第31話
世継ぎが退室して、かなりの時間が経った。眠ったふりをしていたはずのカレンは、いつの間にか本当に膝の上で眠り込んでいる。
『きみは乞われたら、カレンを殺してあげられるのかな?』
あの世継ぎの言葉が、もう何度もぐるぐると、頭のなかでこだましている。
愚問だと、先程のルゥは答えた。カレンが望むのならすべて叶える、そのための覚悟はとうにできている――と。
それは本心半分、そして虚勢半分の言葉だ。
再会してからまだ一度も、カレンは自分の望みを口にしていない。
(今度こそずっと一緒にいてと、カレンは、そう言ったけれど)
それは本心からの望みなのだろうか。ルゥにはまだ、確信がない。
じっと思案の淵に沈んでいるうちに、もぞもぞと膝の上でカレンが身じろぎして、思わず息をのんだ。
「……カレン?」
「ん、なに、ルゥ……。あ、嘘、ごめんね、寝ちゃったみたい。重かったでしょう」
いいえ、と言う前にカレンは軽やかに起き上がってしまう。カレンの重みと熱が急にいなくなってしまって、あっとルゥは声をこぼしそうになった。だがすぐに、ルゥはいつも通りにカレンへ笑いかけ、その髪に触れた。わずかにもつれた毛先を指で梳いてやる。
「カレン。先ほどあなたのお兄さまがお見えだったのよ」
カレンは、目を瞠ってみせて、気づかなかったと言った。ルゥは苦しさを覚える。カレンのあまりに下手な嘘と、そのやさしさに。ルゥの会話を聞いていたはずなのに、なにも知らないふりをしてみせて。
カレンを手に入れて、そこで初めて、ルゥ自身の生がはじまる。いままで誰かに左右されてばかりで、何ひとつ自分では選択することのできなかった人生が。その宣言を、カレンも聞いたはずなのだ。
ルゥは目を閉じる。そして深く息を吸い込み、吐き出して、覚悟を決めた。
「ねえ、カレン」
「なあに?」
「聞かせて。カレンは、わたしをどう思っているのか。恨んでいないの? あなたから、すべてを奪って、傷つけたのに」
カレンはゆっくりまばたきをした。
「ルゥがわたしから何かを奪って、傷つけたことなんて、ある? 逆ならいっぱい思いつくけれど」
ルゥは黙ってカレンの髪を梳く。やさしいカレン。その嘘に、我慢に、いままで何度も救われてきた。けれどそうやって、カレンにばかり負担を強いることを、今のルゥは良しとしない。
「わたくしがあなたのもとからいなくなった時も。陛下の手がついて、子を孕んだ時も。世継ぎの殿下の妃になると発表された時も。なんとも思わなかった?」
「――――」
ほんのわずかに、ルゥだから気づくほど微細な変化ではあるが、カレンの表情がゆがむ。
「悲し、かったよ。あの時は。わたしには何もできないんだって……何の力もないんだって、思い知らされて。悲しかったし、苦しかった。どうにかしたいのに、どうすればいいのかわからなくて」
でもね、とカレンはくちびるを震わせて言う。ルゥの手のうえに自分の手のひらを乗せて、きゅっと軽く握り込むように指先を丸める。
「わたし、ルゥを恨んだことなんて一度もない。むしろわたしの方が、ルゥをいっぱい、いっぱい苦しめたと思うよ。わたしはこどもで、考えなしで、いつも感情的に振る舞って、いっぱいいっぱい、ルゥのことを振り回したよね」
何を言おうか、ルゥが逡巡する間にカレンは言葉を継いだ。
「わたしは大して傷ついたこともないよ。死にそうな目にあったことも、目の前で大事なひとを殺されたこともない。でも、ルゥは違うでしょう。だから全然、わたしのことなんて気にしないで」
「そんなこと言わないで」
「どうして? さっき、お兄さまも言っていたでしょう。わたしの、愚かなこどもだったわたしが望んだから、ルゥはこの国に連れて来られた。全部わたしのせいで始まったの、ルゥから何もかもを奪って、傷つけて、苦しませたのはわたしのせいなの」
「やめて、もう何も言わないで。カレンのせいなんかじゃない」
「わたしなんていない方が、もっとずっと、ルゥは幸せになれたかもしれないのに」
黙って。ルゥは怒りたかった。けれど、怒りよりも先に恐怖の感情がルゥを支配した。
カレンがもし、いなかったら。それがどれほど虚しくて、苦しくて、つらいことか、ルゥは知っている。それをまた味わうだなんて、考えただけでも息苦しくなる。
「だめ。カレンがいないと、何もわからなくなる。息の仕方も、笑い方も、ひとと喋るのでさえ、何もできなくなって……昔の、人形、だった頃のように、なって、しまうから」
「ルゥ……」
声にしてから、何を口走ったのだろうと思った。カレンの目を見るのが怖い。理解できないと思われただろうか。愚かなことを言って縋り付いているように見えただろうか。
ルゥはおずおずと視線を上げ、そこで、険しいカレンの眼差しとぶつかった。
(カレンに、拒まれた……?)
その時、カレンはルゥの手を離し、そっと腕を伸ばした。触れられたのだと気づいたのは、やわらかい指で目のしたをそっと撫でられたから。
「ルゥ。泣いてる」
「え」
慌てておのれの頬に触れれば、そこは確かに濡れていて。次から次へとあたたかい水滴が流れてきて。
反射的にルゥは手で目元を覆い、顔を背けた。見せるべきではない、見られたくない、その一心だった。
「ごめ……なさい、カレン、そんなつもりじゃ……っ」
「いいんだよルゥ、わたしが教えたんだから。ルゥは人形じゃないんだから、泣いていいし、笑っていいの。何度もそう言ったでしょ」
「そう、だけれど」
「いっぱい泣いて、その後にいっぱい笑ってくれればそれでいいの。ね、それだけ」
難しいわ、カレン、とルゥは言ったつもりだけれど、声になって届いたかはわからない。嗚咽混じりの声はルゥ自身にも聞き取れないほどだった。
カレンはルゥの背に腕を回し、なだめるようにやさしく撫でた。大丈夫、わかっているよというかのように。
こんな風にルゥに触れるひとは、後にも先にもカレンひとりしかいない。
「ね、ルゥ、わたしの望みを聞いてくれる? わたし、ルゥに笑っていてほしいの。苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、最後には笑って乗り越えられたら、それが幸せなのだと思う。もちろん、そのために、わたしはたくさんルゥを手助けするわ。今よりずっと忙しくなると思う」
だからね、とカレンは笑う。
「わたし、死んでしまいたいなんてもう考えられない。だって、するべきことが、たくさんあるのよ。まずは目の前のルゥに泣き止んでもらうこと、とか」
その笑顔を見つめているうちに、ルゥの胸のうちの思い込みが、ゆるゆると氷解してゆく。
(そうだ、カレンは――ヴェレトカレン・ロッドランドは、ずっと昔から、こういうひとだった)
ただひとり手放しの愛をルゥにくれた。彼女はルゥのように、目先の恨みや復讐に惑わされたりなんかしない。手放しにひとを愛し、愛される、そんな存在だ。
ルゥは顔を上げた。まばたきをするたび、まつげについた大粒の涙が視界をよぎってぼやけさせた。
気づけば涙はとまっていた。
「…………わかったわ、カレン、わたくしはもう泣かない。わたくし自身のために、そしてカレンのために」
「うん」
満足そうにカレンは笑う。かつて惜しみなく万人に向けられた笑み。これから先はルゥにだけ向けられることになる、笑み。
「ルゥが笑顔でいてくれるなら、それだけでわたしの望みが叶うから。だからルゥ、わたしにも教えて、あなたの願いを」
「わたくしの…………願い?」
「そうでなければ、公平じゃないもの。ね、ひとつでいいから、なんでもいいから」
ルゥは微笑んだ。なんでもいい、とカレンは言うけれど。
「わたくしの願いは、後にも先にもひとつだけ。――お願いカレン、あなたのことを愛させて。でなければ、普通の生き方なんてなにもわからない。あなたなしでは生きられない。何もかも、あなたから教わって、これからもそうして生きていくのだから」
「ルゥって、意外に甘えたがりだよね。時々びっくりするくらい」
「そうだとしたら、カレンのせいよ。カレンがわたくしに教えたのよ、この感情も、甘えていいのだということも、誰かを愛したいと思うのが、どういうことなのかも」
「そこまで言われたら、責任をとらないといけないね」
カレンはルゥの波打つ銀の髪をひと房、手にとってくちづけを落とす。それから、あの大きな黒い瞳でルゥを見上げる。
「ルゥ。今度こそ、ずっとルゥのそばにいる。わたしがわたしであるために、そしてわたしのルゥがずっと笑顔でいられるように、ずっとそばに」
「ええ。わたくしがわたくしであるために、カレン、あなたを愛し続けるわ」
そしてふたりは互いの顔を見合わせると、どちらからともなく飛び跳ねるように抱きついて、勢いそのまま寝台に倒れ込んだ。鈴を転がすような声音でルゥが笑い出すとすぐにカレンもつられて笑い始めて、止まらなくなった。
「ね、結局こどもの頃と、なにも変わらないのねわたしたち。ずっと一緒にいたいって、それだけ」
「同じだけれど、同じじゃないわ。あの頃、わたくしたちは何ひとつ、自分のことを選びなどできなかった。でも、いまは違う」
「そうだね。自分で選んで、自分で望んで、お互いの隣りの場所を自分で手に入れたんだから」
なんだかすごく幸せだね、とため息をつくようにカレンが言った。ルゥは幼子のようにちいさくうなずいて、本当に、幸せ、と短くつぶやいた。
<完>
少女は白き花を乞う 二枚貝 @ShijimiH
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