第3話 真夏の桜

 東京を出た新幹線は品川を過ぎると急に速くなる。窓枠の景色は、ビルから町へ、町からトンネルへと、風のように流れ去る。

 きのうは両親の初盆だった。同じ日に死を迎えた両親。私が母の安楽死に立ち会っている間に、父は自宅で縊死した。

 叔母の声が頭こびり付いて離れない。ずっと脳の中で反響し続けている。

「和義は幸枝さんを殺して自殺した。和恵さん、あんた医者だろ。なんとかできなかったのかい」

 母は、苦痛を避けて早い死を選んだのだが、それが良かったのかどうか。安楽死は、ほんとうに安楽な死なのだろうか。当人にとっても周囲にとっても。

 母が決断してからの父は、見るに耐えなかった。母の死が耐え難いのはわかるが、どうしてそこまで苦しむのか、自分まで死を選ぶのか、と。

 遺書で初めて知った。疫病禍で避難指示が出ていたとき、父は所管の官僚だった。避難指示を解除したのは父だ。政治の意向で、決裁の印を押したという。そして、母を連れて帰京した。

 叔母が「あんた、医者だろ」と言った時、私は反論しなかった。医師免許は持っているが医師ではない。医学研究者、『国立京都防疫研究所』の非正規研究員だ。私の知識から判断すると、当時の父の行動は、明らかに適切でなかった。

 父は、自分が許せなかったのだろう。都民の健康より省内の立場を選んだことを。そのせいで母が発病したことを。私だって、当時知っていたら「所詮は保身じゃないか」と、蔑んだだろう。だが、今の私に、父を責める資格は、ない。


 私は足の間に置いたバッグからタブレットを取り出して、医学論文誌のサイトを開いた。論文投稿のページには、和恵の書いた研究論文が、いつでも投稿できる状態で置かれている。海外の若手研究者と共同で執筆した力作だ。特定不審疾患の発症を解明した貴重な研究成果で、公表すれば多くの命が救われるだろう。同時進行している異常気象と生態系の異変についても、仮説の段階ではあるが原因を示唆することができた。公表すれば、世の中は大きく変わる。


 一ヶ月ほど前のことだ。論文が完成したとき、研究部長の五十嵐に呼ばれた。

 部長室に入ったとき、五十嵐は険しい表情で私の論文を読んでいた。

 私が机の前に立つと、五十嵐は論文に目を落としたまま、小声で、しかし厳しい口調で言った。

「政府の助成研究で、この結論はないだろう」

 耳を疑った。

「何とおっしゃいましたか」

「政府の助成研究で、この結論はないだろう」

 怒りに満ちた声で、はっきりと言った。そして、顔を上げて、射抜くような視線を私に見せつけた。

「結論を変えることはできないのかね」

 口調は厳しかった。

「それは、結論を歪めろということですか」

 自然に大きな声が出た。

 部長は厳しい言葉を返した。

「歪めるのではない。適正化するのだ」

「このままだと、内閣が窮地に陥る」

 反射的に、口が動いた。

「これは客観的な研究の成果です。多くの患者さんが救われるかもしれないと自負しています。科学的に誤っているとおっしゃるのでしたら、ご指摘ください。論文誌でディスカッションしましょう。もし、科学以外の理由で、やめろとおっしゃるのでしたら、それは……」

 部長の目が、一瞬、揺れ動いた。

「それは、何かね」

 部長は腕を組んで瞑目した。私は、立ったまま次の言葉を待った。

 五分、いや十分ほどが過ぎただろうか。部長が目を見開いた。

「君は非正規で三年目だったね。そろそろ、次の職を探す頃合いじゃないかね」

 ぽかんと口を開けて部長の顔を見た。

 部長は、二の矢を放った。

「今年度で雇い止めだな」

 雇い止めは非正規の急所だ。ただの失業ではない。五十嵐の不興を買った者を雇う研究機関が、日本のどこにあるというのだろう。

 激怒と困惑が言葉になるのを、唇を噛んで止めた。

 部長の声が、急に優しくなった。

「古都大学に准教授の口がある。君にどうかと思ってね」

 破格の待遇だ。駆け出し研究者には、もったいないどころではない。あり得ないポストだ。

「これには条件がある。わかってるね」

 部長の言葉が心臓を突き抜けた。

「しばらく、時間をください」

 勝負が決まった。

「まあ、ゆっくり考えたまえ」

 会談が終わって外に出た。夕闇が迫っていた。風に乗って晩鐘が流れてきた。


「幸枝、許してくれ。和恵、すまない。被害者の皆さんには、ほんとうに申し訳ない」

 スマホに録音されていた父の言葉だ。今なら父の悲しみがわかる。母の安楽死に狼狽えたことも、自ら死を選んだことも。

 タブレットから目を上げた。

 新幹線がトンネルに入った。窓に映っているのは生気のない顔。目尻に光る小さな滴。ハンカチで押さえると、よけいに止まらなくなった。

 新幹線はトンネルを出て減速を始めた。街の景色が幻のように、後ろへと走る。

 京都の街に差し掛かった。鴨川沿いに、桜が一本咲いていた。

「真夏の桜、か」

 再び目を落として、数秒間タブレットを凝視した。

 右手の人差し指がゆっくりと動き、送信ボタンをクリックした。

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疫病禍 野守水矢 @Nomori

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