Epilogue
勤務帰り、やはり空の白む早朝。屋敷へ戻った俺は、疲れた身体を休めたい一心で雨花の眠る寝台へ直行した。寝台はもぬけの殻だった。一瞬はらはらと動悸がしたものの、数日前に言っていた彼女の言葉を思い出す。そうだ、きっと目が覚めたんだ。
そのまま眠ってしまおうかとも頭の端には考えたが、俺の中の何かが警鐘を鳴らしていた。せめて姿だけは確かめようと一階へ戻って、部屋を隅から確かめた。ラバトリー、キッチン、ダイニング。俺の部屋にいることは想像もしなかった。そういう不躾をする彼女じゃあない。またか、と思いながら俺は残された選択、温室に足を運ぶ。欠伸が漏れた。
まだ陽の上る手前、温室の照明も落ちたままで周囲は薄暗い。雨花、と呼びかけても声は返らない。
東屋にすら姿がないのを確認して俺は背を伝う嫌な汗に気づいた。背後を振り返ったところでそれは――転がっていた。水蓮池の淵へ不自然に横たわる女の肢体。雨花だ。うつ伏せに倒れる様子に外傷はないように見えたが、慌てて駆け寄り抱き起こした身体は泥のように重く、また冷え切っていた。
まるで氷塊を抱いたようだ。
「………嘘だろ」
頬を叩いても、意識が戻る気配はない。彼女の胸に耳を当てたところで、ぞくりとした。心音がない。
緊急の処置なんてものは、アカデミアでは取り扱わなかった。俺の手には余る。咄嗟の判断で、彼女の身体を再び横たわらせてエントランスへ走り、電話をかけた。警察か、病院か。迷わず病院を選んでいた。生きていて欲しい、いや生きているんだ、と言い聞かせていた。
雨花が意識を失くしてどのぐらいの時間が経っているのかもわからない。医者へ連絡を繋いで到着するまでの時間は言いようのない苦痛で、彼女の状態を再び目にすることすら恐怖でしかなく、俺は電話機の傍を離れられずにいた。
その後、担架へ乗せられた雨花が彼女の部屋へ運ばれて行くのを横目に、医者の問診さえまともに答えられなかった。不自然に白い肌、唇は青褪めたあの姿。俺は最悪の事態を何処かで感じ取っていた。
医者の発する言葉を理解することを、頭が拒んでいた。すべてへ首を横へ振り、俺は医者の後を追わなかった。間を置かず屋敷へ訪ねて来た警察にも説明が何ひとつできずにいた。屋敷の中を何人もの警官がひっくり返している様子に耐えられず、自分の部屋の隅で耳を塞いで蹲ってやり過ごしていた。
記憶はここで断絶される。
その後のことは、ストップモーションのように途切れ途切れにだけ残る。心神喪失状態の俺は、およそ二週間の間を病院で過ごしたらしい。
バーのマスター・パスピエが見舞いに訪れて握ってくれた手がひどく温かかった、その感触だけをよく覚えている。
雨花は、死んだ。俺のいない間に。
彼女の死因は特定されなかった。というのは恐らく建前だろう。不審死の扱いを受けていたが、外傷は左手首の切創のみ、多量の飲酒で酩酊状態だったということがその意味を物語っていた。
遺書なんてなかった。あって欲しいようで、ないと安心するものでもない。何故、どうして。その理由は誰にも測れない、誰も答えることはできない。ありのままの事実を受け入れることが、どんなに難しいことであるのか。俺は否応にも理解するしかなかった。……きっと、今でさえ理解したつもりでしかないのかも知れない。
死を選ぶほどの何が彼女を揺さぶったのか。
俺のくだらない理想が、雨花を殺したのか。
俺のくだらない欲望が、雨花を苦しめ続けたのか。
憶測は、俺からなけなしの自尊心と万能感を奪って行く。残るのは、ただひとつの事実。雨花は死んだという事実と迫り来る孤独。
ウリンソンが取り仕切ったという葬儀にはついに参列が叶わなかった。墓標に眠る彼女の下へも行けなかった。その資格が自分にあるのか、自問自答の末に俺は受け止められなかった。彼女の死も。彼女の出した答えにも。
すべてが悪い夢のようで。
十七の夏。病院を出たその足で、俺は新居へと移った。あの屋敷にはそれきり、戻っていない。
カラン、と氷塊の融ける音が響く。
カウンターの端へ飾る白百合と、添えた写真を見つめて小さく息を吐いた。
雨花が逝ってもう十五年が経つ。十五年にしてやっと、彼女の墓を訪れることが叶った。
本当に長い時間が掛かってしまった。ウリンソンへのわだかまりを幾ばくか昇華し、生きる意味を見つけられた今でなければ叶わなかっただろうと、やはり思う。
写真の中には生前のマリアと雨花が寄り添い笑顔を湛えている。
「もう、雨花の歳を超してしまったんだな」
老師・パスピエの下で働きながら、その後数年は死んだように暮らしたこと。酒と女に暇がなく、幾人も傷つけて来たこと。悔いることはまだまだ多い。
水蓮を離れ、市民街で自分の店を持てたのはやはりウリンソンの恩恵が大きかった。土地の入札にひと声入ったことを知ったのはつい最近の話だった。
「……これからはちゃんと、逢いに行くよ」
誰にともなくひとりごちてグラスを煽る。
生かされているのだとこの頃は思えるようになっていた。自分ひとりで生きて行けるのだと過信していた子どもの頃の自分。
この咎を背負って、俺は生き続けなければならない。彼女らが愛してくれた、自分自身のためにも。
花は甘く匂い立つ 紺野しぐれ @pipopapo
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