終章 本物は心に残る。
あの日以来、信子さんは毎日製鉄所にやってくる。多分、水穂さんが、一緒にいてくれるからやってくるのだろう。水穂さんにピアノで演奏を聞かせてもらったり、本をよんでもらったり。だんだん彼女も子供らしくあれをやって、これをやってとねだるようになった。水穂さんも、できる限り応じるようにしているが、最近は、其の顔に疲れが見えるようになった。
「水穂さん大丈夫ですか?もし、体がつかれるようなら、眠っても構わないですよ。」
ジョチさんは水穂さんに、そういったのであるが、
「いえ、大丈夫です。大したことはありません。」
水穂さんはそう答えるのであった。
「そうとは限りませんよ。水穂さん、まさかと思いますけど、身分が低いから頼まれたことはなんでも引き受けなければと思っているのではないでしょうね?」
ジョチさんがそう聞くが、水穂さんは答えなかった。
「はあ、図星ですか。いいですか、人に頼まれたことはなんでも引き受けて、自分のことは後回しでは、後で、僕たちは大変な迷惑を被ります。それを忘れないでくださいね。」
ちょっとリーダーというか、統治者らしくジョチさんはそう言ったのであるが、水穂さんは、大丈夫ですとだけ言って、四畳半に戻ってしまった。すぐに信子さんが、おじさん、子犬のワルツを教えて、というのが聞こえてくる。そして、そのとおりに、子犬のワルツが聞こえてくるのだが、なんだか、たどたどしい感じがするのだった。
「困りましたね。」
ジョチさんは一言いった。それをききつけて、やってきた杉ちゃんが、
「なに?一体どうしたの?」
と、彼に聞いた。
「水穂さんのことか?」
「ええ、そうです。今のままでは無理をしすぎなのはわかりますから、確実に倒れるでしょう。」
「そうだねえ。」
杉ちゃんも現状をみとめた。
「だれか、世話係というか、そういう人を雇わなきゃだめだとおもう。」
「それはわかりますが、もう家政婦斡旋所にいくら頼んでもだめですからね。そうすると、頼む所が、どこにもありません。」
ジョチさんの言うとおりでもあった。実際、これまでに家政婦やメイドをお願いしたことは何回もあるが、みんな水穂さんに音を上げて、やめてしまうからだ。
「確かにそうだよね。でも、あの女の子が、毎日毎日来る以上、人が必要なんじゃないの?」
「ええ、それはわかりますよ。彼女が、水穂さんにしか、なつかないことも、また事実ですね。」
何回取り上げても、事実は事実であった。そして、水穂さんの世話をする存在がいないのもまた事実だった。
「こんな時、あのウンディーネみたいな女性に来てもらえたらな。なんで、自殺なんかするんだろ。こうやって、必要になるときは、必ずあるのにな。それを待っている間に、彼女は逝ってしまった。」
杉ちゃんは、杉ちゃんらしくないことをいった。
「そうですね。僕も彼女に手伝ってもらいたいと思うことはあります。」
ジョチさんもいった。
「よく働いてくれましたし、本業ではないとしても、人助けをしてくれましたよ。彼女は。」
「惜しいやつをなくしたな。人間でもなんでもそうだけど、必要な、ときに限って壊れちまったり、亡くなったりする。なんで、世の中こんなふうに、変なんだろう。」
杉ちゃんは、大きなため息をついた。
四畳半では、子犬のワルツが、まだ鳴っている。信子さんが何回もせがんでいるのだ。子供が空気を読まないのは、珍しいことではないが。でも、水穂さんの体が心配だった。
「いずれにしても、ここで話していても、進みません。だめもとでかまわないから、ちょっと斡旋所に相談してみます。」
ジョチさんは決断が早かった。そういう所が、理事長として、尊敬されるところなのだろう。まだ鳴り止まない子犬のワルツを聞きながら、二人は応接室に戻って行った。
一方、蘭は、自宅内でぼんやりしていた。先日まで、杉山春から1日に一度は、規則正しくメールが送られて来ていた。内容は、水穂さんがどうしているのか、病状はどうなのか、などである。それを杉山から毎日送ってきてもらう約束をしていたが、ある日とつぜん、メールが来なくなってしまったのだ。当初は気にしていなかったが、蘭がメールを送ってみると、アドレスが存在しないというエラーが出てしまった。電話番号にかけてみても、現在使われておりませんとでる。電話局に頼もうかと思っていたところ、隣の家の前に、タクシーらしい車が止まる音がした。運転手が車いすをおす音も聞こえる。蘭は杉ちゃんが製鉄所から帰って来たのだとわかって、玄関先に行ってみた。
玄関ドアをあけると、やっぱり杉ちゃんが運転手と世間話をしているのが見えた。
「おーい、杉ちゃん。」
蘭は思わず声をかけてみる。
「杉ちゃん、あの杉山さんはどうしてる?製鉄所に来ているんだろう?」
「杉山?」
杉ちゃんは間延びして答えた。
「ああ、ほら、杉山春さんだ。」
蘭がもう一度いうと、
「ウンディーネは、もうとうの昔に水に帰って、魂を失ったよ。」
杉ちゃんはあっさり答える。
「ということはつまり。」
と、蘭はいった。
「彼女、亡くなったの?」
杉ちゃんは黙って頷いた。
「まあねえ、ウンディーネはいつまでもウンディーネのままさ、人間の形をしていても、やっぱりウンディーネなんだよ。」
「そうだけど。」
蘭は、がっかりした顔でいった。
「でも、悲しくないのかい?彼女には、もうすこし、製鉄所で働いてもらいたかった。」
「しょうがないじゃないか。やっぱりね、ウンディーネが人間とまじわるのは、この上なく、難しいってことさ、パラケルスス先生が言うとおり。」
蘭がそういうと、杉ちゃんはあっさり言った。
「そうですね、」
二人の話を聞いていた運転手が、思わずつぶやく。
「確かに、うちの会社にも、HSPとか、そういうものを持っている社員を雇ったことがありますが、みんなこちらがようやく理解し始めたときに、疲れ果てて、やめていきますからね。それとおなじかな。」
「そうだね。共生、共生と騒がれているが、自分たちがウンディーネと強制的に住めと命令されるか、ウンディーネが一緒に住めるように矯正されるかしないと、できないよ。」
杉ちゃんにそう言われて、運転手は、なるほどと言って、タクシーに戻っていった。
「それにしても杉ちゃん、彼女は本当に亡くなったの?」
蘭はもう一度聞いてみる。
「おう。もう葬儀も済ましたらしいよ。なんでも、墓に入れるのが嫌なので、樹木の肥やしにされちまったようだ。まあ、最期に、彼女が役に立てたのは、それだったのかもしれないね。」
杉ちゃんは、そう蘭に言った。
「じゃあ、お悔やみに行くとか、お線香挙げさせてもらうとか、そういうことは、」
「受け付けてないんだって。きっと彼女の親御さんも、彼女のことは思い出したくないってことじゃないかな。なんとなくわかる気もするよ。彼女のような障害を負っている人物を手放すと、なんとなく、肩の荷が降り立って気にもならないわけではないもの。逆を言えば、そういう人に、自分の人生を盗られていたようなものだから。」
「なんでそんなこと。ご家族であれば、彼女を大事にすると思うけど?」
「いや、家族だからこそ、逝ってくれて肩の荷が降りたこともある。心が病むとどうしても、他人から冷たい視線を浴びることになる。それに、日本では、まだまだ親の責任という意見もつよいでしょ。だから、孤立無援な状態になって、もうその子を殺すしか無いっていう事件があったりもしたんだから。当事者が死ななきゃ解決できなかったという例だってあるだろ。そういうもんなんだよ。僕達もそうだけど、やっぱりねえ。人に迷惑かけ無いと生きていけないという存在は、日本では嫌われるね。日本では、自己主張しないで、人に迷惑をかけないで、なおかつ、世間から幸せだと認めてもらわないと幸せにはなれないね。」
杉ちゃんは、蘭の話にそう説明した。
「そうか。そんな事、できるはずないと思うんだが。そんな完璧に幸せなんて、ありえないだろうが。」
「蘭みたいに、援助している人は、そういうことが言えるの。でも、普通の人は、絶対そう思わないよ。それで、隣の芝生は青いなんて言いふらしてるんだ。だから、日本では、精神障害とか、そういうものが減らないんじゃん。」
「そうだねえ。確かに杉ちゃんの言うとおりかもしれないな。でもさ、僕は、そうかも知れないけど、でも、個人で幸せだと思うことは、いいことなのではないかと思ってるよ。それは、一人一人違うし、個人的に考え方の度合いがあったっていいと思う。それでいいのではないかな。刺青を入れに来るお客さんたち見て、僕はそう思うんだけどな。」
蘭は、杉ちゃんの言葉に考え込むように言った。
「そうだね。そのとおりかもしれない。まあ、蘭みたいな考えの人が、増えてくれれば、もうちょっと、生きやすくなるかもしれないが、いずれにしても、そういう気持ちが持てるか、は、個人の意識次第というところだろうね。」
杉ちゃんは、カラカラと笑った。
「さあ、ご飯にしなくちゃ。食べることが、一番の幸せだ。そう思わないか?」
「そうだね。」
蘭は、もっと幸せの基準があってもいいのではないかと思ったが、杉ちゃんを動かすのは難しいことなので、それはやめておいた。いずれにしても、杉山春さんは、この世の中で生きていくことはできなかったということだ。それは動かせられない事実だが、それでも、蘭は、彼女を簡単に忘れてしまうことは、できないのではないかと思った。単に彼女は、ちゃらんぽらんに生きてきた女性ではない。少なくとも、彼女は、真剣に生きていた女性でもあるのだから。もちろん、杉ちゃんの言う通りウンディーネが、人間と生きていくには非常に難しいこともある。でも、彼女は、それを一生懸命努力していたような気がする。
今西由紀子は、今日も駅で仕事をしていた。岳南鉄道は、富士でも有数のローカル線だ。最近は、富士市民の足ということで利用する人もいるが、このどこか昔を思わせる沿線風景を気に入って、岳南鉄道に乗りたいと行ってくる観光客が増えているのかもしれない。そんなふうに、岳南鉄道は、じわりじわりと乗客を増やしていた。そこがもう少し強調されれば、田舎駅という非難を受けなくて済むかもしれなかった。
「まもなく、各駅停車、岳南江尾行が到着いたします。危ないですから、黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。」
電車が来るたびに、この言葉を繰り返し、駅へ降りてきた人の切符を切る。これが由紀子のすることだった。岳南鉄道の吉原駅は、自動改札機がなかったのだった。その日も、最終電車が、吉原駅に到着した。その中に、車椅子の乗客が一人いたので、由紀子は、車椅子渡り坂を用意して待っていた。電車がやってきて、ドアが開いた。由紀子はすぐに電車とホームの間に車椅子渡り坂を設置した。
「あら、由紀子さん。そういえばこちらで働いていらしたんですよね。」
不意にそう言われて由紀子が乗客の顔を見ると、そこにいたのは蘭だった。
「どうしたんですか。蘭さんこそ、こんなところで。」
由紀子は、蘭の顔を見て思わず言ってしまった。勤務中ではあったけど、そういう事が出てしまうのだ。
「いや、単にギフトショップで、お悔やみの品を買っただけです。あの、杉山春さんが、亡くなったそうで。」
蘭はそう言いながら、由紀子に従って、電車を降りた。
「本当は、彼女の実家に行きたいんですけど、杉ちゃんにどうしてもやめろって言われて。それで、しょうがないから、お悔やみの品だけでも送ろうと思ったんです。」
「そうですか、、、。」
由紀子はそれだけしか言えなかった。とりあえず、蘭が電車を降りて、ホームを移動し、ちゃんと切符を切ってもらっているのかを見届けた。他の客に、東海道線に乗り換えたいのだが、と聞かれて、由紀子はその場を離れなければならなかったが、頭の中は、春が亡くなったことでいっぱいだった。
春は、由紀子が仕事がない限り、彼女にメールやラインなどを送ってきていたし、彼女が現在製鉄所でどんな事をしているのかも緻密に送って来てくれていた。それで由紀子は、彼女が製鉄所でしてきたことも知っている。女の良寛と言われた子供好きな女性を、保育士として、再生させたこと、年増女郎と呼ばれていた女性を、通信制高校へ入れたこと。春の実績は、その2つだった。具体的に彼女が教育機関や保育園に働きかけたわけではないとしても、そういうところに行くように導くことができたのだから、杉山春のしたことは、大きなことであると由紀子は思っている。それが、社会的に高いとか低いとか、そんなことは問題ではないと思う。大事なのは、誰かの心を動かしたことだから。心を動かすのは、実に難しいと言うことを由紀子は知っていた。
そんな春が、亡くなった。つまり、もう彼女はこの世にいないということだ。彼女が、もう少しここにいてくれれば、もっと救われた女性の数も増えたかもしれないのに。本当に、惜しいことをしたと思う。そういうことができる人物が、消えてしまったのだから。
由紀子は、そんな事を考えていた。
少なくとも、駅員をして、のんべんだらりと暮らしている、自分よりは、すごい人なのではないか。
そんな人が、あまりにも早くなくなるなんて。
なんで、世の中は、変なことばかり起きるのだろう。
その次の日も、由紀子は、上の空で仕事をしながら、春のことを思い出していた。ああして几帳面にメールを送って来てくれるだけでも、もしかしたら、すごいことなのかもしれなかった。それがある日、突然来なくなって、由紀子も仕事の忙しさで、メールを見れなかったと自分に言い訳していたが、それでは行けないなと改めて思った。
春の家はどこにあるんだろうと由紀子は思った。富士で多分暮らしていたんだと思うけど、借家とか、アパートにでも暮らしていたんだろうか。そこはどうなったのだろう?春がいなくなってしまったら、当然、そこの大家さんだって、困るだろうに。
でも、由紀子は、想像するしかできなかった。自分だって、仕事もあるし、岳南鉄道という組織に一応属している。そこを、放り投げるわけにはいかない。春のことを、調べていては、仕事ができなくなる。
「それでも。」
由紀子は、電車を見送りながら、一言呟いた。
「春さんはすごいことをしたわ。だって、心に残るような事をしたんだもの。」
周りの人は、そうだよとか、そういうことは誰も言ってくれなかったけど、春がしたことを思い出して由紀子は言った。同時に、もっと彼女を支えて上げればよかったとおもった。彼女だってつらい思いはしていると思うのだ。春が、ひたすらにメールを送ってきたのは、もしかしたらこの富士市で繋がりが欲しいのだと言うことを、示していたのかもしれない。
「ごめんなさい。」
思わず、その言葉が出た。そばにいた、乗客が、駅員さん何をブツブツ呟いているんだと言っているのを聞いて、由紀子は我に返り、すぐに電車を迎える作業に取り掛かった。
数日後。
「本当に、可哀想な女性だな。お悔やみの品を送ることもできないんだから。」
送り返された小包を宅配便の配達員から受け取って、蘭はそうため息を着いた。一応、お悔やみの品として、配達してもらうことにはしたのだが、それはいらないということだろうか、小包は蘭のもとに送り返されてきたのだ。
「春さん、お墓にも入れてもらえなくて、お悔やみもされないで、まるで本当に消えてくれて喜ばれているみたい。本当なら、菩提寺があったり、キリスト教の墓地があったりして、そこに入れてもらえるはずなのに。」
蘭は、一般的な事を言った。
「まあねえ、最近は、墓じまいとか、そういうこともあるじゃないか。」
杉ちゃんがそう言うが、蘭は、それでも、
「なんだか墓友を作ることもできないで、桜の木の下に散骨されたなんて、あとから来る人が、お参りすることも断っているように見える。彼女は、そんなにいらない存在だったんだろうかな?」
と言った。
「まあ、今どきだからな。なんでも、昔のやり方でやればいいっていう時代でもないぜ。それに、今は、墓を維持できない家庭はいっぱいあるし。それなら、しょうがないんじゃないの?」
杉ちゃんはそう言うが、蘭はそう思えなかった。杉ちゃんの言う様に頭を切り替えることができたら、どんなに楽だろうと思うけど、自分にはそのような能力はなさそうだ。
「それでも、彼女を忘れないように、せめて、お線香でも挙げさせてもらうとか、そういうこともできないのは、彼女が可哀想過ぎる気がするよ。こう思っているのは、僕だけじゃないと思うけど。」
「まあなあ。確かに彼女は、すごい実績を残してるからな。でも、なくしたものはいらないものでもあるよ。本物は手に残る。そう思って、彼女を忘れないで行きていくしか無いだろう。」
杉ちゃんにそう言われて蘭は、そうだねえとだけ言った。
「本物は手に残るか。そうじゃなくて、本物は心に残るとしてくれないか。手だって、いずれ失う可能性だってあるわけだから。心であればいつまでも失う可能性は無いよ。」
「なるほどねえ。蘭もたまにはいいこと言う。そのとおりだよな。それで良かったと思うようにしなくちゃね。じゃあ、蘭、ご飯にしよう。」
蘭の目の前に、カレーライスの器が置かれた。蘭は、そうだねと言って、カレーライス用のスプーンを取って、カレーを食べ始めた。自分は、杉ちゃんにこうしてカレーを作ってもらえるのだから、幸せなのかなと思いながら。杉山春さんは、もしかして、カレーを食べて幸せだと思ったことはなかったかもしれない。
蘭たちがそういう事をしている間に、近くのゴミ捨て場では、風が、ゴミ捨て場に捨てられている紙くずなどを巻き上げて、吹いていったのだった。
ウンディーネ 増田朋美 @masubuchi4996
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