終章

男が倒れ出す瞬間、芽衣はマスクの鼻の位置を修正しながら走り出した。声を掛け、跪き、倒れた男の頭に自分の腕をやり回復体位を取らせる。GPS機能を起動させスピーカーフォンに設定したスマートフォンで救急車を呼びながら、バッグにあったタオルハンカチを枕にして横たえる。


まるで機械のように精度高く素早い動き。てきぱきと動く身体は自分のものではないかのようだった。


芽衣は、幼いころ入院した病棟で看護師と何を話したのかを憶えてはいなかった。昨日の男が何を言い残し去っていったのかを憶えてはいなかった。今の自分の仕事に対する理想も憧憬も、最早自分自身ですら信じてはいなかった。幼いころの憧れを抱きしめ必死に身に着けた鍛錬の記憶だけが、宿主が為すべき事を為そうと必死だった。


周囲の人々は誰一人としてそばに歩み寄ろうとはしなかった。歩行速度はそのままに少しだけ首を捻らせ、まあいいやとばかりにふいと元の位置に首を戻して通り過ぎるだけの者も居た。手にしたスマートフォンで映写機アプリを起動し動画や画像を撮影する者も居た。あの子も、同じようにされてしまうんだろうか。脳裏に浮かぶは、芽衣に贈るため描いてきた塗り絵を見せる、何にも遮られる事のなかったころの真っ直ぐな少女の笑顔。あの子は一昨年の診察の帰り際、またね、と手を振った。ごめんね、もう会えないんだ。芽衣は脳内で笑う少女に別れを告げた。


路上でこちらを見つめる彼らの表情はマスクで隠され、寒空の下ただ突っ立っているその姿は、ナースステーションのバックヤードで上司から木偶の坊のように叱責をうけ続ける自分の姿と重なった。あなた医療者でしょう。どうしてできないの。みんなの足を引っ張ってる自覚があるのなら、せめて迷惑を掛けないで。繰り返し浴びせられ鼓膜に灼け付いた怒声が甦る。


男の脈は刻一刻と拍数を低下させていく。体温は下がり切って、全身の反応が鈍くなっていく。火砕流のように襲い掛かる無力感は、芽衣の視界に影を落とした。


この人を助けたい。誰かを助けられる私でありたい。誰にも永久に奪われる事のなく、汚される事も濁される事もない願い。他でもないこの私が生きている限り死ぬまで無くなる事のない、涸れる事のない泉。身体中をめぐるありふれた魂が、それでも尚と。


芽衣は全身全霊を掛けて、がなるように喚く。「誰か、いないのか」


「誰か」

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涸れる事の無い @toru0218

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