楽園へ 7
《ノーザンクロス》を出た後、どの道をどう歩いてきたのか覚えていない。何も思考が浮かんでこないほど、弥琴はひどく叩きのめされていた。何がそんなにショックで、何をそこまで重く受け止めてしまったのか、その一つ一つを紐解き突き詰めていく余力すら今はない。
太陽は既に昇りきり、白青島はどこもかしこも燦々と輝く白い光に満ち溢れている。ふらふらとした足取りで森を抜けた時、陽射しの矢に網膜を容赦なく射抜かれて、弥琴は思わずくらりとよろめいた。
そのまま後ろに傾ぎかけた体が、軽い掌でぽんと支えられる。振り向くと、そこには信哉の姿があった。
「大丈夫?」
それまで何も考えられなかった脳裏に思考が生まれ、弥琴は肩に置かれた彼の手を雑に振り払う。
「触らないで」
弥琴はとぼとぼとした足取りながら、なおも歩を前へ進めようとする。すかさず伸びてきた信哉の手が肩を掴んで制そうとするが、弥琴はそれを先程よりもきつい力で振り払った。
《ノーザンクロス》に一番近い森を出た先は、灰色の石畳が敷き詰められた公園だった。誰もいない、広場と呼ぶには些か狭い気がするそこは、風に揺れる木の葉の音が時折ささやかに響くだけで、眩しい陽気の中でもどこか寂れた印象を強く感じる。
後をついてくる信哉を振り返ることなく、弥琴はおぼつかない足取りで、名も知らぬ公園の向こうへ行こうとする。
「おい、どこへ行くんだ」
「ついてこないで。一人になりたいって言ったでしょ」
「足下ふらついてるぞ。一人になるのはいいが、慣れない場所へ一人で行っても」
「いいからほっといて。あなたには関係ない」
「関係なくはないぞ。俺たちは」
そう言いながらまたしても肩を掴んできた信哉の手を、弥琴は立ち止まって振り返るなり、埃を払うよりも乱暴な手つきでぱんと払いのけた。
「お願いだからほっといて!」
無意識に荒っぽい声が口から飛び出して、弥琴は自分のことながらびくりと竦んでしまう。しかし、それが今まで堰き止めていた理性を壊す波と化し、どっと溢れた感情がコントロールできなくなった。
「一人になりたいって言ったよね。なのに何で追ってくるの。必要ないでしょ。そうよ、慶人って子が言ったとおりよ。あたしはあなたたちのことが怖いわ。正直とても気持ち悪いし、仲間だなんて言われても無理。超能力を持ってるんですっていきなり言われても、そんなの一つも持ってないあたしが、そうですかって理解できるわけないでしょう。勝手なの、この島の人たちはみんな。あたしの気持ちなんてお構いなしで、勝手にそっちの思惑だけでどんどん進めていって。あたしは一度も分かりましたなんて言ってないし、大体まだこの島に連れてこられたこと自体、納得もしてないの。今更帰る場所なんてどこにもない? そんなの知らない。あたしは今すぐ帰りたい。こんなとこいたくない。あたしはそもそも、ここに来たくて来たわけじゃないの。攫われてきたも同然よ。なのに、何で次から次に、いろんな人がいろんなこと言うの。蔑まれるわ、貶められるわ、殺されかけるわ、やることなすこと全部めちゃくちゃじゃない。その上今度は、超能力集団の一員になって暮らせって? 訳分かんない。あたしは帰りたいの。今すぐ地元に帰りたい。知ってる人たちがいる中で暮らしたい。こんなとこにはいたくない。いたくないの!」
呼吸も置かずにひたすら叫んで、脳が酸欠になって頼りなくぐらついた。気付けば眦に涙が滲んで、乱れに乱れた息遣いがさらに整わなくなる。
こんなにも荒々しい感情の波に呑まれたことが、今までにあっただろうか。どれだけ言葉をぶつけても、胸の嵐は収まることを知らない。発熱したわけでもないのに、全身がこうも震えることがあるのかと、弥琴は変に感慨深く思った。
「お願い、一人にして。今は誰の顔も見たくないの。こっちの事情も知らない人間に慰められると余計に腹が立つ。お願い、追ってこないで」
固く刺々しい言葉の奔流を、眉一つ動かさずに受け止めた信哉をきっと睨みつけると、弥琴は今度こそ振り返らずに、よろめきながらも先を歩いていった。
どれだけの時間、何の考えも持たない頭でふわふわとさまよい、太陽の光をひたすら無防備に浴び続けたのか。
《夏の庭》の奥にある野外劇場《アルデバラン》の裏に、弥琴は膝を抱えて長いこと身を隠していた。
昨夜と同じように、森を抜けた先には陽射しを浴びた芝生が眩しい《夏の庭》があって、その奥には、夜だったためよく見えなかった野外劇場がそびえていた。暗い色をした巨大な岩をいくつも繋ぎ合わせて造られたそれの後ろに回り、明らかに誰も来なさそうな場所だと思った途端、ぴんと張っていた弥琴の両膝から初めて力がすっと抜けた。
頑丈な岩を背凭れにして、弥琴はずるずると滑り落ちるようにしゃがみ込む。眼前にある丸太のフェンスの向こうに広がるのは、見渡すかぎり宝石を溶かし込んだような色をたたえる海原だった。
白波のない深い青を瞳に映した瞬間、最後の最後まで踏ん張ろうとしていた意地までもがなす術なく決壊した。弥琴は両手を地面に突き、人目を憚ることなく大声で泣いた。
昨日あれだけ何度も泣いたというのに、涙はまだ少しも涸れていなかったらしい。悲しみ。怒り。絶望。困惑。言葉ではとても表しきれない、自分だけではどうにも扱いきれない感情が、いくつも胸の中を暴れ回っては、網膜と声帯を焼き焦がす勢いで放たれていく。
こんなにも痛い気持ちは知らなかった。なぜやどうしてといった言葉で説明できない事柄が、この世にあるなんて思ってもみなかった。感情は叫びと化して声帯を掻き乱し、涙は目や耳に鋭い痛みを走らせてもなお止まることがない。感情が凪いでくる頃を待っていたら、きっと体の中の水分はからからに涸れ果てて、風に飛ばされるほど軽い抜け殻だけが残る未来が待っている。そんな戯言を信じてしまいそうになるほど、涙も声も全身を芯から揺さぶり震わせ続けるばかりだった。
体や感覚から時間という概念が消え失せるほどの長い間、弥琴はその場でずっとただ泣き続けていた。ある時にふとゆっくり目を開くと、弥琴は手入れがあまり行き届いていない芝生の上に横たわっていて、真上にあったはずの太陽がゆっくりと西へ傾き始めていた。
少し前は紺碧だったはずの海が、波間に薄い橙を宿しているのを目の当たりにし、弥琴はぎょっとして起き上がる。すると全身を鈍い痛みが突き抜けて、思わず呻きながら背後の岩に凭れかかった。
意識がはっきり戻ってきた頃、弥琴は己の胸辺りに、自分のものではないブレザーがずり落ちてきていることに気が付く。そして、訝りながらついと横に視線を滑らせ、少し離れた位置に信哉が座っていることに、飛び上がらん勢いで驚いた。
「起きた?」
弥琴は反射的にブレザーを握ったまま身構える。
「そんなに構えなくても、別に何も言わないし何もしないよ。風邪を引かないか、熱中症にならないか心配してただけ。それ、返してくれる? 俺のことが嫌なら、俺はそれを受け取ったらすぐに去る」
ぶっきらぼうではあるが、信哉の瞳は険のない穏やかなものだった。そこで弥琴は、彼がすぐ傍にいた理由にようやっと思い至る。信哉はきっと、弥琴が立ち去ってからも気付かれないよう後を追って、ずっと陰から見守ってくれていたのだ。声をかけたり気配を発することはしないが、周囲には誰もいないと思い込んでいる弥琴の身に万が一の何かがあった場合だけ、すぐに出ていって対処できるように。
「いい。別に、去らなくて……いい」
その目をまっすぐ見返すだけの勇気がなくて、弥琴はつい顔を背けて、聞き取れないほどの小ささで呟く。しかし信哉の耳には確かに届いたらしく、それまで硬さを纏っていた彼の空気がふいに和らいだ。
「……あたし、どれぐらいここにいた?」
「さあな。忘れた、そんな些末なことは」
「もしかして、ずっと傍にいてくれたの?」
「念のため。あくまで俺の自己満足だ。気に入らなければそう言ってくれていい。次からはしない」
「そんなことない。……ありがとう。あと、ごめんなさい」
「何が?」
「さっき、森であなたにひどいことを言った」
「気にしてない。忘れろ」
「でも」
「覚えておく価値もない。少なくとも、俺は全く気に留めていない。だから忘れろ」
信哉は弥琴の手からブレザーを受け取ると、袖を少しだけ捲ってラフに着崩す。弥琴は服についた芝生や木の葉を軽く払うと、長い時間同じ体勢だったせいで若干の痺れが残る膝を抱いた。
薄く眩しい夕陽にきらきらと輝く海原が視界いっぱいに広がる。島影や船影が一つも見えない海は、こんなにも広く美しいものだったのか。この島ではきっと、そんな姿を至るところから眺めることができる。そしてその海は、本州ではまず見られない色や深さ、輝きや透明度を秘めて常にこの島を抱いているのだ。
いたくないと思う島から眺める海の色が、ぱっくりと開いた心の傷をゆっくりと塞いでいく。まるで憐れみや慈悲のようだと思ったが、よくよく考えてみると少し違う気がする。あえて言葉でたとえるなら、慰めが一番近いかもしれない。
「俺も、帰る場所はもうないんだ」
何の前触れもなく、海に視線を向けたままの信哉が語り出した。
「俺はもう、それを悲しいとも思わない。帰る場所がほしいと願ったことすら一度もないよ。だけど、だからといって虚しさを少しも感じないわけじゃないんだ」
誰に聞かせるでもない軽やかさで、信哉の独白は風に乗って空へ消える。弥琴はその軌跡を追うように、初めて信哉の横顔を静かに見つめた。
「泣きたい時は泣けばいい。感情を堪える必要はない。気持ちの整理なんて、すぐにつかなくて当たり前なんだ。だけど、これだけは忘れるな。弥琴は確かに一人で白青島に連れてこられたけど、この先もずっと一人っていうわけじゃない。俺たちがいる。俺たちは、弥琴を決して一人にはしない。寂しいと思うことがあっても、それを笑うことなんて絶対にないよ」
「……あたしは、あなたたちとは違うのに?」
そう言ってしまって、弥琴ははっと息を呑む。また考えもなしに、彼にとって残酷な言葉を発してしまった。あれだけ乱暴に突き放しても離れることをしなかった信哉を、試すような言葉遣いをまだ無意識にしてしまう。
「弥琴は俺たちが怖いかもしれないけど、俺は弥琴を、一線を画した存在とは思ってないよ」
信哉はそんな優しい言葉を、何の衒いもなく弥琴にくれた。そこに偽善めいた不自然さが滲んでいないことが、罪悪感にちりちりと刺される弥琴の心をさりげなく救う。
「無理に分かる必要はない。今はただ、一人じゃないことに慣れていってくれたら。さあ、帰ろうか」
「どこへ?」
「俺たちの寮へ」
信哉はすくっと立ち上がると、見上げてくる弥琴に片手を差し伸べた。
「帰る場所がないなら作ればいい。俺たちが作った弥琴の居場所が、今日から弥琴の帰ってくる場所だ」
見上げる信哉の横顔が、橙の夕陽に僅かだけ隠される。夕暮れ時の清かな風が髪を揺らし、弥琴はその涼やかさに背を押されるようにして、そっと伸ばした手で信哉のそれを握り返した。
二人はゆっくりとしたスピードで、暮れなずむ海がよく見渡せる《夏の庭》の端の遊歩道を歩いた。
人目につかないあの場所で、いつから一人で泣いていたのか思い出せない。体の水分を出し切る勢いで泣き叫んだせいか、喉はからからで声帯がひりひりと痛く、瞼は腫れ上がっていてまだ熱っぽい。自覚もなく途中で眠ってしまったせいか、弥琴の中では時間経過の感覚が恐ろしく皆無だった。一生分の涙を一度に流してしまったのならきっと、こんな風に空虚な気持ちになるのも無理はない。そんな感慨に浸るだけの余裕が、先程辺りからようやっと戻ってきていた。
「弥琴は海が好きなのか?」
「え?」
「さっきから、横目にずっと見てるから」
信哉に指摘されるまで意識していなかった弥琴は、知らなかった自分を見抜かれたような気がして戸惑う。だが、間違っているわけではなかったので、少しの逡巡の後、こくりと素直に首肯した。
「好きかって訊かれると、正直よく分からない。あたしが住んでた街には海がなくて、身近じゃなかったから珍しいだけなのかも。……ううん。だけど、本当はそれだけじゃないの。どう言っていいかよく分からないけど、この島に初めて立った時もそうだった。何だかすごく、目が離せないの。自分の中の何かが、ひどくざわめく感じ」
「南のほうに来た経験は? 旅行とか、学校の行事とかで」
「ううん、一度も。今回が初めてなの」
「じゃあ、写真やテレビでしか見たことなかった海の色を、初めて間近に見たからとか?」
「最初はそうなのかなと思った。単純に、ものすごく綺麗だから圧倒されてるのかなって。でも、よくよく考えてみるとやっぱり違う。綺麗とか感動とか、圧倒的とか、そんな言葉じゃとてもじゃないけど片付けられない。じゃあ何って言われたら困るけど、しいて言うとするならきっと」
懐かしさに一番よく似ている。そう先を紡ごうとした時、信哉の足がふいに止まって、
「菜子さん」
弥琴は海から目を離して前を見た。二人が歩く先から、手荷物を一つも持たずに歩いてくる菜子と目が合う。
菜子は弥琴と信哉に気付くと、立ち止まって深々と一礼した。
「こんにちは、信哉様、弥琴様」
「どうも。珍しいですね、こんなところで会うなんて」
「先程、所用で少し《ノーザンクロス》寮を訪ねたのですが、生憎と弥琴様は出掛けられているとのことで、茉里様に言付けをお願いして失礼した次第だったのです」
「そうだったんですか」
信哉は菜子と話すことに慣れているらしく、二人のやりとりはとても自然なものだった。菜子は昨日と変わらぬいでたちをしていて、どうやらそのメイド服は彼女にとっての制服らしいと、弥琴は頭の片隅でぼんやりと思う。
「はい。では、わたくしはこれで」
「ああ、呼び止めてすみません。俺らも寮に戻ります」
菜子は二人に恭しく一礼し、無駄のない足取りでその横を通り過ぎていく。信哉も再び歩き出すが、弥琴がその場で固まったまま動かないことに気付いて振り向いた。
「弥琴?」
立ち尽くしていた弥琴は、信哉に呼びかけられてはっと我に返る。そして、遠ざかっていく菜子の背中を慌てて呼び止めた。
「菜子さん!」
菜子の足取りがぴたりと止まり、ゆるりと振り返った瞳が弥琴を捉える。弥琴の真意を図りかねた信哉はやや戸惑っていたが、彼女が醸す張り詰めた空気を読み取ったのか、余計な言葉をかけることはしなかった。
からりと吹き抜ける風が、涙が乾いた後の頬をざらりと撫でる。弥琴は意を決すように息を吸うと、
「訊きたいことがあるんです」
この言葉を吐き出すのに、自分でも予想以上に勇気がいった。
綺麗や感動、圧倒的といった言葉ではない。むしろ、懐かしさに一番よく似ている。そんな思いに辿り着いた瞬間、弥琴の中で唐突に生まれた確信があった。確かな証があるわけではない。だけど、間違っているとは思えない。衝動とも言うべき勢いで弾けた答えが、今の弥琴を突き動かしていた。
何も言わず、ただじっと次の言葉を待つ菜子に、弥琴は唇が震えてしまわないよう細心の注意を払いながら、白青島に着いた時から抱いていた既視感を言葉に変えた。
「菜子さんは、『青のうた』を知ってますか?」
ほんの一瞬の沈黙なのに、まるで数時間にも及ぶ時が過ぎたかのような錯覚に襲われる。菜子はほんの僅か微笑むようにして頷くと、
「ええ、存じております」
雷に打たれるような衝撃とは、このことを言うのだろうか。弥琴は力を失いよろけそうになる両足で必死に踏ん張った。
「皆が皆、知っているわけではありません。存じているのは、この島でわたくしと晃一様のみ」
「じゃあ、あたしがこの島に連れてこられたのは」
「今はまだ、詳しく申し上げることはできません。晃一様も、それをお望みではありませんから。しかし、『青のうた』はこの島で生まれた。そしてそれが、弥琴様が白青島に導かれた理由の一つであることは、確かな事実でございます」
菜子はそう言い終えると、再び一礼してそのまま去っていった。
遠ざかる後ろ姿が見えなった頃、弥琴は全身から力が抜けてその場にへたり込む。二人のやりとりを見守っていた信哉が、驚いた顔で弥琴の傍に駆け寄ってきた。
「弥琴、大丈夫か」
「だい……じょぶ」
「なわけないだろ。すごい青い顔してるぞ。どうした、立てないのか?」
信哉の言葉がすぐ横から入ってくるのに、それを意味としてよく理解できない。
白青島に到着してから降りかかった出来事や知らされた事実、衝撃を受けた事柄は枚挙にいとまがないが、これほどまでに胸を貫かれたことはなかった。一日と少しの間、この島で遭遇したいくつもの出来事は全て、この事実に打ちのめされるための布石でしかなかったのかもしれない。そう強く信じ込んでしまうほど、弥琴の中でそのショックは大きかった。
『青のうた』、それは弥琴が物心ついた頃に両親から教わった歌だ。
昔から、事あるごとによく泣く子供だった弥琴に、両親は時に慰めや励ましとして、時に子守歌として、『青のうた』を幾度となく歌って聴かせてくれた。それは父が作ったオリジナルの歌で、世間に流通は全くしていないから、インターネットで検索しても当然ながら出てこない。知っているのは曲を作った父と、それを一緒になって歌う母、そして歌ってと何度もせがんだ弥琴だけだ。
弥琴にとって『青のうた』は、生まれて初めて触れた音楽であり、宝物のように大切にしている思い出だ。眠れない夜、つらいことがあった夕暮れ、心が傷ついた長い一日、まるで寄る辺のようにして、気付けばいつでも口ずさんでいた。両親の音楽センスと娘への愛情が詰まった、彼らから自分にだけ贈られたプレゼントだと思っていたのに。
その歌の起源を思い起こさせるような場所が存在するなんて、今まで少しも考えたことがなかった。
初めて白青島の海を見た時、弥琴の脳裏に真っ先に浮かんだのは、その美しさに対する感動というよりも衝撃だった。両親が歌ってくれた『青のうた』のイメージと、とてもよく似た景色が眼前に広がっている。それは衝撃という名の感慨でもあり、郷愁と呼んでもおかしくないほどの切なさをたたえた感情だった。
まるで白青島の海を歌ったかのような『青のうた』を、物心ついた時から宝物のように歌ってきた自分が今、遠く離れた本州から白青島まで連れてこられた。なぜ。どうして。そんな言葉は何の意味も持たないと分かっている。だからこそ弥琴はその場に崩れ、地に両手を突いて俯き、心を呑まん勢いで襲いくる感情の波に耐えるしかできなかった。
ふいに捕まれた腕がぐいと引っ張られ、弥琴は信哉によって無理やり立たされる。弥琴の表情からよほど血の気が失せていたのか、信哉は気遣わしげに瞳を覗き込んできた。
「大丈夫か、弥琴」
「だい、じょぶ……」
「じゃないな、見りゃ分かるが。ひどい顔してる。少し休んだほうがいい。早く帰ろう」
信哉は弥琴の手を強く引くと、足早に《ノーザンクロス》の方角を目指す。彼のなすまま急き立てられるように歩く弥琴は、遠ざかる《夏の庭》をもう一度振り返ってその向こうに目を凝らした。
滲んだ瞼の奥に、橙に染め上げられた海の鮮やかな色合いが揺らめいては瞳を焦がした。
次回 4月・
全てない。何もない。残されたものは、ただひとつ。
歌いましょう。うたいましょう。
それは誰も聴いたことがない、伝説の中の歌声。
歌いましょう。うたいましょう。だって、それしかないのだから。
暗闇の中ですがる茨、歌生。
白の夢幻に青き奏でを 咲原かなみ @peachan0414
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