楽園へ 6
結局、弥琴は翌日の朝陽を、《ベガ》とはまるで趣が異なる部屋で迎えることとなった。
昨夜、命の危機を救ってくれた信哉に連れてこられたのは、洗練された海外の別荘のような外観の建物だった。もう何度目か分からない、思いがけない展開にまたしても遭遇し、慣れることなくやはり呆気に取られた弥琴は、迎えてくれた同年代の少女に、あれよあれよという間にバスルームへ放り込まれた。
「濡れ鼠のままじゃ体に毒よ。いいから入りなさい。体も髪も綺麗に洗って、塩気を全部流してしまうの。服とタオルは用意しておくから、ゆっくりあったまるのよ」
茉里と名乗った彼女は矢継ぎ早にそう言うと、弥琴が着ていたびしょ濡れの制服を持って消えてしまった。
バスルームは実に広々としていた。磨き上げられたベビーピンクのタイルに、柔らかな色合いをした橙の照明。大きな円形をしたバスタブは、足を存分に伸ばしてもまだ余裕があるほど広く、ジェットバス機能もついていて、湯面には色鮮やかな本物のバラが、花ごといくつも浮かんでいる。
湯に浸かった最初は、気付かぬうちに負っていた腕や足の小さな傷が容赦なく沁みてつらかった。しかし、それも慣れてくると平気になる。バスタブは肩が浸かりきる程よい深さで、湯の温度も熱すぎず冷めすぎずで実に心地よい。バラの香りがほんのりと鼻孔をくすぐり、極度の緊張に凝り固まった神経が徐々に解けていくのが分かった。
緊張が完全に消えて冷静になった思惟の中に、それまで押し殺していたいくつかの感情が解き放たれる。
昨日と今日、なんてめまぐるしすぎた二日間だろう。予想外の出来事にいったい何回遭遇したのか、思い返すだけで全身がどっと重い疲労に潰される。驚いたり傷ついたり、打ちのめされた事柄を挙げれば両手ではとても足りないし、それらを深くまで反芻しようものなら、気が触れる領域まで簡単にいってしまいそうな気がする。
実の両親だと信じていた二人のこと。彼らは今頃、どこで何をしているのだろう。今まで彼らに与えてもらった愛情や思い出が、全て役割として演じられたものだったなんて思いたくない。織田の言っていたとおり、本当にもう二度と会うことはないのだろうか。
仲良かった地元の友人たち。昨日まで一緒に学び、一緒に笑い、たくさんの思い出を作った彼女たちは今頃どうしているだろう。いきなり連絡が取れなくなったことに、誰か一人でも気付いていたりするだろうか。
だんだん頭がぼうっとしてきたことに気付いて、弥琴は慌ててバスタブから出た。心地良いことこの上ない湯だが、これ以上浸かっていたら上せてしまう。
用意された寝間着のワンピースに着替えた弥琴が廊下に姿を見せると、待っていてくれたらしい茉里が、今夜はここで泊まっていくように勧めてきた。
「もうこんな夜更けだし、今更《ベガ》に帰ったってしょうがないでしょう。寝床がリビングのソファなのは申し訳ないけど、掛け布団は用意しといたから。ソファだけど、寝心地はばっちり保証するわ。体があったかいうちに休みなさい。あたしももう寝るわ。お休みー」
茉里は灯りが消されたリビングに弥琴を招き入れるなり、そう溌剌と畳みかけるように告げては、ふわふわと欠伸をしながらひらりと手を振ってそのまま出ていった。
真っ暗闇の広大なリビングに残された弥琴は、しばし呆然と立ち尽くしていたが、ゆっくりと我を取り戻すと、茉里が指差していた先にあるL字型のソファに腰掛けた。端には薄手の掛け布団が畳んであり、冷房のリモコンは目の前のガラステーブルに置いてある。
弥琴は肘置きを枕代わりにして体を横たえ、掛け布団を肩まで被る。ソファは茉里の言うとおり、うっとりするぐらい寝心地がよかった。予想以上に気持ちいい寝床のおかげか、よほど疲労困憊していたからか、弥琴はたちまち深い眠りに落ちていった。
次に目を開けたら、外が白くなりつつある時間帯だった。昨夜は暗くて見えなかった、華やかな装飾が施された金色の壁時計は六時半を指している。
弥琴はゆっくりと大きく背伸びをして、微睡む体を目覚めさせていった。眠る前は鉛のように重かった全身も、驚くぐらい軽くなっている。微睡みが消えていくと同時に、怒涛の一言では表しきれない昨夜の出来事が次々と思い出され、目覚めの爽快感とは裏腹に気分は相変わらず重く暗かった。
リビングから出て二階の気配を窺ってみたが、誰かが起き出してくる気配はまだない。弥琴は掛け布団を丁寧に畳んでソファの隅に置くと、茉里の目覚めを待たずに建物を後にすることにした。
《ベガ》の部屋には、思いの外あっさりと戻ることができた。どうやら朝の六時にはもう、門と玄関は開いているようだ。それに、運のいいことに、玄関のすぐ側にある寮監窓口に寮監の姿がなかった。部屋を抜け出す際にあんな激しい音を立ててしまったから、騒ぎになってしまっているのではと内心ひやひやしていたが、それは単なる杞憂で終わったらしい。
どれだけ過酷な現実に打ちのめされても、食欲はいつだって愚かなまでに湧いてくる。弥琴は部屋に戻って服を着替え、朝食を摂るために《デネブ》の扉を開いた。
六時半から開いているという大食堂《デネブ》は、七時を廻った今は大勢の生徒で溢れている。弥琴が姿を見せた途端、会話のさざめきに満ちた明るい空気が、冷たい波に襲われたかのように静まり返った。昨夜と寸分違わぬ反応に傷つくというより、日付が変わってもまた同じことを繰り返す彼らに、弥琴は思わず乾いた笑みを零してしまう。
弥琴が声もなく笑ったことが、大多数の生徒にはよほど怖く映ったらしい。蔑視や緊張といった様々な色をした眼差しが、空いたテーブルを探す弥琴に遠慮なく刺さり続ける。
まるで針の筵にいるみたいだ。ガラス張りの窓の外で輝く朝陽とは裏腹に、不穏に淀んだ空気が全体を覆っていて、居心地が悪いことこの上ない。
こんな状況下で摂る朝食を、美味しいと思えるわけがない。もう少し人が減った頃に出直そうかと思い始めた時、燦々と光が射し込む窓際のテーブルに、昨夜喧嘩を売ってきた五人の女子グループを見つけた。彼女たちは昨夜と変わらず、リーダー格の女子こと継姉Aを中心に群れているようだ。全員がフォーク片手に意地の悪い笑みを浮かべ、冷たい視線を浴び続ける弥琴をちらちらと見やっている。
彼女たちの存在に気付いた瞬間、弥琴の中でゴングが高らかに鳴り渡った。
弥琴は席を探すのをやめて、つかつかと彼女たちがいる窓際の席へ行くと、通路側に座っている、度胸試しを吹っかけてきた継姉Aの前に立つ。そして、蔑みのこもった冷笑で見返す彼女の頬を引っぱたいた。
「この人でなし!」
ぱんと乾いた音と怒声が同時に響く。いきなり頬を打たれた継姉Aは、己の身に何が降りかかったのか、すぐには理解できなかったらしい。痛む頬を押さえてしばし唖然としていたが、やがて立ち上がるなり弥琴の頬めがけて右手を大きく振りかぶった。しかし弥琴はその手をすかさず掴むと、空いた左手で今度は彼女の右頬を渾身の力で張り飛ばす。
あまりの勢いによろけた継姉Aは、そのまま後方の椅子へ倒れ込む。傍らにいた四人の女子が慌てて腰を浮かし、派手に倒れた継姉Aに手を差し伸べ、その体を支えて立たせてやった。相次いで両頬を思い切り殴られ、痛みに顔を歪める継姉Aは、友人たちの力を借りて立ち上がると、
「こ、この無礼者!」
かちんときた弥琴は、向かい合った彼女の右頬をもう一度引っぱたいた。
「無礼者はどっちよ、この人でなし! 昨夜はよくもとんだ目に遭わせてくれたわね」
張り倒された勢いでまたしても後方によろけた継姉Aは、かろうじて体勢を保ちながら弥琴をきつく睨み返す。しかし弥琴の激情はとても収まらなかった。
「あんた、あたしを嵌めたわね。あの時間帯、《月の洞窟》は満潮で中には入れやしないって知ってたんでしょう。その上であんたは肝試しなんか吹っかけてきたのね。悪ふざけも大概にしなさいよ! あんたのせいであたしは昨夜死ぬところだったのよ。あんた、あたしを殺す気だったの? 正気の沙汰とは思えない。最低よ!」
怒り一色で響き渡った弥琴の声に、周囲の生徒たちが慄き震える様が視界を掠める。感情の全てを一気にぶつけた弥琴は、肩で息をしながら継姉Aを見下ろした。
「そうよ。死ねばいいと思って仕向けたの。せっかく騙されて行ってくれたのに、あと一歩で叶わなかったなんて残念だわ。魔女のくせに、憎らしいくらい悪運が強いのね」
「あんた、本気で言ってるの? 自分のしたことの意味分かってる? あんたがしたことは殺人未遂よ。いじめで片付けられることじゃない。あたしは昨日この島に連れてこられたばかりで、初対面のあんたに憎まれる理由なんてないわ。殺されなきゃいけないようなことをした覚えも、ついでに言うなら、この学園の全員に白い目で見られなきゃいけない理由もない。なのに何でこんな理不尽なことされなきゃならないの」
頬を真っ赤に腫らした継姉Aは、いくら弥琴が責め立てても動じることなく、針よりも尖った瞳で見返してくる。いつしか弥琴と彼女の周りには、食事の手を止め野次馬となった生徒たちが、その場をぐるりと囲むようにして事態の成り行きを見つめていた。
「心当たりがないなんて笑わせる。じゃあ教えてあげるわ、黄昏の魔女。あんたは存在自体が呪われた災厄、楽園に破滅をもたらす悪しきものなのよ。あんたはいるだけでこの島の全員を不幸にする魔女なんだから、皆に災厄をもたらす前に命を狩られて当然でしょう」
混じりけのない悪意を真正面からぶつけられて、弥琴は心を思い切り殴られたような感触を覚えた。
「違うなんて言わせないわ。だってあんた、あの絵の女と瓜二つじゃない。そんな顔の女に、あたしは魔女じゃないなんて言われたって、この島のいったい誰が信じるっていうの。あんたは不吉よ。不吉そのものよ。気味が悪くてしょうがないから、何も起こらないうちにさっさと消えてちょうだい。あんたみたいな得体の知れない貧民が、どうやって校長先生に取り入ったのか知らないけど、この白と青の楽園に呪われた魔女なんかいらないのよ!」
まるで悪意だけで鍛えられた剣を、体を貫かん勢いで突き立てられたみたいだ。深くまで抉られた心でふと瞳を動かし、弥琴は自分を見つめる周囲の顔つきにも打ちのめされる。
弥琴と継姉Aの付近を野次馬みたく囲んで見守る者。各々のテーブルで高みの見物を決め込む者。食事を続けるふりを装いながら遠目に窺っている者。彼らの瞳はどれも嫌悪や蔑視、恐れや不安めいたものを彩られている。その度合いは人によって違うが、一見して共通していると分かるのは皆が皆、眼底にぞっとするほど冷たい感情を宿していることだ。そこには継姉Aに遠慮ない言葉でぶたれる弥琴への同情や憐憫といった仕草は見受けられない。誰かが仲裁に入ってくれる気配も、継姉Aの言葉を咎めようとする者もいない。
それらの瞳をまるで集中攻撃を浴びるかのように受け止める弥琴の脳裏に、四面楚歌という言葉がありありと浮かんだ。
「消えなさいよ、黄昏の魔女。この楽園に災厄をもたらす不吉な女。海にでも飛び込んで、とっととあたしたちの前からいなくなってちょうだい」
継姉Aが勝ち誇った笑みで唇を歪めた次の瞬間、それまで弥琴と継姉Aに注目していた他の生徒たちの間に異様なまでの動揺が生まれた。
「私の与り知らぬところで、随分と物騒な話をしているね」
なまめかしいテノールの声音によって、大食堂を支配していた空気が一瞬で変貌する。その声の主が誰かを察して、それまで余裕だった継姉Aの表情がざっと凍りついた。
現れた闖入者は織田だった。気品ある漆黒のスーツをタイトに着こなし、背後に菜子と二人の女生徒を追従させている。白青島における最高責任者であり、最高権力者でもある彼の登場がよほど意外だったのか、弥琴以外の生徒たち全員が度肝を抜かれているのが同じ空気を一つ吸うだけでよく分かった。
「おはよう、弥琴」
織田にいきなり話しかけられて当惑し、すぐ言葉を返すことができなかった弥琴は、彼の後ろに追従する二人の女生徒のうちの一人と目が合い、思わずあっと声を上げかける。彼女は昨夜、弥琴が信哉に連れていかれた専門寮にいた茉里だった。全身びしょ濡れになった自分に風呂と寝床、替えの服まで提供してくれた茉里は、弥琴の視線に気付くなり、昨夜と同じくにっこりと気さくな笑顔を返す。
「弥琴、君が所属するコミュニティーが決まったよ」
「は?」
「当初の予定どおり、昨夜の理事会で無事承認された。君もこの島での立ち位置には大いなる不安を抱いているだろうと思ってね、伝えるならばなるべく早く、私の口から直接伝えたほうがいいと思って来たんだ」
「……はあ」
「ちょうど皆が一堂に会している朝の場だ。この学園で暮らす者たちに周知する機会としても、これ以上のものはないだろう。みんな、そんなに強張らず楽にしなさい。私は何も、君たちや弥琴を取って食いに現れたわけではない」
弥琴はようやっと、織田が語るコミュニティーが何なのかを思い出す。クラスや部活動といった、一般の学校によくある縛りの代わりとなる、白青学園独自の生徒たちの集合体の呼称。学園側の一存で選ばれた面々で構成され、日頃の学校生活から寮生活に至るまで、多くの時間を共有することになるという。織田の説明を疎かに聞いていたわけではないが、次々に襲いくる出来事に気付けば埋もれていたのか、今の今まですっかり忘れ去っていた。
「弥琴、今日から君は《ゴッドチャイルド》の一員となる」
織田がそう言った次の瞬間、周囲にいた生徒全員から驚愕のざわめきが起こった。動揺の荒波を一身に被った気がして、弥琴は織田の言葉よりも、彼らの反応にまず驚いてしまう。
「理事会の満場一致を経て、君のコミュニティーは《ゴッドチャイルド》に決まった。今日から卒業までの三年間、学園内では基本的に彼らと行動を共にするように。いいね?」
織田が弥琴に告げた言葉の一つ一つが、生徒たちにとっては巨大な爆弾だったらしい。あちらこちらで騒々しいまでの動揺が広がっている。だが弥琴には、彼らがそこまで驚き混乱する意味がさっぱり分からなかった。
しかし当の織田本人は、訳が分からず戸惑う弥琴をむしろ面白げに見つめている。その瞳が何となく癇に障ったが、事態を呑み込みきれない弥琴は、継ぐべき言葉を探すことで必死だった。
すると、弥琴の側で誰よりも織田の発言に打ちのめされていた継姉Aが、憤然とした面持ちで勢いよく声を荒げた。
「お待ちください、校長先生。あたしは納得できません。なぜこの子のコミュニティーが、よりによって《ゴッドチャイルド》なのですか」
「というと?」
真正面から不服をぶつけられたにもかかわらず、織田はあくまで優雅な表情を崩さない。周囲の生徒たちが、先程とはまた違った息の呑み方をする。
「《ゴッドチャイルド》は白青学園の頂点に君臨するコミュニティーです。天賦の才と卓越した頭脳を持った、選ばれた方のみが所属を許される学園の象徴であり、全生徒の尊敬と憧れを集める唯一無二の至高の存在。あたしたちの誰もが皆、《ゴッドチャイルド》を日頃から慕い崇拝し、その一員に選ばれることを目指して研鑽を重ねています。なのに、なぜその尊き一員に、どこの馬の骨とも知れぬ魔女が加えられるのですか。黄昏の魔女が《ゴッドチャイルド》の一員だなんて、メンバーの皆様の面汚しも甚だしい。校長先生、どうかご再考を。ここにいる皆、そんな決定に誰も納得できるはずがありません」
継姉Aは一気にまくし立ててもなお、怒りや屈辱が収まらないらしい。ここにいる全員の心情を、自分が代表してぶつけたと言わんばかりの彼女に、しかし織田は実に涼やかな眼差しを返すだけだった。
「言いたいことは、それだけかな」
言葉以上に怜悧な声音に、継姉Aの表情がさっと青ざめる。
「これは決定事項だ。弥琴の将来性、能力、個人適性を検討した結果、理事会で全員が一致して下した判断でもある。それに私は白青学園の校長として、また白青島を統べる者として、何事においても常に公平かつ妥当な判断を下している。それは島での暮らしが弥琴よりも長い君たちのほうがよく知っていることだ」
その場の空気を一瞬で支配するだけでなく、全員の心を底から容易く揺り動かす力を秘めた響きの言葉に、それまで騒然としていた生徒たちがしんと静まり返る。
「何度も言うが、これは私だけの決断のみならず、理事会においても満場一致で決議されたことだ。異論は一切認めない。弥琴は今日から《ゴッドチャイルド》の一員になる。この場にいない者には、仲の良い者から伝えてやってくれるとありがたい。皆、そのように」
厳命よりも重く下された言葉に、継姉Aが愕然と床に崩れ落ちる。しかし織田は、そんな彼女には一瞥もくれずに、
「茉里、ゆりあ、こちらに」
織田の呼びかけに即座に応じて、彼の後ろにいた二人の少女が弥琴の前に現れる。昨夜図らずも会ったことで既に顔は知っている茉里と、今日のこの場が初顔合わせとなる幼女が、困惑の消えない弥琴に向かって微笑みかけた。
「黒髪が茉里で、金髪がゆりあ。二人とも《ゴッドチャイルド》のメンバーだ。今日から君と、あらゆる行動を共にすることになる。茉里、ゆりあ。彼女が弥琴。今日から君たちと一緒に暮らす新参者だ。最初は慣れないことも多い。よく教えてあげるように」
「承知しました、校長先生」
茉里は快活な笑顔で首肯する。そして、目を丸くしたままの弥琴に小さくウインクしてみせた。
「では、私はもう行く。茉里、ゆりあ。後のことは君たちに任せよう。朗らかな朝のひとときに邪魔をしたね。皆、食事を続けるように。今日も皆にとって素晴らしい一日となるよう祈っているよ」
動揺が消えない生徒たちを残し、織田は身を翻してその場から去ろうとする。後ろ姿にも気高さが漂うその背を、立ち上がった継姉Aがまたしても呼び止めた。
「お待ちください、校長先生」
織田は足を止め、瞳だけを動かして振り返る。収まりかけていた動揺が、またしても生徒たちの間に広がった。
「あたしは納得してません。この黄昏の魔女のどこに《ゴッドチャイルド》に属する資格があるのか。何の才もないこの子と《ゴッドチャイルド》の皆様を同等に扱うなど」
茉里はあからさまに呆れきったため息をついて、なおもいきり立つ彼女を窘めようと口を開きかける。しかし、織田はすっと片手を挙げてそれを制し、継姉Aに向かってというよりは、大食堂にいる全員に聞こえるよう凛然と告げた。
「才ならある。この弥琴には、決して誰もが持ち得るわけではない、《ゴッドチャイルド》に名を連ねるのに相応しい類い稀な才がね」
揺るがぬ確信を持って言い放つ織田に、今度は弥琴がぎょっと身を引く番だった。
「弥琴の天賦の才、それは歌だ」
それは弥琴にとって、身の丈に合わないにも程がある言葉だった。なんて大それたことを宣言みたく堂々と口にするのだろう。弥琴は織田の本気というよりも正気を心から疑った。
織田は瞬きすら忘れて言葉もない弥琴に笑いかけると、
「君の歌、その豊かな表現力、女神のような歌声、それらはまさしく天賦の才と呼ぶに相応しい代物だ。今はまだ鈍い輝きの原石だが、磨けば必ず世界をも圧倒するダイヤモンドになる。その才を伸ばすための白青学園であり《ゴッドチャイルド》だ。私の目に狂いはない。皆もいずれ、遠からずそれを知ることになるだろう。類い稀な歌の才能、私が弥琴を《ゴッドチャイルド》に選んだ理由はそれだけで充分だ」
生まれて初めて受けた最上級の賛辞だったが、弥琴は全く喜ぶ気持ちになれなかった。むしろ、分不相応な過大評価を大勢の前で披露されて、赤面ではとても足りないぐらい恥ずかしい。
そんなうろたえる弥琴を見て、継姉Aが我が意を得たりとばかりに、
「でも、歌の才能に秀でた者なら他にもいます。この子より学園生活の長いその者たちを差し置いてまで、なぜこんな魔女に過度な期待を」
なおも言い縋る継姉Aに、織田は氷よりも冷たい一瞥を投げかけて黙らせた。
「白青島の主たる私に対し、随分と度胸のあることだ。だが
まるで心臓を射抜かれたように、それまで弥琴が心の内で勝手に継姉Aと呼んでいた少女は、息も吸えずに全身を固まらせる。
「もしそうならば改めなさい。この島において、私が知らぬことは何もない。主たる私がこれ以上何も語らないのだから、その重みは君が推して量るべきだろう。黄昏の魔女などという戯言を真と信じているのならば、それもただちに改めなさい。この島の至宝であるあの絵を愚弄することは、私が決して許さない。他の者たちも皆、肝に銘じておくように。……ああ、そうだ。気が変わった。茉里」
「はい」
「英玲奈の処遇については、君たち《ゴッドチャイルド》に任せることとしよう。彼女は弥琴が無知であるのをいいことに、策を弄してセブンルールに触れさせた。結果、弥琴は満潮の海に溺れて、危うく命を落とすところだった。信哉から、昨夜の警報装置作動騒ぎに関する報告も上がっている。我々が規則でそれを禁じている以上、規律を守り暮らしている多くの生徒たちの手前、犯した者には相応の措置を取らなくてはならない」
「承知しました、校長先生」
織田は一瞬だけ弥琴に微笑みかけると、菜子を引き連れて悠然と大食堂を去っていった。
唐突に吹き荒れた嵐の後にも似た倦怠感と静けさが、《デネブ》全体を侵食するように広がっていく。穏やかとは言いがたい事態の収束を見届けて、朝食を中断していた生徒たちは皆それぞれの席にぱらぱらと散っていった。もう誰もが皆、弥琴たちにそれ以上の関心を向けまいとしている。
茫然とする弥琴の横をすり抜けて、茉里は打ちのめされている継姉Aこと英玲奈の前に立った。
「英玲奈、あなたには我々《ゴッドチャイルド》の生徒管理権限をもって、守衛室管理下における一週間の本館別室謹慎を命じます。同じテーブルにいたあなたたちも同罪よ。英玲奈の真意に気付きながらも止めなかった連帯責任として、それぞれ寮の自室にて三日間の謹慎を命じます。守衛室と寮監には既に伝えてあるわ。彼らがここに来るまで、十分の猶予をあげる。それまでに朝食を済ませてしまいなさい」
「そんな! お、お待ちください茉里様! どうか、どうか寛大なご処置を」
茉里の言葉がとどめとなったのか、彼女たちは一様にしてその場に泣き崩れた。
「行きましょうか。案内するわ」
「え」
「あたしたち、いつもここでは食事を摂らないの。さあ、帰りましょう。お腹空いたわ。ほら二人とも、ぼうっとしてないで早くいらっしゃい」
茉里は弥琴とゆりあの背を軽く叩くと、二人を引き連れて颯爽と大食堂を後にする。弥琴は大食堂の扉が閉まるその時まで、涙に暮れる英玲奈たちのことが気になって、後ろ髪を引かれる思いで茉里の後をついて歩いていた。
「優しいのね、あんた」
「え」
見透かしたような響きで茉里が話しかけてくる。
「気にしなくていいのよ。あんた、昨夜はひどい目に遭ったんでしょう? それに、まだここに来てばっかで、あの子たちより気になることは、他にもたくさんあるんじゃない?」
「それは確かにそうだけど。……でも何ていうか、素直にざまあみろとはとても思えなくて」
「随分とお人よしなのね。嫌いじゃないわよ、そういうの。でもいいんじゃない? 別にあんたが気に病まなくても、あの子たちは自業自得よ。人間っていうのはね、やったことの責任は己が背負って然るべきなの。今回のことはあの子たちが悪かった。校長先生もそれをお認めになられた。そして、肝心のあんたは無事だった。これにて一件落着。後味悪いことは、さっさと忘れてしまいなさい」
小気味良いほどすぱすぱと喋る子だ。歯に衣着せぬ物言いだが、上から目線とは明らかに違い、はきはきとした話し方も相まって、むしろ爽快感さえ覚える。昨夜の出来事を怒ってはいたが、処分を告げられ打ちひしがれる英玲奈たちを見た途端、彼女たちを責められなくなった弥琴に代わって、茉里がさりげなく落とし前をつけてくれたのだと解釈した。
大食堂《デネブ》から屋根のない外に出た途端、熱を帯びた白い陽射しが容赦なく目を刺す。茉里とゆりあは黒地の日傘を同時に差し、そして茉里は新品のものを弥琴に手渡した。
「それ、あげる。この島は常夏なの。日焼け止めと日傘なしではどこもうろつけないわよ。ちなみに日傘は個別支給だから、それぞれの特徴を覚えておいて。取り違えることのないようにね」
弥琴は渡された日傘を開いてみる。紺色のそれは柄こそないが、縁取りがフリルの可愛らしいデザインだった。これまで日傘を差した経験はなかったが、確かにこの強すぎる陽射しが常の環境で、日焼け対策なしで暮らすのは無謀すぎる。弥琴の発想にはなかった粋な計らいのおかげで、晴天の直射日光をもろともせず、暑いながらも顔を上げて歩くことができた。
人気のない森の小径を、茉里を先導にして弥琴とゆりあはついていく。弥琴は茉里の歩調に合わせるようしながら、その面差しを失礼でない程度に盗み見た。
剥き卵を思わせるつるんとした色白の肌に、実年齢よりやや大人びて見える面長の顔立ち。胸まで伸びた黒髪はストレートで、奥ゆかしい日本人形の美を連想させた。身長は弥琴より十センチほど高く、女子では長身の部類に入るだろう。たおやかな印象からは意外に思える溌剌な笑顔と話し方が、一方的に抱きかけたとっつきにくさを綺麗に吹き飛ばす。
弥琴に付き添うようにして歩くゆりあは、茉里とは見事なまでに対を成す童女だ。腰より長い蜂蜜色の髪はきつめの天然パーマで、風を含んでふわふわと軽やかに揺れる。髪色といい、彫りの深い顔立ちといい、日本人の要素もあるにはあるが、明らかに欧州の血も宿しているとみた。背は弥琴よりも頭一つ分は小さく、少女というより幼女と称したほうが正しい気がする。ゆりあは先程から一言も発さないが、足早に行く茉里にしっかりついていきながら、当惑の最中にいる弥琴に時折あどけない微笑をくれる。
「あの、何かもう今更って感じですけど、成瀬弥琴です。よろしく」
弥琴が一応の礼儀として挨拶すると、茉里は数秒ほどきょとんと目を丸くした後、さばけた笑顔であっさりと受け流した。
「いいわよ、苗字まで名乗らなくても。この島では、ラストネームは必要ないの。みんなファーストネームしか使わないから」
「え」
「知らないようだから説明するね。もう気付いてるとは思うけど、白青学園って結構特殊な学校なの。この島にいる子たちの大多数は、ラストネームは正直名乗りたくない、むしろ隠したい、知られたくないと思ってる。なぜなら、生徒たちの八割九割はこの国または世界各国の上流階級の出身で、ラストネームだけで出自や素性がばれちゃう可能性が高いから。そういったわけで、この島ではラストネームには一切触れずに、ファーストネームのみ使うのが暗黙の了解なの」
「えっと、それってつまりどういう」
「弥琴は今まで意識したことないかもしれないけど、ラストネームが持つ力って実は想像以上なの。たとえばゲイツっていうラストネームの子がいたとする。その子の名前を聞いたらみんながみんな、たとえ一瞬でも同じことを思うでしょうね、某世界的有名人と同じラストネームだって。無論それはとても自然な連想だけど、それが嫌だと思う子も中にはいるのよ。そして、時にはそれがきっかけで、根も葉もないデマや無責任な詮索、吹聴、誤解が広がったりもする。あの子、あの著名人と同じラストネームだけど関係者なのかなとかね。何せこんな閉鎖空間だから、噂が駆け巡る早さは尋常じゃないの。あんただって、さっきは成瀬弥琴ですって自己紹介してくれたけど、仮にあたしがへえ、じゃあどこの成瀬さんですかって返したら、ぶっちゃけ困っちゃうでしょ?」
それまで曖昧な相槌ばかり打っていた弥琴だが、思わずうっと言葉に詰まって黙り込む。
「そういうこと。ラストネームやその他を追及されて困るのは、別にあんただけじゃないわ。あたしも周りもみんなそう。誰にだって秘密はあるもの。数や重みはそれぞれだけど、秘密っていうのは、他人には決して触れられたくないと思って隠しているから秘密というの。暗黙の了解と言えば響きは重いけど、いわば互いに嫌な思いをしないための気遣いであり、閉鎖空間で共同生活を送っていくための一種の処世術だと思えばいいわ。白青学園で、ある意味一番大切なルールよ。覚えておいて」
「分かった。教えてくれてありがとう」
確かに彼女の言うとおり、弥琴にも他人に触れられたくない部分はある。この島に来ることになった経緯を問われるのは、今の弥琴にとっては嫌がらせ以外の何物でもなかった。それを避ける最善策が茉里の言う、ファーストネームのみで呼び合うことなのかもしれない。
そう思い至った時、目を背けようと努めていた現実がふいに弥琴の胸を潰した。帰る家と両親を一度に失った弥琴には、生まれた頃からずっと使ってきた苗字を名乗る理由は既にない。今まで当たり前のように存在していた成瀬弥琴は消え、何も持たないただの弥琴になってしまったと改めて気付いた。
「着いたわ。ここがあたしたち《ゴッドチャイルド》の専用寮《ノーザンクロス》よ」
弥琴は思わずあっと声を上げる。格調を感じさせる黒格子の門の向こうに見える建物は、弥琴が昨夜泊まった場所と全く同じ外観をしていた。信哉が言っていた専用寮という言葉の意味が、弥琴の中でようやっと氷解していく。
「この《ノーザンクロス》寮は、あたしたち以外の一般生徒は立入禁止なの。だからセキュリティが一般寮の《ベガ》と《アルタイル》より厳しくてね、寮に入る時はいつもこうやってロックを解除しなくちゃならないのよ」
「オートロックってこと? マンションとかによくあるような」
「そう、それの厳しい版って感じね。《ノーザンクロス寮》のセキュリティシステムは指紋認証、虹彩認証、声紋認証の三段重ね。こんな風にやるの」
茉里は門の横にある呼び鈴を短く押すと、その下にある指紋認証システムに右人差し指を入れる。そして呼び鈴の内臓カメラを凝視して、
「シェイクスピア」
すると甲高い電子音が一本調子で鳴り、黒格子の門扉の錠が外れる音がする。茉里はすかさず門を開けて、弥琴とゆりあに中へ入るよう促した。二人が入ると茉里もするりと身を滑らせ、後ろ手に門扉をしっかりと閉める。そうすると、自動で錠が掛かる音が短く響いた。
「ね、分かった? こんな感じ。さっき言ったようにシステムはオートロック式で、鍵は《ゴッドチャイルド》の面々の生体情報ってわけ。さっきあたしがインターホンに呟いたのは、あたしが登録した、あたしだけの合言葉よ。メンバーは全員、セキュリティ解除に必要な生体情報を登録しているわ。この《ノーザンクロス》寮の施錠方法は非公開なの。弥琴もうっかり漏らさないよう気を付けてね」
「……何か、近未来のスパイ映画に出てきそうな感じだね」
「大袈裟ね。今時、都会の億ションでもこれくらいのセキュリティは当たり前よ」
「いや、あたし庶民なんで、億ションとかそういうのは」
「そんな風に卑下してたら早々に疲れるわよ。この島にあるものは九割方、一般人の常識規格外の代物なんだから、いちいちリアクションしてスタミナ消費するより、何これ金持ちの道楽って笑い飛ばすぐらいの余裕がないと」
驚きすぎるあまり気後ればかりしている弥琴を、茉里はさばさばとした口調であっさり切り捨てる。そのざっくばらんな彼女の性格に、弥琴は先程抱いた好印象をより深くした。どんな未来が待ち受けているか想像もつかない学園生活でも、茉里のような子が傍にいてくれたなら、心もとなさに悩まされる機会もきっと減るだろう。
《ノーザンクロス》は、女子寮《ベガ》や男子寮《アルタイル》とは外観からして異なっていた。小麦色をした二階建ての二つの建物が並列し、屋根付きの通路がそれぞれの玄関を繋いでいる。上空から俯瞰して見ると、きっとHの形をしているだろう。門から建物へのアプローチ以外は全て鮮やかな芝生で、パラソルつきのテーブルと椅子のセット、シーツやタオルなどが干された物干し竿もあった。寮の周囲は《ベガ》よりも背の高い生垣とフェンスで囲われており、外からは内部が一切覗けない造りになっている。
「昨夜来た場所がここだっていうのは覚えてる?」
弥琴が頷くと、茉里は建物を順番に指差した。
「右が男子寮で、左が女子寮。二つ合わせて《ノーザンクロス》。一般寮と違って、寮の行き来や外出は時間を問わず自由なの。男どもも女子寮には頻繁に来るし、あたしやゆりあが男子寮に行くこともよくあるわ。寮に入る前の説明は大体こんな感じね。弥琴の生体情報は後で登録しましょう」
そう言いながら、茉里は女子寮の玄関の両開きの扉の片方を開けて、
「ようこそ、《ノーザンクロス》へ。歓迎するわ、新しい《ゴッドチャイルド》。今日からここが弥琴の家よ。改めて自己紹介するね。あたしは茉里、あんたと同い年よ。よろしくね」
弥琴は茉里と握手を交わす。すると、それまでずっと沈黙を貫いていたゆりあが茉里の隣に並んで、繋がれた二人の手を己の両手でふわりと包み込んだ。
「あたし、ゆりあ。十三歳。よろしくね。弥琴、可愛くて好き」
「えっ、十三歳?」
「そうなの。ゆりあは去年入ってきた子で、今年から中二になるの。全然見えないでしょ」
「うん、ごめん。ちょっとびっくりしちゃった。小学校低学年ぐらいかと思ってた。こんなにちっちゃい子もいるんだって」
弥琴のあまりに素直な感想に、茉里があははと軽やかな笑い声を立てる。当のゆりあは弥琴の言葉を全く気にしていないらしく、くりりとした目元を和ませてとにこにこしている。
「さあ、上がって。朝ご飯にしましょう。実はもう作ってあるの。《デネブ》では全然食べられなかったんでしょう? あたしたちも実はまだなの。お腹ぺこぺこ」
弥琴は用意されたスリッパに履き替えながら、玄関周辺をさりげなく見回してみる。
キャラメル色をした幅広の廊下。焦げ茶よりも深い風合いの、ホールの両側に設けられた背の高い靴箱。右側の靴箱には、幾何学模様の象りをした縁に、姿見が嵌め込まれている。天井は二階まで吹き抜けになっていて、キャンドルを模したシャンデリアが照明の役割を果たしている。靴脱ぎ場も広く設けられていて、地面は白濁色の大理石でできていた。
茉里はスリッパに履き替えるなり、玄関から一番近い扉へと足早に入っていく。弥琴はゆりあに誘われるようにして、茉里が入っていった部屋へと向かう。そこの扉は玄関と同じく両開きで、ゆりあが片方の扉を開いて弥琴を中へ招き入れてくれた。
そこはリビングルームだった。二十畳以上はありそうな広々とした空間に、対面式のシステムキッチン。合わせて七つの椅子が並んだ食卓に、エメラルド色の大きなL字型のソファと、一見して最新型と分かる巨大な液晶テレビ。壁際には豪奢な茶器や可憐な人形が並んだ飾り棚が二つあり、奥には漆黒のグランドピアノとアンティークの風情漂う蓄音機がある。
以前住んでいた一軒家がまるまる収まってしまいそうなそこは、弥琴が昨夜の出来事の後、朝まで休ませてもらった部屋と同じだった。疲れてすぐに寝てしまったから、内装や家具まで詳しく印象に残っていなかったが、寝床だったエメラルド色のソファだけははっきり覚えている。
一歩足を踏み入れて見渡すなり、弥琴はそのきらびやかさに軽く眩暈を覚えた。昨夜泊めてもらった部屋にもう一度、こんなにも早く訪れることになるとは思ってもいなかったから、余計にそう感じてしまうのかもしれない。こんな洗練に洗練を重ねた空間に、十代の子供が数名だけで暮らしている現実は、弥琴が持ち得る知識の範疇を遥かに超えていた。
「食事とお皿はもう並べてあるわ。あとはスープを入れるだけ。二人とも座ってくれて大丈夫よ。ちなみに、弥琴はオレンジのランチョンマットのとこね。そこが定位置だからよろしく」
「あの、茉里さん」
「茉里でいいわよ。ここにいる奴は年齢ばらばらでもみんな同等だから、敬語を使う必要は一切なし」
「茉里、あのさ」
「ストップ。訊きたいことが山ほどあるって顔してるけど、まずは何よりも腹ごしらえよ。あたしたちも腹ぺこだし、腹が減っては戦ができぬって言うでしょ。ほら、早く座って」
ゆりあは茉里の言葉に頷くことなく、言われたとおりに己の椅子に座る。茉里はキッチンからスープマグを運び、ゆりあと弥琴のランチョンマットの上に置いてくれた。チョコレートより深い色のテーブルは、七人で食事をしても決して手狭にならない大きさのもので、それぞれの席に色違いのランチョンマットが並べられている。弥琴は橙色のランチョンマットの席に座り、真正面に座るゆりあと向かい合う形になった。
茉里はいわゆるお誕生日席と呼ばれる位置に着くと、ティーコゼーを外したポットから、三つのティーカップに紅茶を注いだ。
「さあ、どうぞ。二人とも召し上がれ」
「いただきます」
「い、いただきます」
弥琴とゆりあは二人同時に、中央の大皿に並べられたサンドイッチに手を伸ばす。具はぷるるとした食感のスクランブルエッグで、一口食べた弥琴は思わず感嘆の声を上げた。
「すごい美味しい!」
瞳を輝かせ感激しながら頬張る弥琴に、茉里は嬉しげな笑顔で答えた。
「よかった、口に合ったみたいで。手作りなの、このサンドイッチ」
「えっ、そうなの?」
「せっかくの初顔合わせの朝食、何作ろうかなっていろいろ迷ったんだけど、結局のところ、これが一番無難かなと思ってね」
「いやいや、無難どころか、お店で出るもの以上に美味しいんですけど」
「大袈裟ね。でもありがとう。そこまで言ってもらえるとは思ってなかった」
「お世辞なんじゃないよ。本当に美味しい。あったかいし、卵はぷるぷるでふわとろだし、何より味わいっていうのかな。うまく言えないけど、手作りって感じがすごいする。茉里って料理上手なのね。あたし、料理なんて全然」
「趣味の延長線上よ。好きこそものの上手なれってやつ。誰だって慣れればできるわ。それにさっきも言ったけど、《ゴッドチャイルド》は基本的に《デネブ》で食事は摂らないの。だから食事は全部自炊。他の奴が気紛れでキッチンに立つこともあるけど、基本的には朝ご飯から晩ご飯、夜食やおやつまで全部あたしが作ってるのよ」
「すごい。でもそれって大変じゃない? さすがに毎日作るのはしんどいんじゃ」
「別に大丈夫よ。それに気にしないで。やらされてるわけじゃなくて、どの家事も自分から好きでやってるの。好きじゃなきゃやらないし、毎日続かないわ」
弥琴はサンドイッチを二切れ食べた後、ミニサラダとスープに手をつけていく。サラダはガラスの小鉢に入ったシンプルなもので、レタスとトマト、千切りの紫キャベツにフレンチドレッシングがかかっていた。スープはジャガイモを粗漉ししたポタージュで、ジャガイモ独特のざらりとした口触りに、溶け込んだミルクの風味が柔らかい。
「茉里、ごちそうさま。ピアノ弾いてもいい?」
ゆりあはサンドイッチ一切れとスープだけ食べ、サラダは手付かずで残しているようだ。しかし茉里はそれを叱ることはなく、
「いいわよ。でも、はちゃめちゃな曲は弾かないで。あくまでBGM程度のさらっとしたやつにしてね」
茉里がそう言うより早く、ゆりあはぴょんと食卓を離れ、とてとてと奥のグランドピアノに向かっていく。
「あの子、ピアノ弾くの?」
「ええ。聴いて驚くと思うわ。かなりの腕前よ」
弥琴が座る位置からは、グランドピアノに座るゆりあの姿は見えない。短い沈黙が流れた後、ゆりあはおもむろに弾き始めた。出だしのところを聴いただけで、それが何の曲か弥琴にはすぐ分かった。『英雄ポロネーズ』の通称で親しまれているショパンのピアノ曲だ。
弥琴はゆりあが残したサンドイッチをぱくぱくと頬張っていたが、その音色に聴き惚れて自然と食事の手が止まってしまう。曲が持つ元来の印象もあるだろうが、ゆりあが奏でるピアノは音符の一つ一つが踊るように軽やかで、愛くるしい可憐さと洗練された華やかさという、似ているようで性質がまるで異なる響きを実に絶妙なバランスで成立させていた。そして何より指遣いが巧みで、ダンスのステップを踏むような小気味良さを纏いながら、一音も間違えることなくさらりと弾きこなしている。
「あれ、実は即興なのよ。楽譜は見てないの」
「えっ」
「完璧に暗譜してるみたい。どの曲もそうなんだけど、ゆりあは基本的に楽譜を見て弾かないの。弾きたい時に弾きたい曲を、弾きたいだけ弾くっていうスタイル。初見で覚えちゃうところもあるんでしょうね。部屋ではどうだか知らないけど、リビングのピアノでゆりあが楽譜見ながら弾いてるとこなんて見たことないわ」
さらりと告げられた茉里の言葉に、弥琴は感嘆のため息しか出なかった。
「何かちょっと、いろいろびっくり」
「何が?」
「びっくりっていうか、変にしみじみ。初めて来る場所で、しかも昨日からずっと怒涛の中にいるのに、綺麗な音楽聴いたらすっかり気持ちが落ち着いちゃったり、美味しいもの食べてじーんとしちゃったり……何ていうか、あたしってば現金だなって。どれだけめまぐるしい中にいてもお腹が減って、頭の中が疑問だらけで苦しくても、美味しいものが目の前にあったらがつがつ食べて、素敵なピアノ聴いたら素直にうっとりしちゃう自分が何か、自分でもおかしくて笑えてくるというか」
「言ったでしょ、腹が減っては戦ができぬって。それは人として正常な反応よ。何も卑下することないわ。人間、空腹を抱えて落ち込むのが一番よくないの。それにね、何があってもお腹が空くっていうのは、案外大事なことなのよ。決まった時間にお腹が空いて、食べ物を美味しいって食べられるうちは、心がまだ死んでない証拠。つまり、生きてるってことなの。それに、綺麗な音楽を聴いて、綺麗って感動することの、いったい何がいけないの?」
茉里は実にさっぱりと言い切ると、サラダの小鉢にあった最後のミニトマトにフォークを刺す。弥琴はポタージュスープを味わいながら丁寧に飲み干した。
「さあ、ゆりあのピアノをBGMに、質問タイムといきましょうか。訊きたいことがいろいろあるんでしょ? お好きにどうぞ。訊いてくれて構わないわよ」
「えっ」
「落ち着いたら話すって言ったでしょ。落ち着いたから、好きなことを好きに訊いて」
「いいの?」
「何が?」
「いや、その言葉自体はぶっちゃけすごくありがたい。だけど、こう言っちゃ失礼かもしれないけど、実は昨日この島に着いた後、校長先生っていう人と会っていろいろ訊こうとしたんだけど、もったいぶってはぐらかされた上に、結局はいいように遊ばれただけで、何一つ教えてもらった気がしなくて」
「なるほど、それは気の毒に。あたしはその場にいなかったけど、光景が目に浮かぶわ。気にしなくていい、あれはあの方の性格よ。校長先生は、人をご自分の掌の上で転がして楽しむのが好きなの。根っからのサディストね。あれでもかなりのやり手なんだけど、とにかく救えないぐらい人が悪いの。弥琴もこの島で生活していったらだんだん分かると思うから、いちいち真に受けて気にすることなんかないわ。弄ばれて疲れるだけよ」
年齢も立場も遥かに上の人物を、茉里は情け容赦なく切って捨てる。その口ぶりがあまりにも清々しくて、弥琴は胸がすく心地良ささえ覚えていた。
「そんなわけで、さあどうぞ。……あ、ちょっとゆりあ。ストップ。今からお喋りタイムに入るってのに、その曲はやめてくれる? 暗すぎて雰囲気が落ちちゃうわ。もっと違う曲にしてちょうだい」
『英雄ポロネーズ』を弾き終わり、一呼吸おいて次の曲を弾き始めたゆりあに、茉里がすかさず声を飛ばした。彼女が冒頭の和音を奏でたところで、その曲が同じくショパンの『ノクターン遺作嬰ハ短調』だと分かった弥琴は、音色につられて思わず気分が急降下しかける。しかし茉里が制してくれたおかげで、何とか激しい落下に見舞われることは免れた。
茉里の注文を受けて素直に指を止めたゆりあは、グランドピアノの向こうで少し考える気配を見せた後、次の曲をゆっくりと奏で始めた。数秒ほどその旋律に耳を傾けていた茉里が、先程とは打って変わった曲調であることにほっと胸を撫で下ろす。
「よかった。ね、スリリングでしょう? ゆりあの気紛れピアノ。こうやってコントロールしないと、時々とんでもなく破滅的な曲を無自覚に弾き出すの。さあ、気を取り直していきましょうか。気になること、好きに訊いてくれていいわよ」
茉里は弥琴のティーカップが空であるのに気付いて、紅茶のおかわりを注いでくれる。弥琴は礼を言ってカップを取り、一杯目より深みを増した味わいの紅茶を少し啜りながら、何から尋ねてみるべきかしばし考える。ゆりあが奏でるショパンの『華麗なる大円舞曲』のおかげで、心が一定の高さを保ったまま熟考できるのがありがたかった。
「白青学園ってどんな学校なの? いきなり漠然とした質問で悪いけど、実はまだ全然理解できてなくて」
「いいわよ、そんなの気にしなくて。最初は漠然としてて当たり前なんだから。弥琴はあたしと同い年だから、四月からは高等部進学よね?」
「うん。さすがに中学からもう一回やり直せとは聞いてないな」
「でしょうね。じゃあまず高等部のことを話すけど、簡単に言っちゃうと高等部は単位制なの。各々が受けたい授業を選択して、自分で時間割を組んで、より専門性の高い教育を受ける仕組み。授業や専門性の選択、方針や取り方なんかは、コミュニティーの先輩が後輩の面倒を見る形で相談に乗ったり、教務課のアドバイザーがアドバイスしたりして、最終的には本人の意思で決められるの」
「何か大学の授業の決め方みたいね。授業ってどんな?」
「普通の五教科はもちろん、専門教育だからピンからキリまでいろいろあるわよ。外国語だけでも、学びたい国の言語は、講師を空輸してでも絶対受けられるでしょうね。ピンキリって言い方は極端だけど、本当に様々なのよ。音楽なら音楽、美術なら美術、体育系なら体育系、本人の将来の夢や専門性に合わせて、とことん密度と精度の高い授業を受けられるの。まあ、専門科目って言ってるぐらいだから、そうそう簡単に受けられない授業も多いけどね」
「というと?」
「事前試験やオーディションに受からないと取れない授業もあるのよ。少人数精鋭の授業をモットーとしてるからね、白青学園は。授業の一つにしても、ある程度のレベルはほしいってわけ。それ以外にも、授業という名の個人レッスンも結構あるわ。まあ、要は習うより慣れろ。実際に時間割を組んだり授業に出てみたりしたら、なるほどこういうことかって分かると思うわ。口で言うとあまりにも壮大で、漠然としすぎてる印象しかないものね。弥琴、スープはどうする?」
「あ、ほしい。おかわりもらっていい?」
茉里はスープマグを二つ手に持ってキッチンへ行き、スープの手鍋があるコンロに火を点けた。
「弥琴は音楽専攻なんでしょう?」
「うん、多分。でも、詳しくはまだ何も言われてないの」
「でしょうね。今は春休みの時期だから、来年度の授業についてはこれからだと思うわ。でもきっと、専門性の高い授業ばかり組まれると思うわよ。それもハイレベルでタイトスケジュールなやつ。最初のうちは授業に出るだけで精一杯でしょうけど、長い目で見たらきっと財産になるわ。だから学問的に言えば、ここは日本一恵まれた環境よ。こんな辺鄙な島だけど、カリキュラムや授業のクオリティー、講師陣は世界にも通用するレベルなんだから」
茉里は温め直したスープを弥琴の前に置き、自分もスープマグを手に椅子に座り直す。
「あたし、時間割ってどうなるんだろう。茉里はもう決めてるの?」
「全然。まだ来年の授業予定自体、発表になってないのよ。今、白青島は春休みに入ったばかりなの。毎年、四月からの授業計画は三月末に発表される決まりだから、それまでは各々自由に過ごすしかないわね」
弥琴は程よい温もりのスープを啜りながら、次に何を訊くべきかを思い巡らせる。茉里は確かに織田よりも詳しく教えてくれたが、授業については話だけを聞いてもまるで現実感が伴わず、雲の上みたく遠い話としてしか捉えられなかった。
茉里が言うように、きっと実際に時間割を組む段階にならないと、詳細も実感も頭には入ってこないだろう。もっと掘り下げてもいいとは思うし、茉里も嫌がることなく答えてくれるだろうが、教えてもらっても気持ちがついていけない自信があったので、弥琴は別のことを訊いてみることにした。
「じゃあごめん、授業のことはまた教えてもらうとして、次に気になってることを訊いてもいいかな?」
「どうぞ」
「《ゴッドチャイルド》って何?」
『華麗なる大円舞曲』が終わり、数秒の空白の後、ゆりあがまた違う曲を弾き始めた。雰囲気や気持ちが暗くならないよう、選曲を彼女なりに配慮してくれているらしい。三曲目として流れてきたのは、バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』だった。個人的にも好きな教会音楽を思いがけず聴けて、弥琴の唇から思いがけず微笑が零れる。今まで聴いてきた中で一番優しくて穏やかな音色が奏でる好きな曲に、弥琴は感じ入るように耳を傾けていた。
茉里はサンドイッチの最後の一切れをゆっくり食べながら、
「随分と単刀直入に、さっきよりもざっくりと来たわね」
「ごめん、ストレートすぎたかな」
「いいえ。あれこれ言葉を重ねられて要点がぼやけるより、端的で分かりやすいほうがあたしは好きよ」
茉里はサンドイッチを完食すると、己のティーカップに二杯目の紅茶をゆっくりと注ぐ。
「コミュニティーについては校長先生から聞いた?」
「うん、ある程度は。まだよく掴みきれてないけど」
「それで充分。《ゴッドチャイルド》は、他のコミュニティーと違うところがいくつもあるの。まずメンバーの選び方。他のコミュニティーは、学生課が生徒一人一人のキャラクターや適性、将来の方向性なんかを鑑みながら選出して、最終的に校長先生がそれを承認したら決定なの。だけど、《ゴッドチャイルド》のメンバー選びに、学生課は一切関与しない。メンバーは全員、校長先生がご自身の判断で選んできた者たちで、承認するのは校長先生を長とする理事会なの。でも、理事会の承認といっても、所詮は事後報告のようなもの。だからあたしたちは、校長先生の独断と偏見で選ばれた面々ってわけ」
「その選ぶ基準って何なの? 校長先生の気紛れ?」
「一般的には、それなりの条件があると言われているの。まずは成績が学内トップクラスであること。学年じゃないの、学内よ。要はそれぐらい頭の偉さがほしいってわけ。でも、単純に勉強だけに秀でたばかはいらない。学力以外にも、他人より明らかに突出した能力があること。それは人間的なというより技術的な、あるいは先天的なと言ってもいいレベルね。学園の一般論として、《ゴッドチャイルド》のメンバーになるためには、まずは学力を飛躍的に向上させて、目に見える結果を残すこと。そして、人間的にも能力的にも優れていること。最後に、その実力や人間性を校長先生に認めてもらうこと。これが泌須条件。だけど残念ながら、今までそんな風にして校長先生に見初められたメンバーはいないわ」
「いないってことは……」
「そう。あたしたちは全員、白青学園に入学すると同時に、校長先生によって《ゴッドチャイルド》に選ばれたってこと。一般の子の夢を壊すといけないから言ってないけど、後から見初められて選ばれるなんて、まやかしでしかないのよ。ゆりあ、そのまま何かしらミサ曲を弾いていて。こういう話をする時は、そんな曲のほうが落ち着くわ」
曲がもうすぐ終わるのを感じ取ったのか、茉里がそんな言葉をグランドピアノに向けて飛ばす。その要望に応えるように、『主よ、人の望みの喜びよ』を弾き終えたゆりあが次の曲として選んだのは、同じくバッハの美しい教会音楽だった。さすがにタイトルがぱっと浮かぶことはないが、好きでよく聴く平原綾香が、『Sleepers, Wake!』というタイトルでカバーしていた、その原曲だということはすぐに思い出せた。
「《ゴッドチャイルド》はね、選ばれ方だけが特別というわけじゃないの。他にもいろいろ、一般生徒には許されてない特権があるのよ。たとえば一般生徒は皆、男子なら男子寮《アルタイル》、女子なら女子寮《ベガ》で暮らす決まりだけど、あたしたち《ゴッドチャイルド》には、あたしたちだけが自由に使っていい専用寮《ノーザンクロス》が与えられている。まずこれが一つ。二つ目は、学園本部とは別の意味で、生徒を管理する権限が与えられていること。たとえば校則違反を犯した生徒の取締り、処分の決定権限、門限外の夜歩きや立入禁止区域への侵入がないかを見張るためのパトロールとかね」
「じゃあ、もしかしてさっき大食堂で言ってたのって」
「ええ、そう。あれが一番分かりやすい例ね。校則違反を犯した子には、それが発覚したら、教師たちじゃなく《ゴッドチャイルド》が処分を決めるの。いわゆる風紀委員会や生徒会の厳しい版、完全なる学生自治ね。生徒たちがしでかしたことは、生徒たちのトップに君臨する《ゴッドチャイルド》が落とし前をつけるのが、白青学園の決まりってわけ」
「……何かすごいね。少なくとも、あたしのいた中学にはまずなかった概念」
「でしょう? あとはそうね、学校行事に関してかしら。学校っていろいろイベントがあるでしょう? 白青学園もいろいろがあるのよ。そりゃあもう派手で豪華で、贅を極め尽くしたイベントたちがね。それらの開催承認や運営団体の監督も全部、あたしたち《ゴッドチャイルド》がやるの。逆に言えば、《ゴッドチャイルド》の許可なしには、白青学園でお祭り騒ぎをすることはできない」
「はあ……」
「そんな感じで、あたしたち《ゴッドチャイルド》は白青学園の生徒のトップに立つ存在であり、学園運営に関与するだけの発言力と実力を兼ね備えてる。だけど裏を返すなら、それだけ一般生徒と差別化された破格の扱いなわけだから、個々の実力や能力の高さ以上に、自覚と責任感も一般生徒以上に求められるの。特別扱いには、特別扱いされるだけの心構えが必要なのよ」
茉里はそう言い切ると、開いた口が塞がらない弥琴を置いて、空になった朝食の皿をてきぱき片付け始める。手伝おうと慌てて腰を浮かした弥琴を、茉里は何枚か重ねた皿を片手に持ちながら、
「ああ、いいのよ。あんたはゆっくりしてて。ゆりあ、ストップ。男子寮に行って、あいつらをみんな呼んできてちょうだい」
茉里の指示に、ゆりあはすぐさまピアノを弾く手を止めてグランドピアノから離れる。そして嫌がるそぶりも全くなく、ぽやんとした表情のまま無言でリビングを出ていった。
弥琴はその後ろ姿を見送ると、
「ますます分からない……。何であたし、そんな大それたグループの一員に選ばれちゃったんだろう。人より優れた学力とか能力とかまるで持ち合わせてないし、そんな心当たりもないんだけど」
「自覚がないってことは、驕りがないってことよ。いいんじゃない? それはそれで。まあでも、今は意味不明だったとしても、いずれ分かる時が来るわ」
「……いずれって、いつ」
「そうね。そんな遠い未来じゃないことだけは確か」
茉里はキッチンから人数分のコーヒーカップと、先程とは違う柄の大皿にスコーンを載せて、食卓のテーブルではなく、ソファスペースにあるガラステーブルへと運んでいく。
「ま、今言ったのは、あくまであたしたちのパブリックイメージ。一般生徒たちに周知されている《ゴッドチャイルド》像よ」
「何それ、どういう意味?」
「言葉のままよ。さっき言った、あたしたちのやることや存在意義、それは決して嘘じゃないわ。だけどそれ以外にもある。一般生徒には一切知らされていない、あたしたちの本当の存在意義と秘密がね。弥琴は名実ともに《ゴッドチャイルド》の一員だから、自己紹介も兼ねてちゃんと教えておくね」
茉里の言葉の真意を図りかねた弥琴は、どう返していいのか分からずに黙り込む。その間にも茉里は茶器をガラステーブルに運び、てきぱきと準備を整えていっている。
先程の茉里の言葉からして、ゆりあは向かいの男子寮に他のメンバーを呼びに行ったのだろう。朝食を終えたばかりだというのに、次なる展開が間もなく訪れようとしていることに、弥琴は早くも心が追いつかずに戸惑いを深めていた。
リビングの扉が音を立てて開き、弥琴は反射的にびくりと硬直する。入ってきたのは、外見こそ違うが、美形であることは共通している四人の男子とゆりあだった。
「おっ、さっそく新入り発見。何、どうしたの。鳩が豆鉄砲食ったような顔してるけど」
「
「何だよ茉里、あからさまな嫉妬か?」
「やめろ慶人。減らず口を叩くだけなら、先にソファに座れ」
「ったく、相変わらず真面目だねえ、信哉は。世間ではそれをむっつりって言うんだぜ」
「茉里、僕が手伝うよ。このお皿をテーブルに持っていけばいいの?」
「ありがと侑多、助かるわ。お願いできる?」
「分かった。僕が小皿を全部持つよ。だから、ゆりあはそこのコーヒーカップを三つお願い。大丈夫? 割らないよう気を付けて」
「うん、侑多」
「ちょっとシェイン、あんたもぼうっと立ってないで、コーヒーを運ぶなら運ぶ、ソファに座るなら座る、どっちかにしてくれない?」
目の前で繰り広げられる会話劇を、弥琴は食卓のテーブルに座ったまま、ただぽかんと見つめるしかできなかった。彼らは茉里がまだ運びきれていなかった茶器をてきぱきとガラステーブルに運び、それが終わったらL字型のソファにどっしりと腰を下ろす。ソファは五人が座ってもまだ充分に余裕のある造りで、女子より早く腰を落とした男子たちは、それぞれが慣れた手つきでセッティングを進めていく。
「弥琴、あんたもぼうっとしてないで早く移動して。これはあんたの歓迎会を兼ねたお茶会なんだから、主役が早くそっちに座ってくれないと始まらないわ」
「ええっ」
「弥琴、行こう」
驚く弥琴に、ゆりあがすぐ傍まで歩み寄って手を差し伸べる。弥琴は戸惑いながらもその手に引かれ、L字型ソファと向き合う位置にある一人掛けソファにおずおずと腰を掛けた。
茉里はL字型の一番端の、弥琴に最も近い位置に座る。そして、弥琴には明らかに搾りたてと分かる鮮やかなオレンジジュースを、ガラスコップになみなみと注いでくれた。
「じゃあ、全員揃ったところで初顔合わせといくわね。順番に紹介していくわ。向かって一番奥から慶人、シェイン、信哉、侑多、ゆりあ、それであたし。最年長はシェインで、春から高二。最年少は侑多とゆりあで、春から中二。信哉と慶人、あたしと弥琴は同い年で、春から高一。今日からこの七人で暮らすの。改めてよろしくね」
弥琴はぱちぱちと瞬きをする。そして紹介された面々と改めて向き合った。
ソファの一番奥、弥琴とちょうど真向かいの位置に座る慶人は、ぺたんと落ち着いた短い黒髪に、アイドル雑誌を賑わす美少年顔負けの容姿をしている。目はぱっちりとしていて愛嬌があるが、先程少しだけ聞いた声から推察するに、性格はなかなかシニカルであるらしい。
彼の右に座るのは、シェインと呼ばれた少年だ。アイスブルーの瞳や、プラチナブロンドの髪といった特徴から、生粋のヨーロッパ人であることが一目で分かる。すっと美しい鼻梁に、繊細かつ柔らかな印象を抱かせる佇まい。しかし何より弥琴の目を惹いたのは、彼の喉元に走る大きな裂傷の痕だった。見てはいけないものを見た気がして、つい反射的に目を逸らしてしまう。
シェインの隣にいるのは、同い年ではあるが、態度や話し方がやたらと薄っぺらく感じられる慶人と違い、年齢以上に落ち着き払って見える信哉だ。先程からずっと険しい目つきの彼は、思いがけない再会に内心動揺する弥琴を見ても、それらしい反応は全く見せない。
ゆりあとぴったり寄り添うようにして座る侑多は、さらりとした薄い蜂蜜色の髪に、欧州のハーフらしいと思われる目鼻立ちが目を惹く。品があって可愛らしい小柄な体躯や、幼年のあどけなさが濃く残る面立ちは、どう頑張っても中学生には見えない。
「侑多とゆりあは双子の兄妹なの。ゆりあの方が妹で、顔が似てるけど瓜二つってわけじゃないのは二卵性だからね」
「ああ、なるほど」
茉里が補足説明を入れてくれ、弥琴は先程からぼんやりと抱いていた謎が解けて納得する。侑多とゆりあが並んで座っているのをまず見た時に、その髪色といい背格好といい、他人にしては共通点を強く感じると思っていたのだ。
「えっと、なる……じゃなかった、弥琴です。これからお世話になります。来たばかりでいろいろ分からないことだらけだけど、どうか」
「よろしくって口では言いながら、何これ全員超美形、あたしだけ何か場違いな気がする、どうしようとまでは言わないの?」
よろしくと続けようとした弥琴は、いきなり被さってきた慶人の横槍に思わず面食らう。
「安心しなよ、許容範囲内だから。癖なしおかっぱ頭に色白で童顔、年のわりにちびで幼児体型。確かに明らか茉里より見劣りするけど、別にそこまで卑下するレベルじゃないっしょ」
弥琴は思わずぽかんと固まって、意味のない瞬きを何度も繰り返してしまう。
「え、嘘。今この人、何て言った? あたしの心を見透かした? いやばかな、そんな。あたし、思っただけで別に口にはしてないはず。なのに何でこの人、そんな」
「慶人!」
茉里が声を荒げるのと同時に、間にシェインを挟んで座っていた信哉が腰を浮かし、慶人の頭をばしんと引っぱたいた。
「ってえ! いいじゃん、挨拶代わりの軽くジャブくらいよ」
「お前が言うと、たちの悪い悪ふざけにしか聞こえん。余計な口を挟まず黙ってろと言ったろうが!」
「慶人、あんたってやつはどうしてほんと」
「あはは、期待に応えられたなら、それはそれは」
「誰も期待してない!」
険のある怒り顔の茉里と信哉が、同じ言葉を同時に叫ぶ。慶人はあっはっはとひとしきり笑った後、程よい温度のブラックコーヒーをぐいと煽り、大皿にあるスコーンを一つ取ってがぶりと食べた。
ただ絶句するしかない弥琴を、信哉と茉里は深々とため息をついて気の毒そうに見やる。
「悪いな、弥琴。こうなることは容易に予想がついてたから、一応歯止めはかけておいたんだが」
「慶人はほんと、救いようのないばかなの。気を悪くしたと思うけど、後で思う存分罵ってやっていいからね」
「つまりどういうことかというと、俺たちはそういう集まりなんだ」
思考回路が完全にフリーズした弥琴に、信哉は事実だけを端的に淡々と告げた。
「俺たちは全員、超能力を持ってるんだ」
弥琴はその言葉を聞くなり、ソファからずるっと落ちかけた。その反応にメンバー全員が目を丸くし、一番近くにいた茉里が慌てて、体勢を見事に崩した弥琴を支える。
「びっくりさせたよね。ごめんね。このばか慶人のこともあるから、もうちょっとうまく説明ができるように話を運ばなきゃねって、信哉とも言ってたんだけど」
「目論見が見事に崩れちゃったと。どんまい茉里!」
「うるさいばか慶人、あんたが言うな!」
「よせ茉里。慶人、お前はしばらく黙ってろ。俺がいいと言うまで、口自体を動かすな」
「うわあ、それマジ勘弁。つまんなさすぎ」
「黙れと言ったろうが!」
信哉は慶人を一喝すると、軽く咳払いをして居住まいを正す。そして、彼が改めて一から説明してくれた《ゴッドチャイルド》の真実は、弥琴の心に一番大きくて重い岩を何個も派手に落としてきた。
信哉いわく。《ゴッドチャイルド》は成績優秀で人物評価が高いという以外に、所属する全員が、他人が持ち得ない特殊かつ稀有な能力を持っている。それは、一般的に超能力と呼ばれる部類のものや、常人の数倍は抜きんでた鋭敏な感覚や技能なども含む。
《ゴッドチャイルド》は白青学園の創立当初から存在しているコミュニティーで、所属メンバーは代々、学園が日本のみならず世界中に張り巡らせた独自のネットワークによってまず見出され、校長の目利きによって最終的に選び抜かれる。そして、いわばスカウトの形で白青学園に入学してくるのだ。
他人が持ち得ない能力を持っていることで、白青島の主に選ばれ学園に集められた少年少女は、実際の成績や人物評価云々にかかわらず、入学後は自動的に《ゴッドチャイルド》に所属することになる。しかし、そういった《ゴッドチャイルド》の裏事情は極秘事項であり、その公表も厳禁というのが絶対の決まりだ。《ゴッドチャイルド》の真実を知っているのは、白青学園校長である織田とその秘書の菜子、理事会に名を連ねる面々という限られた者だけで、島内で働く職員にもその秘密は一切明かされていない。
《ゴッドチャイルド》の面々が持つ能力は、人によって性質も程度も見事なまでに異なる。
信哉が持つのはサイコメトリーという、俗に超能力と呼ばれるものだ。手で触れるだけで、その人や物に宿る記憶や感情を、深部まで詳らかに読み取ることができる。
「昨夜お前が《月の洞窟》で溺れかけた時のことを覚えてるか? あの時俺は、事情も分からぬままお前を追いかけたけど、合流した時にその腕を掴んでお前の記憶を読み取り、事の経緯を理解した。だから俺は、あの後お前を責めなかったんだ。お前が事情を話さずとも、俺は全てを読んでいて、お前に非がないというのも知っていたからな」
慶人はマインドリーディングの力を持つ。これも超能力の一種とされるもので、つい先程弥琴の内心をすらすらと当ててみせたように、他人の胸の内を瞬時に読み取ることができる。
「論より証拠。手っ取り早く、かつ一番分かりやすくやってみせてあげたわけ。何なら今この瞬間、あんたが思ってること、さっきみたいに一言一句、みんなに披露してやろうか?」
茉里は、超能力とまではいかないものの、並外れた記憶力の持ち主であり、一度目にしたものや聞いたものを細部にわたるまで全て記憶し、いつでもそれを思い起こすことができる。
「こいつらと違って、あたしのは別に、そんな大層なもんじゃないの。ただ、人よりいくらか物覚えがいいってだけで、それ以外はごくごく普通なのよ」
侑多は聴覚が人の数十倍は優れており、どれだけ小さくて遠い音でも、はっきりと正確に聴き取ることができる。そして、未熟なためまだまだ扱いきれていないが、未来に起こる出来事を映像として見ることができる予知能力も兼ね備えている。
「昨夜の出来事、実は最初に気付いたのは僕なんだ。寮の部屋で課題をしてたら、《ベガ》寮の生垣を突破する音がいきなり聴こえてきて、これはただ事じゃないと思って。そういえばあの時、弥琴の歌声も聴こえてきたよ。洞窟で怖い目に遭ってるだろうにってちょっとびっくりしたけど、澄んでいて、とても綺麗な歌声だった」
ゆりあは霊媒体質で、魂や霊体と呼ばれるものを見たり聞いたり、またそれを呼び出して己を依代に憑かせることもできるという。それ以外にも植物や動物、風や水といった声なきものの声も聴けるという、神話の時代にいたとされる巫女のような力を生まれ持っている。
「生きてるものの声も、生きてないものの声も、みんなゆりあには聴こえてくるの。みんな、ゆりあが話しかけたら、ちゃんと答えてくれるんだよ」
シェインはテレパシーの使い手で、声帯と唇を駆使して言葉を発することなく、己の思考を相手の脳裏に響かす力を自在に操る。離れた場所にいる人間に意思を飛ばすことは勿論、普通に会話するのと同じ要領で、複数の相手に同時に伝達することもできるという。
「という感じで、ざっくりとした説明にはなったけど、大体のことはこれで話せたと思う。つまりだな。……弥琴? 大丈夫か?」
話をまとめようとした信哉に名を呼ばれ、弥琴は慌ててはっと我に返る。彼に声をかけられるまで、自分にとって未知の領域とも言うべき話を聞かされて、相槌だけでなく呼吸すら忘れていたことに、弥琴は少しも気付いていなかった。同じ体勢と同じ顔つきで長いこと硬直していたせいか、息を吸うために上下させた喉の奥も、平静を装おうと力を入れた頬の筋肉も、僅かに動かすだけで電気が走るような鋭さで神経を刺激する。
〝突拍子もない話で驚かせてごめんね〟
「はっ?」
誰も声を発していない沈黙の中で、弥琴の脳内にはっきりと誰かの声が響いた。それは鼓膜を直接震わすのではなく、脳裏でぱんと弾けるように生まれ広がるような声だった。
これまでまずなかった感覚で聞こえてきた声に、弥琴はまたしてもソファから派手にずり落ちかける。バランスを崩した体をすかさず支えてくれた茉里が気遣わしげに、
「どうしたの? 大丈夫?」
「い、いきなり声が、頭の奥で」
声をうわずらせる弥琴に、茉里はすぐ合点のいった顔になる。しかし、彼女がすんなり納得した意味が、弥琴にはさっぱり分からない。
茉里の手を借りて座り直した弥琴は、ふと視線を感じて顔を上げる。すると、信哉と慶人の間でゆったりと腰掛けたまま、先程から一言も発さず佇んでいるシェインと目が合った。
〝怖がらせたなら謝るよ。だけど僕は、こういう形でしか人とコミュニケーションが取れないんだ〟
またしても鼓膜ではなく脳裏に直接声が響いてきて、弥琴は思わずひっと小さな悲鳴を上げてしまう。引き攣り顔で慄く弥琴に、茉里が宥めるようにそっと肩に手を置いた。
「今、何か聞こえたの?」
「う、うん。でも何で? 誰も、一言も喋ってないのに。ま、茉里には聞こえてるの?」
「それはシェインのテレパシーよ。シェインが力を介して、弥琴に直接話しかけてるの。一対一で伝えてるから、あたしたちには聞こえてないけど、弥琴の中に聞こえてきた声が、シェインの声なの」
〝そういうこと。ごめんね、驚かせて〟
自分だけにしか聞こえない声を聞いたのは初めてだ。これが俗に言う幻聴なのか。そんな疑念に駆られた弥琴は、右手で己の右頬を思い切りつねっては、渾身の力でばちんと引っぱたいてみた。
「み、弥琴っ」
あまりに思いがけない行動だったのか、茉里が頓狂な声を上げて、右頬を押さえて痛がる弥琴の肩を揺する。
「落ち着いて。別にあんたがおかしいわけじゃないの。そうじゃなくて、シェインは元々声が出せないの。だからそういう話しかけ方をするだけで」
〝そうなんだ。見てのとおり、僕は声帯に傷を負ったせいで、声を出して話すことができない。だから今、僕が持つテレパシーの力を使って、弥琴の心に直接話しかけてるんだ。でも、どうやら不躾だったようだ。そんなに怯えさせるとは思ってなくて。安心して、もう話しかけたりしないから。不用意に怖がらせてごめんね〟
熱を持った右頬を押さえながら顔を上げると、シェインはアイスブルーの瞳を和ませて弥琴を見つめ返す。その表情も醸し出される雰囲気も、棘など欠片もない温和さを纏っているのに、弥琴はそれを身の毛もよだつほど怖いと思った。まるで心臓を濡れた手でじかに鷲掴みされたようで、鼓動がばくばくと音を立てて痛みが生まれるほど胸を叩く。
「何それ、嫌だ。怖い。気持ち悪い。不気味だし得体が知れない。どうしよう。これ、明らかにガチのやつだ。全員が超能力者? 信じられない。だからコミュニティーの名前が神の子供? 意味不明。まるで理解できない。ていうか、何であたしがそんなグループの一員に? 超能力なんか一切持ってないんですけど。どうしよう、怖い。ていうか気持ち悪い。こんな人たちとこれから一緒に暮らせとか、あたしいったいどうしたら」
「慶人!」
茉里がひどく険しい声で咎める。しかし慶人はどこ吹く風で、顔面蒼白で固まったままの弥琴を笑う。
「あんた、面白いぐらい分かりやすいね。こんなこと、俺が読まなくても顔見りゃ誰にだって分かるよ?」
「やめろ慶人」
信哉がきつく顔をしかめて制止するが、慶人はまるで気にするそぶりもない。
「でもさ、超能力なんて一切持ってないんですけどって、それはちょいと見当違いじゃない? あんたは人とは違う、人が持ち得ない力を初めから持ってるから、俺たちの仲間に選ばれたわけだろ? だって、端から無能な奴を、あのインテリ男が選ぶとは思えないからね」
「校長先生って言わなきゃだめだよ、慶人」
「うるさい侑多、おむつの取れねえガキは黙ってろ」
小声ながらもおずおずと窘めた侑多を、慶人は口汚く罵って撥ねつけた。
「ねえ新人ちゃん。あんた、あのインテリ男に何を見込まれたの? ……ああ、歌? 類い稀な歌の才能を持ってるって言われたわけ?」
弥琴はぎょっと肩を震わせる。その反応がよほどおかしかったのか、慶人はまた面白げに笑い声を立てた。
「なるほど。無自覚だけど、あんたは天才だよって褒められたわけか。いいじゃん、おめでとう! じゃあその才能、さっそくここで俺らに披露してみせてよ」
「へっ」
思わぬ展開を投げつけられ、弥琴の声が変な響きで裏返る。それは信哉や茉里にとっても予想外の提案だったようで、二人とも困惑しきりの顔で互いを見やった。侑多とゆりあは先程よりもさらにぎゅっと身を寄せ合い、特に侑多ははらはらと揺れる瞳で事の成り行きを見ている。慶人の隣に座るシェインは先程から身動ぎすらしないが、そのアイスブルーの瞳はいやに怜悧に研ぎ澄まされていた。
うろたえさらに青ざめる弥琴に、慶人はソファにふんぞり返って挑発の言葉を次々放つ。
「あんたの才能は歌なんだろ? あのインテリ男もそう太鼓判を押したんだろ? なら、どれだけ素晴らしく歌えるのか、俺たちにも見せてみてくれよ。ああ、アカペラが無理なら伴奏つきでもいいぜ。侑多かゆりあに言えばいい。こいつらが知らない曲なんてそうそうないから、曲名さえ言えば譜面なしでも弾いてくれるさ」
「ちょっと待って。そ、そんないきなり振られても」
「あれ、できないの? そりゃあ残念。拍子抜けだな。歌が得意だっていうぐらいだから、てっきり場慣れしてると思ったんだけど、がっかり」
まるで礫を浴びせるように鋭い言葉ばかり放つ慶人は、迫られるほど色を失っていく弥琴を見て楽しんでいるみたいだ。彼は言葉責めが快感と言わんばかりの歪んだ笑みで、どう返していいのか分からず口を噤む弥琴をさらに追い立てる。
「入学記念っていうせっかくの機会に、ちょっとでも面白い見世物をと思ったんだけどな。まあでも、あんたが大した器じゃないって早々に分かってよかったよ。歌の才能を見込まれて《ゴッドチャイルド》に入れられたのに、人前で歌える度胸すらないか弱い神経の持ち主なら、あんたも所詮はそこら辺の奴らと同じ、価値がないからこの島へ流れてきただけの、不用品のシール貼られたごみと同じだな」
価値がない。不用品。ごみ。決定打をがつんと食らって言葉を失くす弥琴を、テーブルを挟んで真正面の位置に座る慶人が見下げた瞳で笑う。
「おい慶人、お前いい加減に──」
見るに見かねた信哉が声を荒げた瞬間、それまで会話しかなかった室内にがしゃんと乱雑な音が甲高く響き渡った。不意に空気を割った音に驚いた全員の視線が、ガラステーブルに両手を強く突いた弥琴に集まる。
弥琴はすくりと立ち上がり、
「ちょっと外に行ってきていいかな。一人で冷静になりたいの」
弥琴はそれだけ言い残すと、気遣わしげな茉里の視線を無視して足早にリビングを出ていく。扉がぱたんと軽い音とともに閉まり、続いて玄関の扉が開いては閉まる音が聞こえ、弥琴の気配が《ノーザンクロス》からたちまち遠ざかっていった。
その軌跡を唖然と見送った信哉だったが、はっと我に返ると慌てて腰を浮かせた。
「ちょっと追ってくる。茉里、後のことは頼んだ」
それだけ告げるなり、信哉は小走りでリビングを出ていく。目の前で繰り広げられるやりとりをただ見ているしかなかった侑多とゆりあ、シェイン、危惧していた事態が現実のものとなって頭を抱える茉里の間に、気まずくて後味の悪い空気が立ち込めていく。しかし、その元凶である慶人はからりとした笑顔で、それが茉里の募りに募った苛立ちに火を点けた。
「このばか慶人! あんたって奴は、ほんとどうしようもないわね。余計なことは言うなって、あたしも信哉もあれほど強く念押ししたでしょう。なのに、何でそれにわざと逆らうようなことするの。場の空気を乱しまくっただけじゃ飽き足らず、無神経な言葉を次から次へと弥琴に投げて、ちょっとは相手の気持ちを考えなさいよ!」
「何で。必要ないじゃん、そんなの」
茉里は怒りに任せて、肘置きの横にあったクッションを慶人めがけて投げつける。勢いよく飛んでいったクッションに、その間にいた侑多とゆりあ、シェインはやや驚いた顔で咄嗟に身を引くが、顔面直撃を食らった慶人は少しも悪びれることなく、クッションをぽいと後方に放った。
「ちょっと覗いただけだけど、気味悪いよ、あの新入り。才能はもとより、まるで何も持たなすぎて」
慶人は頬を苦々しく歪ませて、口に含んだ不味いものごと吐き捨てるように毒づく。しかし、その一言が余計に茉里の怒りに油を注ぎ、直後に慶人は彼女から痛烈な平手打ちを浴びることとなった。
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