今にも固まりそうに
結騎 了
#365日ショートショート 094
ベテラン美容師の霧野桐郎は、硬直していた。
テレビや雑誌でその顔を見ないことはない、名実ともに国内でいま最も人気のある美容師。なのに、まさかこんな客を相手にする日が来ようとは……。
「本日は、いかがいたしましょうか」
ごくり。自分が唾を飲み込む音は、これほど大きかったか。霧野は手汗を懸命に拭きながら笑顔で尋ねた。
女性客は、少し悩んでみせて……
「そうね。思い切って、バッサリいこうかな、って」
「ば、バッサリですか?」
「そう、ショートってことよ」
そんな注文があってたまるか。気を抜けば、すぐにでも白目を剥いて倒れそうになる。
霧野は自分に言い聞かせた。落ち着け。俺は官僚からアイドルまでありとあらゆる人の髪を手がけてきた。確かにこんな客は初めてだが、いや、だからなんだというんだ。震えで全身がちがちだが、やってやる。やってやるぞ。
「い、いや〜。しかし、こんなに睨まれちゃうと、さすがに緊張しちゃいますね。ははは」
タオルを用意しながら、なんでもない軽口を叩く。この、自虐とも軽妙とも取れるトークが彼の持ち味であった。
「あら、睨んでいたかしら。ごめんなさいね。私、普段からこうしてサングラスをかけているからか、よく見えなくて」
「それはもう、そうでしょうねぇ。はは、ははは」
ハサミに手をかけると、ぎゅっと視線が集まる。反射的に目を閉じ、祈る気持ちでそれを開けるも、睨みは一向に緩まない。いやいや、仕方ないじゃないか。俺はプロの美容師なんだ。客の要望に応えるのが仕事なんだから。
その時、店の奥から声が聞こえた。
「霧野さん、お電話です」
客に軽く断りを入れてから、バックヤードへ向かう。待ち構えていたのは研修中の新人だった。
「ごめんなさい、電話は嘘です。霧野さんがあまりに辛そうだったので、つい……。本当に大丈夫ですか、あの客」
「ふん、なにを言うかと思ったら」。霧野は自身の胸にポンと拳を当てた。「俺を誰だと思ってる。まあ、見てなって」
新人は不服そうである。
「でも、やっぱりおかしいですよ、メデューサのお客さんなんて。見てください、あの髪の蛇。今もずっと、こっちを睨んでますよ」
今にも固まりそうに 結騎 了 @slinky_dog_s11
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