデュース侯爵子息が、


「行かせてなるものか! お前たち、ホールの出口を押さえろ! 誰か、学院長様を早く呼んで来てくれ!」


 と。アンゼリカのファン倶楽部会員たちに支持を飛ばしはじめた。幾人かはバタバタとホールの外へ向かい、また幾人かはホール内がこれ以上荒れないように、装飾品や食器などをモーリスの進路上から撤去しはじめた。


 ホール内は、もう、カオスだ。混乱と混沌とが入り混じり、パーティーどころではなくなっている。

 ——すると、そこへ、ひとりの美しき淑女があらわれた。


「この騒動、学院長に代わってわたくしが預からせていただきますわ」


 しっとりとした黒ベルベットのジャケット、光沢が麗しい黒絹のドレススーツ。首元や手、スカートから覗く脚は、黒レースに覆われていて、上品な雰囲気の中に大人の色気が隠れている。


 髪も目も黒い。だから、赤いくちびるが際立って見える。泣きぼくろと垂れた目、長くカールした睫毛が婀娜っぽい。

 爪先に塗られた深紅のマニキュアが透ける様が、なんともいえない妖艶さを含んでもいた。


「あれは……嘘……っ、こんな間近でお目にかかれるなんて……」

「はぁ……素敵……! ウルシュラ様……」

「ウルシュラ様……麗しい……なんて洗練された上品な佇まい……一生推せる……」


 騒めく学生たちの中から、夢見るようなため息と黄色い悲鳴とが上がりだす。

 あらわれたのは、高級娼館『胡蝶と竜胆』の一番人気である高級娼婦ウルシュラだった。


「その前に……シルヴィア。まったく貴女ときたら……贈られたドレスを馬鹿正直に着てくるなど、少しは考えなさい! いいですか、わたくし達は選ばれるのではなく、わたくし達が選ぶのです。何度も教えたでしょう?」


 ウルシュラは壇上に取り残されてあたふたしているシルヴィアを、キツく叱りつけた。叱られてオロオロするシルヴィアが、モーリスに捕われたアンゼリカをジッと見ている。


 寄る眉根に、アンゼリカになにかを訴えているような意思が籠った薄青の瞳。

 アンゼリカは、ひとつ息を吐いてから、シルヴィアへ向かって2度目のハンドサインを送った。


(いいわ。もう話していいわ)


 シルヴィアは、彼女への1度目のハンドサインで、大人しく口を閉じていなさい、と指示されてから、ずっと忠実に口を閉ざして待っていたのだ。


「モーリス様、アンゼリカ様を放してください。わたしの大事なひとを、早く放して!」


 シルヴィアは開口一番にそう叫んだ。その声の厳しさは、シルヴィアの聖女のような、お姫様のようなふわふわとした外見とは真逆の冷たさと怒り、モーリスに対する拒絶の意思で満ち溢れている。


 シルヴィアの豹変——少なくともモーリスにはそう見えた——に、モーリスが思わずといったようにアンゼリカから手を放す。

 解放されたアンゼリカは駆け寄ってきたガエルに抱きとめられ、壇上のシルヴィアは露出激しい胸元を腕で抱くように隠しながら、ウルシュラに謝った。


「ごめんなさい、ウルシュラお姉様……今朝、突然コルニアック侯爵家の馬車が迎えにきてきて、モーリス様に拉致されるようにして連れて行かれてしまったのです」

「そう……。それは怖かったことでしょう。シルヴィア、こちらへおいで。そのドレスでは寒いでしょうから」


 というウルシュラの言葉に従って、シルヴィアが講壇から降りる。アンゼリカはホッと胸を撫で下ろしながら、ガエルとともにその様子を見守った。


 あんな格好をさせられて、大勢の学生の視線に晒されていたシルヴィアをアンゼリカは気の毒に思っていたのだ。いわばシルヴィアは、モーリスの被害者であるのだから。


 そのモーリスは、というと。シルヴィアの豹変とウルシュラの登場で混乱しているのか、目を白黒させて彼女たちの顔を交互に見ている。


 そんなモーリスに、ウルシュラが優しく笑いかけた。赤いくちびるで弧を描き、頬は緩んで笑っている。けれど、目だけは。ウルシュラの黒曜石のような目だけは、まったくこれっぽっちも笑っていなかった。


「ふふ、ごめんなさいね。話の続きをしましょう。ええと……シルヴィアが胸に怪我をしていた話ね?」

「そ、そうだが……な、なぜウルシュラ様がでてくるのですか……?」

「わたくしがシルヴィアの身元請負人にして保護者だからよ。あなた方、高級娼婦がどのようなものか、わかっていますね?」


 ウルシュラが問いかけたのは、学院の生徒たちに、だ。ダルタール王立学院は、学問を学び研究をするだけでなく、国の将来を背負って立つ紳士淑女を養成する学院でもある。


 当然、生徒たちは『胡蝶と竜胆』のような名のある高級娼館が、国の重要な諜報機関のひとつであることを知っている。


「は、はい。外国の要人や国内の高位貴族、王族の方々のお相手をする……」

「ええ、そうよ。それは、つまりね?」

「……政治的な話や国防に関わることも……?」


 表向きは娼婦の仕事も行ってはいるけれど、在館メンバーの多くは国のための工作や諜報活動を行っている。娼婦の仕事のほうだって、身体を使うことは滅多になく、最終手段だ。蓄えた知識や見識、磨いた教養、話術、接待術などを使って相手をすることのほうが中心だから。


「ふふ、どこの誰かは、ここからではわからないけれど、正解よ。皆まで言えないけれど、つまり、わたくし達の仕事というのは、そういうことよ。シルヴィアはわたくし達の仕事で負傷したの」

「……わたくし、達……だと?」

「ええ、そうよ。……あら? もしかして、貴方。気づいていなかったの?」


 モーリスの疑問にウルシュラが目をパチパチパチリと瞬かせ、首を傾げてキョトンとした。その仕草が、なんとも可愛らしくて、アンゼリカもつい、惑わされてしまいそうになる。


 学生たちの何人かは、ウルシュラの魅力にあてられて顔を真っ赤に染めていた。その気持ち、よくわかる。と、心の中でアンゼリカは同意する。


 そうしてウルシュラは、講壇から降りてきたシルヴィアを抱き寄せた。それから着ていたジャケットをシルヴィアに羽織らせると、なにも知らない様子のモーリスに冷たく微笑みかけた。


「シルヴィアは『胡蝶と竜胆』の高級娼婦見習い……わたくしの弟子よ?」

「なん、だって……?」


 モーリスがピシリと固まった。青褪めた顔には冷や汗がうっすら滲んでいる。

 そんなモーリスに追い打ちをかけるかのように、あるいは確実に息の根を止めて仕留めるかのように、アンゼリカから喋ることを解禁されたシルヴィアが早口でまくし立てた。


「ふぅ……まさかモーリス様、わたしが高級娼婦見習いだって、知らなかったのですか!? 嘘でしょう? わたし、言いましたよね? 学院を卒業したら高級娼婦になる、そのために必要な知識や教養、作法を身につけるためにオーレル伯爵様の支援を受けて通っている、と」

「……は? な、なぜそこでアンゼリカの家がでてくるんだ?」

「なぜも、なにも……我が伯爵領の人材支援政策の一環です。シルヴィアはオーレル伯爵領の出身ですから」


 と、アンゼリカが補足をするようにモーリスの疑問に答えると、モーリスは突如として憤慨し、アンゼリカを怒鳴りつけた。


「なんだと!? つまりアンゼリカッ、お前、シルヴィアを娼館に売ったのか!?」

「もー、なんでそうなるんですか! アンゼリカ様はそんなことしません! わたしがウルシュラお姉様に憧れて弟子入りしたんです! オーレル伯爵の人材支援を利用して学院に通えばいい、とアドバイスしてくれたのはアンゼリカ様ですよ!?」


 モーリスの誤解を訂正したのはシルヴィアだ。

 シルヴィアはモーリスがアンゼリカをここまで酷く扱い、暴言を吐く姿をはじめてみた。だからなのか、余計に腹を立ててモーリスに詰め寄る。


「いいですか、モーリス様! なんの権限があってアンゼリカ様を悪く言っているのか知りませんけど、モーリス様はわたしの胸を暴いて、見るだけ見て、触るだけ触って、それでおしまいだったじゃないですか! 怪我してたのに!」

「……ぐッ、それは……そう、だが……」


 シルヴィアの告発に言葉を詰まらせるモーリス。そんなモーリスを令嬢たちだけでなく、子息たちも揃って冷めた目で見つめて囁き合った。


「うわっ、最低……」

「それはない……いくらなんでも……」


 その騒めきは波のようにうねり、ホール中に広がってゆく。自分の力ではこの事態を収束できない、とここではじめて気づいたのだろう、モーリスが涙目になってアンゼリカへ助けを求めた。


「あ、アンゼリカ……! な、なんとかしろ!」

「なんとか……とは? この状況を作りだしたのはモーリス様ではないですか」

「なんだと!? 貴様、それでも俺の婚約者か!?」

「……都合のよい時だけ、婚約者扱いをされましても……そもそもの話、モーリス様は私たちの関係が政略結婚であることを正しく理解されていますか?」


「あ、当たり前だ! 俺の意思を無視した一方的な——」

「そういう話ではありません。私とモーリス様の婚約および婚姻をもって、オーレル伯爵家がコルニアック侯爵家を財政的にも人材的にも支援する、という契約です。婚約が先なのではなく、支援契約が先なのです」


 アンゼリカはモーリスに、ただ事実と真実とを淡々と告げた。

 けれど、侯爵子息で、次期コルニアック侯爵位を継ぐ者であるにも関わらず、恋だか愛だかに浮かされたモーリスは、頭の悪い返答しかできない。


「……は? 俺がオマケみたいなことを言うな!」

「いいえ、違いありませんよ。正直なところ、モーリス様はオマケなのです。別に私は侯爵夫人になどなりたいわけでもないのですが。まあ、モーリス様のことは嫌いではありませんでしたから、侯爵領の皆さまのことを考えてお受けしただけで」


「照れているのか? 俺が好きだと愛していると、正直に言えば可愛げがあるものを……」

「なにを勘違いしていらっしゃるの? 嫌いではないだけで、だからといって、好きだというわけではありません! 婚約者としての正しい振る舞いもできないのですから、好きだとか嫌いだとか、それ以前の話でしょう?」

「な、に……?」


 声を震わせ呟くモーリスは、信じられない言葉を聞いたかのように、目を大きく見開いた。途端にガタガタと震えだすモーリスの身体、歯の根も合わずガチガチと音が鳴っている。


 そんなモーリスに、アンゼリカは一切配慮しなかった。同情なんて、とんでもない。だって、そんなこと。する必要なんて、全然ない。


 モーリスからは一方的に婚約破棄を言い渡され、冤罪での断罪を強行されたのだから。

 だからアンゼリカは、ただ淡々と、冷たい響きを持つ声で、モーリスに告白をした。


「それに、相手を選んで遊ぶなら気になどしません。そこまで狭量ではありませんから。モーリス様が熱を上げているお相手が、私が信頼するシルヴィア嬢でしたから……てっきり、きちんと選んで遊んでいるのだと思っていました」

「……っ、あ、アンゼリカ……」


「だいたい、遊ぶにしても恋愛するにしても、相手の身の上をきちんとお調べなさい! モーリス様には、高い地位につく侯爵家子息である自覚が足りていないのです!」


 そうしてアンゼリカの告白は告発へと変わり、モーリスへ逆婚約破棄を言い渡す。


「明日にでも、不当で一方的な名誉毀損が行われたことを理由に婚約破棄の申請を神殿へ提出いたします。祭司長様に裁かれるのは私ではなく、モーリス様ですよ」

「そ、そんな……ぁ……」


 ガクリ、と肩を落とし膝をつくモーリスを慰める者はなく、いたのは絶望に打ちひしがれるモーリスを連行する者たちだけだった。



 その後、アンゼリカやモーリスがどうなったか、というと。



 アンゼリカやシルヴィアに立て続けに言葉責めされたようなものであるモーリスは、心が折れて一時的に廃人のようになってしまった。

 噂によると、女が怖い、といって王都のコルニアック侯爵邸で引き籠もっているらしい。


 なぜ、王都なのか、というと。

 別の噂によれば、あの断罪(されてしまった)劇で、新たな趣味に目覚めたらしく、秘密倶楽部に通い、女王様やご主人様に罵られているらしい。


 そういう秘密倶楽部は王都に多く、コルニアック侯爵家の領地には存在しないから、というのが、モーリスが王都にとどまる理由、と囁かれている。


 そうしてコルニアック侯爵家の家督は、まだ幼い次男に譲られることとなり、アンゼリカとの婚約は当然破棄。アンゼリカの訴えが神殿に通り、モーリスは祭司長によって裁かれた。


 罰は今時珍しい鞭打ち10回だったらしいけれど、もしかしてこの鞭打ちがモーリスの新たなる道の扉を開けたのではないか、とアンゼリカは時々思う。


 そして、アンゼリカはモーリスから慰謝料をもらう権利を、当然得た。しかしそれはコルニアック侯爵家の支払いではなく、モーリス自身に対して請求されるもので、多分、モーリスは、一生をかけてアンゼリカに慰謝料を支払うことになるだろう。


 モーリス・コルニアックは、社会的地位を失ったのだ。


 アンゼリカの非公式ファン倶楽部の存在については、新年度になってから考えよう、と棚上げ状態ではあるが。



 そして、ある昼下がり。王都のオーレル伯爵邸にて、アンゼリカとシルヴィアはふたりだけの小さなお茶会を開いていた。


「アンゼリカ様……ごめんなさい。わたしが未熟だったから、大変なご迷惑を……アンゼリカ様の婚約者がどれほどのものか見極めるために近づいたら、あんなことに……」

「いやいや、シルヴィア嬢のおかげで、俺のお嬢があんなドスケベ野郎に嫁がなくてよくなったわけなので、謝る必要ないですよ」


 と、給仕の真似事をしているガエルが、嘆くシルヴィアを慰めるような言葉をかけた。なにやらおかしな表現があったようだけれど、この場の誰も、気にしない。


 ガエルが給仕の真似事をしているのは、あの日、数分とはいえモーリスにアンゼリカを奪われたから。その償いとして、お茶会の世話を焼いている。


 なお、ふたりだけのお茶会、といったけれど、給仕は参加者にカウントされないし、ガエルはアンゼリカの半身であるから、やはりふたりだけのお茶会である。


「そうよ、シルヴィア。シルヴィアが未熟だったんじゃないわ、モーリス様の頭が足りなかっただけ。きっと、遅かれ早かれ問題を起こしていたと思うわ。それが、卒業パーティーに起こっただけ。むしろ、結婚する前でよかった。結婚した後だったら、もっと大変だったと思うもの」


 アンゼリカはそう言って、シルヴィアの華奢な手を包むようにして、ぎゅっと握った。さらに安心させるようにニコリと微笑んでみせると、シルヴィアは感極まったように涙を浮かべてこう言った。


「あ、アンゼリカ様……っ、相変わらず寛大なお心で……! シルヴィアは、シルヴィアは一生アンゼリカ様にお仕えします!」

「あらあら。シルヴィア、口調が子供の頃のものに戻っているわよ?」

「あっ……! す、すみませんっ!」


「いいのよ。でも、私に一生仕えるのは駄目よ。貴女には夢があったでしょう? ウルシュラ様のような高級娼婦になって、田舎や辺境の福祉や経済を活性化させることができるような要人を籠絡して、政治にひと噛みするという夢が」


 そう。シルヴィアは意外にも野心家であった。そして腹黒い野望もとい、夢を持っていた。それをアンゼリカが気に入って、ダルタール王立学院へ入学する前からシルヴィアを支援しているのだ。


「アンゼリカ様……っ! たった一度、遠き日にわたしが呟いた夢を覚えて……?」

「当然よ。夢と誇りを持ってオーレル家の扉を叩いたひとの言葉を、私が忘れるはずがないでしょう?」

「あ、あ、あ、アンゼリカ様ぁー!!」


 アンゼリカの優しい言葉に魂が揺さぶられたシルヴィアが、とうとう涙を流して立ち上がり、テーブルの対面の席に着いているアンゼリカの元へ駆け寄って——


「あー、はいはい。ちょっと近いですよ、シルヴィア嬢。お嬢から離れて離れて」


 と。シルヴィアはアンゼリカに抱き着く前に、ガエルによって排除されてしまった。シルヴィアは座っていた椅子にもう一度座らされ、どういうわけか縄でぐるぐる巻きにされている。


 それをしたのは、アンゼリカの護衛騎士であり侍従であり、今は給仕をしているガエル・バローだ。

 シルヴィアは悔しそうにくちびるを噛み締めて、涼しい顔でアンゼリカにお茶を注ぐガエルを睨みつけた。


「ガエル様……相変わらずですね。護衛として頼もしい限りです。ですが、少しくらいアンゼリカ様を堪能させてくれてもいいのでは?」

「駄目です。お嬢が減りますから」

「……アンゼリカ様、ガエル様とはどのようになっているのですか?」


 シルヴィアは、ひやかしや揶揄い目的ではなく、ガエルの子供のような言い訳に呆れてため息を吐きながら、アンゼリカにそう聞いた。


 するとアンゼリカは、美しい紫色の目をパチリパチリと瞬かせ、なんでもないことのように、当然のことを当然だという様に、サラリと言った。


「あら、なにを言っているのシルヴィア? どうもこうもないわ。ガエルは、幼い頃よりずっと、そしてこれから先の未来もずっと、わたしの半身ものなのだから。そして、わたしはわたしを、愛しているの」


 ——と。

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