第7話

 その夜ユキオはじいさんとスキヤキを食べ、まだ残っていた大黒正宗を飲んだ。


 じいさんは煮えるそばからユキオの取り皿に肉を放り込み、

「ようけ食べろ」

 と言った。


 子供の頃と同じ言葉だった。


 ユキオは呑気にテレビを見ながらスキヤキをつつくじいさんにどうしても聞いてみたくなり、箸を置いた。


「じいちゃん」


「ふん?」


「俺、前から聞いてみたかったんだけど……」


「なにを」


「アキミツはどこに行ったんだろうか」


「……」


 じいさんは目を見張り、押し黙った。


「アキミツだってお盆は帰ってきてもいいんだろ」


「……」


「それともじいちゃんのいるとこにはいないのか?」


「……」


「本当の事、言ってくれ」


 ユキオは真剣に懇願した。


 弟のアキミツはじいさんやばあさんのように病気や老齢ゆえの死因によるものではなく、ましてや事故でもなく、自らの命を絶ってしまったのだ。ユキオは宗教に関心があるわけではないが、そのようにして死んだものが他のものと同じところへ行けるとは思えなかった。


 アキミツが死を選んだ理由は、生きることの辛さから逃れるためだったろうが、死んで尚も辛い目にあっているとしたら。一体、アキミツの生にも死にも、どんな意味があったのだろう。


 じいさんは蕎麦猪口を取り上げ、酒を啜ると答えて言った。


「……おらんよ」


「……」


「アキミツは、おらんよ」


「……」


 ユキオはその言葉にほおと深く息をついた。やっぱりなというのが正直な感想だった。


 ユキオもじいさんと同じように酒に手を伸ばした。


「あいつ、なんで死んだんだろうな……。そんなにいじめられてたんならちょっと言ってくれればよかったのに」


「そうだな」


「それなのに、なんで死ぬ方向にいっちまったんだろ。なんで生き続ける方向に考えなかったのかな」


「そうだな」


「やっぱり俺のせい……」


「……それを言うと、みんなが悪かったことになる。お前も、お父さんもお母さんも、儂も。誰も助けてやれんかった。誰も気づいてやれんかった」


「なあ、じいちゃん、アキミツは自殺したから極楽とか天国に行けてないんだったら、俺はどうしたらいいんかな」


 ユキオの言葉にじいさんはこれまでのどんな時にも見せたことがないほど優しい笑いを皺の上に浮かばせた。


 ユキオはびっくりすると同時に、なんだかその微笑に見入ってしまいはっとして黙った。


「ユキオ、今そう思ってることを忘れずにおれよ。その気持ちを忘れずに大事に持っといてやれ。お前も儂もなんもできんかった。でも、お前はまだ生きとる。これから、誰かを助けてやれるかもしれん。アキミツにしてやれんかったこと、いつか、誰かにな」


「……」


「それがアキミツの為かもしれんよ」


「……」


「もっとうんと時間がたったらな、きっとアキミツもええようになるよ」


「本当に?」


「ああ。宗教っていうんはその為にある」


「……ああ……」


 ユキオは祈るということ、願うということの本質に触れたような気がした。自分の為ではない、誰かのために祈ること。神でも仏でもいい。いっそ、死んだじいさんでもいいのだ。それに、今はもう他に何もしてやれない。祈るより他になにも。


 鍋が次第に煮詰まって行く。


 二人は引き続きスキヤキに向かい、酒を飲み、静かで充足した時間を過ごした。


 食べ終わるとじいさんは縁側で煙草を吸い、猫がまた戻ってきて傍に寄り添い、夜は深まっていこうとしていた。


「じいちゃん、風呂どうする」


 ユキオが片づけをしながらその背中に尋ねた。


 するとじいさんは暗い庭を眺めながら、


「儂はもう帰るよ」


「どこに」


「お盆も終わりやろう」


「……え……」


 ああ、やっぱりそうなのか。あんまり自然だからつい忘れるところだったけれど、じいさんは去年死んで、お盆だから帰ってきてるだけなのだった。


 でも死んだことさえ忘れるほどじいさんが普通に帰って来るから、ユキオは驚きとともに、淡い期待のようなものが知らず知らずのうちに胸の奥底に芽吹いてきていた。


 また一緒に暮らせるような微かな期待。いや、もうそれは希望。切実なまでのじいさんへの思慕。


 ユキオは駄目と分かっていても聞かずにはおけなかった。


「どうしても?」


 じいさんは猫を撫でながら、


「まあ、そういう決まりがあるからな。しょうがねえな」


「もうちょっとゆっくりしていくっていうのは……」


「ユキオ」


「……」


「寂しいんか」


「……」


 ユキオはそうだとも、そうではないとも言えなかった。どちらも正しく、どちらもユキオの本当の気持ちからは遠いような気がして、どんな言葉で言えばいいのか分からなかった。


 近所の幼馴染、大学の友達、後輩。家にはやたらに人が出入りしている。ユキオの留守でさえも庭から入ってきて縁側でくつろぎ、勝手知ったる他人の家でメシを作り、雑魚寝し、賑やかといえば賑やかだ。が、誰もユキオの苦悩を、その心に空いた穴を知らない。知っていたとすればじいさん一人がユキオのことを理解してくれていた。


 そんな気持ちを察したのか、じいさんは答えを求めなかった。その代わり、すいと立ち上がると、仏壇の前に行きまた自ら線香を立てた。今度はユキオも並んで手を合わせた。じいさんはもう死んでいるのだということがユキオは改めて辛かった。


「それじゃあ、儂は帰るからな」


「送り火焚かなくていいのかな」


「ああ。なんか照れるから見送りもいらん」


「……」


「ユキオ」


「なに」


「お母さんを大事にしてな。生きてりゃいい事もあるんだからな」


「うん」


「それからな、勉強はちゃんとせえよ」


「うん」


 言いながら、じいさんはもう玄関に向かっている。ユキオはその後ろをついて行く。


 玄関から帰って来て、玄関からまたどこかへ帰るというじいさん。ユキオはなんのもてなしもしなかったことが悔やまれた。


「あとな、彼女には優しくな」


「俺、カノジョいないよ」


「馬鹿、お前、なにやってんだ。彼女もいないのか。情けない奴だな」


「……」


「それと、メシはちゃんと食えよ」


「うん」


「あとは……」


「まだあんの?」


 ユキオは上り框に立って、呆れたように笑った。


 そうして初めて気がついたが、じいさんがやけに小さい。かつてあんなにも逞しく、頼もしく、大きく感じていたはずなのに。この一年で、自分は背が伸びたのか。それとも、この一年のじいさんの不在から、自分は何か変わったのだろうか。


「仏壇はもうちょっと綺麗にしておけよ」


「はい……」


 じいさんは格子戸を引き開けながら、今一度立ち止まり、振り向いた。


「じゃあな」


「待って。やっぱり、そこまで送るわ」


 ユキオは三和土におり、サンダルをつっかけた。そこまでと言ってもどこまでだか分からなかったが、今は少しでもじいさんの姿を見ていたかった。


 じいさんがいいと言うのも無視して、無理やり表てにもつれながら一緒に出る。


 ユキオは一年前にじいさんにさよならも言えなかったのだ。今度こそは見送ってやりたいと思い、路地に立つと俄かに居住まいを正した。


「ユキオ、元気でな」


「じいちゃん」


「うん?」


 ユキオはじいさんに向かって呼びかけた。


「大事なこと聞き忘れたよ」


「なんだ」


 通りの向こうがやたらに暗いのは、そこは海へ通じているからだった。細い路地を抜ければじいさんと通った懐かしい港。小さな砂浜。夜の海は恐ろしく闇色をして、ちらとも生き物の気配がなく静かだ。じいさんはそちらに向かって歩き出しかけていた。


「人って、死んだらどこいくの? じいちゃん、今、どこにいんの」


 じいさんは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに笑って、答えて言った。


「それは……秘密やな」


 ユキオはじいさんに手を振った。視界が涙に滲んでぼやけたが、それは悲しいからではなく、自分の為にじいさんが帰ってきてくれたことが心底ありがたくて零れる涙だった。死んでも尚、生き続ける何かがあるのだと教えてくれたことがぐんと胸に迫る。


 来年の夏も会えるだろうか。ユキオは暗闇にじいさんが吸いこまれて見えなくなるまで、いつまでも手を振り続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏が来れば思い出す 三村小稲 @maki-novel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ