Episode:07

 水商売というのは、どこも割合い人と人の情けによって繋がっている部分が大きい。よく言えばお互い様として助け合うもので、悪く言えば人の心の隙に滑り込んで楔を落とすことで成り立っている。未成年を雇い入れるのに、俺はひとつの恩義を買ったと言える。リスクを負う代わり、それを担って余るだけの利益で返さなければならない。実のところ小さな企業はどこもそういうものなのかも知れないが、俺がそれを学んだ入口が水商売という世界だった、という話だ。

 来歴にウリンソンの話はややこしいと織り交ぜなかったが、母・マリアのことでそれとなくいわくつきであることは知れてしまう。初老のマスターは顎髭を撫ぜて、含み笑いをした。

「……君のような人は、折り合いをつけて生きるのが難しいだろうね」

 それは個人的な感想だったのかも知れないし、あるいは激励だったのかも知れない。が、俺はそれを挑発と捉えた。

 必ず、生き抜いてやる。

 言葉にしないまま、拳を強く握り締めた。

「その足がかりになってみて君の生き様を垣間見るのも一興かも知れないな。決して楽な仕事じゃあないが」

 どうかね、とは視線で訊ねる。

「ぜひ、お願いします」

 無駄な語句は添えない。ただ、頭を下げるだけだった。マスターは口元だけで笑って、来歴書類に判を押した。

 店は二代で築いた三十年来の歴史を持ち、少なからず常連の客を抱えていた。古めかしい作りは真新しさを求める客を寄せ付けないが、馴染みにとっては居心地がいい。ここには、俺のほかもうひとり雇われている。いかにも口の回りそうな女だ。雨花や、マリアのちょうど間に位置するような妙齢の女。口元の黒子が目立ち、濃化粧に相まって何とも怪しさが立つ。不思議だったのは、彼女の眸が碧かったことだ。

「水商売は何も、ロゼリアだけのものじゃないのよ」

 物珍しさを率直に出しすぎてしまったか、初めて顔を合わせたその時に、彼女はそう言って薄く微笑った。自分に自信の満ちた笑みは清々しい。

「リジィよ、よろしく」

 握手を交わそうとして、その手を引かれて抱き寄せられる。なるほど魅惑的な挙動といい、看板娘には似合っていた。

 互いの挨拶の済む頃客が入り、マスターは俺を手招いて「明日から頼む」と裏口から出した。

 ひとまず手前の問題は片付いた。後はとにかく、働いて、働いて、自分の手で居場所を作ろう……。沸き立つ気持ちに顔が緩みそうになるのを堪えて花雪が融けてぬかるむ道を歩いた。

 屋敷の扉を開く手前、深呼吸を繰り返すほどに俺は浮ついていた。雨花はなんて言うだろう。どんな顔をして待っているんだろうか。次々と浮かんでは消える思惑を前に、落ち着け、と何度も言い聞かせる。

 そんなことを繰り返して指先まで冷えた頃、俺は屋敷の中へ戻った。人気がせず、静まり返っている。そうすると、途端に胸が騒いで屋敷中を捜し回らずにはおられなかった。

 一階、二階を早足で歩き回って、自室の窓から外を覗いた時にようやく雨花の姿を見つけることができた。温室だ。夜間灯へ切り替わってほの暗いそこへ、ランタンの灯が揺れて見える。俺は急いで温室に回った。

「雨花、捜したんだぜ、俺」

 雨花はランタンを円卓へ置いて、ちょうど東屋のソファへ腰かけたばかりという態だった。レース編みの針と糸玉を膝上に乗せている。

 俺は隣へ腰かけて、雨花の両肩をぎゅっと抱いた。

 腕の中の感触を確かめてようやく、胸を休めることができた。

「おかえりなさい。そんなに不安がることがあって?」

「もう俺には、雨花しかいないからさ。やっぱり、こんな無駄に広い屋敷早く出よ。今度の休みに一緒に不動産屋に付き合ってよ」

「今度の休み?」

 雨花の不思議そうな顔に、俺は微笑いかける。俺が口を開くその前に彼女はその意味することを理解してゆっくりと表情を変えた。

「決まったんだ。俺、頑張るよ雨花」

「それは………、そうね、お祝いをしなくちゃね」

 一瞬、彼女は口ごもったが、すぐにやさしく微笑んで、肩を抱く俺の腕に手を重ねた。それだけで少し満たされたような気にさせられる。その晩、雨花が振舞う料理はいつもの数段美味く感じられた。雨花との生活を守るためになら、何だってできる気がした。

 食事の後、風呂で湯浴みをしてラバトリーへ出たところ、俺はエントランスの方から聞こえる声に気が付いた。

 あまりよくは聞こえないが、雨花が声を荒げているような気がして、うっすら音を立てないよう用心して扉を開いた。一方的に雨花が話す声だけが聞こえる。来客ではなく電話だろうか。扉の背に佇んで、俺は息を殺した。

「どうしてもお取次ぎいただけないのでしょうか。……ですが、わたしはあの方に雇っていただいている身分です、今後の身の振り方は旦那さまにも一存をいただく必要が。………」

 会話の途中に関わらず、妙な間の後に受話器を置く音が聞こえた。電話は一方的に切られたらしい。一端ではあったものの、ウリンソンへの取次ぎを望んだが絶縁を理由にかあしらわれたことがなんとなくわかる。俺は、まだ生乾きの髪に構わずラバトリーを出、項垂れる雨花の腕を取った。

「放っておけばいいだろ、ウリンソンのことなんて。アイツとこれ以上何を話そうって言うんだ」

 雨花は目を合わせようとしない。眉を寄せる表情は苦痛を堪えるようで、俺はそんな表情をする理由がわからず腹を立てた。雨花の両頬へ手を添えて、強引に視線を合わせる。彼女の真紅が動揺するように揺れた。

「そんなに、あの男に支配されていたい? 雨花、この間アイツの前で言っただろ。俺が成人するまでは、って。アイツが与えた選択肢をあの時取らなかったのは、雨花が自分でそれを選び取ったからだろ。……今更、遅すぎる」

 畳みかけるようにして言葉にしながら、裏腹心は逸る。雨花がここを、俺の傍を離れたがっているのじゃあないかと考えると、気が気じゃなかった。

「……話がしたかったのよ、どうしても」

 それはまるで、女の言葉だった。ひとりの侍従としてではなく。離れた恋人を恋うような響きだと、俺は感じた。

「紅眼の女孕ませといて体裁が悪いからって本妻を娶った上で囲うような男の何がいいんだか。俺には理解できないよ、雨花。まったく真摯じゃないじゃないか、あまつさえ本妻の体裁を守るためにまた子どもこさえてるんじゃないか。……それでもあの男を紳士的だなんて言えるか? 罪滅ぼしの道具にされているだけじゃないか、俺も、雨花も」

「…………」

 雨花はそんなことない、と言いたげだった。今にもまた、以前のように「彼を侮辱することは許さない」と口にしそうだ。俺はそれを厭って先に言葉の出処を奪った。

 久しぶりの感触に、状況を無視して酔わせられそうになる。それほど彼女の唇は心地がいい。すぐに、身体中に血が巡るのがわかった。沸騰しそうだ。舌先を捩じ込もうとして閉じる歯に触れる。ぎゅっ、と雨花が俺の胸元の、絹の上衣を掴んだ。わずかに拒むような仕草も、少しの強引さを交えれば容易く崩れる。

 相変わらず、押しに弱い女だった。……というより、彼女はきっと流されたがっているのだと、俺はある種の確信があった。彼女はあまりにも不安定で、揺らぎすぎる。

 上顎をなぞってびくりと彼女が身を震わせるのを堪能してから唇を離した。肩で浅く呼吸を繰り返す雨花の眸は薄く水が張ったように潤んでいる。

「……もうあの男は雨花の旦那さまなんかじゃないぜ。雨花が望まなくても。来いよ、支えが欲しいんだろ」

「待って、お願い」

「待たない。わからずやの雨花は、強引にでも支配されなきゃわからないんだろ。どんな眸でそんなこと言うのか、見せてやって教えなきゃわからないんだ」

 細腕を引いて歩けば、つまづきそうによろよろと後ろに続く。泣き出しそうに真紅を揺らす表情は、きっと俺じゃなくても男ならそこに凶暴性を掻き立てられただろう。手酷く扱ってみたい、そんな歪んだ欲がひたひたと心には満ちていた。階段を上って、あの日と同じように俺は雨花の部屋へ踏み込んだ。

 彼女を鏡台の前に立たせて、その背を包むように腰を抱く。鏡が映す真紅が語りかけるみたいに、蕩けた色艶を帯びて行く。

「前に俺に言ったよね、雨花を抱くことをアイツへの復讐にするのか、って。どうしてそんなこと言うのか、あの時の俺にはわからなかった。でも、気づいた」

「……いや」

 絞り出すようなか細い声には構わない。

「雨花こそ、俺にアイツを見出してたんだろう? そんな瞬間が一度もなかったなんて言えるか? 言えないよな、その眸が証拠だ」

「やめてちょうだい」

 頭を振れば、はらりと雫が筋を作って零れた。

 その涙を、舌先で軽く掬って鏡の中の彼女に向け、俺は微笑んだ。

「認めればいいだけだよ。誰が咎める? 拘っているのは初めから、雨花だけだぜ。……俺はさ、覚悟を決めたよ。アイツの影を重ねられても構わない。雨花が傍にいてくれるのなら。いつかアイツを、上書けるって信じられるから」

 項へ鼻先を擦りつけて、百合の香を胸深く吸い込む。すすり泣くような声が小さく聞こえるけれど、もう俺は躊躇わなかった。

 寝台へ彼女を押しつけ、腰を抱えるように抱いて熱を穿つ。

 嗚咽が熱っぽい吐息へ変わるのに時間はかからなかった。夢中の傍ら、頭の芯で冷静な俺がロゼリアなんてそんなものだ、と嘲う。結局、高潔に見える彼女も惚れた男の面影の前にはただの女に成り下がるのだと。

 その日から、雨花は俺に対して従順な態度を示すようになった。俺を恐れていたのかも知れないし、俺の思惑通り、あの男でなくとも自分を支配してくれる男なら誰でもよかったのかも知れない。

 淑女のように甲斐甲斐しい振舞いは変わらずも、俺に対して母親のように振舞うことはもうなかった。調子づいた俺は、好きな時に好きなように彼女を扱った。時にはあの男を模したようにやさしく、またあるいは荒々しく感情の捌け口にするように。

 雨花は不思議と、回数を重ねるごとに艶を増して行った。狂い咲きの花は色も香りも、人を酔わせるに容易い。噎せ返るような女の香が、俺を捉えて離さなかった。何度も、何度も繰り返し飽きもしないで肌を合わせた。節理も倫理も、何もかもがどうでもよくなって行った。

 孕めばいいとすら、考えるほどに。

 勤務を終える頃には空が白む昼夜逆転の生活は、雨花と若干の生活のズレを許容しなければならない。俺が屋敷を空ける夜間を彼女がどのように過ごしているのかが気掛かりではあった。

 雨花の寝台で薬瓶を見つけたのはいつだったか。彼女は眠剤だと言ってきかなかったけれど、薬の名前は語らなかった。またある時は、飲まなかったアルコールと、手に入れた薬を口にして眠ろうとするのを間近で見た。当然、咎める。彼女は、夢現のような微睡む顔で微笑うばかり。俺のいない間にも服用を続けていたんだろうか。   

 彼女の肢体にばかりかまけて、その精神が損なわれていることに気づくのが遅かった。気付いたころには雨花は痩せ細っている。

 俺は、急いで以前ふたりで訪れた不動産へ足を運び、即決で部屋の鍵を手に入れた。

 水蓮市の南端、職場からは離れていたが、この屋敷からも薔薇庭からも距離がある中流層の住宅地。

 雨花が病むのは、この屋敷にいるせいだと俺は一方的に考えていた。

 マリアと、ウリンソンへの背徳。

 俺の中にもなくはない感情だ。決定的に違うのは、俺自身はその背徳を悦に変えてしまえるということ。

 雨花も当然同じように感じているだろうと俺は信じた。そうでもなければ、艶を帯びる表情を見せたりはしないだろうと。

 屋敷の建具はひとつも持ち出すつもりがなかった。築年数こそ経っていたが、新居の部屋の建具には問題がない。軋む寝台だけを買い替え、そのほかの内装は雨花に任せた。自分の生活を豊かにする環境作りは、少しでも気が紛れるだろうと思ったから。

 実際、カーテンや絨毯の類を仕立屋へ注文を出す雨花の様子は多少違って見えた。

 大丈夫、この屋敷さえ出てしまえば。

 朝方、眠る雨花の横顔を撫ぜながら祈るような気持ちで呟く言葉は空を切る。

「……おかえりなさい」

「起こしたね、ごめん」

 眸を開いた雨花は、ゆっくり頭を振って薄く微笑う。  

 細い腕が伸びて胸に抱き寄せられる。この頃の雨花は、以前からは考えられないほど態度が軟化していた。触れることにすら抵抗を差し挟んだのが嘘のように。

「この頃はよくこの時間に目が覚めるの。階段を上る一段一段の足音で、呼ばれるように目を覚ますのよ」

「もう少し眠ったって構わないだろ、一緒に寝よう」

 シーツを捲って隣へ滑り込む。当たり前のように同じ寝台で寝起きするようになって、早三月が過ぎようとしていた。掻き抱くように背に回る腕。俺にとっては望み通りの関係を築けていたはずだったけれど、雨花は確実に蝕まれている。彼女の百合の香にはいつもアルコールが混じっていた。雨花の理性はきっともうここにはない。

 昼過ぎになると、雨花が起こしにやって来る。その習慣は以前と変わらない。拵えた昼食を摂り、荷造りを進めて、夕刻には屋敷を出た。雨花はひと通りの家事を終えるとピヤノの前に座る。数日中に屋敷を出る手筈だったが、荷造りをしている気配は見られなかった。それを指摘することは簡単だったけれどできないままでいる。   

 雨花を取り巻く雰囲気には、俺にそれを渋らせるだけの何かがあった。

 指先が奏でる音だけが変わらず澄んでいた。

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