楽園へ 4

 継姉Aに肝試しの話をぶつけられ、一瞬言葉に詰まってしまったのには訳がある。実は、弥琴は幼い頃から、暗くて怖い場所やものが大嫌いだった。

 あの時は大勢の前で一方的な嘲笑に晒された上、真正面から喧嘩を売られたことで、感情がいつになく燃え盛っていた。しかし冷静になった今は、ばかにされた怒りよりも、後悔のほうがより激しく胸を占めている。暗闇しかない真夜中に、来たばかりの島の浜辺にある洞窟へ一人で行くなんて。売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、なぜそんな安請け合いをしてしまったのか。弥琴は己の浅慮ぶりが憎らしくて仕方なかった。

 本音を言うと絶対に行きたくない。ばかばかしくて付き合っていられないと投げ出すことは、きっと弥琴が考える以上に容易いだろう。それは分かっている。しかし、明日それが学園の皆に露見すれば、大勢の前であんな派手な啖呵を切っておいて、いざとなったら尻尾を巻いて逃げ出したと笑われる未来が確実に待っている。今日だけでもさんざん嫌な思いをしたのに、これ以上打ちのめされるのは耐えられない。それに、後先考えずではあったが、やってやると宣言してしまったのだ。ここで逃げるのは弥琴のプライドが許さない。

 意地と怖気の間で悩みに悩んだ後、弥琴は腹を括ることに決めた。

 寮監に頼んで白青島の地図をもらい、継姉Aに言われた場所の位置を確かめる。そして、それを見ながら脳内で何度もシミュレーションをした。

 壁時計が十一時を指した頃、弥琴はクローゼットの奥にあった非常用懐中電灯を手に行動を起こした。

 寮の玄関は《ベガ》、《アルタイル》ともに、九時に施錠される決まりだ。そして十時以降は談話室も施錠され、互いの部屋の行き来も禁止される。そのため、十時以降に建物の外へ出るには、窓から出て庭伝いに行くしか方法がなかった。

 弥琴は音を立てないよう靴を履き、地面を踏むと周囲の気配をくまなく窺う。国内最南端の夜は、本州より明らかに暑いが湿気はなく、その点では幾分か過ごしやすいだろう。僅かに涼しさを含んだ風は肌に優しく、強張った心をふわりと解してくれる。

 外に立つなり、弥琴の前に最初の難関が立ち塞がる。それは、《ベガ》をぐるりと囲む常緑の生垣だった。

 目隠しも兼ねて植えられているのだろうそれは、隣り合う木の枝と枝が絡み合い、その隙間を生い茂る葉が埋めるようにして四方を囲み、背丈も一階の部屋がまるまる隠れてしまうほど高かった。恐らく脱走や男子生徒の侵入防止の役割も負っているのだろう。寮への入口が門と玄関に限られている理由を、弥琴は身をもって知ることとなった。

「掻き分けるには狭すぎる。飛び越えるには高すぎる。……なら」

 弥琴は深呼吸して胸を鎮めると、窓のところまでゆっくりと後退する。そしてもう一度鼓動を整えると、助走をつけ生垣めがけて勢いよく突進した。

 体当たりを食らわせた生垣が、夜の静けさに大きく粗雑なひび割れを入れる。身を生垣の中へぐいぐいと入れるほど、がさがさと耳障りな音が立ち、髪や頬、露出した腕や足に枝や葉がいくつも容赦なく刺さった。

 その痛みや音を必死に無視して、弥琴は生垣の深くまでさらに強く身をぶつける。肌を傷つける枝や葉、ひび割れた静寂をさらに壊す音に構わず身を押し入れると、それまであった衝撃がふいになくなり、体が空虚な暗がりへ乱暴に投げ出された。受け身を取り損ねた弥琴は地面に全身を打ちつけるが、痛みに構わずすぐ起き上がった。

 生垣を強行突破できたのはいいが、あまりにも音を立てすぎた。響いた音を不審に思った生徒が寮監に報告して、誰かがすぐさま探りに出てくるかもしれない。弥琴はよろよろと立ち上がり、懐中電灯と地図を落としていないことを確認すると、慌ててそこから立ち去った。

 寮から外へ出ただけなのに、既に満身創痍だ。弥琴は周囲を頻繁に気にしながら、まずは《夏の庭》を目指す。懐中電灯で足下を照らしながら、森の小径を小走りで進んでいった。遠くから潮騒が低く撫でるように聞こえるだけの、濃厚で濁りない闇がどこまでも広がっている。

 辿り着いた《夏の庭》は、一面が芝生で覆われた広大な場所だった。庭というより、広場みたいに開けている。

 闇に慣れてきた目で遠くを見晴るかせば、海外にあるような古代遺跡を思わせる、石造りの野外劇場が見える。あれがきっと、継姉Aが言っていた《アルデバラン》だろう。

 《夏の庭》は地図で見るよりもずっと広く開放的で、その名から思い起こすとおり、燦々と降り注ぐ太陽と吹き抜ける風がよく似合う場所だった。しかし今は果てない漆黒に包まれており、脳内に浮かんだイメージとの差に若干戸惑ってしまう。

 《夏の庭》にはどこまで目を凝らしても人影はなく、その広がりを堂々と突っ切っても咎められる心配は皆無だった。途中で迷うことを懸念して、継姉Aに言われた時刻より三十分も早く部屋を抜け出してきたのだが、もしかしたら案外早く辿り着けるかもしれない。そんな期待を抱く余裕すら生まれ始める。

 夜露で少し濡れた芝生を踏み締めながら、弥琴は《夏の庭》をさくさくと横切っていく。そして今度は、《夏の庭》を抜けてすぐの鬱蒼と茂る森に足を踏み入れた。

 目的地である《月の洞窟》までは、行き方としてはきっと、継姉Aが言っていた、野外劇場《アルデバラン》の裏にあるという階段を下りていくほうが確実なのだろう。しかし弥琴は、その行き方は選ばなかった。

 地図で見ると、《アルデバラン》の裏は継姉Aの言葉どおり、確かに崖であるらしい。行く道も見えない闇夜の中、断崖絶壁にある階段を下りて浜辺を目指すなんて、想像するだけで背筋が凍る以上に恐ろしかった。そのため、他に方法はないかと考えてみたところ、継姉Aが言っていたのとは違う行き方を思いつくことができた。

 地図によれば、《夏の庭》を突っ切った先に《青の森》というのがある。そして、その森はどうやら《青の浜》へと繋がっているらしいのだ。怖い思いをするのが避けられないなら、せめて恐怖は一つでも少ないほうが絶対にいい。弥琴はそう考えて、継姉Aが言ってきた行き方とは違う方法をあえて選ぶことにした。

 《青の浜》に一番近い森だから、そう名付けられたのかもしれない《青の森》をしばらく歩いていると、目の前にいきなり黒くて無骨なフェンスが現れた。思いがけないものに遭遇した弥琴は地図を片手に困惑する。

 こんなものは地図には載っていない。しかし、よくよく考えてみればそれも当然だろうと思い至る。岸壁に沿うようにして広がる森なのだから、転落防止用のフェンスが設けられていてもおかしくない。

 弥琴は何気なくフェンスを懐中電灯で照らしながら歩き、そしてとある看板を見つけて思わず足を止めた。

 〈立入禁止区域。この先急斜面につき大変危険。学園生徒は立入厳禁。白青島守衛室〉

 弥琴はその文言を見て、学園に着いてすぐ菜子に告げられた言葉を思い出す。立入禁止区域には常に監視の目が光っており、警報装置が作動すればたちまち係員が駆けつける。

「警報装置ってどこ?」

 弥琴はフェンスに沿って歩きながら、四方八方に懐中電灯を向けてみる。しかし闇に溶けているのか、はたまた死角に設置されているからか、それらしいものは全く見つけられない。

 そうしてしばらくフェンスを辿って歩いていた弥琴は、あることに気付いてはたと立ち止まる。

 黒くて武骨なフェンスは森の端、つまり崖に沿う形で延々と続いている。砂浜が遠目に見えてきても一向にそれが途切れないのは、ひとえに立入禁止区域である《青の浜》に生徒を立ち入らせないためだ。そして、それを越えようとする生徒がいた時のために、警報装置が設置されているのだろう。

 そこまで思い至った弥琴は、これからどうすべきか途方に暮れた。怖さを減らしたい一心で考えたことが裏目に出て、実は継姉Aが言っていた行き方のほうがきっと無難だったと、まさか思い知るはめになるなんて。

 弥琴は懐中電灯でもう一度、フェンスやその周辺をくまなく照らす。件の警報装置がどこにあるか、肉眼ではとても確認できないし、想像もつかない。警報装置が作動すれば騒ぎになる。しかし、だからといってここで諦めてしまうのは嫌だ。腹を括ったからには目的を遂げないと弥琴の気が済まないし、それにこれからこの島で生活していく中で、ずっと他の生徒たちに蔑まれ続けることになる。

「ええいっ、負けるもんか。ここで挫ければ女の名が廃るっ」

 弥琴はフェンスから身を乗り出してその下を確認する。そして、しばらく行った先で決心を固めると、両手でフェンスをぐっと握って何度か軽くジャンプした。

 呼吸とタイミングを整えるなり、弥琴は地面を思い切り蹴って飛び上がり、肩ぐらいの高さのフェンスを難なく越えて、崖下へと全身を急降下させた。



 時刻は十一時を廻り、白青島は寄せては返す波音だけが遠く響き続ける夜に呑まれた。

 白青学園では夜九時に寮の玄関が施錠され、校舎や他の建物との行き来に使われる遊歩道の街灯も、それ以降は消灯される。生徒たちが全て寮の中に収まったことで人気が完全になくなった外は、夜空と同じかそれよりも濃い黒に包み隠され、もしどこかへ歩いて向かおうとしても、行くべき道は到底見えなくなってしまう。

 そんな夜半の闇の中を、しんゆうは迷いのない足取りで歩いていた。侑多が握る細いスモールライトが二人の足下を照らしているが、その光の範囲は極端に狭く、とても先まで見通せない。しかし、二人にとっては気にするに値しない些末事だった。スモールライトは安全のために一応持っているだけで、森であろうが普通の道であろうが、それがなくとも転ばず歩けるぐらいに、二人は夜の白青島に慣れきっている。

 信哉と侑多は、鬱蒼と茂る《青の森》をやや慎重に行く。歩幅に緊張感があるのは、転ばないよう注意しているからだけではない。歩を急きすぎて距離を詰め、相手にこちらの存在を悟られないよう気を配っているからだ。

 撫でるように鼓膜に触れる潮騒と同じ静けさで、信哉は隣を歩く侑多に確認する。

「方角はこっちで合ってるのか?」

「うん、大丈夫。間違いないよ。あ、そろそろ近くなる。ライト消すね」

 侑多はそう言って、信哉の返答を待つことなくスモールライトをオフにする。すると、辺りはたちまち延々と広がる黒に染まりきった。

「久しぶりだね、一般生の夜歩きさん。ここんとこずっといなかったでしょ」

「そうだな、にわかには信じがたいが。《ベガ》寮の生垣を突破したんだろう?」

「うん、はっきり聴こえた。あれはその音に間違いないよ。僕の耳にあれだけの大きさで響いてきたんだ、《ベガ》寮の人たちも気付いてると思うけど……」

「守衛室には何の連絡も入ってない。恐らく生徒が気付いてても、寮監が気付いてないんだ」

「時間が時間だけに、誰も言ったりしてないのかな。ほら、十一時を過ぎてから響いた音だから」

「かもな。ところで、それにまつわるいきさつは聴こえてきてないのか?」

「うん、ごめん。音が聴こえてくるまで課題に熱中してて、全然澄ませてなかったから……」

「別にお前を責めちゃいないさ。むしろ気付いてくれて助かった。いいか、ものは考えようだぞ。俺たちが先に押さえてしまえば事なきを得られる。守衛室が絡むと後始末が若干面倒だ。俺たちだけが気付いているうちに先手を打てるなら、それに越したことはない。それよりどうだ? その一般生の足取りは」

 侑多は静かに押し黙り、集中するようにじっと瞑目していたが、やがてぎょっと目を見開いて声を上げる。

「まずいよ信哉、たった今聴こえてきた。その子、フェンスを飛び越えて《青の浜》へ下りちゃったよ」

「何だとっ」

 二人は森を、脇目も振らずに全速力で駆け抜ける。そして、闇の先で星みたく点滅する赤いランプを認め、信哉は思い切り舌打ちして激しく毒づいた。

「くそっ、警報装置が作動してやがる! ばかかそいつは!」

「まずいよ信哉、その子、《青の浜》の先の《月の洞窟》へ行こうとしてる!」

 信哉は辿り着いたフェンスから身を乗り出し、その先に広がる《青の浜》全体にきつく目を凝らす。しかし、闇そのものに包まれた《青の浜》は、砂浜と波打ち際がかろうじて見分けられるぐらいで、その先を行くという人影までは判別できなかった。

「どうしよう信哉、《月の洞窟》はまずいよ。あそこは今……」

 まさかの事態に侑多がおろおろしているのが声だけで分かる。彼の懸念は聞くまでもなく、信哉も抱いているものだった。

「今何時だ」

「十一時二十分三十三秒」

 侑多は腕時計を見て言うなり、さらにぞっと息を呑んで硬直する。信哉はフェンスから身を乗り出したまま、一瞬のうちに下した判断を、振り向くことなく侑多に命じた。

「侑多、お前はまず守衛室に連絡して待機を伝達。そして寮に戻って、に事態を報告してくれ」

「分かった。でも信哉は」

「俺はこのまま《月の洞窟》へ行ってそいつを保護する。できるかぎり内々で事を済ませたいが、もしもの時はなりふり構っていられない。お前の耳で俺の危機を捉えたら、守衛室に海難救助レベルCを要請。いいな? 頼んだぞ侑多、急げよ!」

 早口でそう告げるなり、信哉はフェンスを飛び越えて、《青の浜》に危なげなく着地した。

「分かった信哉、気を付けて!」

 侑多の叫び声にも振り返らず、信哉は暗闇の砂浜を難なく疾走する。

 侑多もその背中を見送ることなく、彼の指示に従って、今来た道を急いで引き返した。森の中を必死に走りながら、胸ポケットに入れたPHSを操作しようと取り出す。

 しかしその最中、侑多はある音を捉えて思わず立ち止まった。つんのめりそうになりながらも振り返り、今しがた聴こえた音が幻聴でないことを確かめようとする。

 神経を一瞬研ぎ澄ませただけで分かった。やはり聴き間違いではない。鼓膜に今もクリアな音質で届くそれを聴いて、侑多は驚くというよりひどく戸惑った。この緊急事態の中ではあまりにもそぐわない、突き抜けて明るく朗らかな響きだったからだ。

「この歌声……これはあの子の? 何で、どうして」

 侑多は訳が分からず大いに困惑する。しかし、そのことに気を取られている余裕はない。唐突すぎる意外な展開へ傾きかける己を制して、侑多は今度こそ振り返らずに闇深い森をひたすら走った。

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