2020年12月1日

つかれた。そう呟きながら消灯台まで歩き、足元に置いてあった小さな冷蔵庫の中から取り出したペットボトルの水を飲む。軟水だ。


TVを付けると、疫病の新たな症例がニュースになっていた。他の感染症と同様に飛沫感染の可能性は云われていたのだが、どうも血液からの接触感染の確率と重症化率は段違いに高いらしい。


ニュースを見て、芽衣は外来で定期診察に来ていた血友病患者の少女の事を思い出していた。あの子、元気かな。学校で不条理ないじめに遭ってはいないだろうか。ただでさえ希少な疾患で同級生に珍しがられて教師からは腫れ物扱いだったのに、こんなことになるなんて。


左手で右手首を握る。付けていた時計がない事に気付く。芽衣は自分の腕時計の在り処を探した。


腕時計は枕の下に隠れていた。なんとなしに邪魔ではずしてしまったのだろう。医療職であるが故に衛生面が気になるという理由もあるのだが、身体を締め付けるようにして着飾る宝飾品のほとんどが肌に合わず発疹の出る事が多い体質のため、腕時計を付けること自体、芽衣の習慣ではなかった。


芽衣は拾った腕時計を身に着けようとして、止めた。



今も同期は、あの病院で働いている。いつ終わるとも分からない終わりの見えない霧の中、苦しい重圧に耐えながら。


ある夜勤明けの夜、耐えた先にあるものが何であって欲しいのか、仲の良い同期と話したことがあった。お金?旅行?うーん…そうだなあ…やっぱり、昔と同じ様に皆とここで専門を磨いて、たくさんの人が救われるような医療に貢献したい。だってもうそれぐらいしかないじゃん、ナースって。彼はそう言って笑った。


頑張っている仲間たちを置き去りにして、自分だけが離脱してしまったという罪悪感。腕時計をコートのポケットに入れて、途方も無い虚無に襲われながら芽衣はホテルを出た。ドアを開けながら、つかれた、という詞が口から漏れた。



街に出ると、轟と風が横顔を殴り付けた。暦は師走。疫病が世界を覆い尽くしておよそ1年が経った。ワクチン開発の目途は漸く立ってはきたものの、相次ぐ臨床研究の頓挫と臨床データの不透明さを報じるニュースに陰謀論を捲し立てる人間がネット上に涌いていた。そしてSNSで話題になっていた各地で疫病の患者を受け入れる特定機能病院の医療崩壊の事実が、ついにTVニュースでも流れるようになった。


健康管理とリスクマネジメントのできない者はモラルのなかで常識に押し潰され、誰かが誰かを糾弾し、見えないウイルスが無限に生み出す顔の無い猜疑心と見えない恐怖は通奏低音のように鳴り続ける。


そのなかで、医療従事者への見せ掛けの感謝と医療従事者を含めた感染者への差別と排除は、ごくごく凡庸なクリシェとなっていた。


芽衣はずっと不思議だった。私は自分なりにふと抱いた憧れを叶えようとしただけなのに、なぜ見ず知らずの他人から感謝されなければならないのか。私はあなた方のためじゃなく、小さな自分のためにこの仕事を選んだのだ。欲しいと言ったものとは違うギフトを誰かから一方的に押し付けられているような気がして、そしてそのギフトを受け取る者は「公正で無私で献身的であらねばならない」という呪いがリボンのようにラッピングされているような気がして――芽衣は、そのようなニュースにふれる事すら厭になっていった。


つかれた。芽衣は呟くと、言い慣れた唇の動きにそこはかとない違和感を感じた。疲れてはいないだろう。何も仕事らしい仕事はしていなかったのだから。恭子の震える横顔が、ふっとまぶたに甦った。


突然、女の甲高い悲鳴が聞こえた。ふりかえると「工事中」という張り紙が壁に貼られた廃墟らしきビルの玄関から、血だらけの男が歩いて出て来た。男は首を右手で押さえていたが、どうやらそこからの出血が甚大であるかの様だった。男は膝をぐにゃりとさせて崩れ落ち、不自然に身体をくねらせ頭をアスファルト舗装された道路に打ち付けて倒れた。

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