楽園へ 5
どれだけ覚悟していたつもりでも、いざ本当にそれを目の当たりにしてみると、それまであったはずの気構えなどというものはかくもあっけなく砕け散ってしまった。
「う、うわあ……」
自分でもがっかりするぐらい情けない声が漏れ、弥琴は震えながら思わず数歩後ずさる。
やっとの思いで辿り着いた《月の洞窟》は、弥琴の想像よりも遥かに不吉な場所だった。海水が絶えず寄せては返す岸壁に空いた巨大な穴。闇と同化しながらも圧倒的な不気味さを放つそれに、弥琴は持ち前の意地と勝気を、根元からぼきりと折られた気がした。
「ひ、ひええ、怖い」
小さい頃、家族で観たホラー映画の一場面が自動的に再生される。父が気紛れにレンタルショップで借りてきて、嫌がる弥琴と母を巻き添えにして観たその映画の終盤に、今目の前にそびえるそれとよく似た洞窟が出てきていた。打ち寄せる波が入り込む、月の光も届かない真っ黒の洞窟。そこへヒロインが吸い込まれるように入っていって、そして物語はクライマックスへと展開していくのだ。
映画の中の一場面とはいえ、あまりの恐ろしさに夜も眠れなくなったほどの光景と、よく似た場所へ赴く機会に出くわすなど、あの頃は露も想像していなかった。
今すぐにでも逃げ出したい。ここには自分しかいないのだから、逃げても誰かに咎められることはない。だけどそれを選んだら、ここまで必死に気持ちを奮い立たせて来た意味がなくなる。
弥琴は荒れる葛藤の渦に襲われたが、両手で頬をぱんぱんと強く叩いた。
「そうだ、歌を歌おう。歌えば怖くない。そう、怖くなんてないさ」
弥琴はそう呟くなり、大声で歌いながら歩き出した。
何を歌おうと考えるよりも先に唇が奏でたのは『マイバラード』だ。
中学三年生のクラス対抗合唱大会で歌った曲。弥琴はソプラノで、パートリーダーも務めていた。合唱大会以外にも、所属していた合唱部で、休憩時間に仲良しの部員たちと一緒に歌ったこともある。サビの手前の、畳みかけるように歌う部分が特に好きで、ここを歌う時はいつも拳に力が入ってしまう。
弥琴は腹に力を入れて、サビをこの上ない明るさで気持ちよく歌い上げた。しかし、最後の一小節に差しかかるや否や、ごつごつとした石ばかりの地面を歩く足に、海水がばちゃりとかかる。
「ひいっ」
弥琴は歌詞を呑み込んで飛び上がった。不意打ちを食らった心臓が、はち切れんばかりにばくばくとうるさい。洞窟の中は外よりも濃厚な闇に染まりきっていて、懐中電灯の光など頼りないにも程がある。
「うわあ、もうマジで怖すぎる。どうしよう」
外から絶えず入り込む波は、洞窟の奥深くまでいっているようだ。弥琴は岩壁に右手を這わせながら、懐中電灯で注意深く前方や足下を照らしながら奥へ奥へと進んでいった。
海水が流れ込んでいるのは洞窟の中央の筋で、見たところそう深くもないようだし、こちらまで流れが広がってくることはないだろう。それよりも、洞窟内に反響する波音がいやに大きく不穏に聞こえ、そのほうが暗闇の数十倍も気味が悪くて仕方がなかった。
「よし、もっと明るい歌を歌おう。明るい歌、明るい歌」
呪文のように繰り返していると、唇が再び自然と旋律を紡ぎ出す。
『あの素晴らしい愛をもう一度』は、中学一年生のクラス対抗合唱大会で歌った曲だ。
この時は一年生の中で一位、校内でも三位に入る好成績を収めた。この曲を合唱大会で歌うことが決まったと父に言ったら、『あの素晴らしい愛をもう一度』は、父より少し上の世代で流行した曲だと教えてくれ、CDで原曲も聴かせてくれた。弥琴にとって一番馴染みが深い、懐メロと呼ばれるジャンルの曲。
弥琴は心を食い潰さん勢いで増殖する恐怖を打ち払うため、高らかと声を響かせて歌いながら祠を目指していた。
足下には絶えず波が打ち寄せ、ちゃぷちゃぷと響く水音が歌声に被る。件の継姉Aは、この洞窟の奥に祠があると言っていた。だが、奥へ奥へと進んでいってはいるが、そんなものの陰はまだ見つけられない。
どれだけ奥まで進んだのだろう。弥琴は波の来ない砂利の地面に辿り着いた。制服の裾はお尻近くまで濡れており、海水が打ち寄せたせいで、両足がひどくべたついている。立ち止まることで冷静さが戻り、その隙間に恐怖が滑り込んでくることが怖くて、弥琴はすぐまた歩き出そうと懐中電灯を前に向けた。
「ひいっ」
弥琴はびくりと身を竦める。一瞬聞き間違いかと思ったが違う。弥琴を震え上がらせたのは波音そのものではなく、誰かが海水を踏み締めるようにして近付いてくる足音だった。
弥琴はぱきんと凍りついて暗闇を凝視する。すると、遠くからこちらに向かって駆け寄ってくる人影が見えた。
ついに追手が来た。弥琴はそう咄嗟に思った。警報装置とやらの作動に気付いた守衛室の人間か、弥琴の外出に気付いた寮監か、はたまた一報を聞いて駆けつけてきた教師か。
「ひっ、ひいいいっ」
弥琴はざっと青ざめ、慌てて奥へと駆け出した。
「待て! そこから動くな。今行くからじっとしてろ」
想像以上に年若い男性の声だ。弥琴は脳裏の片隅で一瞬驚くが、そんな余裕もたちまち掻き消える。
不穏な響きの波音が満ちる暗闇の中、迫りくる影と気配を心の底から怖がって、弥琴は悲鳴を上げながら全速力で走った。
「わーっわーっ、怖い怖い怖い怖い、無理無理無理無理、わーっ!」
懐中電灯を闇雲に振りながら砂利道を走っていたが、そんなに距離も稼げないうちに足が絡んで体勢が崩れる。
派手に転倒してしまうと思った次の瞬間、背後から伸びてきた手が弥琴の腕を乱暴に掴み、前のめりになった体をぐいと後方へ引っ張った。同時に生まれたその衝撃に抗えず、弥琴は握っていた懐中電灯を放り投げ、その人影を巻き込むようにして倒れ込んだ。
力のままに押し倒された人影は、しかし咄嗟に弥琴の頭を掻き抱いて、己の胸板を下敷きに衝撃を相殺してくれた。派手にすっ転んだと思った弥琴だったが、全身がさほど痛くなかったことを意外に感じ、恐る恐るゆっくりと身を起こす。
「……ってて」
地面に突いた両手の間で、微かに苦悶の声が聞こえる。砂利に転がった懐中電灯の僅かな光が、声の主の顔の陰影を薄ぼんやりと浮かび上がらせた。
自分と同年代の少年だった。弥琴は言葉もなく、彼を真上から見下ろした。息がかかるほど近くに、知らない異性の顔がある。そんな現実が、実感としてはすぐに入り込んでこなかった。
「ってえ。大丈夫?」
その言葉が耳朶に響き、弥琴は初めて、彼を下敷きにしていることに気が付いた。
「はわわっ。ご、ごめんなさい!」
弥琴は弾かれたようなスピードで飛び退いた。心臓が、恐怖とは違う意味でばくばくと胸を叩く。少年は頭を押さえながら身を起こすと、
「いや、俺のほうこそ悪かった。いきなり呼びつけたら、そりゃ驚くよな。無意味に怖がらせてごめん」
少年は殊勝な響きで詫びると、すぐさま立ち上がる。
「迎えに来たんだ」
「は?」
「お前を迎えに来た。帰ろう。ここは危険だ。出られなくなる前に早く」
だが次の瞬間、派手に打ち寄せた大波が二人の全身を濡らした。弥琴は思わず悲鳴を上げるが、塩水が思い切り喉に入って激しく咳き込む。
気付けば洞窟内には海水が満ち、二人の体は波に踊らされ海に浮かんでいた。
信じられないと思う間もなく唐突に足場を失い、弥琴は水中で慌てふためきながらも必死にもがく。だがすぐに、思いがけない強い力に腰を引き寄せられた。弥琴は少年の胸にひしと縋りつくと、ようやっと水上に顔を出して激しい呼吸をする。
「言わんこっちゃない。何でこんな真似をした! この時間帯、《月の洞窟》は満潮になると知ってて来たのか!」
鋭い怒鳴り声が降ってきて、弥琴は血の気がざっと引く音を聞いた。この時間帯、《月の洞窟》は満潮になる。今、彼はそう言ったのだろうか。
青い顔で絶句して答えない弥琴に焦れた少年は、己のシャツの裾を握る腕を、折り曲げん強さで掴む。その痛みに弥琴が思わず顔をしかめると、一瞬だけ目を閉じていた彼が吐き捨てるように呟いた。
「ちっ、嵌められたのか」
合点がいった響きで、少年はきつく顔をしかめる。
「とにかくここを出るぞ」
「で、出るってどうやって」
弥琴は彼にしがみつきながら、必死の思いで切実に訴えた。
「あたし、泳げないのよ!」
少年はぎょっと顔を引き攣らせる。金づちの弥琴を蔑んだのではなく、ただ純粋に驚き、面食らった顔をしていた。だがそれは一秒にも満たない反応で、
「じゃあ俺に捕まれ。何があっても決して離れるな。俺が浜まで連れていってやる」
「でも」
「俺が指示した時だけ息を吸え。それ以外は口を閉ざして、絶対に呼吸するな。いいか、絶対だぞ。大丈夫だ、何があっても俺が必ずお前を守る。いいな、いくぞ」
少年が大きく息を吸うのを見て、弥琴も慌ててそれに倣った。彼は弥琴が息を十分に吸ったか確認する間もなく、その頭を手で水中に押し込んで潜る。
少年は弥琴の体をしっかり抱え、波に抗うようにしながら速いスピードで泳いでいった。弥琴は目と口を渾身の力で閉じて、少年の胸に両腕を回してしがみつき、絶対に離れないことだけを考えて、彼のなすままになっていた。思考回路は完全に停止し、息苦しさと頭痛で今にも気を失いそうだ。
少年は岩陰を頼りに波に逆らって泳いでは、時折水面に顔を出して呼吸をした。
「息を吸え!」
言われたとおりに弥琴が息を吸ったのを確かめると、少年はその頭をぐいと水中へ押し込む。二人はそれを何度か繰り返して泳ぎ続けた。
今ここで少年から腕を離せば、彼の言葉に背いて水中で息をすれば、きっとたちまち死んでしまう。打ち寄せる波に時折押し戻され、前に進むことすら困難極まるのを繰り返しながら、しっかりと抱いてくれる少年の腕の強さを信じて、弥琴は襲いくる恐怖や息苦しさに必死に耐えた。
恐ろしいほど終わりが見えない時間の果て、二人は息も絶え絶えに陸へと辿り着いた。
少年に抱えられて上がったのは砂浜で、びしょ濡れになった髪と体が、さらさらと吹く風に震え上がる。弥琴は何度も激しく咳き込んで、荒れ狂う鼓動と刺すような頭痛を抱えたまま、砂浜にへなへなと崩れ落ちた。
隣に座り込む少年も同じく荒れた息遣いだったが、弥琴ほどではなかったらしい。すぐに平静さを取り戻すと、
「俺だ。一般生は無事に保護。今、《青の浜》まで戻ってきた。二人とも無事だ。一般生は女子。寮に連れていくから、そう茉里に伝えてくれ」
低く、だが確かにそう呟いた彼の独り言を訝しむ余裕はまるでなかった。へたり込んだ弥琴は、震えの止まらない肩を両手できつく抱いて、喉を引き攣らせながら小さく縮こまる。
「もう大丈夫だ。何とか陸地まで辿り着けた。よく頑張ったな」
少年は弥琴の肩にぽんと手を置く。弥琴はゆるゆると顔を上げた。
「災難だったな。怖かったろ」
「あ、あたし……」
弥琴は必死に言葉の先を継ごうとした。だが、舌が痺れてうまく喋れない。
聞いてほしいことがたくさんあった。こんな時間に一人で、興味本位で《月の洞窟》に行ったわけではない。本当は行きたくなんてなかった。どうしても怖くて不安で、だけど周りに蔑まれるのが嫌で、継姉Aに貶められたのが悔しくて。それに何より、一度呑んだ相手の言葉を、怖いからと言って投げ出す自分はもっと嫌で。
しかし、それらの感情はどうしても言葉にならず、代わりにとめどない涙が溢れた。言葉が途切れたまま泣き出した弥琴に、意外にも少年は驚かなかった。
「分かってる。怖かったろうけど、でももう大丈夫だ」
何をどう分かっているのか、少年はその詳細を語ることはしなかった。そして、喉を引き攣らせながら泣く弥琴の肩をぐいと引き寄せて、
「お前が無事でよかった」
それは心からの安堵の響きだった。堰き止めていた感情が決壊し、弥琴は彼の胸に顔を押しつけて号泣した。少年は驚いて身を引くこともなく、弥琴が落ち着きを取り戻すまで、何も言わずにただ優しく抱いていてくれた。
どれだけの時間、そうやって泣いていただろう。気付けば体は芯から冷え切り、くしゅんと小さなくしゃみが漏れた。少年はそんな弥琴にくすりと笑うと、立ち上がるなりその体をひょいと横抱きにする。
「え。え、ええっ」
「おいこら、暴れるなよ」
驚きのあまりうろたえる弥琴を気にすることなく、少年は慣れた足取りで暗闇を歩く。
初対面の男性に横抱きにされるなんて、またしても思いがけない展開が降ってきた。陽向にいる時の数倍は頬が熱く、破裂しそうな鼓動がどうしたって収まらない。こんな姿を他の誰かに見られたら、確実に頭から湯気がぼんと噴き出すだろう。何だかひどく恥ずかしくてたまらない。穴があったら入りたいという慣用句の意味を、弥琴は身をもってよく味わった気がした。
弥琴は赤くなった頬に気付かれないよう、努めてさりげない上目遣いで少年を見る。そしてはっと思い出した。
少年の面差しは、夕方に《ベガ》近くの公園で出会った彼と同じものだった。黄昏に染まる人気のない灰色の公園で一人、まるで泣いているようなバイオリンを奏でていたあの少年。
弥琴は声もなく表情を固まらせる。まさかこんな形で再会することになるとは思ってもいなかった。
驚きの形相で硬直する弥琴に、少年はちらりと視線を寄越す。弥琴はぎょっと肩を竦め、あたふたと顔を伏せた。
目が合っただけであからさまに動揺する弥琴に、少年は堪えきれずにぷっと吹き出す。くつくつと喉の奥で笑う振動が全身に伝わり、弥琴は訳が分からず混乱した。
「いや、ごめん。身構え方が面白くて、つい。少しは落ち着いた?」
「あ、えっと、はい」
「寒いだろうけど、もうちょっと我慢な。すぐ着くから」
「え、えっと、その」
動揺と緊張の針が急激に触れすぎるあまり、不自然な単語の切れ端しか出てこない。弥琴は口をぱくぱくさせていたが、一番大事なことをまだ告げていなかったと唐突に気付いた。
「あ、あの、助けてくれて、ありがとうございました」
「ございましたはいいよ。年変わんないだろ」
「はあ……。いや、でも本当に。あなたが来てくれなかったら、あたしきっと」
死んでいたと思う。そう継ごうとした瞬間、九死に一生を得た安堵と恐怖がない交ぜになって、無意識のうちにぞくりと全身に寒気が走った。
「ああ、そうだな。こっちもかなり肝が冷えた。でも、ぎりぎり間に合ってよかった」
心からほっとしたような響きに、張り詰めていた涙腺がふいに緩む。しゃくり上げそうになった顔を彼に見られたくなくて、弥琴は俯いてぎゅっと唇を結び、駆け巡る感情の波をやり過ごす。少年はそんな弥琴をちらりと見やるが、それ以上何かを言うことはしなかった。
海水に浸かってぐっしょりと濡れた全身は、時を経ることにぶるぶると震え出してくる。
「あの……あたし、成瀬弥琴といいます。今日この島にやってきたばかりで」
「知ってる」
意外な言葉を受けて弥琴は言葉に詰まる。夕方に一度会ったから顔は知っているとしても、まだ名前は名乗っていなかったはずだ。そう思って訝しむが、島に到着してすぐにあった本館での絵画落下騒動や、移動時や夕食時に、他の生徒たちから黄昏の魔女とさんざん囁かれたことを思い出して合点がいく。
しかし、それを表情から察した少年は首を横に振り、
「違うよ。お前が思ってるようなことじゃない。今日はまだ言えないけど、まあすぐに分かるさ」
彼が言わんとしている意味がよく分からず、弥琴は微かに眉をひそめた。
「俺は信哉。こんな形で会うとは思わなかったけど、以後よろしく。あ、着いた」
暗闇がさらに深まった森を抜けた途端、暖色系の電灯に照らされた黒格子の門が現れた。弥琴は何度も瞬きを繰り返してそれを見つめ、またしても状況が呑み込めなくて当惑した。
まるで信哉が帰ってきたのを視認したかのように、黒格子の門がひとりでに開いた。腕の中の弥琴は驚き戸惑っているらしく、周囲を忙しなく見回しては信哉の服の裾を掴む。
「あの、ここどこですか。《ベガ》寮じゃないですよね」
「ああ、俺たちの専用寮」
「専用寮?」
弥琴の困惑が一層深くなる。詳しく教えてほしいと訴えてくる眼差しを、信哉はあえて無視することにした。
「あたし、今日は《ベガ》寮で過ごすようにって言われてて、だからそこに戻らないと」
「今日はもう遅い。今から戻っても一般寮の入浴時間はとっくに終わってる。こんな濡れ鼠姿じゃ風邪引くぞ。いいから寄っていけ」
度肝を抜かれた顔の弥琴はなおも言い募ろうとしたが、信哉は軽い一瞥を投げてそれを黙殺した。
信哉が足を向けた先の玄関では、寝間着のワンピースに、サーモンピンクのストールを纏った長い黒髪の少女が、開け放たれた扉に凭れながら二人を出迎えた。
彼女は、全身びしょ濡れの二人にひらひらと手を振ると、
「お帰りなさい。王子も姫君も、ご無事で何より」
「茶化すな、茉里。こっちは大変だったんだぞ」
「ええ、その見てくれを見れば分かるわ。とんだ災難だったわね」
玄関に入ると、信哉は抱えていた弥琴を地に下ろす。弥琴は消え入りそうな声で礼を呟くなり、頬を真っ赤にして信哉からぱっと顔を背けた。
茉里は信哉の頭に持っていたバスタオルをばさりと掛けて、それとは色違いのバスタオルで弥琴の肩を深く包み込む。
「侑多から話は聞いたわ。あなたも初日早々、大変だったわね。お風呂を沸かしてあるわ。入っていって」
「えっ、いやいや、そんな」
「いいのよ。ほら、案内してあげる。遠慮なく上がって」
「ええっ、でもでも」
「でもじゃないの。そのままでいたら明らかに風邪引くじゃない。女は体を冷やしちゃだめなのよ。いいから早く」
「ええーっ」
挙動不審なまでにうろたえる弥琴を、茉里はバスルームのある奥へと引っ張っていく。
二人の足音が遠ざかるのを見送って、信哉は頭にバスタオルを被ったまま壁面の靴箱に凭れかかった。張り詰めていた緊張の糸が切れて、疲労と眠気がどっと押し寄せてくる。そして肺が空になるまで息を吐き出したら、ようやっと心の底から安堵することができた。
信哉が《月の洞窟》に辿り着いた時、洞窟は満潮の一歩手前だった。洞窟内へ流れ込む海水は明らかに高さを増していて、しかし怖々と危なっかしい足取りで歌いながら奥へ進む弥琴は、そんな波の変化には露も気付いていないようだった。
それは無理もないことだったと、平静さを取り戻した今なら思える。彼女を怒鳴りつけると同時に腕を掴んだ瞬間、弥琴は一切言葉にはしなかったが、信哉は事の経緯を全て理解した。降って湧いた怒りに支配されていた脳はそれで冷め、咄嗟の判断で最悪の結末を何とか回避することができた。
今思い出しただけでも肝が冷える。命の危険を味わいつつも、こうして二人とも無事に戻れたのは、単に運がよかったからとしか言えない。正直に言って、泳げない彼女を決して離さないよう抱きながら、押し寄せる波に逆らい地上を目指すのは至難の業だった。命からがらとは、まさにこのことを言うのだろう。もう二度と御免ではあるが。
バスタオルを肩に掛け、腕を組んでまた深く息をついた信哉は、近付いてくるスリッパの音でふと我に返る。弥琴をバスルームまで送り届けた茉里が、玄関へと戻ってきていた。
「送ってきたわよ、彼女。さんざん足掻いて遠慮しようとしていたけど、適当に言いくるめて、無理やり放り込んできちゃった」
茉里の悪戯っぽい笑顔に、信哉は疲労の滲んだ微苦笑を返した。
「信哉もお役目ご苦労さま。守衛室にはこちらから連絡済み。侑多が、あんたの声がちゃんと聴こえたって言ってきたから、万事滞りなく解決しましたって言っといたわ。保安員、来なかったでしょう?」
「ああ。俺が見るかぎりでは、それらしい姿は見えなかった」
「《ベガ》寮には連絡してないわ。でも、校長先生に事情を伝えておいたから、明日にでも上手く計らってくれるでしょう」
「校長にも言ったのか?」
「当然でしょう。隠し果せるわけないじゃない。通常なら校則違反者の処理はあたしたち、今回なら事に当たった信哉がしなくちゃいけないけど、今回はイレギュラー。だから、後は校長先生が何とでもしてくれるわ。それよりあんた、あの子に何も話してないでしょうね」
「当然。本人はあれこれ知りたそうにしてたけど無視した」
「なら安心。上等上等」
「どうせ明日になれば全て分かることだ。お前もそれまでは適当にかわせよ」
「言われなくともそのつもりよ」
「あと、悪いけど今夜は」
「分かってる。あの子には、朝までここにいてもらうということで。寝床がリビングのソファなのは申し訳ないけど、一晩だけのことだからね」
「じゃあ後は任せた。俺は戻るから」
「お休みなさい。風邪引かないようにね」
ひらひらと手を振る茉里に見送られ、信哉は女子寮を後にする。そして、屋根付きの短い通路を歩いて、真向かいの男子寮に戻っていった。
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