第6話

 病院へ行くのにユキオは父親の車を借り、助手席にじいさんを乗せて海沿いの道を西へ走り出した。


 クーラーの好かないじいさんは窓を全開にして、国道の排気ガスまみれの南風をハゲ頭に受け止めていた。


 お盆の頃になると海の色は重く、暗い群青に変わる。そうしたら夏も終わりだとユキオは教えられてきた。潮の流れ、風の匂い。凪の時刻。幾度も繰り返されるじいさんの言葉。漁師は海を分かっとらんといかんと言われたのに、もうユキオは漁師になる予定が自分の中にないのを申し訳なく思った。


 後ろへ飛ぶように流れて行く景色を見ながら、じいさんがおもむろに口を開いた。


「ユキオ、お前、子供の頃溺れたん知っとるか」


「えっ?」


「浜で遊ばせよったらな、勝手に行ったらいかんといっつも言うとったのに、沖の方へ泳いでいきよって」


「……」


「あっと思った時には潮に流されかけとってな」


「覚えてないよ」


「死にかけたんやぞ」


「それ、誰が助けてくれたの」


「儂や」


「……」


「けど、お前、ちょっとの間死んどったで」


「えっ」


「息止まっとった」


「……」


「水吐かせて、心臓マッサージしてなあ。運がよかったんやな」


 信号が赤になり、ユキオはゆっくりとブレーキを踏んだ。


「……っていうことは、じいちゃん、俺に人工呼吸したんだな……」


「おうよ」


 じいさんはユキオの方を見てにやりと笑った。ユキオも笑った。


「いっぺん溺れたからもう海は怖がるかと思って心配したけど、お前はちょっともそんなことなかったな。ユキオ、お前はあんまりかしこうないで」


「悪かったな」


 こういう話をもっとしたかったのだ。ユキオは砂を噛むようだったこの一年のことを考えると、今ここにじいさんがいることが嬉しくて、また一緒に暮らせたらいいのにと思った。


 時間はまだまだあると思っていた頃。ユキオは自分ごとにかまけて、これといったまとまった話もしなかったし、聞かなかった。それは若さの驕りだった。


 あれはどこで聞いた話だったか、人間は生まれてからしばらくは「生」というものに背中を向けていて、進んできた月日を数えるが、ある時から「生」に向き直り、今度は残る月日を数え始める。生と死が表裏一体であるということ。


 じいさんは残る月日を数えていただろうか。また海を眺めているじいさんの横顔をユキオはちらと盗み見た。今、自分が数えているのは一体どちらの月日だろう。


 母親の入院する病院に着くと、ユキオは受付を通ってまっすぐに病室へ向かった。


 病院特有の匂いにいつも一瞬吐き気を催す。が、すぐに慣れて何も感じなくなる。それでもこの荒涼とした場所に母親がいると思うと胸が塞がれた。


 じいさんは少し遅れて入って来て、ユキオの後を追ってきた。


 而して、母親は病室のベッドに腰掛けてぼんやりと窓の外を見ていた。


 窓には鉄格子が嵌められていて、世界を、空を切り刻んでいた。


「かあさん」


 ユキオは母親に声をかけた。


「調子どう? 今日も暑いな」


 母親は答えない。


「お盆だから、じいちゃんが帰ってきたよ」


 ユキオはそう言って側にあった椅子を引き寄せ、腰かけた。


 目の前にいるのに、母親はここにはいない。ユキオは砂漠に思いを馳せる。


 母親はいないが、自分はここにいる。そう思うとユキオは自分の存在がいかに無価値かを思い知らされるような気になった。


 調子がよければ口をきいてくれることもあるし、まれにユキオのことを認識できる時もある。が、今日はそうではないらしかった。


 母親はひたすら黙って窓の外を見ていて、一言も発さない。その目に何が見えているのかは想像もつかない。


 そうしてしばし母親を見つめていると、背後に立っていたじいさんが、


「ユキオ」


「え?」


「お母さんに花とってきた」



「ええ?」

 振り向くとじいさんはその手に観賞用ひまわりの小さな花を一本持っていた。


「これ、どこから……」


「玄関の横に植わっとった」


「盗るなよ」


 じいさんはユキオの言葉を無視して、母親の膝に花を乗せた。


 病院の水色の寝巻に鮮やかな黄色がぽっちりと咲いて、太陽をまるごと吸いこむ花だけに光を放つようだった。


「かあさん、じいちゃんが花持って来てくれたよ」


「……」


 母親はやはり黙っている。花など目に入っていないようだった。


「花瓶借りてこようか」


 ユキオはいたたまれなくなって母親の膝から花を取り上げようとした。


 するとその時、母親の手がするりと動き、細くてざりざりとした毛の生えたような茎を掴んだ。小さな、それでいて荒々しいほどに生命力を感じさせる花を誰にも触れさせまいとするように、守るように、しっかりと。


 ユキオは手を引っ込めた。蝉の声がする。狂ったように鳴き叫ぶ声。あれも命の限り訴える必死の咆哮。


 その時だった。じいさんとユキオが見守る中、母親は手元に目を落としたままぽつりと口を開いた。


「……アキミツは?」

「えっ」


 ユキオはびっくりして思わずじいさんを見上げた。


「アキミツはどうしたの。どうして来ないの」


「どうしてって……」


「あの子、絵が好きなのはいいけど、もうちょっと外でも遊ばないと。なんだか不健康だわ」


「……」


「ユキオを見習ってほしいぐらいよ。困った子」


「……」


「まあ、ユキオは元気すぎて困るんだけど」


「かあさん」


「でもユキオが優しいから助かるわ。あの子は小さい頃からアキミツの面倒もよくみてくれたしね」


「かあさん」


「今日も二人でおじいちゃんのとこに行ってるのかしら。迷惑かけてないといいんだけど」


 ユキオは母親が誰に向かって話しているのかさっぱり分からなかった。架空の人物なのか、それとも友達や親戚の誰かなのか。俯いているから表情は分からないが、声だけは妙に楽しげで明るく、まるで近所の人と世間話をするような調子だった。


 ユキオは困惑してじいさんに助けを求めるようにその目を見つめた。


 するとじいさんはあの透明な瞳に微笑を浮かべ、二度ほど頷いて見せた。


「喧嘩することもあるけど、兄弟仲が良くて結構だよ。アキミツは泣かされても、やっぱりユキオが好きですぐに兄ちゃん兄ちゃんって跡を追っかけていく。よっぽど好きなんだろう。ユキオもようやっとるよ。あれは口は悪いが優しい奴だからな」


 ユキオは鼻っぱしらを殴られたように、じんとした痛みが募るのを感じた。泣きそうになる時はいつもこうなのだ。


 じいさんがユキオの肩を叩いた。それが合図であったかのように、ユキオは言った。


「かあさん、また来るよ。今度はアキミツも来るから」


 じいさんが傍らで無言で頷いた。ユキオはじいさんが何を言わんとしているのか、おぼろげにしか理解できなかったが、同じく頷き返した。


 母親は再び自分の世界へ、砂漠へ旅立ってしまい、もう何も言葉を返さなかった。でも、生きている。それがユキオにはただ一つの救いだと思えた。


 病院を出て車に乗り込み同じ道を走る。


 帰り道に見る海は、もう夏の終わりの色をしていた。

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