四月七日
ninjin
四月七日
心は壊れた。
それはものの見事に、木っ端微塵に、元のカタチが何だったのか分からないくらい、粉々に砕け散った。
僕はその粉々になった小さな小さな欠片を集めながら、その一粒一粒から乱反射される思い出が、様々に飛散するのを必死に掴み取ろうとするのだが、それは僕の思いとは裏腹に、指の間から次々に零れ落ちていく。
涙が出る訳ではない。
ただ、胸の奥が、焼けるように痛く、眉間が熱を帯びるのが分かる。
後悔でもない。
ただ、時間だけがゆっくりと進んで行く・・・。
「何故ですか、どうして、そんなことを仰るの?」
美紗子の哀願するような、涙を瞳一杯に溜めた表情で見詰められると、僕は次の言葉を躊躇ってしまう。
決めていた筈だ。
今日はどうあっても、何が障害になろうとも、決して言葉も思いも翻さないと、決めていたのだ。(いや、「思い」ではなく、「考え」だったろう)
なのにどうだ、そんな目で僕を見ないでくれ。
僕は必至で美紗子から目を逸らそうとするのだが、左の目の端に映る真っ直ぐに僕に向けられた彼女の瞳に戸惑い、そしてその視線が痛くて、思わず胸のポケットからタバコ(誉)を取り出して、それに火を点けてしまう。
耐えられない。間が持たないのだ。
何かを考える風を装っても、実のところ、思考は停止したままだ。
理由なんて説明できない、のだ。
本当のことを言ってしまうと、美紗子は、今以上に食い下がって、僕の傍から離れようとはしないだろう。
今だって、僕は充分に嬉しいのです。
美紗子、君がそんな表情を僕に向け、真剣に僕の言葉を否定しようとしてくれていることが、本当に嬉しくて、切なくて、愛おしくて、そして、どう仕様もなく、哀しくて・・・。
◇
僕の父は、逮捕・投獄こそされなかったものの、所謂『政治思想犯』、国家に仇なす恐れのあるものとして、憲兵から危険視され、取り調べの為に連れて行かれることも日常だった。
僕はそんな父親の元、『非国民』と陰で噂されることへの反発もあり、師範学校卒業後、教師の職に就くことはなく、帝国海軍に志願していた。
米国との開戦から二年が経過し、大本営発表とは裏腹に、戦況が悪化の一途を辿っていることは、僕のような末端の兵員にでも薄々は感じられた。
そして、覚悟もしていた。
皮肉なことに、その覚悟とは、あれほどまでに忌み嫌った父の言葉が切っ掛けだった。
昭和十九年九月。
与えられた休暇で生家に戻った僕に、夕げのあと、父は僕と弟たち二人を前にして、神妙な面持ちで、それでいて声を潜めるでもなく、ハッキリとした口調で切り出した。
『いいか、お前たち。俺の息子たち。お前たちが、もし、戦場に駆り出されるようなことがあれば、俺は身体を張って、命を懸けてでも、それを阻む。なにがあっても、お前たちを、俺の息子たちを、戦争で死なせはしないし、人殺しにもさせない。俺が、お前たちを守る』
家の中とはいえ、僕は、どこかで誰かに聞かれてはいやしないか、そればかりが気になって仕方が無かったが、父は構わず続ける。
『祐一は、海軍に志願して、お国の為にと決意をし、戦う準備も出来ているかもしれないが、お前のその国を思う心意気を否定する気は無い。しかし、だからといって、みすみす我が子を戦場に送り出すことを喜ばしいと思える親がどこにいるというのか』
そこまで言った父は、そこで言葉に詰まり、暫くの間黙り込む。
何とも言えない空気の漂う四畳半の茶の間で、僕ら兄弟三人は、次の父の言葉をかたずを飲んで待ち構えていた。
僕はその後の父の言葉如何によっては、父を罵倒し、帝国海軍の何たるかまでも怒鳴り散らそうと身構えていたのだが、継がれた父の言葉は実に呆気なかった。
『ただ・・・ただ、それだけだ・・・』
起ち上がり、離に向かう父の後ろ姿に、僕は掛ける言葉を失っていた。
その夜、寝所で無邪気に駆逐艦『朝霞』のことを問う弟たちへの応えもおざなりに、父の言葉ばかりが頭の中を反芻するのだった。
そんな父を、家族を、愛する人を守るために、僕は戦うのだろう。恐らくは、そういうことなのだろう。
愛するものを守るために捧げる命であれば、僕は後悔などしない。
そして、皆には、必ず、生き残って欲しい。
◇
幼なじみで、この戦争が終わったら
万が一にも生きて戻れることは無いとの思いと、僅かでも心が揺らいでしまうことへの恐怖心。
帰ることの無い僕を、美紗子、君は待っていてはいけない。
僕は美紗子に敬礼をして、踵を返す。
決して振り向きはしない。
背中に突き刺さる美紗子の声。最後に聞く、美紗子の声。
『ご武運を、お祈りしております。きっと、生きて、お帰りになってください。お待ちして・・・』
僕は振り返らない・・・。
◇
四月七日。
旗艦『大和』から遠く取り残され・・・
敵機からの攻撃・・・
被弾・・・
爆風で吹き飛ばされ、甲板を転げるようにして海に放り出された。
僕は粉々になった何かを、必死で掴み取り、掻き集めようとしていた。
分かっている。
僕の身体はもう、ほんの一寸たりとも動かないことは。
それでも必死に、零れ落ちていくそれを・・・
後悔でもない。
ただ、ゆっくりと、僕の身体は沈んでいく。
了
四月七日 ninjin @airumika
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます