第2話 病院の都合

 病室に入ったとき、幸枝はベッドに横たわっていた。気のせいか頬が蒼白く見える光の加減なのか。それとも見ている自分が緊張しているからなのか。

「お母さん、遅くなってごめん」

 幸枝は首だけで振り向いた。

「来てくれたのね、和恵。ありがとう。お父さんは一緒じゃなかったの」

「ううん」

 和恵は首を横に振った。

「来ない。来れないって。オロオロして泣いたり怒ったり。『俺が悪いんだあー!』って、もうこんなふうに泣き叫ぶのよ」

 和恵は眉をひそめ、瞼の前で両手の甲を左右に動かして見せた。

「そう……、あの人らしいわね」

 午後八時になっら。主治医が医師一人と看護師一人を連れて入って来た。

「お待たせしました」

 幸枝はベッドを傾けて、上体を起こした。

「いいですよ、そのままで」

 上体が中途半端な傾きのところで止まった。

「先生、お願いします」

 幸枝は両手を重ねて体にかけた毛布に置き、体を丸めてお辞儀をした。

 主治医が、手元のクリップボードに目を落とした。

「それでは始めさせていただきます。告知人は本院診療科長の林田誠。補助告知人は私、主治医の松本義雄が勤めさせていただきます。病院側立会人は看護師長の磯貝愛子です」

 主治医はベッドに向かって、軽く頭を下げた。

 幸枝は深く体を折り曲げた。和恵は軽い会釈を返した。

「えー、患者氏名は奥山幸枝、患者側立会人は長女、奥山和恵さんに相違ありませんか」

「はい、相違ありません」

 声が少し震えているのが、自分でもわかった。

「それでは告知人から説明いたします」

「告知人の林田です。えー、『特定疾患重篤患者の治療および生活の質維持に関する法律』第四条により、告知いたします。これより後は補助告知人から説明があります。松本君、お願いします」

 不思議なものだ。これから起こることは全て分かっている。それでも全身が強張る。

「はい。それでは補助告知人からご説明いたします。患者様の御容態は、現在は小康状態を保っているものの、PX、これはこの疾病特有の血中酵素ですが、PXと活性酸素濃度の推移を観察しておりますと、筋肉系と神経系の損傷が加速度的にかつ不可逆的に進行していることがわかります」

 松本は幸枝と和恵にグラフを見せた。和恵はグラフを読み取った。

「たしかに、PXが減少傾向にありますね」

 このままPXが減少し続けると、筋肉と神経が侵されていて、苦痛の中で死を迎える。

「この症状は、先ほど述べました『特定疾患重篤患者の治療および生活の質維持に関する法律』第七条に示す『いかなる医療行為を行うことによっても極めて重い苦痛を低減する可能性が見込まれず、かえって苦痛を与えることが予期される場合』に適合いたします」

 早い話が、治療を行なえば苦しい期間が少し長引くだけで何の効果もない、というのだが、回りくどい説明が母に理解できるだろうか。言葉は理解できなくても、これから起こることが分かっているのだろう、以前から予想していたことだから。

「診断結果を『厚生労働省安楽死適合性審査委員会』に諮りましたところ、残念ですが『特定疾患重篤患者の治療および生活の質維持に関する法律』第十二条の1に示す安楽死適合条件に合致するとの結論に至りました。残念ですが」

 なんで「残念ですが」を繰り返すのよ。あんたたち、ほんとうは、そう思ってないんでしょう。和恵は今にも噴出しそうな怒りを飲み込んだ。和恵には事情が理解できる。あまりにも患者が多く、医師も看護師もベッドも薬剤も、何から何まで不足している。治癒が見込まれる患者にベッドを明け渡すための苦肉の策だ。だが、法律が可決されたとき、多くの医療従事者がほっとしたのも事実である。

 幸枝は顔を強張らせて聞いていた。パジャマの袖から出ている2本の枯れ枝のような腕の先が、小刻みに震えている。和恵自身も自分の表情がこわばっているのを感じた。

 主治医が幸枝から目を逸らした。

「これから申し上げますことを、よく聞いてください。残念ですが、幸枝さんには、これ以上どのような治療を施しても苦痛が和らぐことはありません、残念ですが」

 また「残念ですが」の繰り返しだ。主治医は、ここで言い淀んだ。

「あのう……。もし、ご自身が希望なさるのであれば、安楽死を選ぶこともできないわけではありません。ご希望にならない場合は、緩和治療を行います。ご希望なさらなくても不利な扱いを受け受けることはありません。これは強制ではありません。あくまで自由意志です」

 主治医が話を終えそうになって、和恵が突然口を挟んだ。

「あ、あの。異議申し立ての件は……」

「これから説明します」

 主治医は僅かに眉根を寄せた。

「本決定に対する異議申し立てにつきましては、お渡しする資料3『外部審査委員会への申し立ておよびセカンド・オピニオンについて』に記載してありますとおり、いつでも可能です。提出後でも可能です」

「安楽死をご希望になる場合は、これからお渡しする承諾書2通に自筆でご署名の上、いつでも主治医か看護師にご提出ください。いつでも構いません。提出されなくても構いません。提出後も、いつでも撤回することができます」

看護師が和恵に、病院のロゴの入ったA4版の封筒を渡した。中に分厚い書類が入っている。

「何かご質問は」

 主治医の問いに、和恵は首を横に振って答えた。

「私も医療関係の仕事に携わっておりますので、だいたいのことは分かります」

 そうだ、だいたいのことは分かっている。承諾しようとするまいと、明日から投薬はプラシーボに変わり、点滴は鎮静剤のみになる。そして、承諾した場合、患者の知らないある日、点滴に睡眠導入剤が加えられる。眠ったところで患者側立会人が呼ばれ、心電計と血圧計が取り付けられる。執行医が静脈注射を行う。やがて、看護師が心電計と血圧計を取り外し、医師が瞳孔に光を当てる。

 和恵は医師と看護師に会釈した。3人は深く頭を下げて、退出した。


 和恵の手に大きな封筒が残った。和恵はベッドの横の小さな椅子に腰掛けて、それを読んだ。

「和恵、したほうがいいのでしょうねえ」

「えっ」

 和恵は資料から目を離してた。幸枝の目はカーテンの閉じた窓を見ていた。

「お医者さんも、そうしてほしいようだし……。それに、和恵たちにも、ずいぶんと迷惑をかけているから」

「そんなことないわよ! 迷惑だなんて。それに、病院の都合なんてどうでもいいのよ。医者は治すのが仕事なんだから。お母さんは、ただお母さんの思うようにすればいいの」

「痛いのかねえ」

「痛くはないわよ。気持ちよく眠るだけだけど」

「そう……」

 和恵は承諾書を取り出して一読すると、ベッドを跨ぐような狭いテーブルに置いた。幸枝はテーブルの眼鏡をとり、承諾書を読んだ。

「本人と親族のサインがいるみたいね」

 幸枝はおもむろにペンを取った。幸枝はペンを署名欄に押し付けた。

突然、幸枝の手が止まった。長い間じっとしているペン先から、少量のインクがゆっくりと滲み出した。

 二人は、動かないペン先をじっと見つめた。カラカラと、いつもは聞こえない換気扇が耳障りに聞こえた。

「今日は疲れたから、明日にしましょう」

 幸枝はペンを置いて、上体をベッドにもたれさせた。

「お休みなさい」

 和恵はベッドを水平に戻した。

「お母さん、お休みなさい。ドクターがおっしゃってたように、強制じゃないからね。お母さんの好きにしたらいいのよ。でも、ほんとうは、お母さんに長生きしてもらいたい」

「そうね、明日、決めましょう」


 母が眠りにつくのを待って、和恵は病室を出た。

 来る前は動揺しないと誓っていた。医学の知識は持っているのに、それでも動揺してしまう。

 明日、幸枝はどのような決断をするのだろうか。

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