大麻、コーラ、そして斬首刑

ケン・チーロ

大麻、コーラ、そして斬首刑


 モスクにあるスピーカーから、乾いた空気を長く震わせる声が流れて来る。

 昼の祈りの時間を告げる、アザーンと言う歌だ。日本人の私にはそれは歌ではなく、呪文の様な唸り声にしか聞こえない。

 この歌が流れると、この街の多くのイスラム教徒がモスクに集まり、大地に伏しメッカに向い、祈りを捧げる。祈りは十分ほどだが、その後も人々は家にも帰らず一時間近くお喋りを続ける。その間、街の時間は止まる。

 私は汗で張り付いていた背中を椅子から剥がして立ち上がり、執務室を離れ、隣の浴室に向った。服を床に脱ぎ捨て、半分ほど水が張られている白磁のバスタブに身を沈める。水は朝方に張っておいた。太陽が上がると蛇口からは熱水が出て来る。

 そうなる前に水を溜めておく。二ヶ月前にこの街に赴任して、早々に身に付けた知恵だ。

 イラン南部のイーゼと言う街に私は居た。

 街と言っても、舗装もされていない大通りに日干し煉瓦造りの薄汚れた建物が並び、その建物の後ろに、白い漆喰壁の簡素な家がひしめくように建ち並んでいる。

 名前はあるが地図に載っているのかも怪しい、土漠に囲まれた街だ。

 戦後三十年、永遠に続くと思われた日本の経済成長は、産油国の原油輸出規制の一言であっけなく終焉を迎えた。資源の無い国の脆さを痛感した日本は、イランの地下に眠る天然ガスに目を付け、イランと共同で天然ガスの液化プラント建設プロジェクトに乗り出した。そして二千億円近い資金と、本プロジェクトに必要な多くの人員が送り込まれた。

 私もその一人だった。旧財閥系の会社がプラント建設の中心を担ったが、その会社が私の勤める建設会社の親会社だった縁で、この国家的事業に参加する事になった。

 だが私はプラント本体の工事ではなく、そのプラントで働く従業員用の宿舎建設の現地所長で、その所長職も体調不良で帰国した前任者の代理と言う立場だが、それでも海外勤務は私のキャリアの一つになると、その時は思った。

 だが、テヘランの国際空港に迎えに来た奥濱と言う男の話を聞いて、その思いが浅はかだったと気づかされた。

 奥濱は私の現地での補佐役と聞かされていた。肌は浅黒くパンチパーマで、背は私より一〇センチは高く、眉も腕も太い。日本の現場でもよく見かけるチンピラ風情の男だった。奥濱は、私を迎えた時からずっとニヤニヤと薄笑いを浮かべている。

 その奥濱から、現場の話を聞かされ愕然とした。

「二〇パーセント? それは躯体の進捗率ではなくて?」

「ええ、未だ基礎工事の段階です。本社にはそう報告しましたが、聴いていませんか」

 奥濱は悪びれる様子も無く、薄笑いを続けながら言い放った。

 本社での説明では宿舎建設は既に半分終わっており、計画では今年末に外構を含め完成すると聞かされていた。到着ロビーは大勢の人で溢れかえり、人いきれで汗ばむほどだったが、私の汗は冷や汗に変わっていた。

「遅延の理由はなんだ?」

「まあ色々ですよ。あえて言えばお国柄ですかね。何でも揃う日本とは違いますし」

 事態がまだ呑み込めない私は、長旅の疲れと時差ボケも加わり、軽い眩暈を覚えた。

「ではホテルに行きましょうか」

 絶句し立ち尽くしている私に背を向け、奥濱は私のカバンも持たずに、人波の中に消えていった。私は慌ててカバンを持ち、トランクケースを引っ張って奥濱の後を追った。

 奥濱は到着ロビーからドアを抜け、一足先に外に出ていた。奥濱を見失わないよう、私はあちらこちらで人にぶつかりながら進んだ。中には私に向かって声を荒げて何か言ってくる者もいたが、立ち止まって謝る余裕などなかった。

 ドアの近くも人が大勢滞留していて、それをかき分けどうにか外に出た。

 私の息が一瞬止まった。湿気はないが、サウナでも味わったことのない熱い空気の塊が顔面に貼りつく。意識して呼吸をしないと窒息しそうだった。

 その呼吸によって入ってくる空気は当然熱く、臭い。油と汗が混じった様な、今まで嗅いだことのない異臭だ。

 そして聞こえてくるのは、車道を覆いつくしている埃だらけの車から鳴り響くクラクションと、喧嘩をしているのかと思う程大声で話し合っている異国の言葉。

 この地に降り立って数刻も経っていないのに、私はここに来たことを激しく後悔していた。

 私を置き去りにした奥濱は、『TAXI』と書かれた標識の横で、呑気にもタバコを燻らせながら立っていた。怒鳴りつけよう近づくと、私に気づいた奥濱が、傍らに止まっていたバンパーのない薄汚れた白いセダンの後部ドアを開けた。

「これに乗っていってください」

 そう言うとタバコを投げ捨て、ゴンゴンと車の屋根を叩いた。開いている運転席の窓から運転手が顔を出し、奥濱と何か言葉を交わした。片言だったがそれは英語だった。

 奥濱は少し大げさに首を振り、運転手に指を三本立てた。運転手は大声で何か言ったが、奥濱が後部ドアを閉めようとすると、慌てて奥濱の腕を掴んだ。

 奥濱はズボンのポケットから、ゴムで丸められた筒状の紙幣を取り出し、そこから三枚抜いて運転手に渡した。緑色の紙幣は恐らくドル札だろう。

「チップ込みで渡しましたから、ホテルに着いたらそのまま降りても大丈夫です」

 私は奥濱を睨みつけていた。

「このタクシーは流しじゃなくて、本社が契約している運送会社の車ですから危険はありません。安心して乗ってください」

 的外れな事を言っている奥濱を、私は睨み続けた。

 奥濱は、あぁと呟いてまた運転手に何か言った。ガキっと錆びた音がして車のトランクが開いた。奥濱の方から私に近づいてきて、トランクケースを掴むとトランクに入れ、力任せに思いっきり閉めた。バンッと音と共にセダンが揺れる。

「じゃあ明日八時くらいにホテルに迎えにいきます」

 奥濱は片手を上げると、そのまま人ごみの中に消えていった。


 クーラーもないタクシーに乗り、テヘラン市内にあるホテルに向かう。だがそこまでの道のりも、ホテルの外観も、晩飯を食べたのかも、何時ベッドに入ったのかも、私は覚えてない。覚えているのは、自分が誤った選択をしたという後悔だけだった。


 翌朝、二〇分遅れで奥濱はホテルのロビーに現れた。奥濱は遅れた理由も謝罪もせず、おはようございますと言って、昨日と同じ様に私の荷物を持ちもせず、さっさとロビーから出ていく。

 怒る気力もない私は、奥濱の後を追ってロビーから出た。ホテルの車寄せには、色褪せた黄色のトヨタのワンボックスカーが停まっていた。奥濱はスライドドアを開けると、こちらに荷物を入れてください、と言った。

 だがそこは段ボールがぎっしりと詰まっていて、後方も見通せないほどだった。私が座る場所どころか、トランクケースを入れる隙間すらない。

「なんだこれは?」

「昨日市場で買った日用品とか、野菜です。あっちの町では中々手に入らないので、テヘランに来た時には買いだめをしているんです」

「ケースをどこに入れろと言っているんだ」

 奥濱は不思議そうな表情を浮かべ、ちょっと失礼と言って私からトランクケースを取ると、詰め込まれた段ボールの隙間に無理やり押し込んだ。ジュラルミンのケースが変形などしないだろうが、段ボールはぎゅうぎゅうと音を立て、皺が寄り変形する。

 銀色のケースは、どうにかワンボックスの荷室に押し込まれた。

 荒っぽい奴だなと、呆れる。

「すいませんが、カバンは手持ちでお願いします」

 奥濱はそう言って助手席のドアも開けず、運転席に向かった。私は深い溜息を吐き、助手席に乗り込んだ。

 ワンボックスはテヘラン市内を進む。昨日は気づかなかったが、近代的なビルが立ち並んでいるのが意外だった。さすがに高層ビルは見当たらなかったが、車道は広く、青々と茂っている街路樹の木陰が歩道に落ちている。

 その歩道を歩く人々も、銀座や新宿を闊歩している日本の若者のファッションと大差なく、私は軽い驚きを覚えていた。

 観光気分になっている事に気づき、私は舌打ちして、奥濱に工事の遅れの理由を尋ねた。

「人手が足りないですね。それとセメントと砂が約束した日に納品されないです」

 奥濱が大きくハンドルを切りながら言った。それにつられ私の身体も大きく横に動く。

「現地人を大量に雇ったんじゃないのか。それに砂? 砂は何処にでもあるだろう」

「本社が雇ったと言ったのはバーディアと言う遊牧民で、あいつ等は時間の概念ってのが無いようで」

 奥濱はそこで声を上げて笑った。笑いごとではない。

「それにここの砂は細かすぎて骨材には向かないようです。カスピ海を浚って川砂を採掘しているんですが、そっちもプラント建設が優先で、こっちはその余り物を待っている状態ですね」

「前任者は対策を取らなかったのか」

「何度か本社に掛け合ったみたいですけど、それ以上の事は私には何とも」

 前任者は同じ系列会社ではあるが、直接面識はない。私は顔も知らないその前任者に強い憤りを感じた。それと同時に、無名の私立大学出身の私に海外出向のお鉢が回って来たのか理解した。要は厄介払いだ。

 オイルショックで傾いた会社の業績は、組織末端の私にも分かる程で、同期との飲みの場で、大量解雇や別会社への出向の話が上がるのも珍しくはなかった。

 前任者は体調不良で帰国したのではなく、不要な社員だと判断され、無理難題が累積しているこの現場に追いやられ、自ら辞職するよう仕向けられたのではないかと勘ぐった。

 一度抱いた疑念は消えず、不安は幾らでも大きくなっていく。

 私の頭から血が引き、腹の底がひゅうっと冷えていく。見えていた景色は一瞬で色がなくなり、モノクロの世界は後ろへと消えていった。

 そんな私の気持ちを知らぬ奥濱が、出身はどちらですかと呑気な口調で聞いてきた。

 保谷だ、と投げやりに答えたが、埼玉ですかと聞き返された。

「保谷を知らんのか、東京に決まっているだろ」

「すいません、田舎の出なので」

 そこで奥濱が沖縄出身だと知った。それから興味もないのに奥濱は自分の年齢や、何故イランに来たのか勝手に語り始めた。

 沖縄出身者に私は初めて会ったが、沖縄の人間は南国人特有の能天気なのかと心中で罵りながら、その時奥濱が私より一つ年上だと知った。

 奥濱は地元の工業高校を卒業した後、神奈川の親戚を頼って上京し、東京でのビル建築現場で作業員として働いている時に、海外での現場監督の話が回ってきた。給料も日本での倍近くあり、独り身だった奥濱はすぐに手を上げて、三年前にこの地に来たと言う。

 液化プラント事業は、複数の会社がイランで現地法人を立ち上げていて、奥濱は書類上は、私の親会社系列の現地法人の土木部長となっている。

「部長と言っても日本人の部下はいませんけどね」

 へらへらと笑う奥濱の話を、私は相槌も打たず聞き流していると、ワンボックスはテヘラン市内を抜け、黄色い荒野を貫くハイウェイに入った。

 日本を発つ前、中東は砂漠と言う先入観があったが、実際は土くれが果てしなく広がる黄色い大地だった。その大地に引かれた黒い舗装路の上をひたすら走る。

 開いている窓から、熱風と共に微細な埃が容赦なく車内になだれ込んで来て、喉や目の粘膜に貼り付く。窓を閉めれば、車内は灼熱地獄になるのは明らかだ。

 こちらの窓を閉めても、運転手側の窓は全開で、奥濱は閉める素振りも見せない。

 それに右側通行だがワンボックスは右ハンドルで、助手席はセンターライン寄りになり、対向車とすれ違う度、舞い上げられた埃が入ってくる。

 後日知ったが、この埃は、土くれが長い年月を掛けてこれ以上小さく成らない程崩壊した砂より細かい微粒子で、その土の成れの果てがこの国の全てを薄く覆っていた

 私はハンカチで口を抑え、目を細めて耐えていた。

 道中私達は二度、給油の為にハイウエイそばのガソリンスタンドに寄った。

 最初のスタンドに停車した時、何か飲み物を買ってくるかとの奥濱の問いに、喉の違和感と渇きに耐えきれなくなっていた私は、何でもいいから買ってこいと不愛想に答えた。

 暫くして運転席に乗り込んで来た奥濱は、私にコーラの瓶を差し出してきた。

 アラビア語が書かれたコーラは珍しかったが、手に取った瓶は冷えていなかった。

 訝しげに奥濱を睨むと、ああすいませんと私の手からコーラを取り戻し、ハンドルのスポーク部分に王冠を掛け、栓抜き代わりに器用に王冠を弾き飛ばした。

 私は呆れた表情で再び渡されたコーラを口にした。温いコーラが喉を焼き胃に落ちる。常温のコーラの炭酸は、胃の中で異常に膨れる事をその時初めて知った。

 次の給油は、それから二時間経った頃だった。

 その道中、単調な景色が続くのに飽きた私は寝ていた。常に身体が揺さぶられる落ち着かない乗り心地と暑さで、流石に浅い眠りだった。

 だから車が停まった時に、すぐに目を醒ました。

 先刻のガソリンスタンドは屋根が無かったが、ここは屋根がある。車はその屋根の下に停まっていた。周りを見渡したが人の気配が全くない。

 腕時計を見ると三時前だった。奥濱が車外に出て白い建物の中に入って行った。だがすぐに出て来て、車に近づいてきた。

「タイミング悪かったですね。丁度祈りの時間でした」

「祈り?」

 そう言って、あぁと言葉が続いた。

 ここはイスラム教の国だ。一日に数回祈る習慣があると、出国前に親会社から呼ばれ、赴任先の国の風習についてレクチャーがあった。

 中東の砂漠の国、石油が出る国、イスラム教という得体の知れない宗教の国。

 イラクについては、教科書に出てくる程度の知識しか持っていなかったが、レクチャーの内容もそれと大差なかった。ただ風俗に関しては戒律は厳しく、日本の様にキャバレーなどの飲み屋はなく、外国人相手の商売女もいないので気を付けろと、講師が半分にやけ顔で語っていたのを思い出す。

「どれくらい掛かるんだ」

「ついさっきかららしいんで、小一時間程ですかね」

「そんなに? それは仕事中でも必ずやる決まりなのか」

「仕事中でしたら多くて三回くらいですか。決まった時間じゃなくて、季節によって違うので大体それくらいです」

 昼休み時間を入れると数時間は仕事が中断している事になる。これでは工事の進捗が上がる訳が無い。

 私が絶句していると、奥濱は「ちょっと一服して来ます」と言い残し、日陰の壁際に置かれているベンチに向った。

 奥濱は鈍い動作で座ると、胸ポケットから煙草を一本取り出しライターで火を付け、煙を燻らせ始めた。少し離れているが、奥濱が実に美味そうに煙草を吸っている。

 私は諦めて腕を組み再び目を閉じたが、日陰でも風もなく狭い車内は籠った熱が逃げて行かない。

 私は耐えきれなくなり車を降りた。座る場所がある日陰は、奥濱が居るベンチしかない。日に照らされて光る白壁と、そこに斜めに落ちている黒い影が、傾いた鯨幕に見えた。

 私は溜息を吐き、深い影の中にあるベンチに向った。私が近づいても奥濱は心ここにあらずの面持ちだ。

 突然嗅いだ事も無い甘ったるい匂いを感じた。吐き気も催す程の度を越した甘い匂いだ。

 私は思わず咳き込んだ。それに反応したのか、奥濱がようやく私に目を向けた。

 薄笑いは消え、その目は溶ける様にトロンとしていて、無表情に近かった。

 私は無言で奥濱の隣に座ったが、奥濱は私に気も留めず、煙草を口に付けゆっくりと吸い、ゆっくりと吐いた。この甘い匂いは奥濱が燻らせている煙からだった。

 奥濱は私を見ると、胸ポケットに手を入れ煙草を一本取り出した。フィルターも文字も書かれていないし、紙も不細工に巻かれている。今時珍しい手巻き煙草に見えた。

「吸いますか」

 煙草を吸わない私は首を振った。

「イランの煙草なのか?」

「そうですね、大麻です」

 私は驚いて奥濱を凝視したが、奥濱は遠い彼方にある何かを静かに見ていた。


 イーゼの街には三時ごろに着いた。

 道中、大麻を吸った男の運転に気も休まらなかったが、奥濱にハンドルを任せるしかなかった。それに私は警官でもないし、イランでは大麻が合法なのか知らない。

 だがそれでも、私はこの男が心底嫌いになっていた。

 舗装もされていないイーゼの道には人が溢れ、ワンボックスが近づいてきても避けようとしない。その度クラクションを鳴らずが、ちらりと車を見るだけだった。

 暫くして、奥濱は三階建てのビルの前に車を止めた。

 ここが現地事務所で一階が執務室と私の部屋があり、外階段で上がる二階以上が奥濱を含めた現場作業員の部屋だった。

 一〇人程いる現場作業員はフィリピンや韓国からの出稼ぎ労働者達で、日本人は私と奥濱の二人だけだと本社で聞かされていたが、その彼らもプラント建設に駆り出されていて、今は奥濱だけが居ると説明された。

 錆びついた一階の扉を開けると、ムッとする熱気が漏れ出してきた。そして執務室と私の当分の住まいになる部屋は、やはり薄く黄色い埃で覆われていた。

 窓から差し込む光の中を、きらきらと埃が乱舞している。私は近くの建付けの悪そうな椅子にバッグを置くと、埃が煙の様に舞い上がる。

 私は深い溜息を吐いた。

 部屋に他の荷物を運び入れた奥濱が、食堂に行きましょうと誘った。

 長旅で疲れ果てていた私は、考える事も億劫で奥濱の後に着いて行った。

 事務所を出て、暫く歩く。通りには日陰はなく、太陽光がじりじりと容赦なく私の身体を焼く。通りに面した建物からは布の庇が出ているが、その下には食器や葦で編まれた籠が置かれている。物が置かれてない所には、絨毯の上に座り込んでいる老人が居た。

 でっぷりとしたカーキ色のズボンに半袖の肌着の様な白いシャツ。首には白いマフラーを巻き、水煙草を吸っている。前を通ると、あの甘い匂いがした。

 その老人の深く窪んだ眼窩の中の目が、私を睨んだ気がした。

 やがて青い庇の前で奥濱が止まり、そのまま建物の中に入って行った。

 そこが食堂だった。元は食料も扱う雑貨屋だったが、本社が金を積んで社員食堂として契約したと、奥濱が言った。食堂と言ってもテーブルと椅子があるだけで、五、六人も入れば満員になる程の狭さだった。

 奥濱が声を掛けると、奥の扉が開き、さっきの水煙草を吸っていた老人より更に老けた男性が出て来た。奥濱が二、三言話すと私をジロリと睨み、奥に消えた。奥濱は、私を新しいボスだと紹介したと言った。

 近くの椅子に座り一〇分程待っていると、オレンジ色のスープが入った底の深いボウルとスプーンが運ばれてきて、私達の前に置かれた。

 刺激的な香辛料の匂いに顔を顰めたが、奥濱はすぐに食べ始めた。

 上司より先に手を付けるのかと腹が立ったが、その腹が空っぽでは怒鳴る気力も無い。

 恐る恐るスプーンで液体を口に運び啜ると存外に美味だった。薄味だが香辛料の程よい辛味があり、味はぼやけていない。

 具は豆のみだが、噛むとすぐにほぐれて豆の甘みがスープの辛味と混ざり、食が進む。 

 腹が膨れると眠気が襲ってきた。現地事務所に戻り、扉を開けた所で奥濱が言った。

「明日も八時頃に迎えに上がります」

 私はそれにも返事せず、執務室を抜け、ベッドに倒れ込んだ。何時寝たのか分からない程だったが、目覚めは突然訪れた。正確には低く唸る様な大声で叩き起こされた。

 ブルっと震える程肌寒い部屋の中は、まだ暗い。声の正体は祈りの時間を告げるアザーンだった。

 腕時計を見ると四時。半日近く寝ていた事に呆れたが、深々と冷える薄暗く埃っぽい部屋の中で、私は異文明の国に居る事を改めて実感した。


 ひび割れた高い天井が見える。ぬるい水に浸りながら、私はこの風習も日常も日本とは全く違う異国に来てからの二ヶ月間の出来事を回想していた。

 建設現場は想像以上に遅れていた。現場で動いている作業員は少なく、多くは白い天幕の下で何もせずに座っている。動いているのは一人だけで、その彼は砂で埋まってしまった基礎の穴から、砂を掻き出していた。 

 私は別の天幕で奥濱から詳細な現場状況を聞いた。セメントと水は手配してもプラント建設が優先され、入荷日が定まっていない。

 砂はもっと深刻で注文すら受け付けて貰えず、これではコンクリートが練れない。つまりほとんどの作業が出来ない状況だ。

 私は時折吹く熱風に顔を顰めながら善後策を考えた。何より給金を払っているのに、働いていない人間を目にするのが我慢できなかった。

 暫く考えていると奥濱が言った。

「外構から先にやるのはどうです?」

「外構?」

「駐車場と塀を先にやるんです。アスファルトならすぐに手配できますし、塀と言っても一m程度で少量のコンクリでも作れます」

 馬鹿なと言いかけたが、私はそれを口に出さなかった。

 隣の建物と近接し敷地面積も小さい日本では、足場や資材を置く場所を少しでも広く確保する為に、外構は建物が完成した後に手を付けるのが常識だ。

 だが完成すれば五〇〇人が住むことになる、一〇〇〇坪近い宿舎建設現場は、見渡す限りの荒野だ。

「考えさせてくれ」

 その日はそのまま現地事務所に帰ったが、翌日私は奥濱に外構工事を命じていた。

 意外だったが、奥濱と遊牧民の作業員達は真面目に動いた。日本の現場と較べると実にのんびりとしたペースだが、さぼりもせず動く。手が空くと、奥濱の元に来て次の指示を受ける。微々ではあるが、ようやく現場らしくなってきた。

 だがやはり祈りの時間に一斉に手を休めるのが奇異だった。こんな非合理的な行動に何の意味があるのか日本人の私には全く理解できないが、これが宗教だと無理矢理納得していた。祈りが終わると間食の時間が始まる。天幕の傍に穴を掘り、焚火をして平たいパンの様な物を焼き、皆で食べている。

 この国では朝夕の二食しかない。私はその二食とも例の食堂で済ますが、昼飯が無いのはやはり堪える。

「一緒に食べませんか」

 そんな奥濱の誘いを私は断っていた。やせ我慢でもあったが、食後に彼らが大麻を吸う事に嫌悪感があった。

 だが空腹には勝てない。数日後、私は彼らの天幕に入った。その時十人程いる彼らの顔を初めて見た。作業中はターバンで顔を隠していて分からなかったが、皆若者だった。彫が深く通った鼻筋と碧眼の瞳。洋画の俳優と言っても通じるハンサムな顔が並んでいた。

 彼らは人懐っこい微笑みで私を迎え、火が消えた焚火の中からパンを取り出し、私に勧めて来た。それはクルスと呼ばれる小麦粉を練って焼いただけのパンで、食堂でも偶に出る。だが食堂と違い、今しがた地面の中から取り出したそれは、表面に炭と砂が付いていた。私は顔を顰めたが、ここまで来て断わる訳にもいかず、渋々クルスを受け取った。

 なるべく砂がついていない場所を千切って口に運んだ。

 美味だった。

 小麦の単純な甘さと、香ばしさが口中に広がる。気づけば丸々一枚平らげていた。笑い声が聞こえ顔を上げると、皆が笑っていた。奥濱も笑っている。

「一緒にクルスと食べた監督員はあなたが初めてですよ」

 奥濱はそう言ったが、私は恥ずかしさで顔が火照っているのが分かった。

 食べ終わると私は自分の天幕に戻った。そして彼らは大麻を吸う。

 当初は本当に腹立たしい行為だったが、彼らは大麻を吸い終わると、すっきりとした表情で各自の持ち場に帰って行く。冷静になって彼らの仕事ぶりを観察したが、特段薬物による仕事の遅れは見られなかった。仕事に影響がなければ態々腹を立てる事はない。

 私は大麻に関して、何も考えないように決めた。


 私はバスタブから上がった。薄汚れたタオルで身体を拭き、服を着る。

 三十分は水に浸かっていただろうか。もうこの時間なら人々はモスクから家に帰っている頃だ。現地事務所を出て食堂を目指す。昼飯はないが、コーラは売っている。

 現場には週三回出向き、残りは事務所で書類作成をするのが私の勤務形態だった。現場ではクルスが食べられるが、街では食べられない。最近は二食にも慣れて来たが、水風呂の後にコーラを飲むのが習慣になっていた。

 大通りから角を曲がると、モスクからの帰りだろう、多くの人々がぞろぞろと歩いている。彼らの装いは、テヘランで見た日本の若者風ファッションとは違い、ポンチョの様に足首まで隠す一枚布の長袖の服を着ていて、頭にはターバンか白い帽子を被っている。中にはジーンズを履いている若者もいるが、上着はやはりざっくりとした白い服だ。

 通りにいるのはほとんど男性で、時には女性の姿も見かけるが、彼女らは私の姿を見かけると家の中に隠れたり、背を向けて早足に消えていく。女性は黒い服を着ていて顔も布で隠して見えない。イスラムの教えでは、女性は家族以外の異性に顔を見せない事になっているらしいから、私は特段気にもならなかった。

 だが子供は違う。この街には多くの子供がいる。私もベビーブーマー世代だが、この街の子供の多さはそれよりも多いと感じる。その子供達十数人が少し距離を置いて、何故か笑いながら私に着いて来る。

 当初金銭やお菓子をねだっているのかと疑ったが、どうやらそうでもないらしい。

 そして私に向かって何か話している。現地の言葉と言う先入観もあり聞き取れなかったが、暫くしてそれが「オクハマ」と言っているのだと分かった。

 どうやら日本人の事を「奥濱」だと勘違いしているようだ。

 私は子供が苦手で、しかも言葉も通じない相手にどう接していいか戸惑っていたが、ただ私と一緒に楽し気に歩くだけで、店に入ると何処かへ行ってしまう。

 今日も店の手前で私の横を駆け抜けて行った。数人が振り返り無邪気に私に手を振る。私も小さく手を振り、それに応えた。

 薄暗い室内の奥に声を掛ける。店主の老人が現れ私を睨むと、また奥に引っ込みコーラを二本持って出て来る。私はそれを受け取り一ドル渡す。一々買いに来るのも面倒なのでコーラをダースで売ってくれと奥濱を通じて頼んだが、店主は拒んだ。理由を聞いたが、店主は何も語らず横に首を振るだけだった。

 柱に取り付けらえている栓抜きの金具で王冠を外す。吹き出しそうな瓶の中の炭酸をこぼさない様すぐに口に当てる。温いコーラを飲みながら、店内を見回した。

 今まで気付かなかったが、奥の壁には赤いコーラのホーロー看板が貼られている。

 世界中どこに行ってもマールボロとコーラの看板があると、海外出張が多かった同僚の言葉を思い出した。その赤い看板を見たとき同僚がどんな気持ちになったのか知る由もないが、今の私にはその看板は慣れ親しんだ西洋文明に触れる唯一の存在に見えた。

 空瓶をテーブルに置き、一本を片手に持って店を出た。

 乾いた風に乗って、遠くから子供たちの笑い声が聞こえて来た。


「人員が増えるのに嬉しそうじゃないな」

 私は運転席に居る奥濱に言った。私達はイーゼの南にあるバンダルシャプールから帰る途中だった。そこがプラント建設プロジェクトの本丸で、現地本部がある。全体工程会議に出席せよと、二日前に現地本部から連絡があった。実は毎月一回はあるのだが、宿舎建設担当の私に出席の声が掛かったのは、イランに赴任して四カ月後の事だった。

 出席しても本体と関係ない私には、何の発言機会も与えられてないが、会議後に思いもよらなかった吉報が待っていた。

 本体工程が順調に進み、宿舎建設から借り出されていた作業員を私の現場に戻すと言われた。宿舎の外構工事も終盤に入っていて、次の工程を考える時期だったので、これは喜ばしい知らせだった。

 作業員達は早ければ来週には戻って来る。

 会議室の壁際の椅子に座っていた奥濱もその話を聞いていた筈だが、奥濱は何故か浮かない顔だった。

「資材が心配なのか」

 不足していた建築資材に関しても、プラントの余剰分が廻って来る手筈になっている。

「いえ、先に相談しておけばよかった事なんですが」

 珍しく奥濱が溜息を吐いた。

「帰って来る作業員にほんって韓国人が居るんですがこいつが厄介者で」

 一ニ人いる作業員のうち、三人が韓国人で残りはフィリピン人だった。

「喧嘩っ早い奴でフィリピン人だけじゃなく同じ韓国人とも合いません。飯も一人で食って俺達と混じろうとしない。特に問題なのが酒癖です」

 ――酒? 

 この国では酒は宗教上御法度だと日本で説明を受けていた。実際イーザでは酒の類を見た事がない。

「テヘランでは酒を売っています。無論違法ですけど、公然の秘密って奴です」 

 私は呆れた。では大麻も公然の秘密なのだろうか。

「飲んでない時も荒っぽいんですが、飲むと手が付けられない。部屋で暴れる分には構いませんが『女を出せ』と街中で暴れて、街の長(おさ)に詫びを入れた事が何回もあります」

 イーザの女性達が私を避ける理由が分かった気がした。彼等には、韓国人も日本人も区別はつかないだろう。

「仕事の態度は」

「協調性は皆無ですが、一応従います」

 私は少し悩んだが、大麻と同じで仕事に多大な支障がなければ目を瞑ろう。今は一人でも労働力が欲しい。奥濱にそう伝えたが、奥濱は何も言わず頷くだけだった。

「不服か? 」

「いえ、もう一つ心配事があります」

「なんだ? 」

「会議で言っていた急進派の事です」

 急進派と聞いて、咄嗟には思い出せなかった。確か会議の冒頭でイランの国内情勢報告があった。イランの政治の実権は国王が握っている。

 だが最近急進派と呼ばれる若者を中心とした集団が、王政を打倒し国教であるイスラム教指導者を国家主席にせよと、首都テヘランで過激な行動を行っているらしい。

 私はそれを聞いて、日本の学生運動を思い出した。

 六〇年安保からの、常軌を逸していたあの騒乱も、今はもうすっかり大人しくなっている。暴力的な現状変更は、結局大衆を味方にできず、失敗に終わった。

 王政は取締を強化しており、混乱は続くが直に収束すると報告にあった。大事にはならない、と言うのが会議の雰囲気だったし、私もそう思った。

「急進派が気になるのか」

「バーディアの若い奴らが、その急進派の事にご執心で最近よく話題にします」

 私は奥濱の言葉の真意が分からなかった。

「あんな田舎の遊牧民の若造が、急進派や首都の騒ぎを知っているんです。もしかしたらイラン全土に急進派が浸透しているかも知れません」

「テヘランだけの騒ぎでは済まない、と言う事か?」奥濱は黙って頷いた。

 杞憂だろ、と私は言った。イランの政情は安定していると本社から聞かされていた。それにあの柔和に笑う遊牧民の若者達が、過激派になるとは思えない。

 ワンボックスはイーゼの街に入った。私は奥濱の懸念を忘れ、来週以降の工事の手順を考え始めていた。


 作業員達が私の元に帰ってきて二週間が過ぎた。宿舎建設は人員増加と、資材の入荷により大きく前進していた。

 当然の事とはいえ今までの不甲斐ない状態からすれば、飛躍的な前進と言える。

 奥濱が気にしていた洪と言う男は、確かに変わり者だった。

 飯の時間になっても食堂に来ない。同じ韓国人に聞いたが、食事が口に合わないので部屋で缶詰を食べていると言われた。現場で作業員全員を集合させて、当日の作業内容を伝える日があるが、一向に私の方を見ようとしない。偶に目が合えば、細い目で私を睨みつけてくる。手は遅いが特に問題を起こす訳でも無いので、私はこの男の事を大麻同様考えない事にした。

 作業員達が帰ってきてから、些細な問題はあった。

 バーディアの若者達が日当の事で文句を言って来た。最初は賃上げ交渉かと思ったが、支払いをドルではなく地元通貨のリヤルに変えてくれとの事だった。ドルが得なのにこれは奇妙な要求だった。それを彼らに説いても頑なに言う事を聞かない。お陰で私はテヘランまで戻り、両替して大量のリヤルを調達するはめになった。

 それともう一つ。コーラが消えた。

 工事の工程がやっと六割を超えた頃だった。何時ものように水風呂を終え、食堂に行くと、珍しく店の主人が店内の椅子に座っていた。

「今幾ら持っている?」

 流暢な英語で私に話し掛けて来た。いきなり話し掛けられた事よりも、英語が話せた事に驚いた。三ドル持っていると答えると主人は店の奥に行き、木箱に入った一ダースのコーラを持ってきた。

「これで全部だ、持っていけ。そしてもう入荷はないから買いにくるな」

「入荷がない? 何故だ?」

 主人は答えず、窪んだ眼で私を見ていた。何故かその眼は悲しげに見えた。

 私は戸惑いながら主人に三枚の紙幣を渡した。

 その時、コーラのホーロー看板が無くなっている事に気付いた。


 十二本のコーラは、半月でなくなった。

 その頃宿舎建設工事は、終盤に差し掛かっていたが大きな変化が現場に起きていた。

 遊牧民の作業員達が一斉に現場に来なくなった。余りにも突然で、奥濱に理由を尋ねたが、奥濱も困惑していた。工程的には残りの作業員だけでやり繰りでき、多少の工事の遅れが発生するだけだが、彼等の焼いたクルスが食べられないのが残念で、寂しかった。

 イーゼの街にも目に見える変化が起きていた。

 大通りには髭を生やした老人の写真が至る所に貼られるようになった。この目つきの鋭い老人がイスラム教の指導者らしく、祈りが終わった後、多くの人々がこの写真の前に集まり大声で議論をしている光景を見る機会が増えた。

 人気が無く死んだような街が、急激に騒がしくなっていった。

 そんな時、事件が起きた。

 私が執務室で仕事をしていると、表が騒がしい。腕時計を見ると五時前だ。ほんの少し前に車が停まる音がしたので、奥濱達が現場から帰って来たと考えたが、騒ぎを終わらない。徐々に人の声が大きくなっていく。

 私はデスクを離れドアを開けた。

 事務所の建物の前で二人の男が胸倉を掴んで怒鳴りあっている。

 二人共韓国人作業員で、一人は洪だった。周りでは残りの作業員が眉間に皺を寄せて騒動を見ていた。奥濱が二人の間に入ろうとしていたが、洪は乱暴に奥濱の手を払いのけていた。やがて洪は組みあっていた作業員の腹を蹴り飛ばした。蹴られた方は後ろにふっ飛び、尻もちを着いた。

「やめろ!」

 私の叱咤に反抗するように、洪は私を一瞬睨みつけると、二台あるうちの一台のワンボックスに乗り込み、砂塵を巻き上げながら猛スピードで走り去って行った。

「どうしたんだ一体?」

 蹴られた作業員を引き上げている奥濱に聞いた。

「洪の奴がプラント現場に酒を買いに行くから車を貸せと言って来たんです」

「酒? 今からか?」

 現場事務所で落ち着いて話を聞いたが、洪は買い込んでいた酒が無くなり禁断症状が出ていて、仕事も出来ない状態になっていた。

 作業員達は月に二度、テヘランに缶詰や日常品を買いに行くが、洪はその時に酒も買い込んでいた。だが最近酒の販売が突然中止になったと、奥濱が言った。

「プラントの現場では売っているのか」

 奥濱は首を横に振った。

「奴の妄想です。だから止めたのに。馬鹿な奴です」

 プラントまでは往復一時間ほどだ。私は洪の事より車が気になった。一台では全員を一度に現場まで運べない。道中、洪が運転を誤り、事故を起こさない事だけを願った。

 翌日、ワンボックスはいつもの場所に二台停まっていた。どうやら洪は夜中に帰って来たらしい。私は安堵した。


 一〇棟ある二階建ての宿舎は、完成間近だった。今日から足場の解体が始まる予定だ。後は内装と設備の専門業者が来る手筈になっている。私は天幕の中で、次の工程を考えていた。工程表に赤ペンを走らせていると、奥濱が私の元へ走り込んで来た。何事かと見ると、奥濱の顔が緊張で強張っていた。

 その時、奥濱の背後に多くの車がある事に気付いた。驚き周囲を見渡すと、いつの間にか、現場は車群に包囲されていた。

 そして車から白装束の男達が出て来た。

 私は息を呑んだ。男達は全員、山刀やライフルらしき銃を手にしていた。

 武装集団はゆっくりと包囲の輪を縮めていく。その中から、長身の男が集団から離れ、三人を引き連れ天幕に入って来た。長身の男は頭にターバンを巻き、腰には長い刀を下げている。私は足の震えが止まらなかった。

 男は碧い瞳で私を睨み、現地の言葉で何か言った。男の声は低く、語気は穏やかだったが、言葉の意味が分からない。戸惑っていると、私に変わり奥濱が答えた。男は私を睨んだまま、奥濱と短い会話を交わしていた。

 現場から喚き声が聞こえて来る。振り向くと、一人の作業員が大勢の男達に囲まれ、宿舎から引きずり出されてきた。洪だ。洪は狂った様に大声を上げていたが、その口にタオルの猿轡が噛まされた。

 長身の男が奥濱を向き、ゆっくりと話かけた。奥濱は頷き、インシャラ、と呟いた。

 男達が天幕から出て、洪の元に向った。

 洪は天幕から少し離れた所で後ろ手に縛られ、うつ伏せで地面に押し付けられていた。

 長身の男が洪に馬乗りになり、髪をむんずと掴み強引に洪の顔を上げた。

 ギラリと光る長い刀が、洪の喉元に当てられ、水平に一気に引かれた。男が髪を離す。洪の頭が、がくりと黄色い地面に落ちた。その地面が黒く滲んでいく。

 私はそれが現実なのか理解できなかった。

 白装束の男達が、静かに車に戻って行く。

「洪は、何をしたんだ?」

 震えた声で奥濱に尋ねた。奥濱は大きく息を吐いて答えた。

「昨日、遊牧民の少女を強姦したそうです」

 私は絶句し、膝から崩れ落ちた。


 車群が水平線の彼方に消えてから、奥濱が残った作業員達を集め事情を話したが、悲しむ者は居なかった。

 洪の遺体は、奥濱が重機を使って掘った穴に埋めた。それを見届けた後、私達は街に戻った。


 人の気配を感じて見上げると、服を着たまま水の張ったバスタブに浸かっている私の横に、奥濱が立っていた。

おさに確認しました。ここの警察は動かないそうです」

 私は返事もせず、また下を向いた。

 帰りの車の中で奥濱は、遊牧民の掟では女子供の誘拐と強姦は斬首で私刑も認められていると言った。私は何か言いかけて止めた。

 ここは異国だ。私の中の常識は意味がない。私は黙って頷くしかなかった。

 奥濱は、バスタブに沈む私を見ている。

「洪は俺が雇っていた作業員です。会社とあなたに迷惑は掛からない」

 あぁと呟いた後、私はふっと笑った。

「やはりそう思うよな。図星だよ、私はあんな奴のために責任を取りたくない。見下げた人間だろ」

 それは私の本心だった。

 洪の事は自業自得だと思っている。だが洪の処刑を見て真っ先に頭に浮かんだのが、自分の身の保身だった。人の死を目の当りにしても、私は会社での評価を気にしていた。

 最低な奴だ。私は弱々しく呟いていた。

「あなたはよくやっている」

 力のこもった奥濱の意外な言葉に、思わず顔を上げた。

 奥濱は真剣な表情で私を見ていた。

「あなたは私の意見を聞いてくれた。遊牧民の奴らと一緒にクルスを食べたし、食堂で作業員たちと飯を食っている」

「そんな事……」

「重要な事です。前の監督さん達はそんな事すらしなかった。現場での士気も違ってくるし街での私たちの扱いも変わる」

「前任者は何をしていたんだ」

「水風呂に入ってずっと泣き言を言っていました」

 奥濱が鼻で笑った。つられて私も笑いそうになった。

 皆同じ事をしていた。違ったのは、ほんの小さな行動だ。

 地の果ての黄色い砂埃の国で、私は一体何を頑なに守っていたのか。私の中の常識、仕事、会社の地位。どれもつまらないものだ。

 奥濱が背を向けて離れようとした時、自分でも意外な言葉が口からでた。

「一本、くれないか」

 奥濱は驚いた顔で振り向いた。私は笑っていたと思う。暫くして奥濱は胸ポケットから一本取り出し、私にくれた。口に咥えると奥濱が火の点いたライターを差し出した。

 火を移すと、最初は甘い香りが鼻腔を抜けたが、すぐに刈りたてのい草の様な青臭い匂いの煙が肺と口に満ちる。私は猛烈に咽た。

 笑い声が聞こえた。見ると奥濱も一服していた。タバコすら吸った事の無い私は、吸ってはゲホゲホと煙を吐き出し、また吸う。私のそれはすぐに灰になった。

 奥濱はいつものように、ゆっくりと煙を吐いている。私はその形を変えていく煙を見ながら、体が水に溶けだしていく感覚に陥って行った。


「生まれは那覇なのか? 」

 私は唯一知っている沖縄の地名を告げた。奥濱はバスタブの横に椅子を持ってきて座っている。奥濱は私を見ると、何故かニヤッと口角を上げた。

「笑わないでくださいよ」

「笑う? 笑うってなんだ」

「本土の人に言うと必ず笑われます」

「意味が分からないな」

 奥濱は、ふーっと長く煙を吐いた。

恩納村おんなそん伊武部いんぶって集落です」

 私は横に首を傾げ、そして下を向いた。水の中から両手を出し、顔を覆った。やがて浴室の中に、私達の笑い声が響き渡った。


 奥濱との別れは突然だった。

 宿舎は予定より少し遅れたが、ほぼ完成した。あとは内装と排水管や電気の配管を繋ぐだけだが、予定していたトルコの業者と連絡が取れなくなった。その為、一度私が帰国し、日本で業者を探す事になった。

 久しぶりに訪れたテヘラン市内の主要な各交差点には、装甲車と自動小銃を携帯した兵士の姿があったが、緊迫した空気は感じられなかった。

 四季の無い国に来て忘れていたが、今日本は真冬で、帰国する日は松の内になる。私がイランに来て約一年が経とうとしていた。不思議な事に、それまで私は一度も日本に帰りたいと思わなかった事に気付いた。

「正月休みも合わせてゆっくりしてきてください」

 空港での別れ際、奥濱が言った。

「すぐに戻るさ」

 そう言い、私は出国ゲートをくぐった。

 それが奥濱と交わした最後の会話だった。

 

 帰国して一週間後、イラン革命が起きた。

 ラジオのニュースでその事を知った私は、すぐに本社に駆け付けたが、何の情報も得られなかった。親会社にも出向いたが、担当部署も混乱していて、子会社の平社員の話を聞いてくれる人はいなかった。やがてイラン国内に取り残された日本人が帰国してくるニュースが流れた。

 私は羽田へ向かった。出迎えに来た彼らの家族やマスコミで大混雑する中、私は必死で奥濱を探した。だが奥濱の姿は無かった。到着ロビーには、プラント建設現場で見かけた人間も居た。人ごみを掻き分け、彼らに奥濱の事を聞いたが、本社の人間でも無く、プラント建設に携わっていない奥濱を知る者は一人も居なかった。私は親会社に再度奥濱の消息を訪ねたが、イランで雇われたフリーランスの奥濱に関する書類は、現地事務所にしかなかった。私と奥濱の繋がりは、そこで切れた。

 

 悪路に車体が大きく揺れ、それに伴い私の身体も揺れる。乗り心地の悪い車に座っていると、イーザへ向かうハイウェイの道のりを思い出す。窓から差し込む太陽の日差しも強烈で、紫外線で肌がヒリヒリと焼かれる。だが車窓からは、果てしない土漠の風景ではなく、紺碧の海が見える。私はバスに乗り、沖縄の国道を北上していた。

 プラント建設が正式に中止になった後、私はすぐに都内のビル建設現場に回された。既に始まっている現場に途中から入り、その現場を把握するのはイランで経験したように苦労する。毎日深夜まで残業が続いた。そんな中、私はあらゆる伝手を使い、中東の駐在員や中東方面に出張した人間に会った。

 当然奥濱を知る人間など居る訳がなかったが、沖縄出身で浅黒い肌の強面の男を何処かで見聞きしたら、何でも良いので報せてくれと、会った全員に頼み込んだ。

 奥濱らしき人物の、情報がもたらされたのは、それから一年半後の事だった。

 トルコで橋梁工事をしていた大手ゼネコンの駐在員が、奥濱らしき男が先月まで橋梁の現場に居たと、私に電話で報せて来た。

 その駐在員は、橋梁建設現場で働いていた日本人作業員から聞いた話だと、前置きして話した。その男の風体は奥濱そのもので、イラン革命の直後にトルコに来ていた。条件は揃っていたが、私が確信したのは、その男が橋梁建設現場を去る時、故郷の沖縄に帰ると言ったと、聞いた時だった。

 脳裏に甘ったるい匂いと共に、二人の笑い声が響く浴室の風景が一瞬で甦った。

 私は休暇願を出し、沖縄に向かった。別人の可能性もあるし、帰国していないかも知れない。それでも私は飛行機に乗った。

 真夏の沖縄は、イランよりも暑かった。

 地名は思い出したが、奥濱の家が何処なのか見当もつかない。だがその集落で尋ねればいいことだ。難しい事はない。

 バスの運転手が、目的の地名を告げた。私は降車ボタンを押した。

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大麻、コーラ、そして斬首刑 ケン・チーロ @beat07

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